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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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天忍穂耳命、長男の鐃速日命、次男の瓊々杵命について [天孫降臨]

 天忍穂耳命、長男の鐃速日命、次男の瓊々杵命について


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 鳥取県大山町の壹宮神社は天孫降臨の地か

 昭和9年刊鳥取県神社誌より
1 壹宮神社 
 鎮座地 西伯郡高麗村大字上萬字澤形  
 現在地 鳥取県西伯郡大山町上万1124番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、萬幡豊秋津師姫命、天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵命
 由緒 創立年月不詳と雖も、郡中の旧社にして、古来壹宮大明神と号し、往昔より神田若干を寄附せられ、元和寛永の頃に至りても旧格に準ぜられ、崇敬他に異なりしこと古證書等に判然たり。故に今猶宮田神子森田などの字近傍の耕地に存す。又一ノ宮と称すること社伝に曰く「高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなり」と。古事記に曰く「爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也」とあるを以て証すべし。又旧記に拠なしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」と。該郡に於ては最も秀抜の社殿なりしが建久以降尼子風土を争闘し兵燹に罹り神器古証書等多く焼失せり。現今上萬原と称する所の人戸は社地の西辺に断続したる一村落なりしが、灰燼の原野となり、方今の所に転居せし者なり。今猶此所を上萬原と称するは此故なり。村内荒神社も其故地に存在せしを神社改革の際廃祠となれり。従来郡中五穀豊登風雨旱疫の災を穣ふの祭祀永年執行すべき旨を以て旧藩中特別崇敬あり。社殿営繕の費額幾分を該郡に賦課すること維新前迄之を例とす。
 明治元年十月神社改正の際、大明神の号を廃し壹宮神社と改称せられ同五年三月郷社に列せられる、明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

※私見
 壹宮とは藤原氏の神社神名式(927年)の一宮ではない。734年以前の伯耆国で一番最初にできた神社である(天孫降臨よりも4年前の紀元前200年頃)ことを示している。天照大御神が降臨した琴浦町の伊勢神宮や素戔嗚命が十握剣を奉納した石上神宮(倉吉市大原)よりも古いことを示している。
 古老の口碑に伝ふる「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」は「神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、・・・・・因て人民迎尊して」であり、「・・・・・」は明治維新の申請の時に削除されている。

2 江美神社 
 鎮座地 日野郡江尾村大字江尾字上ノ段
 現在地 鳥取県日野郡江府町江尾1894番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 天照国照彦天火明櫛玉鐃速日命、伊弉諾命、厩戸豊聰耳命、倉稲魂命
 由緒 創立年月不詳、旧記に拠れば昔時天歴年中此の地方に進氏(永禄年間江美城主蜂塚右衛門尉の重臣進五郎兵衛の祖先なり)と云ふ豪族ありて、地方を開拓して多くの荘園を有し土民と撫育せしが、其の頃大和国石上神宮の御分霊を勧請せるものなりと云ふ。往古は磐船神社と称せしが、(勧請の時天之磐船をを模造せる神輿に奉安して迎へしによれると云)其後厩戸豊聰耳命を合祭して王子権現と改称せり。当社は古来此の地方の産土神にして細原荘(小原荘とも云)一円の総鎮守なれば、往古より大社或は大宮又高氏等の社格を称へしことあり。天文五年本村旧領主蜂塚右衛門尉本社を造営し、社領高六十三石五斗を寄進す。後永禄八年八月蜂塚氏吉川氏の為に攻落さる。此の時社殿兵燹に罹り古文書宝物等を焼失す。天正元年十一月社殿造営(吉川駿河守元春の名ある棟札在)。慶長六年米子城主中村一忠社領高六石を寄進す。寛文七年六月旧藩主池田氏社領高一石二斗七升二合を寄附せらる。
 明治元年神社改正の際江尾社と改められ、同五年村社に列す、同六年江尾神社と改称す。
 明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

3 矢送神社 
 鎮座地 東伯郡矢送村大字山口字横路
 現在地 鳥取県倉吉市関金町山口447番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 天津彦火瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命
 由緒 当神社は人皇八十九代亀山天皇御宇文応元年、日向国高千穂槵觸の峯より勧請し矢送庄九ヶ村の大社として奉祀したるものとなりと云ひ伝ふ。
 元禄三年九月本社建立の際松平伯耆守より米三石寄進せらる。初め矢矧山社杵米大明神と称せし。
 明治元年山口神社と改称せられ、更に明治三十五年四月矢送神社と改称す。
 明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

4 八幡宮(大宮神社)
 鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山(現在地 鳥取県東伯郡北栄町西高尾)

