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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

伊勢野の天照皇大神宮 ブログトップ
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第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨 [伊勢野の天照皇大神宮]

   第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨
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1 天孫降臨は2回に分けて行われた。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。記紀にこのことの記述はないが、神社の祭神などからこのような結論になる。
 また、三重県を敵にまわすことになるが、生きている人間の天照大御神が最初に高天原から降り立ったのは三重県ではなく、伯耆国であった。日本書紀は八割、古事記は五割が真実ではないと言われているが、原古事記に載っていた天照大御神の降臨を藤原氏は削除している。現古事記には高天原からその後、天照大御神がどうなったか何も書いてない。これは書いてあったが、削除されたと解すべきである。第三十四代舒明天皇より第四十代天武天皇までも書いてあったが、日本書紀に移して削除している。このほかにも削除して改ざんしているものが多くある。
 矢送神社・神田神社・大宮神社・神郷神社・倉坂神社・中尾神社・方見神社・亀谷神社・穂波神社の祭神や方見神社の由緒、天武天皇が生きて降り立った天照大御神の子孫だと言い伊勢野に法隆寺と同じ伽藍配置の斎尾廃寺あとがあること、ニニギ命が四歳では「この地は・・・・」の言葉が出てこないことなどにより、天孫降臨は2回に分けて行われたことが分かる。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。

2  古事記・葦原中津国平定の段(ウィキペディアより)
 建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。

3  「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」
(1) 古事記・葦原中津国平定の段の建御名方神と建御雷神の説話は藤原氏によるのちの創作である。原古事記には伊勢国風土記の説話が書かれていた。天照大御神が降臨しようとした邑には神がいて名を建御名方神といった。その邑は方見邑であった。今の加勢陀川の西の鳥取県琴浦町上伊勢・下伊勢周辺である。
 原古事記には「天日別命は建御名方神に『汝の国を天孫に献上したらどうか』と問うた。すると答えて『私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる』といった。天日別命は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、『私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい』と。天日別命は問うて、『お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか』といった。すると申しあげていうには、『私は今夜をもって八風(大風)をおこし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これが私が退去したという証拠です』と。天日別命は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜更けになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。〔建御名方神は、信濃の国に住ませた。〕」とあった(「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」より)。
 加勢陀川の東には斎尾・槻下という地名があり漢字変更の前は斎王・月下であった(方見神社由緒より)。天照大御神(徐福)は斎王に降臨し、月讀命は月下に降臨した。これはすぐ東にある葦原中津国の国譲りの前である。天照大御神を神武天皇に、建御名方命を伊勢津彦に変えて伊勢国風土記を作った。そして建御名方命の国譲りの部分を記紀から削除した。
(2) 1回目は天照大御神・月読命・饒速日命一行であった。最初の天孫降臨は饒速日命が蒜山高天原から関金町まで天降った。天照大神や月読命も一緒であった。天照大御神・月読命・石凝姥命・手力男命・天石門別神は、そのまま関金町から葦原中津国を迂回し、県道50号線を通って、琴浦町伊勢野・槻下・加勢陀川西岸に到着した。玉祖命・天宇受売は長瀬高浜に、思金神は長和田に降臨した。これは、天若日子が国譲りの交渉で葦原中津国に行っている間に行われた。このことは八橋の地名由来よりわかる。下照姫は天若日子と一緒に行動していたからである。伊勢野・斎尾(斎王)は天照大御神が最初に降り立った地である。
(3) 2回目はニニギ命・天児屋根・太玉命・和久産巣日神・娘の豊受姫たちであった。ニニギ命・天児屋根・太玉命は関金町の矢送神社(矢送神社の祭神)から、北栄町の大宮神社に降臨された。その時案内した猿田彦は「ニニギ命を日向(葦原中津国)に案内してから伊勢(天照皇大神宮・外宮の月下の宮)に行きます」と言った。ニニギ命は大宮神社(日向)に、天児屋根は穂波(日向)に、太玉命は中尾(伊勢)に、和久産巣日神も中尾(伊勢)に、娘の豊受姫は槻下(月下)の外宮の度会に降臨された。

