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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

藤原氏 ブログトップ

藤原氏の明治政府で始まった大日本帝国軍隊の歴史 [藤原氏]

 藤原氏の明治政府で始まった大日本帝国軍隊の歴史

1 ウィキペディアより
☆ 明治元年(1868年)
☆ 日清戦争(1894年)
☆ 日露戦争(1904年)
☆ 日韓併合(1910年)
☆ シベリア出兵(1918年)
 連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1918
年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施した。なお、イギリスやフランス、イタリアなども出兵したが、その規模は日本に比べ小さいものであった。
☆ 第一次世界大戦後
 連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議(1919年)に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。
 しかし、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。1920年の停戦命令に従わずにシベリヤに居続けため、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれた。
☆ 満州国建国(1932年)

2 私見
 第一次世界大戦後、日本は国際貢献を果たした国として国際連盟の常任理事国となった。何か今の政府トップの目指す戦後70年の日本のあり方と似ているような。

 停戦後もシベリアに居続けたことから世界に疑われるようになったのであるが、今日、モルディブに海賊のために派兵されている自衛隊の幹部が、ほかの名目で居続けるようにしたほうが良いといったそうである。目的が終われば引き上げるべきである。侵略とみられる。


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明治初期の太政官制について [藤原氏]

明治初期の太政官制について


1 ウィキペディアより


 政体書に基づいて1868年6月17日、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して律令制を導入した時よりあった。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である。
1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。
☆左大臣
近衛忠房
(藤原五摂家)1867年10月24日 ~1867年12月25日
九条道孝(藤原五摂家) 1867年12月25日~1869年7月13日

☆右大臣
大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年12月25日~1868年7月13日
三条実美(藤原北家閑院流の嫡流)
1868年7月13日~1869年8月15日
☆内大臣
近衛忠房
(藤原五摂家)1864年1月31日~1867年10月24日
大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年10月24日~1867年12月25日 

広幡忠礼(藤原正親町天皇源氏嫡流)1867年12月25日~1869年8月15日
☆大納言 1869年7月~1871年7月
岩倉具視(藤原村上天皇源氏久我家)
徳大寺実則
(藤原東山天皇の流れ)
☆参議 1869年7月~明治18年
西郷隆盛(藤原氏の子孫を自称)
大久保利通(藤原氏末流を自称)
大隈重信(菅原道真の血筋)
前原一誠(長州藩士)
木戸孝允(長州藩士)
板垣退助(土佐藩士)
2 私見
 左大臣、右大臣に分ける制度(百済の制度)は天智天皇が始めた。天武天皇は両大臣制を止めてヤマト朝廷の制度に戻していたのであるが、持統と不比等によって両大臣制(百済の制度)を復活させた。
 左大臣、右大臣、内大臣、大納言までは藤原氏の正当血脈の華族が就いている。西郷隆盛と大久保利通が藤原氏の子孫であることを自称している。自称したくなるほど藤原氏の権勢が強かったのであろう。


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第八節 法華寺畑遺跡は処刑場であった [藤原氏]

   第八節 法華寺畑遺跡は処刑場であった。
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 法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく国庁に関連した役所です。全国に類例がなく何のための役所だったかは判らない。(公式) 
 「祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。」という説もある。
 私は処刑場だったのではないかと考える。
 伯耆国は他の国と違い、初期天皇の血筋の者や天孫族の家来の子孫も多くいた。藤原朝廷は天孫降臨の地を宮崎県に持って行ったから、初期天皇家の血筋の者や天孫族の家来の子孫が伯耆国にいては嘘になってしまう。そのような血筋は伯耆国にあってはならないので、家系抹消をするために特別に処刑場を造る必要があった。
 南の四棟に血脈狩りで見つけ出されたすべての男子を収容し、順番に処刑していった。理由は藤原氏得意のでっち上げである。だから、怨まれる、祟られる。また伝承を伝える者や神主や伯耆の風土記を書いた者や初期天皇がいたことの証人も殺していった。
 この建物は十世紀まで存在したそうである。すべてを消し去るのに二百年かかったことになる。藤原道長が月の欠けるところなしと言ったのもこの頃である。
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 北東隅に銘のない墓石がたくさんある。祟られないように、国分寺で拝んだのだろう。この墓場の前に両墓制についての案内板があるが、誰の墓石か特定できないので、両墓制というようなものではない。IMG_0084
これは法華寺畑遺跡の内側にあり発掘中骨が出てきたので新しい御影石で墓石を造った。
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第六節 奈良の正倉院の宝物の多くは鳥取県琴浦町の大高野官衙遺跡の正倉にあった [藤原氏]