 祭神(大正合併の祭神は除く) 誉田別命、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命
 由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして・・・・・。
 明治五年郷社に列せられ、高尾神社と改称せらる。
 明治十二年旧社号八幡宮と復旧せり。
 明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 大正四年四月二十一日
 ◎ 栄村大字上種字宮惣鎮座(現在地 鳥取県東伯郡北栄町上種)村社大宮神社(祭神 大己貴命、別雷神、瓊々杵命、素戔嗚命、菅原道真)
 栄村大字東高尾字堂山鎮座無格社東高尾神社(祭神 素戔嗚命)を合併す。
 当社に古き経筒を蔵す。理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば藤原時代の献納物ならんと。尚当社が石清水別宮なりしこと、元暦二年正月十九日右大将源頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。

5 私見
 壹宮神社の祭神は瓊々杵命であるが降臨したところではない。海面が海抜4mの地形を見ると、壹宮神社の近くは淀江町より西が津になっているが「葦原中津国の前には笠沙之御前がある」とするのが定説である。淀江町の前に笠沙之御前は確認できない。したがって、淀江町の西の津は葦原中津国ではない。
 壹宮神社の祭神は瓊々杵命とその両親だから壹宮神社は瓊々杵命が生まれたところである。天孫瓊々杵命は四歳で高天原から降臨するので、それまでに高天原(蒜山)に上がっていた。
 天孫瓊々杵命は蒜山高天原から鳥取県中部の矢送神社経由で北栄町の大宮神社に降臨した。北栄町には笠沙之御前(北条砂丘)が前にある葦原中津国が確認できる。
 天孫瓊々杵命と一緒に豊受姫(倉稲魂命)も降臨している。豊受姫は幼い瓊々杵命の世話をしていた。江尾神社の祭神に倉稲魂命(豊受姫)がいる。倉稲魂命(豊受姫)は天照国照彦天火明櫛玉鐃速日命の世話をしていた。
 九州の方で神武天皇の子供に耳が付くので耳族と名付ける方がいたが、耳とは生まれた地名である。鳥取県倉吉市関金町耳集落のことである。
※ 倉吉市関金町耳集落
 天忍穂耳は生まれは中国だが、しばらく倉吉市関金町耳集落にいた。
 鐃速日命の子孫は神武天皇のうわさを聞き神武天皇を追って高天原(蒜山)から降りてきた。その後倉吉市大原を拠点として物部氏と名乗った。


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猿田彦は鳥取県中部に土着の縄文人であり、徐福集団(天孫族)に協力していた [天孫降臨]

 猿田彦は鳥取県中部に土着の縄文人であり、徐福集団(天孫族)に協力していた。

1 蜘ヶ家山と土下山周辺の猿田彦を祀る神社(6社)。合併(大正時代)前の神社も含む。

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 金刀比羅神社(由良町由良宿)、松神神社(下北条村松神)、田村神社(下北条村島)、三輪神社(下北条村土下)、船内神社(上北条村下古川)、山根神社(西郷村山根)

 猿田彦一族の本拠地は田村神社(下北条村島)のあたりである。松神神社は横の三輪山に大物主(天忍穂耳)がおられ猿田彦は大物主(天忍穂耳)の指示に従っていた。ニニギ命を鏡ヶ成に迎えに行かせたのも父の大物主(天忍穂耳)である。

 天太玉と稚産霊が降臨した中尾第一遺跡やイザナギ・イザナミが降臨した松ヶ坪遺跡や玉祖命が降臨した長瀬高浜遺跡において縄文晩期と弥生前期の遺物が同時に見つかっている。これらは、天孫族に協力していた縄文人がいたということである。この縄文人たちは猿田彦一族であった。後(紀元前165年頃)に長瀬高浜遺跡の巨大4本柱(直径2.5m前後)の高床式建物(SB40)を建てた。

2 縄文海進ピーク時の鳥取県中部の海岸線

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 倉吉住吉神社の前の案内板には「このあたり一帯が入り江であった時」と書いてあるのでその状態になるのは海抜20mに海面があった時(縄文時代)であり、鳥取県中部の海岸線はこのようになる。蜘ヶ家山と土下山周辺からは旧石器時代・縄文前期・中期・後期・晩期の遺跡や遺物が発掘されている。鳥取県中部には旧石器時代から連続して人が住んでいた。

3 北条町(現北栄町)の遺跡(島遺跡発掘調査報告書「位置・環境」より)