4  追記(2016.12.09) 先代旧事本紀の天孫降臨 

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―天神本紀―
  天照大神は、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が治める国であるとして、天降りさせようとした。ところが準備している間に子が生まれたため、押穂耳尊はこの子を天降りさせるべきであると天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。天神御祖は天璽瑞宝十種を授けた。三十二人の護衛がつかえ、五部の人が従い、天物部を率い、天物部等二十五部のひとがつかえ、船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に遷った。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、子が生まれないうちに亡くなった。
  天照大神はこのあとまた、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治める国であるとして、押穂耳尊を天降りさせることにする。そんな折、押穂耳尊は高皇産霊尊の女栲幡千々姫萬幡姫命を妻とし子が生まれた。その子は天津彦々火瓊々杵尊と名づけられた。押穂耳尊はこの子を天降りさせたいと天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。
  正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女萬幡豊秋津師姫命亦の名栲幡千々姫命を妻とし、二男をもうけた。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、弟は天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊である。
―天孫本紀―
  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦の名は天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という。天照大日孁貴尊の太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の女豊秋津師姫栲幡千々姫命を妻とし生まれた子である。天祖より天璽瑞宝十種を授かり、天磐船に乗り河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移り定住した。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれたが、宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊は亡くなった。
  饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、天香語山命が生まれた。天降って三炊屋媛を妻とし宇摩志麻治命が生まれた。天香語山は亦の名を高倉下命といい、磐余彦尊が熊野で毒気にあたったとき剣をもって助けた。
  天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫磐余彦尊が、天下を馭(おさめ)ようとして東征した。中洲の豪雄長髄彦は饒速日尊の子宇摩志麻治命を君とし、天孫に二種あるはずはないとして抵抗した。宇摩志麻治命は長髄彦の謀には従わず、長髄彦を殺して軍を率いて帰順し、饒速日尊より授かった天璽瑞宝十種を天孫に献上した。
  大歳辛酉正月一日、天孫磐余彦尊は橿原宮に都をつくり即位した。姫蹈韛五十鈴媛命を皇后とした。これは大三輪の神(天忍穂耳命)の女である。

5 私見
(1) 「記紀の天孫降臨」は史実にそぐわないように思われたが、「先代旧事本紀の天孫降臨」の記述のほうが史実に則しているように思われる。天孫降臨は史実では2回行われている。先代旧事本紀では、まず最初に饒速日が天降ったのであり、この時に天照大御神・月読命・五伴緒なども降り立った。
 ただ「船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って・・・」は京都で暇を持て余していた藤原氏が思い描いた空想科学小説である。まるで宇宙船に乗っていたかのように描いている。よほど虚空(そら)が好きだったようだ。史実は船で河を下ったものと思われる。
 饒速日ははじめ河内(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に到着し、やがて大倭(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移っった。この鳥見の白庭山は通説では、奈良県桜井市の外山のあたりと言われている。しかし、天照大御神が鳥取県琴浦町伊勢野に降臨したことは間違いない。五伴緒の降り立った場所も鳥取県中部に特定できるため、饒速日命は鳥取県中部に降臨している。鳥見の白庭山とは鳥取県北栄町の土下山(天香久山)ではなかろうか。そして2回目の瓊々杵命は北栄町の葦原中津国に降臨した。饒速日命は1回目の天照大御神たちと一緒に降臨した。河内国とあるが、これは関金の鴨河内のことである。河内国の河上の哮峰とは、後に瓊々杵尊もいた関金の矢送神社と思われる。その後、磐余彦と兄磯城(長髄彦の一族)とが戦った鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に定住したが、長髄彦の妹三炊屋媛と結婚し宇摩志麻治が生まれる前に饒速日命は亡くなった。
(2)「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」にある「天孫」とは饒速日命のことであった。記紀にある天孫降臨の瓊々杵命は2番手であった。
(3) 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。先代旧事本紀に「 饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれた」とあるのは信じられる。
(4) 宇摩志麻治命は母方ではなく父方の磐余彦に付いた。宇摩志麻治命が寝返ったから磐余彦は勝てたようなものである。
(5) 高倉下命と宇摩志麻治命は父が饒速日命の異母兄弟となる。一般に物部氏の祖は宇摩志麻治命とされる。
(6) 瓊々杵命と磐余彦命との間にはホホデミとウガヤフキアエズが入るため、磐余彦の時に登場する長髄彦も宇摩志麻治命も姫蹈韛五十鈴媛命も数代下った子孫でなければならない。数代の間に宇摩志麻治命は父が生まれた江府町江尾に移り住んでいた。
(7) 長髄彦とは出雲神族(準王一族)の王名である。大己貴神(オオナムチ)も出雲神族の王名である。出雲神族の王は代々、長髄彦であり大己貴神(オオナムチ)を名のっていた。