   第六節 奈良の正倉院の宝物の多くは鳥取県琴浦町の大高野官衙遺跡の正倉にあった。
1 日本海新聞6月21日付の記事に大高野官衙遺跡を国の史跡にするようにという文化審議会の答申があったという記事が載った。
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 その中で「国に文化審議会は20日大高野官衙遺跡(鳥取県琴浦町槻下)を国史跡指定にすることを文科相に答申した。大高野官衙遺跡は、飛鳥時代の倉庫「正倉」の可能性が高い。遺跡の西側に国史跡の斎尾廃寺跡、東北には下斎尾一号遺跡も分布しており、県教委文化財課も『遺跡としてのつながりがあるかもしれない』と推察している」とある。
2 斎尾廃寺は法隆寺の伽藍配置と同じであり、法隆寺を建立した豪族の母体はここに住んでいた。それは蘇我氏であり、久々に蘇我氏から天皇(天武天皇)が出たのでそれを祝って斎尾廃寺を建てた、と推察したのだが、大高野官衙遺跡の正倉は蘇我氏の宝物を収納する収納庫であった。藤原氏は蘇我氏を根絶やしにした後、ここの正倉の宝物を奈良に持ち帰り、ここの正倉や斎尾廃寺を焼き払った。

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第四節 百済精神を理解できない伯耆国 [藤原氏]

   第四節 百済精神を理解できない伯耆国
  秀吉は1585年に近衛前久の養子となって藤原姓となり、関白となった。藤原氏は、養子・秀吉に戦争するようにそそのかした。朝鮮出兵(文禄の役)はその7年後の1592年である。中国、朝鮮を支配し、天皇を中国・朝鮮・日本共通の皇帝にしようという思想は、藤原氏が元々持っていた思想である。第二次世界戦中の、大東亜共栄圏建設の思想でもあった。このときの仕掛け人は近衛(藤原氏)文麿である。
高江神社の由緒
 朝鮮の役で伯耆国領主の南條氏はその君臣を一人も従軍させなかった。豊臣太閤はこれを責めその封を減じた。また伯耆西三郡を割きて吉川に與へ、東三郡のみを南條領として存置した。
 伯耆国は新羅と兄弟国であり百済の精神が理解できなかった。
 ちなみに、高江神社は天正時代以前は境内神社子安神社(祭神 木花開耶比売命)が由良郷の総産土神であった。祭典の時には天正時代にできた神輿やだんじりではなく、神社総代たちは少女たちの曳く子安さんの後をついて歩く。ここに、有名な木花開耶比売命の産屋があった。「由良」とは木花開耶比売命が付けた地名だそうである。
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第三節 藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について [藤原氏]

第三節 藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について 

  日本書紀は天武天皇ではなく藤原不比等が作ったものである。

 702年の遣唐使では日本という国号を使った。しかし、中国はそれまでの倭国との連続性に疑問を抱いていた。藤原不比等は万世の天皇家であることの必要性を感じていた。不比等は原古事記を見て百済国の歴史書に倭国天皇を混ぜて作ることを考えた。それが日本書紀である。

 713年に各国に風土記の提出を求めた。それも一書として参考にしたが、出雲風土記以外は焚書にした。焚書坑儒は大陸のやり方であり、藤原氏が大陸(百済)から来た証拠にもなる。天皇紀、国記、など大事な歴史書はすべて焚書にした。