 北条町は鳥取県の中央部を流れる天神川を境にして、東は羽合町、西は大栄町、南は倉吉市と接しており、北部は日本海に面している。
 砂丘地では、砂丘遺跡で有名な羽合町の長瀬高浜遺跡が近接するが、本町の江北浜で土師器、須恵器、土馬、銅鏡、鎧片などが出土し、下神及び弓原浜からは、弥生土器、土師器片が出土している。
 丘陵地においては、茶臼山古墳群、土下古墳群、北尾古墳群、島古墳群、曲古墳群など約600基が存在する県下有数の古墳密集地であり、その中でも土下古墳群に含まれる土下210号墳及び、土下213号墳からは全国的にも貴重な鹿埴輪、鹿の子模様の入った人物埴輪が出土している。
 平野部においては、今回調査を行った島遺跡が代表的な遺跡として挙げられる。島遺跡は、昭和27年に発見された遺跡である。当時、縄文遺跡の存在は鳥取県では目久美遺跡(米子市)、北灘遺跡.(境港市)、青島遺跡(鳥取市)など数えるほどしかなく、島遺跡は縄文時代前期から晩期にまたがる土器や、石器、動物骨格片等の豊富な遺物の出土と相伴って山陰を代表する遺跡として脚光を浴びた。
 昭和58年の発掘調査によって多量の縄文土器のほか、石器や丸木舟、縄文貝塚等が発見され、特に縄文土器においては前期から晩期につながる山陰地方の土器編年がなされ、この地域の縄文遺跡としての重要性が注目されている。また、島遺跡の上流部には、縄文時代中期の土器片、ひきりうす、木製品が検出された米里船渡遺跡が存在している。
 北条町の遺跡分布状況は圧倒的に丘陵部における古墳が多いが、まだ埋もれた遺跡がたくさん存在することは、平野部に位置する島遺跡の立地状況からみても容易に推測できるところである。

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4 島遺跡は遺物がほとんどであり遺構は見つかっていない。島遺跡の場所は海抜5mくらいであり、縄文時代は海の底であった。流土で流されたか準王一族がここを襲ったときに捨てたものと思われる。縄文人の遺構はまだ発掘されていないが、周辺の丘陵地にあるはずである。鳥取県中部の蜘ヶ家山と土下山に縄文人が住んでいた。縄文前期・中期・後期・晩期の遺物が島集落や米里集落から発掘されている。

 この蜘ヶ家山と土下山に住んでいた縄文人は猿田彦一族であった。徐福一行がこの地に到着してからイザナギに頼まれて徐福一行に協力していた。猿田彦は土着の縄文人であったから、徐福集団の道案内もし、定住できるように協力していた。「天津御子の天之御巣の壮大な構えの屋根の高い立派な宮殿を築いた」(古事記)のも猿田彦一族であった。


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天孫降臨に関係する鳥取県中部の神社の祭神 [天孫降臨]

  第十四節 天孫降臨に関係する鳥取県中部の神社の祭神

 神社名と住所は鳥取県神社誌(昭和9年刊)に基づいています。合併(大正時代)前の神社も挙げています。

1 第1次(紀元前195年頃)の降臨
(1)天照大御神 神田神社(南谷村泰久寺)新宮山神社(西郷村下余戸)牧神社(旭村牧)国主神社(舎人村北福)上古川神社(上小鴨村上古川)上市神社(高城村河来見)灘手神社(灘手村穴沢)方見神社(市勢村上伊勢)野田神社(上郷村野田)日御碕神社(下中山村御崎)
(2)月読命(保食神) 賀茂神社(旭村森)波波伎神社(日下村福庭)稲荷神社(小鴨村岡田)秋喜神社(小鴨村秋喜)服部神社(高城村服部)上米積神社(高城村上米積)中山神社(上中山村東積) ※ 方見神社の祭神に稲荷神とある。桜神社(高城村桜)風宮神社(高城村岡)
(3)天忍穂耳(大物主) 三輪神社跡(下北条村下神)大原神社(倉吉町大原)賀茂神社(旭村森)神田神社(南谷村泰久寺)大和山神社(灘手村別所)照国神社(下郷村美好)古布庄神社(古布庄村別宮)下見神社(古布庄村三本杉)神郷神社(上郷村大杉)
(4)天穂日 大原神社(倉吉町大原)恩地神社(旭村恩地)松崎神社(松崎村松崎)田内神社(倉吉町巌城)
(5)伊斯許理度売命(石凝姥命) 倉坂神社(上郷村倉坂)
(6)天手力男 神郷神社(上郷村大杉)
(7)玉祖命 長瀬高浜を終の棲家としそこで玉を造っていた。羽合歴史民俗資料館では2200年前の遺跡であるとする。
(8)天石門別神 神郷神社(上郷村大杉)倉坂神社(上郷村倉坂)
(9)思兼命 松尾神社(花見村野花)
(10)天宇受売命 上里神社(日下村清谷)長瀬神社(長瀬村長瀬)灘郷神社(泊村泊)
(11)猿田彦 山根神社(西郷村山根)幸能鶴神社(竹田村穴鴨)小鹿神社(小鹿村東小鹿)中津神社(小鹿村中津)東郷神社(東郷村小鹿谷)梶屋神社(橋津村下橋津)宮本神社(橋津村上橋津)灘郷神社(泊村泊)松神神社(下北条村松神)田村神社(下北条村島)三輪神社(下北条村土下)船内神社(上北条村下古川)金刀比羅神社(由良町由良宿)神郷神社(上郷村大杉)