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建御名方命は鳥取県琴浦町伊勢野にいた [伊勢野の天照皇大神宮]

 天孫降臨において健御名方のヒントが見つからなかったので触れなかったが、琴浦町伊勢野(鳥取県中部)に居たという確信が得られたので記述する。ただし、伊勢国、伊勢神宮を否定することになる。そのかわり、志摩国(邪馬台国)、伊雑宮は肯定する。
 琴浦町伊勢野はニニギ命が降臨した葦原中津国(北栄町)の西に隣接し、ニニギ命よりも先に天照大御神が降臨したところである。
 一般に記紀において伊勢国、伊勢神宮とあるのは、今の伊勢国、伊勢神宮の時もあれば、鳥取県琴浦町の伊勢、伊勢神宮の時もある。また志摩国、伊雑宮のときもある。皆、伊勢国、伊勢神宮に収斂される。また、出雲とあるのは、今の出雲国(島根県)のこともあり倭国(鳥取県中部)のこともある。「伊勢津彦は出雲の神」と言うときの出雲は倭国(鳥取県中部)のことである。

1 国譲りにおいて古事記には建御名方命が出てくるが、日本書紀には出てこない。日本書紀は亡命百済人によって、列島に百済を再興するために作られた百済王朝の歴史書である。その際乗っ取った倭国の歴史書である原古事記を利用した。古事記の健御名方命の説話は藤原氏が原古事記を改ざん創作したものである。刀を上向きに立ててその上に座ってみたり、健御名方の腕を掴んで氷のようにしてしまうなどは創作である。伊勢国風土記のほうがより現実的である。原古事記の説話は伊勢国風土記に移し、さらに改ざんして今の古事記を作った。倭姫命世紀の原典も原古事記である。卑弥呼(倭姫)の全国巡行の記述のうち南北の部分を切り取り倭姫命世紀を作った。
 日本書紀・持統において、持統が反対を押し切って行ったのは伊勢神宮ではなく、伊雑宮の横にある千田寺であり、千田寺に勅使門を造るためであった。持統天皇の言う通りにしなかった神官は伊勢神宮ではなく伊雑宮の神官である。この時はまだ伊勢神宮はなかった。伊雑宮の神官は持統が倭の天皇でないことを知っていて反抗した。聖徳太子の造った千田寺に勅使門を造って参拝の制限をするのは持統が倭の天皇でない証拠である。持統の後ろには不比等がいた。
 原古事記には「天照大御神が降臨しようと思われたところに建御名方が居た。天照大御神は天日別命に勅して『遥か天津(葦原中津国)の方に国がある、ただちにその国をたいらげよ』と仰せられて、将軍としての徴の剣を賜った。」とあった。その国は鳥取県琴浦町伊勢野にあった。

