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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

百済王12代から45代までの倭国王 ブログトップ
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天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。

1 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。

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天武天皇の次は高市天皇であり、持統ではなかった。

2 キトラ古墳の被葬者は高市天皇である。

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現在は工事中である。

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キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3 高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。

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高市天皇の次は忍壁天皇であった。

4  私見
(1) 忍壁天皇の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。

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 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはないと思われる。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。

 その解説として「平城京の朱雀大路には柳の並木が植えられていた(?)。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。 

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 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていたと思われる(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはないと思われる。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市天皇であり、次は忍壁天皇であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が天皇にふさわしいすばらしいものである。高市皇子も忍壁皇子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の天皇を下僕として描くための改ざんであり、高市皇子も忍壁皇子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市天皇(696年没)や忍壁天皇(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(663年~)(泊瀬の斎宮)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれたと思われる。​


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倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について [百済王12代から45代までの倭国王]

藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。
1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見 
 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
 倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
 沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。


2 好太王(広開土王)碑文(414年)
(1)日本学会の通説
 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
 倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。


3 高句麗と百済は倭国よりも早く中国(宋)から将軍の称号を受けた。
(1)高句麗と百済
 413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
 416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
 420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。
 425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」
(2)倭国
 421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
 425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
 賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
 珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。
   451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。
※ 私見
 済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」
※ 私見
 興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。
※ 私見
 武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
 502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。


4 「宋書蛮夷伝」にある武の 478年遣使の際の上表文
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
 わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
 王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
 支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
 私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。


5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
 また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
 始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
 継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
 479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。475年に滅亡したのは新羅と思われる。雄略天皇は百済を攻撃し479年に百済の三斤王は戦死したと思われる。雄略天皇が復興したのは新羅国である。
 百済は北部に後退していたが、高句麗にはっぱをかけられ5世紀末から6世紀前半に任那に攻勢を仕掛けてきた。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
 5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
 502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
 全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
 倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
 新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。


6 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
 さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。


7 私見
 中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
 蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝) 
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
 その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
 日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。

 


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初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち26天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している [百済王12代から45代までの倭国王]

  初代から30代までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外する)

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 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。    第十三代武内宿禰天皇 鳥取県北栄町原。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 遠飛鳥宮。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬。   第二十六代蘇我稲目天皇 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十七代蘇我馬子天皇 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿天皇 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂天皇 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町。


2  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。
 尾張国にいたはずである。
 第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。
 景行天皇の実在性には疑問が出されている。    
 第十三代成務天皇 近つ淡海の志賀高穴穂宮。
 成務天皇の実在性には疑問が出されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。淡海に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。第十三代は武内宿禰天皇であった。   
 第十四代仲哀天皇 穴門豊浦宮 筑紫橿日宮。
 仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。第十四代は仁徳天皇であった。
 第十八代反正天皇 丹比柴籬宮。
 淡路島の生まれ。淡路島はヤマト王権に敵対する一族がいた。
 第十九代允恭天皇 遠飛鳥宮。
 允恭天皇の実在性について疑問とする説あり。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に遠いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十三代顕宗天皇 近飛鳥八釣宮。
 億計・弘計2王の発見物語は劇的な要素が強く、史実として信じ難いことが指摘されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十八代宣化天皇(蘇我稲目天皇) 檜隈廬入野宮。
 天皇が並立していたとの説あり。宣化の在位期間中、倭国(鳥取県中部)の天皇は蘇我稲目天皇であった。蘇我稲目天皇は泊瀬(倉吉市)と磯城(湯梨浜町)に宮を持っていた。

 

3  私見
(1) 鳥取県中部に皇居が特定できない天皇は、実在性に疑問のある天皇が多いため、初代から第三十代までの天皇は、鳥取県中部に皇居があった。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って初代天皇として即位し、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠んでから、倭国の外を活動本拠地にしても、皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。たとえ出張先が吉備や纏向であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。皇居が他所にある天皇は何らかの改ざんが加えられている。
(2) 宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の父(済)と兄(興)は戦死したように書いている。

 第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の皇居のヒントが全く見つからないのは、両天皇は高句麗・百済に壊滅的な打撃を受けたからと思われる。天皇も戦で亡くなったかも知れない。亡命百済王朝は両天皇の在位時期にヒントが残らないくらい両天皇の存在を消している。第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の名前もおかしな名前である。両天皇に置換えられた倭国天皇の皇居は赤丸のいずれかにあったと思われる。
(3) 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代30人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。




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第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
123.jpg