2 第2次(紀元前165年頃)の降臨
 瓊瓊杵尊は日向(葦原中津国)のクシフルタケ(北栄町の亀谷丘陵の大宮神社)に天降った。
(1)瓊瓊杵尊 神田神社(南谷村泰久寺)上里神社(日下村清谷)日吉神社(矢送村関金)矢送神社(矢送村山口)楯縫神社(高城村上福田)大宮神社(栄村上種)三輪山(下北条村下神)照国神社(下郷村美好)
(2)木花之佐久夜毘売 笏賀神社(旭村笏賀)松尾神社(花見村野花)国府神社(社村国府)亀谷神社(栄村亀谷)松神神社(下北条村松神)高江神社境内社(由良町由良宿)麻布神社(古布庄村古長)大正神社(古布庄村中津原)
(3)天児屋根命 今泉神社(旭村今泉)上里神社(日下村清谷)長瀬神社(長瀬村長瀬)矢送神社(矢送村山口)垂井神社(社村大谷)三輪神社(下北条村土下)穂波神社(大誠村穂波)下郷神社(下郷村下大江)春日神社(古布庄村宮場)春日神社(下中山村赤坂)
(4)天太玉 長瀬神社(長瀬村長瀬)矢送神社(矢送村山口)中尾神社(伊勢崎村中尾)
(5)稚産霊(和加産巣日神) 中尾神社(伊勢崎村中尾)神郷神社(上郷村大杉)倉坂神社(上郷村倉坂)中山神社(上中山村東積)
(6)豊受姫(倉稲魂命) 大原神社(倉吉町大原)新宮山神社(西郷村下余戸)立原神社(西郷村上余戸)天高神社(西郷村八屋)伊木神社(西郷村伊木)山根神社(西郷村山根)山田神社(三朝村山田)森村崇敬神社(旭村森)鎌田神社(旭村鎌田)今泉神社(旭村今泉)玉阪神社(竹田村曹源寺)西小鹿神社(小鹿村西小鹿)岩伏神社(橋津村橋津)市場神社(小鴨村市場)菅原神社(小鴨村菅原)長坂神社(小鴨村東鴨)中河原神社(小鴨村中河原)谷口神社(上小鴨村耳)広瀬神社(上小鴨村広瀬)湯関神社(矢送村関金)中野神社(北谷村中野)三江神社(北谷村三江)三輪神社(下北条村土下)子守神社(大誠村六尾)高江神社(由良町由良宿)満利山神社(古布庄村杉地)田越神社(八橋町田越)井出上神社(成美村出上)成美神社(成美村太一垣)柴尾神社(以西村山川)湯坂神社(安田村湯坂)下甲神社(下中山村下甲)賀茂神社(下中山村羽田井)中山神社(上中山村東積)高岡神社(上中山村退休寺)
(7)猿田彦 山根神社(西郷村山根)幸能鶴神社(竹田村穴鴨)小鹿神社(小鹿村東小鹿)中津神社(小鹿村中津)東郷神社(東郷村小鹿谷)梶屋神社(橋津村下橋津)宮本神社(橋津村上橋津)灘郷神社(泊村泊)松神神社(下北条村松神)田村神社(下北条村島)三輪神社(下北条村土下)船内神社(上北条村下古川)金刀比羅神社(由良町由良宿)神郷神社(上郷村大杉)
(8)經津主神 倭文神社(北谷村志津)井手畑神社(上北条村井手畑)
(9)建御雷神(武甕槌神) 岩崎神社(由良町妻波)春日神社(古布庄村宮場)