2 天照大神は饒速日命と一緒に蒜山(高天原)より倉吉市関金町神田神社に降臨し、饒速日命は関金町の矢送神社に残ったが、天照大御神と月読命と石凝姥と天手力男は琴浦町伊勢野に降臨した。そこには建御名方が住んでいた。
 原古事記には「天日別命は問うて、『お前がこの国を去った時、何をもってそれを証拠だてるか』といった。すると申し上げて言うには、『私は、今夜、八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です。』と。夜更けになって、大風が四方に起こり、大波をうち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなり、ついに波に乗って東に去った」(伊勢国風土記)とあったはずである。
 琴浦町伊勢野から1kmほど下ると日本海である。建御名方は東の因幡に上陸し因幡より父の大国主が中継地としていた播磨に行ったもの(国道29号線沿いの旧道)と思われる。

3 播磨国にある上伊勢は播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野である、とする。伊勢津彦を祀っていたから伊勢野という、とある。上伊勢も伊勢野も鳥取県琴浦町にある。揖保郡林田里の伊勢野も上伊勢も人為的に付けられたように思われる。
 鳥取県琴浦町には月読命がいた外宮の槻下(月下)の地名が残る。方見(カタミ)村もあった。タケ(ミナカタ)と似ている。内宮、外宮のほか、摂社16社、末社17社もあった。日本書紀の天武の段にある「天皇は泊瀬の斎宮で練習をさせて伊勢神宮の斎王にした」とある泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町の神官もいた大御堂廃寺のことであり、鳥取県道151号を通って琴浦町伊勢野の伊勢神宮に行かせた。天武天皇の皇居は大御堂廃寺を神宮寺とした倉吉市の賀茂皇大神宮(現賀茂神社)にあった。
 藤原氏は琴浦町伊勢野の原古事記の説話を伊勢国風土記に書き移した。その際、時代は神武天皇、建御名方の名は伊勢津彦に変えた。矛盾が生じないように、日本書紀には記載しなかった。播磨国の伊勢野や上伊勢の地名は藤原氏が鳥取県琴浦町の地名を持ってきたものである。健御名方は信濃国に行く途中に揖保郡林田里に寄ったものと思われる。藤原氏は伊和神社の祭神である大国主神の名を伊和大神に変え、建御名方の名を伊勢津彦に変えた。

4 健御名方は今の伊勢国に寄らずに信濃国に行ったものと思われる。研究者によると建御名方の足跡は、信濃国に十数ヶ所見つかるという。土木工事も行っている。
 長野市の風間神社の祭神は伊勢津彦命である。しかし、伊勢津彦が本当に信濃国にいたならば、建御名方のように十数ヶ所足跡が見つかるはずである。風間神社の祭神である伊勢津彦命は、全国の神社ネットワークを使い藤原氏によってつくられたものである。他県に伊勢津彦とあるのは健御名方とあったのを藤原氏によって書き換えられたものである。
 藤原氏は伊勢国を創るに際し原古事記にあった建御名方命の説話を利用しようと考えた。時代を神武時代に設定し名前を伊勢津彦に変えて、伊勢国風土記を創作した。伊勢国風土記も出雲国風土記も藤原氏の創作である。伊勢国風土記には伊勢神宮のことは書かれていない。713年の時点では伊勢神宮はなかったからである。地名のいわれだけは、風土記に創作した。伊勢神宮も出雲大社も列島に百済国を再興するための大きなテーマパークであった。


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第十一節 丹後の籠神社と新井崎神社に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

   第十一節 丹後の籠神社と新井崎神社に行ってきました。

1 彦火明命を祀る籠神社です。

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  ホホデミと天日槍は籠神社と深く関係している。前漢鏡と後漢鏡は丹波国を創建した天日槍が籠神社に奉納したものと思われる。