 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3 鳥取県中部の空撮
軽島明宮3.jpg

 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。

軽島明宮.jpg 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

軽島明宮1.jpg軽島明宮2.jpg 


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持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた [百済王12代から45代までの倭国王]

 持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた。

1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読まれた。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。

2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰られた。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。

3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行かれた時も倉吉に残っていた。

4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653生まれで高市皇子は654生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。そのほかの妻がいつごろ天武天皇のもとに来たのかは判らないが、父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の皇女や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。

5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。


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藤原鎌足は「翹岐」であり、中大兄皇子は「豊璋」である [百済王12代から45代までの倭国王]

 中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である


1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について


(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるからとする。「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり、恐れ多いこと、などが理由であると思われる。


(2) 中大兄皇子=翹岐説では
 舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、このときの百済王は武王であり義慈王が百済王になるのは641年であるから、631年は間違いである、とする。また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。


2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」


◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。
◎推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。
◎皇極元年(642年)、百済の従者たちは「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
◎皇極2年(643年)2月21日に、「筑紫の大宰府から早馬で伝えて、『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。
◎舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。
◎舒明13年(641年)冬10月9日、「天皇は崩御された。東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は16歳で誄をよまれた」とある。  
◎皇極3年(644年)、「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。
◎斉明七年(661)九月(天智紀)、「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。


3 私見


(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。中臣鎌足は百済人であった。鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。中大兄皇子が百済の王族であることがわかっていたから鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。
 中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、義慈は武王の長男である。義慈は塞上を弟王子と言っている。豊璋は塞上の兄である。豊璋と義慈は兄弟である。631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。豊璋も武王の子である。豊璋は631年に倭国に来ている。
 日本書紀・斉明6年(660年)に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある 。豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。豊璋は武王の次男になるから、義慈の次の百済王になるのである。豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。
 645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。一方翹岐は3年にすぎない。乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。翹岐が倭国に来たのは642年である。643年の記述を最後に消えてしまう。年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。


(2)中大兄皇子=翹岐説は「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。しかし私見では、512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。


(3) 中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。その時は18歳であった。「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。中臣鎌足は奈良にいた。豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。中大兄皇子=翹岐説は「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから。蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。


(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。


(5) 豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族から受け継いだものと思われる。石川麻呂の娘の遠智姫と結婚したのは中大兄王子である。石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。遠智姫と豊璋は一緒に住んでいたものと思われる。中大兄王子と遠智姫は一緒に住んでいたから、遠智姫に見せる機会があった。中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、遠智姫に見せる機会がない。豊璋またの名は中大兄王子が妻の遠智姫に義父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。


(6) 豊後国の西寒田神社縁起には「663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそうした。大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。
 一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け、軍兵5千余を率いて、豊璋を百済国に護り送らせた。中大兄皇子自身も百済に行ったものと思われる。豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。中大兄皇子と豊璋を決別させるため(豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだからもう百済王子の豊璋ではなく倭国の王子になったことにするため)の日本書紀の粋な計らいである。百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。


(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月~6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足が登場する。
 皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。島流しは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。何で倭国に着いたのか。609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。
 一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。 翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。翹岐は王族ではないと思われる。周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。上手口を言って歓待されたのである。
 583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。


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遣隋使について [百済王12代から45代までの倭国王]