3 国を譲った鴨族
(1)大国主 大宮神社(三朝村大瀬)三朝神社(三朝村三朝)坂本神社(三徳村坂本)小鹿神社(小鹿村東小鹿)神倉神社(小鹿村神倉)東郷神社(東郷村小鹿谷)松尾神社(花見村野花)国主神社(舎人村北福)小鴨神社(小鴨村大宮)長坂神社(小鴨村東鴨)上小鴨神社(小鴨村鴨河内)広瀬神社(上小鴨村広瀬)日吉神社(矢送村関金)山守神社(山守村今西)山長神社(北谷村森)横田神社(社村横田)服部神社(高城村服部)尾原神社(灘手村尾原)三輪神社(下北条村土下)金刀比羅神社(由良町由良宿)大宮神社(栄村上種)亀谷神社(栄村亀谷)照国神社(下郷村美好)長田神社(下郷村光好)天乃神奈斐神社(赤崎町赤崎)中山神社(上中山村東積)
(2)事代主 波波伎神社(日下村福庭)松尾神社(花見村野花)国主神社(舎人村北福)楯縫神社(高城村上福田)福積神社(高城村福積)西園(大誠村西園)亀谷神社(栄村亀谷)倉坂神社(上郷村倉坂)福留神社(赤崎町赤崎)松谷神社(赤崎町松谷)亀崎神社(赤崎町東松谷)大石神社(成美村勝田)前原神社(安田村八幡)
(3)健御名方命 波波伎神社(日下村福庭)小鴨神社(小鴨村大宮)上古川神社(上小鴨村上古川)湯関神社(矢送村関金)諏訪神社(八橋町八橋)
(4)下照姫(高姫) 波波伎神社(日下村福庭)倭文神社(北谷村志津)
(5)天稚彦命 波波伎神社(日下村福庭)矢野宮神社(灘手村寺谷)
(6)阿遅鋤高日子根神(別雷神) 賀茂神社(旭村森)今泉神社(旭村今泉)波波伎神社(日下村福庭)松尾神社(花見村野花)賀茂神社(倉吉町葵町)楯縫神社(高城村上福田)大宮神社(栄村上種)

4 私見
 月読命は鳥取県琴浦町槻下(月下)に降臨した。豊受姫も槻下に降臨したと推定したが、鳥取県神社誌の鳥取県中部の神社に両者とも祭神になっていない。なぜだろうか。宇迦之御魂命はスセリヒメでありながら稲荷神とされていた。それでは、倉稲魂命や保食神も稲荷神とされているが、実は女神だったのではないか。
 倉稲魂命は読みも「うがのみたま」という読みにされており、宇迦之御魂命と同一神であるという説もあるが、「花園稲荷神社(忍岡稲荷)の祭神は倉稲魂命又の御名は豊受姫命(伊勢の外宮の大神)ともいう」とする。「延喜式大殿祭祝詞註にも、倉稲魂命は豊宇気比売神と同神とする」とある。倉稲魂命は豊受姫命(伊勢の外宮の大神)の別名であった。
 また、月読命は保食神を殺した。保食神と関係が深いのは月読命である。保食神を殺したから月読命は保食神になった。トリックである。神社の祭神で保食神とあるのは月読命の別名である。月読命は女性であり天照大御神は男性であった。
 大国主はスサノオの子であるから生年は早くても紀元前208年頃であり、その子の事代主が葦原中津国の首長になるには20歳くらいであるから紀元前170年以降である。国譲りが決まっても実際に事代主が葦原中津国を明け渡すまでに20数年はかかっている。その間ニニギ命は矢送神社・日吉神社・楯縫神社にいた。最初の天照大御神の降臨(紀元前195年頃)からニニギ命の降臨(紀元前165年頃)まで大国主の子供たちが成長するのを待つ必要があった。

5 福岡県に下照姫神社があり、穂波という地名があるのは、伯耆国にいた山上憶良が作ったものである。穂波とは波の穂を逆さに言ったものであり、波打ち際であったことを示している。鳥取県北栄町の穂波は今でも海抜4m以下である。縄文海進の時代に福岡県の穂波は波打ち際であったとは思われない。

6 瓊瓊杵尊は日当たりの良さばかりを言うので日向の御子といい、神阿多都比売は彼女の行くところ桜が咲いたように華やかになるので、木花之佐久夜毘売といった。どちらも鳥取県中部の地元の者が親しみを込めてつけたあだ名である。「日向」を単に日当たりが良いという意味にもかかわらず宮崎県の地名にまでして日本書紀に記載した藤原氏は詳しいことを知らなかったものと思われる。


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天照大御神が譲れといった葦原中津国は鳥取県北栄町にあった [天孫降臨]