 日本書紀を作ったのは、天武天皇ではない。日本を征服した藤原不比等が、自分たちが、征服した「倭」を、これからは、倭ではなく、「日本」という国名にしますと、外国にも宣言する独立宣言の記念誌であった。
 不比等は日本書紀を編纂するにあたって原古事記を参考にしている。

 何人かの天皇は、いかにだらし無かったかを書いている。天武天皇がつくるように命じたはずの日本書記に、天皇家の悪口を書くということは、あり得ない。

 原古事記には神武天皇から高市天皇までの素晴らしい業績が書いてあったのだと思われる。

 原古事記は天武天皇が作るように命じたが、実際に出来たのは712年である。天武天皇や高市天皇のことは知っているから、古事記に書くことが出来たのに、推古を最後に終わっている。推古以降の天皇も書かれていたが、削除した考えるべきである。 そして、天武天皇の壬申の乱の部分だけを古事記の序文に残した。壬申の乱は天武天皇の最大の業績であるのに本文に書いてない。原古事記に書かれていた天武紀は、消されたばかりではなく、古事記の他の天皇の所も、改ざんされている疑いがある。


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第二節 藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、「坑儒」について [藤原氏]

 藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について、奈良時代までは以下のとおりである。
中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿天皇(蘇我善徳=聖徳太子)と蘇我倉山田石川麻呂を殺した。
 中臣鎌足の子の不比等は天武天皇と天武天皇の側近20人ほどを毒殺した。天武天皇の毒殺の後にも、大津皇子、草壁皇子、高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇をを毒殺している。
 長屋王の変で、藤原氏に濡れ衣を着せられて長屋王一家は殺された。長屋王、正室・吉備内親王、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など。
 伯耆国の大神山神社の宮司の相見氏はアジスキタカヒコネの子孫であり、長年家系抹消を恐れてきた。家系抹消とは、嫡男家だけではなく血筋の全てを消し去るということであり、全ての男は殺される。戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなり、もはや血脈狩りなど考えられなくなった。それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していた。
 現在から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だった。恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思う。血脈狩りが行われたのは、アジスキタカヒコネのいた葦原中津国の近くの法華寺畑遺跡である。
 八世紀に倭国(鳥取県中部)のあちこちでこのようなことが行われてきた。いわゆる恐怖政治である。倭国(鳥取県中部)の人間は、ここに天皇がいたことやスサノオ・大国主がいたことは話さないようになる。
 11系統あった大国主命の子孫のうちアジスキタカヒコネの系統以外の多くの系統は血脈狩りにあっている。

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第一節 藤原氏について(日本書紀は偽書) [藤原氏]

1 百済(朝鮮半島西部)には準王一族の残党が残っていたはずである。百済出身の不比等やその後の藤原氏もそのことは知っていた。藤原氏はヤマト王権に敵対していた準王一族に藤付き姓を与えた。
 藤原氏の始祖は藤原鎌足である。藤原鎌足は百済出身であり中国の兵法書「六韜」を暗記していた(藤氏家伝)。天武天皇は子供は親とは違うという考えに基づいて、鎌足の子供三人を引き取った。しかし不比等も「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し倭国の天皇を毒殺した。
 太安万侶は天武天皇に頼まれていた原古事記を編纂し713年に穂積天皇に献上した。しかし、穂積天皇に渡る前に不比等に渡った。不比等は原古事記を読み、百済(日本)の歴史書を創ることを思い立った。720年に日本(百済)書記は完成する。その後、京都に遷都後も日本書紀の改ざんは藤原氏によって続けられていく。
 数百年かけて日本書紀は改ざんされた後、世に出されたが、これは大日本史を250年かけて編纂した藤原氏のやり方である。