遣隋使について

1 隋書倭国伝(東亜古代史研究所 塚田敬章より) 
(1)倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
(2)毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」
(3)開皇二十年(600年) 倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」 
(4)大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。その国書にいう。”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々” 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。」
(5)明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
(6)倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」
(7)其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。”私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。” 裴世清は答えて言った”(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。” 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」
(8)其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。”隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。” そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命令して清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」
2 日本書紀・推古天皇・遣隋使(宇治谷訳より抜粋)
 15年(607年)秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。
 16年4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名付けて、蘇因高とよんだ。大唐の使人裴世清と下客12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。
 6月15日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船30艘で、客人を江口に迎えて新館に入らせた。
 8月3日、唐の客は都へ入った。・・・。使者裴世清は自ら書を持ち、その所には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天明を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。
 8月16日、客たちを朝廷で饗応された。
 9月5日、客たちを難波の大郡でもてなされた。
 9月11日、裴世清たちは帰ることになった。天皇は唐の君をとぶらってのべられるのに、「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」といわれた。このとき学問僧と学生の8人を遣わされた。
3 日本書紀・推古天皇・新羅征討の条は改ざんされている。百済と新羅を入れ替えて書いている。原古事記に書いてあったと思われる文章を以下に記述する(抜粋)。
 8年(600年)春2月百済と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。任那のために百済を討つことになった。百済を目指して船出した。百済に着いて5つの城を攻略した。百済王は白旗をあげて、将軍の印の籏の下に来たり、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅の6つの城を割譲して、降伏を願い出た。その時将軍は「百済は罪をわきまえて降伏してきた。強いて討つのはよくあるまい」と言って奏上した。天皇は難波吉士神を百済に遣わされた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わし事情を調べさせられた。百済・任那両国は使いを遣わし調を奉り上奏してきたので将軍を召還された。将軍らは百済から帰った。しかし、百済はまた任那を犯した。
 8年(600年)秋9月8日、百済の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして、上野国に流した。
 冬11月5日に、百済を攻めることを議った。
 10年(602年)春2月1日、来目皇子を百済攻略の将軍とした。
 夏4月1日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。
 6月3日、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
 10年冬10月、新羅の僧観勒がやってきた。そして暦の本・天文地理の本、それに遁甲方術の本を奉った。
 11年(603年)夏4月1日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を百済を討つ将軍とした。しかし妻が亡くなったため、征討はやめになった。
4 私見
 倭はヤマトと読む。奈良では大和をヤマトと読ませる。なぜ字を変えたのだろうか。これは藤原氏得意の当て字である。奈良は倭ではないから、大和の字をヤマトと読ませた。。
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  鳥取県中部では上神、下神の地名のように、山側を上(カミ)、海側を下(シモ)と表記する慣例がある。従って、「更造新館於難波高麗館之上」は高麗館の山側(上)ということが判る。これを「近く、脇、ほとり、二階」と訳する方が多く、山側(上)と訳する方はいない。大阪ではこれを山側(上)と訳す慣例が無いようだ。
 応神紀の「軽の坂上の厩」でこれを山側(上)と訳したところ、その場所に今は倉吉市馬場町の地名がついていた。現在の東郷池西畔の湯梨浜町上浅津(山側)と下浅津(海側)もこの地の慣例を現わしている。大阪では山側(上)と訳す慣例が無いので「難波高麗館之上」の解釈に困るのである。「難波高麗館之上」は大阪ではなく鳥取県中部を舞台として書かれたものである。難波津とは鳥取県の東郷池である。 
 やはり、難波津は東郷池である。高麗館は湯梨浜町龍島にあったはずである。新館はその山側にあった。蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は北栄町島にあった。聖徳太子(蘇我入鹿)の皇居は由良にあったが、近くに曲の後宮があるのは島である。「土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る」。神武天皇も狭い国だといった。一切経は「倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にある小さな国である」とする。隋書は「倭国は百済・新羅の東南にある」とする。鵜飼いは北栄町島にいた縄文人の猿田彦一族が神武天皇の時からしていた。
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 蘇我稲目天皇が仏像を山名寺に置いていたが、倭国(鳥取県中部)に疫病が流行って、物部氏の反対もあり、倭国に寺院を建てることができなかった。蘇我馬子と蘇我善徳(聖徳太子)は寺院を奈良に建てることにした。その際中国の長安を模範に奈良に長安のような都を創ることを考えた。そのために隋に遣使を送った(600年)。同じ年に百済が任那を犯したので朝鮮半島情勢は不安定になっていた。任那は新羅を守るためにできた地域だから、新羅が任那を犯すことはない。反面百済は懐柔政策を織り交ぜながら南下政策をとっていた。また百済は隋に良い印象を持っていなかったようである。何度も遣隋使を派遣しているが、隋は百済と高句麗の関係を知っていたので門戸を閉ざしていた。隋ではなく大唐と書いている。隋は唐に乗っ取られるが、この頃乗っ取りが流行り、やがて百済も倭国を乗っ取った。630年の遣唐使は聖徳太子(蘇我入鹿)が出している。乗っ取りが嫌いであった聖徳太子(蘇我入鹿)は唐からの使者に冷たくあたったようだ。
 608年に裴世清たちが倭国にやってくるが、蘇我馬子大王は用心に用心を重ねていたため筑紫から下関にわたり陸路で都まで来させた。それは蘇我馬子の「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた」という言葉に現れている。船で行くと地形を覚えられる恐れがあるから陸路を通らせた。したがって秦王国とは周防であろうと思われる。この地域は殷王朝末裔の準王一族がいたし、長登銅山やその近隣にも銅山があり、弥生時代の青銅器がまだ残っていたものと思われる。銅鐸や銅剣を見て裴世清は先祖が華夏の人だと信じた。今残っていないのは、東大寺大仏の資材として使われたものと思われる。
 ルートは周防→広島市→三次市→庄原市→日南町→米子市→旧東郷町と思われる。
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 中国から贈られた三次の白い鵜
 到達した海岸は米子の海岸だと思われる。そこにしばらく泊まらせられた。蘇我馬子は阿輩臺と哥多毗(日本書紀では難波吉士雄成)に裴世清らを迎えに行かせた。