2 丹後の籠神社の祭神の彦火明命は本来ホホデミであった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2) 『消された大王ニギハヤヒの謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神のホアカリ命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、ヒコホホデミ尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、ホホデミ尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・ホアカリ命として祀っております。」とある。これは、ホアカリは、本来「ホホデミ」であったということである。
(3) 私見
 特選神名牒における松山市の国津比古命神社の祭神は櫛玉饒速日尊であり天照国照彦天火明が付いていない。本来天照国照彦天火明と櫛玉饒速日尊とは別神であり、一つにされたのは後世である。
 丹後周辺は浦島太郎伝説があり、山幸彦(ホホデミ)と関係が深い土地柄である。山幸彦(ホホデミ)なら海神とも関係が深く、海部宮司のいうように「彦火明命は本来ヒコホホデミ尊であった」というのは信用できる。
 丹後の籠神社にホホデミと天日
槍は来たが天照大神と饒速日は来ていない。

3 徐福が上陸したという伊根町の新井崎神社です。

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 説明板によると、神社の創建は長徳四年(998年)。場所は今の愛宕さんの付近だったが前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。

 徐福上陸の地とあるが、丹後に上陸したのは全国に30ほどある徐福伝説の地と同じく、徐福の部下であった。

4 「火」のつく神は木花佐久耶姫が燃やした産屋から出てきたので「火」の字を付けられた。「火」のつく神は本来、木花佐久耶姫の御子である。木花佐久耶姫の御子でない「火」に関係のない神に「火」がついているのは藤原氏による改ざんと思われる。


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第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた [伊勢野の天照皇大神宮]

   第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた
1 天孫降臨は鳥取県中部で行われ五伴緒の一人である天太玉命は中尾神社(祭神、天太玉命・和久産巣日命、伊勢崎村大字中尾鎮座)に居られたとしていたが、鳥取県文化財団中尾第一遺跡発掘調査報告書(2004年)にも縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物の発掘が記載されている。方見神社にあるのは大正2年に合併されたからである。

 天孫降臨、大国主の国譲りは縄文晩期から弥生前期に行われたはずであるから、天太玉命が降りたった中尾で 縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されなければならないが、それが発掘された。ただ中尾本村より少し離れたC1地区とC2地区でのみ発掘された。より離れたA地区とB地区では発掘されなかった。
2 中尾第一遺跡発掘調査報告書 (2004年鳥取県教育文化財団)
 C 1区の調査
 検出した遺構は、掘立柱建物l棟、土坑7基、落し穴18基、溝2条で、時期は縄文時代から中世の可能性のあるものがあり、時期幅がある。出土遺物は、縄文時代から近世にかけての土器、石器、陶磁器、土製品、漆器などが出土した。かなりの時期幅があるが、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなす。遺構に伴わない遺物 縄文時代から近世にかけての遺物がコンテナ5箱分出土した。調査の概要で触れたように出土遺物は、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなし、出土地点は調査区南側に集中する傾向がみられた。縄文時代晩期終末期~弥生時代前期(157~175)当該期の遺物はすべて粗製土器であり、器面調整は内外面ともにナデ調整が施される。弥生時代前期(176~186) 176は壷の口縁部で横走沈線を2条めぐらす。

 C2区の調査  
 近世の耕作土やクロボクからは縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、石器が出土している。なお、遺構の検出は漸移層で、行った。確認された遺構のうち、弥生時代の土坑墓群には墓壌の内部に石を配するもの、上面に石を配するものなどが確認されており注目される。 竪穴住居2  遺物は底面からやや浮いた状態で縄文時代晩期の土器266~275、黒曜石の剥片S23・24、員による穿孔のある自然石S25、石鍬S26・27が出土している。 土坑墓6  第5層からは弥生土器の細片がわずかに出土している。遺物から時期の特定はし難いが、弥生時代前期の範障に収まるものと考えられる。