2 現在、「藤」付き苗字の人が日本の総人口に占める割合はざっと6%だそうである。8世紀の日本の総人口が500万人ぐらいとすると、「藤」付き苗字の人は奈良時代に30万人くらいいたことになる。不比等があとで調べて、百済出身者(準王一族)にあと一字に意味を込めて姓を与えたとしても不思議はない。
 島根県・宮崎県・奈良県・三重県・和歌山県に広くて大きいテーマパークを造り、東大寺の大仏を造るだけの人手は準王一族(蝦夷)でまかなえた。
 不比等は日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって、伯耆国に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。それは恨みではなく征服を完全なものにするためであった。伯耆国の地名や神社や伝承を百済の王族の正当性を作り上げるためにその外(九州や出雲や大和等)に移した。
 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に持っていき、神武天皇の兄弟四人がおられた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰に移し、大物主も、伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。また、出雲大社と伊勢神宮も創建した。
 宗形三姉妹も米子の胸形にいたのを北九州の宗像大社に移した。孝霊天皇がおられたこともすべて消し去り、日本書紀には記載しなかった。初代から31代までの天皇のことも書かなかった。天孫降臨で、葦原中津国を明け渡した大国主命が出雲に行ったことは書いたが、事代主命・建御名方命のことも書いてない。
 不比等は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、新しい神社やテーマパークを作ったり、新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設したりした。また多くの「百済」の悪行の部分は「新羅」に書き換えた。「新羅」の善行の部分は「百済」に書き換えた。藤原氏は、「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。
 また、伯耆国、蒜山、美作国の伝承も恐怖政治によってきれいに消した。​



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八幡神社は藤原氏の神社である [藤原氏]