 天照大御神が譲れといった葦原中津国は鳥取県北栄町にあった

1 宮崎県高千穂町の天照大御神像

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上は宮崎県高千穂町天岩戸神社前にある天照大御神像。下は徐福像。

多くの者のリーダーは徐福がふさわしい。徐福は平原広沢(葦原中津国)を得て王(天照王)となった。

「古代史に徐福を出すのはとんでも説である」という方がおられるが、その方は日本書紀の泥沼にどっぷりつかっている人である。「これほど古代史で苦しんでいるのに、徐福なんて安易な説に頼るな」と言いたいのである。「大を王と解釈するな」という方も同じである。どちらも藤原氏のお膝元の京都の方であった。

2 宮崎県高千穂町のくしふる神社と高千穂神社

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 くしふる神社の由来
くしふる神社の鎮座するくしふるの峰は肇国の昔天孫瓊々杵尊が三種の神器を奉載してこの国を治める為に天降られた聖地として古史に記されています。
 往昔は社殿はなく山そのものを神と崇めて高千穂八十八社の一つに数えていましたが十社大宮司をはじめ往古の聖跡を慕う歴代延岡藩主の熱望と高千穂十八郷の民力とにより元禄七年(1694年)6月15日に社殿が建立されました。
古来武神としての信仰が厚く、またわが国の神道流布根源の地として広く信仰され高天原四皇子峯とともに高千穂を代表する聖地であります。
 御祭神
天児屋根 経津主命 天津彦火瓊々杵尊 天太玉命 武甕槌命

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 高千穂宮御由緒
当宮は初め高智保皇神と申しあげて、この地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊、木花開耶姫以下三代の神々をお祀りし、千百余年前の仁明、清和両朝には日向国最高の御神階が授けられたことが六国史に記されております。
神武天皇の皇兄三毛入野命が御東征の途次高千穂に帰られて日向御三代をおまつりされたのが初めてで、その子孫が長く奉仕されて後には三毛入野命御夫婦と八柱の御子とを合祀して十社大明神の神名で親しまれ古くより高千穂郷八十八社の総社として崇められてきました。
・・・
天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂宮は、今日では国運の隆昌と、縁結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております。

3 鳥取県北栄町のクシフルタケ

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 クシフルタケとは百済読みであり、新羅読みでクシフルネ(波波伎神社の由緒より)が正しい。アイヌ語に直すと「川などの向こうの岡」という意味である。

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 津原より亀谷丘陵を写す。白いガードレールに沿って由良川が流れており、亀谷丘陵は「川の向こうの岡」になる。

4 天孫瓊々杵尊を祀る下種の大宮神社

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 藤原氏が支配する神社庁に抹殺された大宮神社。

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祭神 大国主 別雷命(阿遅鋤高日子根神) 天孫瓊々杵命 素戔嗚命 猿田彦命 菅原道真

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狛犬のすり減り方よりかなり古い神社であることが推測される。

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道教の橋のようにクランクになっている。

 ※ 上種第1遺跡発掘調査報告書より

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弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。

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 大宮神社を取り巻くように建てられていたことが判る。発掘調査に携わった担当者は「さすがに神社を掘り返すことはできなかった」と言う。
 神社を発掘すると、
大国主の言った「天つ神の御子(瓊々杵命)が天つ日継知らしめす壮大な天の宮殿」跡が見つかるはずである。

5 木花之佐久夜比売命を祀る亀谷神社

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祭神 木花之佐久夜比売命 品陀和気命 大国主命 事代主命

由緒 当社は往古より四所に鎮まり、各社とも創立年代詳ならざれども木花之佐久夜比売命は氏宮大明神と崇敬し現今の社地に鎮座す(鳥取県神社誌より)。

6 天児屋根命を祀る合併前の穂波神社と合併後の宮崎神社

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穂波集落の横の丘陵地に位置する。

大正5年5月14日大誠村大字穂波字塚林西鎮座村社、穂波神社、祭神天児屋根命を合併す(鳥取県神社誌より)。

穂波神社を合併した宮崎神社

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 倭建命は征西中、伊万里から新羅に行かれ、新羅→日御碕→片江経由で北栄町大島(鳥取県中部)に帰ってこられ二尊に神助を謝せられた(宮崎神社由緒より)。ヤマト王権も、伊万里から出港し新羅に行っての帰りで、御艦には卑弥呼も乗っていた。紀元173年頃であり、倭健命は18歳、卑弥呼は24歳であった。

7  縄文海進から縄文海退にかけて瀬戸、原を入江の入口として西穂波、亀谷、灘手地区(津原、鋤、別所、尾原、穴沢)、穂波、原の海抜4mの線を結ぶと、天然の良港があったことがわかる。津である。縄文海退がすすみ、周辺は葦原になっていた。