おまけ
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 湯梨浜町龍島で東郷中学生徒によるドラゴンの舞。隋からの使い(裴世清たち12名)をもてなしたときの名残と思われる。横は中国風造りの水明荘。龍島の隣の引地には河北省が造った中国庭園の燕趙園がある。



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筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である [百済王12代から45代までの倭国王]

 筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である。

1 日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2 私見
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(1) 任那は新羅を守るためにできた連合国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは崇神天皇(155年~258年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。しかし、倭国と兄弟国であった新羅にも侵略するものが出てきたため、新羅の周辺を守る伽耶国(加羅国)ができた。新羅と同じ秦韓族(徐福一行の子孫)である。北は大邱から南は釜山を中心にした北の山脈までである。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。百済は倭国に甘言を弄して朝貢や人質を送った。660年には百済王朝は倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済と倭国は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と倭国を奪おうとしていた。

3 〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  

 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。



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天武天皇の后・妃・嬪・宮人について [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇の后・妃・嬪・宮人について

 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分もありますが同感な部分を引用します。

1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗唱できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
この「六韜」には例えば、
 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。

2 私見

(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。

(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。

(3)倭国から奈良へのルート

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 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。
 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた。

(4) 尼子娘と額田王

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 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
 伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出られた。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
  額田王は伯耆町大殿の出身である。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女と鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
 665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。

(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
 669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
 670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。

(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが 、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
 壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは思わなかった。

(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建された。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。


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「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について [百済王12代から45代までの倭国王]

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について


 藤原氏は嘘を積み重ねれば本当になるとした。偶然も積み重ねると真実が見えてくる。藤原氏は記紀だけでなくほかの文献や遺跡や神社も嘘を積み重ねていった。それは百や千どころではない。万の嘘だと思われる。記紀を世に発表するまで数百年にわたって嘘を作ってきた。
 「聖徳太子は蘇我入鹿である」(関裕二)を読んでみた。結論は賛成である。しかし、理論構成においておかしいと思われるところがある。例えば、私は架空の天皇としている「推古天皇が大々王である」としておられる。また、二朝並立論も賛成であるが、「九州王朝」と「出雲王朝」が並立していたと論じておられる。二朝とは、倭王朝(鳥取県中部)と亡命百済王朝(日本)のことである。
 出雲は準王一族の本拠地であり藤原氏が倭国を乗っ取ってからテーマパーク化したところである。出雲王朝(島根県東部)は倭王朝(鳥取県中部)ではない。九州にも吉野ヶ里を始めとして準王一族は多くいた。現政権が吉野ヶ里や八幡神社を大事にするのはそのためである。
 関裕二氏の他の本では天孫降臨の地は宮崎県であるとしておられる。ここにも高天原があるが、いたのは天孫族(徐福一族)ではなくて準王一族(鬼八)であった。阿蘇にも準王一族(鬼八)がいた。
 また、倭健命は実在したが、関裕二氏は実在しなかったとする。


1 「元興寺伽藍縁起帳」において大々王の文字が使われている。大々王とは蘇我馬子である。
 「大々王の牟久原の後宮」を二回、「大々王の後宮」を二回つかっている。
 「後宮」とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する(ウィキペディア)。「後宮」とは男王に侍る女がいるところであるから、大々王は男性である。
 「池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。・・・・。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた」とある。
 「寺をつくる場所を見定める」ように天皇に命じられたのだから、実際に「寺をつくる場所を見定めた」のも命じられた二人である。天皇の命に反して見定める者が変わったときは書かれるはずである。馬屋門皇子も聡耳皇子も聖徳太子の別名であるから同一人物である。あと一人の大々王と馬古大臣も同一人物となる。
※ 『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』を偽書ではないと擁護する説もある。それによると「馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである」とする。


2  聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である。
 縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だと言っている。
 「大々王天皇命が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。『この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子よ、すぐにことにあたってください(我子急速可仕俸)。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください』」とある。


3 「日本書紀」によると、「596年の冬十一月に、法興寺造り竟りぬ。則ち大臣(蘇我馬子)の男・善徳臣を以て寺司に 拜す」とある。
 「元興寺伽藍縁起帳」には「巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた」とある。(蘇我善徳16歳)
 先代旧事本紀には「蘇我善徳は物部鎌姫大刀自の長子である」とある。また「580年、物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰 ふ」とある。