 八幡神社は藤原氏の神社である。
1 八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社。全国に約4万4千社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。
 和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれている。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座した。
八幡神社の祭神は応神天皇、比売神(宗像三女神)、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇、武内宿禰とともに祀っている神社もある。
2 私見
 八幡神社の始まりが当時最大権力を持っていた藤原不比等の時代であることと、新羅を攻撃して勝った神功皇后を立派だとして祭神としていることと、応神天皇(私見では在位354年~394年)の時代に百済は倭国に始めて朝貢しているので応神天皇は特別な天皇であったことから、八幡神社は倭国を乗っ取った百済出身の藤原氏によって創建され広められたものと思われる。
 現在では全国の神社(8万5千社ほど)の半数以上を占める。八幡神社でない神社(文部科学省の資料によると4万社くらい)よりも多い。八幡神社は日本各地の神社などに残るヤマト王権(紀元前60年~734年)の歴史・伝承を作り替え、あるいは消すために造られた神社と思われる。日本の本当の古代史や八幡神社の機能を知った徳川光圀は八幡つぶしをしている。徳川光圀の編纂した歴史書を読んだ京都の藤原氏は元禄時代に西日本のあちこちで徳川光圀に指摘されたところの辻褄合わせをしている。伯耆国の大原神社もその一つである。元禄時代までは波波伎神社と称していたと由緒に残っている。八岐大蛇の伝承も残っていたものと思われる。卑弥呼の伝承も神功皇后の伝承に置換えていった。それを完成させるためには、多くの八幡神社が必要であった。
 伯耆国には八幡と名のつく神社は少ない(鳥取県神社誌による)。鳥取県中部に限っては、藤原氏にとって本当に消さなければならない場所の近くに八幡神社を建立している。
 ニニギ命の居た大宮神社の近くに高尾八幡宮。天忍穂耳のいた三輪山と大国主のいた茶臼山との間に北条八幡神社。素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)のいた倉吉の清熊稲荷神社の近くに八幡神社。あと一社が旧東郷町の小鹿谷桂男山八幡宮(秀尾神社だが祭神は八幡神)である。
3 高尾八幡宮
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鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山 
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番    
祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮として奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴二年源頼朝の令によりて是を停止せられ、事後一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵燹に罹り一時祭事微弱に陥りたるの時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
大正四年四月二十一日 
(1)大宮神社 東伯郡栄村大字上種字宮惣   
祭神 大己貴命、別雷命、素盞鳴命、瓊々杵命、菅原道真
(2)東高尾神社 東伯郡栄村大字東高尾字堂山  
祭神 素盞鳴命
を合併す。
 当社に古き経筒を蔵す、理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代の献納物ならんと。尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴二年正月十九日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。
※ 私見
 陽成天皇元慶年中の創建とは880年頃に創建されたことになる。
天孫降臨に際して、ニニギ命は打吹山周辺をさけて山沿いを移動している。関金の北の鴨河内あたりが倉吉中心部にいた大物との境界であったようだ。ニニギ命は関金ー志津ー福本ー上米積ー上福田ー下種と移動している。
 クシフルタケ(亀谷丘陵)の海側には木花佐久耶姫を祭る亀谷神社がある。葦原中津国を天児屋根(穂波神社)と挟んだ位置関係になっており、葦原中津国を平定した状態を確認できる。
4 北条八幡神社
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鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山
現在地 鳥取県東伯郡北栄町北尾365
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神
由緒 当社は清和天皇貞観七年八月筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり。
大正2年12月28日 
(1)苅山神社 東伯郡下北条村大字曲字苅山   
祭神 綿津見神
(2)岡神社 東伯郡下北条村大字曲字岡   
祭神 素盞鳴尊
(3)嶌沢神社 東伯郡下北条村大字米里字三ノ崎  
祭神 素戔鳴尊・大山祇尊
(4)田村神社 東伯郡下北条村大字島字田村  
祭神 猿田彦尊
(5)田井神社 東伯郡下北条村大字弓原字妙見  
祭神 国常立尊
(6)下神神社 東伯郡下北条村大字下神字南宮脇  
祭神 菅相烝
(7)三輪神社 東伯郡下北条村大字土下字野本  
祭神 大己貴尊・少彦名尊・猿田彦神・倉稲魂神・天児屋根尊
(8)弓原神社 東伯郡下北条村大字弓原字飯田  
祭神 奥津彦神・奥津姫神・菅相烝・土御祖命
の八神社を合祀する。
 (7)の三輪神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ。大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす。土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡下北条村では大正2年に8つの神社を北条八幡神社に合併している。北条八幡神社(古くは山田八幡宮)は天忍穂耳のいた三輪山(神山)と大国主のいた茶臼山(大神山、宇迦能山、伊那佐山)との間にある。周辺には天皇の皇居の比定地が多くある。