8 亀谷神社には木花之佐久夜比売命が住まわれ、同じ丘陵のもう少し山側(下種の大宮神社)には天孫瓊々杵命が御所を建てられた。天孫はこの地域(葦原中津国)を目標に降りてこられ、この地域(葦原中津国)を平定された。穂波には一番の家来の天児屋根命がいた。



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第九節 事代主の終焉の地 [天孫降臨]

 第九節 事代主の終焉の地
 

1 ワタラガヒ(お旅所)
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 事代主が船で到着されたワタラガヒ(お旅所)は神社の800m離れた空き地であり、祭りはそこからスタートする、と地元の方は言われる。しかし、地元の歴史家は「灯篭のあるところ」と言われる。神社から200mの距離である。いずれにしても事代主は美保関(海中)から北栄町の亀谷(神のクシフルネ)に帰り船を乗り換えて福庭の地に到着した。

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 国を譲るまでは、事代主は亀谷から、葛城山を通って、茶臼山(いなさ山)にいた大国主に会いに行っていた。雄略天皇は葛城山で事代主の幻影を見た。葛城山は今でもイノシシが獲れる。

2 倉吉市福庭の波波伎神社

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 「ヤマト朝廷(奈良ではなく天孫族は鳥取県中部に降臨していた)は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年(?)、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。
 福庭という地名は徐福一行が住んでいたことを示している。福庭には徐福一行(倭朝廷)の数名が住んでいた。まだヤマト朝廷などと言うものではないが、毎日でも様子を見に行っていたはずである。事代主はこの近くの泉の畔で余生を送られ、そこで生涯を終えた。

3 「波波伎」の神社名は元禄時代までは倉吉市大原の大原神社の神社名であった。元禄時代に倉吉市大原にあった波波伎神社の神社名をこちらへ移した。事代主が居たのだからそれにちなんだ神社名であったはずである。島根県の美保神社とは最近まで交流があったそうである。
 藤原氏は元禄時代にあちこちでつじつま合わせをしている。京都にいた藤原氏は鳥取県中部を「こんな田舎」と言って1200年の間さげすんできた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると必要以上に「こんな田舎」という。京都人は鳥取県中部に来るとその言葉が出てくるようにしてあるようである。明治維新で京都の3分の1は東京に移ったが、東京に移った藤原氏はどうか。「鳥取県は観光だけでやって行けばよい」と政府関係者は言うそうだ。


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福庭の波波伎神社で事代主は生涯を終えられたという伝承があり、近くにはえびす本郷という会社まである。


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第十六節 朝日に照らされる大宮神社(祭神 瓊々杵命) [天孫降臨]

   第十六節 朝日に照らされる大宮神社(祭神 瓊々杵命)

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 北栄町上種・茶屋条の西の丘にある大宮神社より大山・烏ヶ山。左には上蒜山・中蒜山・下蒜山から中国山脈が東の果てまで連なっている。
 下から来る者にすぐには見つからないように、道路がクランクになっている。
 コノハナサクヤヒメのいた亀谷神社は同じ丘陵のすこし下がったところにある。


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第十五節 田植えがすんだ葦原中津国 [天孫降臨]

   第十五節 田植えがすんだ葦原中津国 IMG_0067
田植えのすんだ葦原中津国
 由良川の周辺に生えているのは葦。右上は大山。左側に上蒜山、中蒜山、下蒜山。東に中国山脈が連なる。稗田阿礼はこれを見て高千穂と表現した。7世紀のことである。
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田植えのすんだ葦原中津国
 左上に見えるのが神武天皇の四兄弟が住んでいた四王寺山。右の島茶屋あたりは大雨が降れば大きな池となり、県道は通行禁止になることがあった。現在は由良川の改修工事が瀬戸まで進み水はけがよくなったようである。IMG_0106
穂波あたりから葦原中津国を望む。
正面が島のカントリーエレベーター。左奥が津原。右奥が亀谷。
稲作をするには絶好の場所である。IMG_0084
由良川周辺には葦が残っている。
 この地は地形的に葦原中津国であったところである。このような地形は全国の海岸沿いにいくらでも候補が上がると思う。しかし、天孫族は葦原中津国を目標に降りてきたのであり、そして葦原中津国を平定したのである。その平定した状態が残るのがこの地であり、古事記に記されている葦原中津国とは、この地のことを言う。しかし千三百年の間、葦原中津国は特定できなかったのであり、中国地方や日本列島全体や、高天原(天上界)葦原中津国(地上界)黄泉の国(地下世界)というような使われ方をしてきた。長年使ってきた概念は早々変更できないものであるが、小さい特定の地域であることが解かりました。亀谷丘陵の山側には二二ギ命が御所を建てられ、亀谷丘陵の先端にはコノハナサクヤヒメがおられ、穂波には天児屋根がいた。西の琴浦町の大杉、倉坂、上伊勢にもそれぞれ家来が祭神として祀られている。
 すべての条件を満たしているこの地が古事記に言う葦原中津国であることに間違いはありません。