4 蘇我善徳=蘇我入鹿
(1)蘇我馬子の長子は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)
(2)物部鎌姫大刀自の長子は蘇我善徳(先代旧事本紀)
(3)580年、物部鎌姫大刀自、蘇我馬子の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公(先代旧事本紀)
(4)蘇我入鹿は蘇我馬子の長子である(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)
  腹違いの子が何人いようと、一人の父親の長子(最初に生まれた子)・太郎(長男)は一人しかいない。蘇我馬子の長子・太郎は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)であり、蘇我入鹿(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)である。このことより、蘇我善徳=蘇我入鹿となる。


5 聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳
(1)聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子(元興寺伽藍縁起帳)
 蘇我馬子の子に聖徳太子はいないから実在した子の別名であったことは容易に察しが付く。
 蘇我馬子の子にについては蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿は孫。以外はみつからない。先代旧事本紀によると、蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、前述の(4)より、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物である。蘇我馬子の子は蘇我善徳と蘇我倉麻呂の二人となる。
(2)聖徳太子は蘇我善徳か蘇我倉麻呂か。
 元興寺縁起によると、聖徳太子は蘇我馬子の子であるが、どちらであろうか。私見では聖徳太子は蘇我善徳であると解する。
 どちらも徳の一字がある。聖武天皇の時代、聖武の「聖」と善徳の「徳」を取って聖徳太子の諱をつけたものと思われる。
(3)元興寺伽藍縁起帳において蘇我馬子と聡耳皇子の二人が主人公のように言動が書かれている。天皇と皇太子の関係であってもおかしくない。他にもいろんなところで協力しあっている。例えば、蘇我馬子と厩戸皇子は国記・天皇記の編纂、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの国家的事業を行っている。
 元興寺伽藍縁起帳には日本書紀の空想上の天皇が現れては消えるが、池辺天皇も蘇我馬子と思われるので蘇我馬子と蘇我善徳(聡耳皇子)の二人が中心になって飛鳥寺(元興寺)を造ったものと思われる。
 聡耳皇子をさしおいて巷哥有明子(蘇我馬子)の長子・善徳(16歳)を元興寺の責任者としたのはなぜ、と思われるが、聡耳皇子=蘇我善徳ならばなるほどと頷ける。
(4)胸形尼子姫(皇子の天武天皇の正后)の父は胸形徳善という。また同時代に生きた新羅の女王の諱は善徳女王という。
  このことより、聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳となる。


6 私見
 結論として、聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿となる。
 穴穂部間人皇女は架空の用明天皇の皇后であるので架空である。架空なので実在は証明できないが、物部出身であるところは同じにしている。物部鎌姫大刀自連公がモデルであると思われる。架空の用明天皇と架空の穴穂部間人皇女との間にできた厩戸皇子の名はニックネームである。本名は蘇我善徳といった。
 キリストは厩の中で生まれたが、蘇我善徳は厩の外で生まれた。急に産気付き厩の前で生まれたとしているが、倉吉市馬場町(応神天皇の時代にできた軽の坂上の厩)に産屋を建てていたものと思われる。
 日向の御子と同じように厩戸皇子は鳥取県中部のものが付けたニックネームである。本名は蘇我善徳である。聖徳太子とは蘇我善徳をモデルにした聖武天皇の時代に付けられた諱であった。


7 「隋書 東夷 倭国」について
 608年の隋の倭国使たちは九州から陸路で倭国(鳥取県中部)まで来た。経路は周防→岩国→広島→三次→日南町→米子→湯梨浜町と思われる。倭国は日本海沿岸にあったから、ついた海岸が日本海沿岸の倭国(鳥取県中部)であった。鳥取県北栄町島にあった皇居で隋の倭国使たちは倭王に謁見した。
 倭王の名「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
 妻子「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600~700人の女がおり、太子の名は利(和)歌彌多弗利という。
 鳥取県北栄町島のバックには600人~700人の女(100軒ほどか)がいてもおかしくないような曲り集落の地域があり、「倭王姓阿毎字多利思北孤」は鳥取県北栄町島に皇居のあった大王と思われる。鳥取県北栄町島に皇居のあった大王は島大臣(王)と言われていた蘇我馬子大王であった。王の妻「雞彌」は物部鎌姫大刀自連公であり、太子の「利(和)歌彌多弗利」は聖徳太子こと蘇我善徳(28歳)であった。
 この後蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の飛鳥寺(元興寺)まで行った。この時すでに大国維新之化として奈良に藤原京・平城京を造る計画の打ち合わせを隋の倭国使たちとしていたと思われる。


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