 現在の国坂の茶臼山は大神山(オオミワヤマ)といい下神の三輪山も神山(ミワヤマ)と言っていたはずである。宝暦三年(1753年)の火災とあるが、大日本史の改ざん中であり、徳川光圀が矛盾を指摘していたので邪魔になり、藤原氏が放火したものと思われる。焚書・放火の好きな藤原氏である。「土師部の此の地に移住せしより土下の地名とす」とあるが、苦しい説明であり、納得できるものではない。土下は神武天皇の家来が土を下したところだから地名とされた。
 伯耆民談記には「山田家に古き伝記を所持せり。その文に『承平5年(935年)伯州山田別当下向八幡大菩薩奉還。当所号開発願主この子孫により山田を以て氏とす云々』。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたり(在承平5年(935年)~天正11年(1583年))」とある。
 創建は866年である。935年は統一新羅滅亡の年。山田氏は京都よりこの地に来たりて八幡大菩薩を奉還した。山田氏は京都から下向し五百年余りこの地を支配した。
5 倉吉の八幡神社
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鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸
現在地 鳥取県倉吉市八幡町3626-3
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴尊、宇迦之魂命、武内宿禰命
由緒 創立年代不詳、文明十八年(1486)因幡守護山名豊明社殿を造営す。旧と八幡宮と称し倉吉町の西部及び小鴨村大字生田の産土神たり。
明治元年九月生田神社と改称、その後村社に列す。
大正二年九月
(1)谷田神社 倉吉町大字余戸谷字四十二丸
祭神 須佐之男命、宇迦之魂命
を合併す。
※ 私見
 倉吉市生田にあった久米八幡を明治時代こちらに遷した。
 伯耆国風土記残欠に、「伯耆とはもと母来といい、稲田姫が母来ませと叫んだからだ」と記されている。三朝町の坂本神社には稲田姫の両親が祭られ、三朝町大瀬には大瀬ほうきという地名(稲田姫はここで母来ませと叫んだ)があり、下っていくと大原神社(もと波波伎神社)がある。八岐大蛇伝説は三朝町山田(ヤマタ)が舞台であった。その後、素戔嗚と稲田姫は伊邪那岐命の後を追って、鳥取県八頭郡に行っていた。その後、素戔嗚は須勢理姫(宇迦之御魂命)と共に根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社に戻った。明治維新の頃まで、清熊稲荷神社に大国主の根国での冒険の伝承が残っていたものと思われる。この丘陵全体の住所が倉吉町大字余戸谷字四十二丸であった。清熊稲荷神社はその中心部にある。
 素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)が倉吉市の清熊稲荷神社にいたのを大日本史で徳川光圀は指摘していたはずである。藤原氏は明治時代になってその伝承を消した。
6 東郷神社(湯梨浜町小鹿谷の桂男山八幡宮)
東郷神社.jpg
鎮座地 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
現在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷768
祭神 國常立命、伊邪那岐命、素戔嗚命、速玉男命、事解男命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、市杵島比賣命、大穴牟遅命、大山咋命、猿田彦命、誉田別命、足仲彦命、気長足姫命、大山祇命
由緒
(1) 引地神社 東伯郡東郷村大字引地字宮ノ峯
祭神 市杵島比賣命
(2) 森山神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字森山
祭神 素戔嗚
(3) 松上神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字杉ノ子
祭神 国常立命
(4) 秀尾神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
祭神 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
(5) 新宮神社 東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷
祭神 速玉男命・事解男命・伊邪那岐命・大山祇命
(6) 麻畑神社 東伯郡東郷村大字川上字奥山ノ神
祭神 素戔嗚命・大山祇
(7) 山邊神社 東伯郡東郷村大字国信字宮ノ前
祭神 伊邪那岐命
(8) 別所神社 東伯郡東郷村大字別所字宮坂
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
(9) 高辻神社 東伯郡東郷村大字高辻字屋敷
祭神 大山咋命・大山祇命・大穴牟遅命
(10) 松尾神社 東伯郡東郷村大字方面字屋敷
祭神 大山咋命
(11) 久見神社 東伯郡東郷村大字久見字梵天谷頭
祭神 猿田彦命
(12) 谷口神社 東伯郡東郷村大字中興寺字屋敷
祭神 素戔嗚
(13) 和田神社 東伯郡東郷村大字田畑字和田
祭神 素戔嗚
を大正2年4月合併す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡の旧東郷町では大正時代に実に12もの神社を東郷神社に合併している。4の秀尾神社は小鹿谷秀尾にあり東郷神社と同じである。秀尾神社の祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命であるので八幡神社であった。小鹿谷の桂男山八幡宮(伯耆民談記)と呼ばれていた。秀尾の八幡神社に12の神社を合併して名前は東郷神社とした。なぜ東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾に八幡神社を造ったのか。近くに隠さなければならない重要なものがあったものと思われる。その中には、本田善光が仏像を引き上げた引地の引地神社や垂仁天皇の皇居があったと思われる川上集落の2神社も含まれている。12の神社にはそれぞれ立派な由緒があったはずである。12神社が合併され、消されてているのだから東郷池周辺のヒントが見つからないわけである。川上字鍛冶屋谷で刀を作ったものと思われる。南の波関峠から片柴集落(忍坂邑)に至る坂が忍坂に比定できる(当時川上宮から坂を越えて石上神宮に至るにはこのルートしかない)ので、東郷地域は重要な地域である。東郷神社のある小鹿谷には天皇の皇居があったはずである。他にも調べれば史実がもっと現れるものと思われる。


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