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第十三節 笠砂の御前 3 [天孫降臨]

   第十三節 笠砂の御前 3
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1 茶臼山(いなさ山)には大国主がいた。茶臼山(いなさ山)の西には三輪山があり、三輪山には天忍穂耳がいた。笠砂の御前の左下が葦原中津国であり、ニニギ命が日当たりの良さを言ってから「日向」と呼ばれるようになった。日向の御子とは、ニニギ命のことであり、日向の御子の父とは天忍穂耳のことである。三輪山に居た大物主とは日向の御子の父である天忍穂耳のことである。この位置なら葦原中津国の様子がよくわかり、大国主とも協力して国造りが出来た。松神には猿田彦と木花之佐久夜毘売がいた。
2 天孫族は長瀬高浜に巫女を置き航海の安全や天神川の氾濫が無いように祈願させていた。国譲り後、大国主のために高い建物をここに建てた。
3 笠砂の御前の右下はニニギ命以降何度も洪水にみまわれており、土砂がかなり堆積し高くなっている。ニニギ命の時代はこの辺りも海であったと思われる。
 笠砂の御前の笠の柄は茶臼山(いなさ山)から下の土下山(天香具山)までつづく天の橋立のような砂浜の長い柄であった。

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第十二節 笠砂の御前 2 [天孫降臨]

   第十二節 笠砂の御前 2
1 天神川流路の改修
天神川流路の改修
  宝治12年(1258)頃の絵地図を見ると、天神川は大平山寄りを流れ、江北浜、長瀬浜間の通称石山と呼ばれる岩盤に突当たったところで、方向を変えて長瀬村南端を通って東郷池の橋津に注いでいます。 
 
天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水では、小鴨川が天神川に合流するあたりで栄えていた見日千軒を押し流し、下流の北条平野を泥沼に変えてしまいました。当時、天神川は小田あたりでふたつにわかれ、支流は北条平野に注いでいましたが、洪水の後この流れは閉ざされてしまいました。

 
明暦3年より石山と呼ばれる岩のかたまりを削る工事が行われ、流れを北へまっすぐに向け砂浜を河口とする現在の流れとなりました。川岸の岩盤を取り除き、天神川を日本海に直流化させた工事は農民たちが行ないました。

 公益財団法人鳥取県建設技術センターHPより
2 天神川の造成の跡
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 「天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水当時、天神川は小田あたりでふたつにわかれ、支流は北条平野に注いでいましたが、洪水の後この流れは閉ざされてしまいました。」とあるが、左の赤線の支流(上の図では茶臼山と三輪山の間を流れていた)が1544年まで流れていたが、この支流が造られたのはニニギ命よりずっと後世のことだと思われる。したがって、この辺りも造成された跡が残っている。
 笠砂の御前の右下は石山を崩して北へ直通させるときに旧流れを塞ぐために高くしたものと思われる。

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第十一節 ニニギ命が言った「笠沙之御前」とは北条砂丘全体であった [天孫降臨]

   第十一節 ニニギ命が言った「笠沙之御前」とは北条砂丘全体であった。
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海抜4mまで海が上昇した鳥取県中部の地形である。
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 に基づく。
http://flood.firetree.net/ 
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現在の地図に海岸線をなぞってみた地形である。
2 この当時、天神川は今の河口ではなくて、東に迂回して東郷池に流込んでいた。また今の海岸線の砂は波によって高くなったものだから省略した。2200年の間に海岸線がボロボロになっているが、農業等の造成によるものと思われる。
 これを見る限り、茶臼山(いなさ山)を中心にした柄のある、大きな傘が出現する。西園・東園の高い砂丘が笠形になっていたのだろうと推測していたが、これほど大きな笠形が現れるとは想像していなかった。
 「笠沙之御前」とは、鳥取県で2番目に大きい北条砂丘のほぼ全体を占める大きな御前であった。
 「笠沙之御前」の左下が葦原中津国である。葦原中津国は外洋を通る船には「笠沙之御前」が垣になって見えない。この小さな湾に入るには、「笠沙之御前」を巻き通らければならない。

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