3 今回発掘されたのは中尾集落の外側のほんの一部であり、より中尾集落に近いところではより多く発掘されるものと推測される。
 ここと同時に玉祖命が降りたった長瀬高浜遺跡でも、縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されている。
 月下(槻下)の外宮の度会に行った豊宇氣毘賣神の母親である和久産巣日命は、天太玉命と一緒に中尾に居られた。豊宇氣毘賣神は母親のいる中尾に住み、500mほど離れた槻下に仕事に行っていたのかもしれない。猿田彦は天太玉命・豊宇氣毘賣神・和久産巣日命を槻下や中尾にお連れしたようである。

4 中尾集落の写真
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中尾神社の祭神は、天太玉命と和久産巣日命である。山陰道の上から撮影したものである。この道路の工事中に中尾第一遺跡C区で縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物が発掘された。
5 斎尾(斎王)廃寺は、白村江の戦いに勝利し、天武天皇が即位したことを蘇我氏の総本家が記念して建立したものであると思われる。過去数百年間この地から朝鮮半島・中国へ行くルートが出来上がっていた。
 天武天皇が伯耆国出身であることを知っていたから、奈良時代に土佐の池田王が天照皇大神宮を頼ってきたのである。天武天皇は天照大御神の子孫であると持統天皇に言っていた。斎尾(斎王)廃寺は、後の奈良時代に藤原朝廷によって破壊された。

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第九節 八橋の地名由来(伝承)について [伊勢野の天照皇大神宮]

   第九節 八橋の地名由来(伝承)について
 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。
 「神代の昔、大国主神の娘である高姫神が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。スサノオに討たれた八岐大蛇が、スサノオの孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中でスサノオの御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった。」とする。
前提
高姫神は下照姫命ともいい天若日子と結婚していた。
天若日子は国譲りの交渉に大国主のもとに派遣されたが、8年間報告をしなかった。
天孫降臨、国譲りの交渉は紀元前195年頃のことである。この頃はまだ縄文海退が進んでいない(海抜4m)ため、出雲や松江は海の下であった。したがって、出雲国があるはずがない。天穂日も国譲の交渉(紀元前195年頃)に失敗して米子にいた。また馬韓の地から準王たちも到着した(紀元前194年)かしていないかの段階である。
○高姫神(下照姫命)は出雲から来たのではなく、母や兄のいる葦原中津国(北栄町)から天若日子と一緒に加勢蛇川のほとりに来た。

1 鳥取県道151号線(倉吉ー東伯線)は古代からある幹線道路である。これを終点であり始発である八橋からみると、加勢蛇川を渡ると山側に伊勢野があり天照大神がいた。海側の槻下には月読命がいた。高姫神(下照姫命)は天若日子と一緒にこの道を通られた。天照大神や月読命は唖然とされた。8年も状況報告してこない天若日子が平然と通るではないか。憎しみ、恨みもつのったであろう。高姫神(下照姫命)はその憎しみ、恨みを感じて加勢陀川のほとりで幻想を見た。しかし、心の中でスサノオの御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。天照大神や月読命の憎しみ、恨みよりもスサノオの御霊のほうが強かったということである。川の名前や地名は、この物語をもとにして、後に創られたものと思われる。加勢蛇川の読みは「カセイチガワ」と読んでいるので、漢字は後で付けたものであろう。
2 この倉吉ー東伯線(県道151号線)を八橋より倉吉方面に進んで、加勢陀川を越えるとすぐに天照皇大神宮と外宮の月下(ツキノシタ)の宮があった。北栄町の亀谷に至ると亀谷は葦原中津国(日向)の1集落である。倉吉市に入ると左に神武天皇たちのいた四王寺山、右に伯耆国庁があった。さらにこの県道をまっすぐに行けば、打吹山にぶつかり、その東の根堅洲国にはスサノオがいた。後日、この物語から、スサノオと八岐大蛇伝説が出てくるのは、自然のなりゆきである。

 それにしても藤原氏は八の字が好きである。「倭姫命世紀」でも千の穂の話に八百の穂の話を付け加えている。八橋という地名は藤原氏によって奈良時代につけられた。大高野官衙遺跡というが、この遺跡は藤原氏が造った八橋郡の官衙ではなく、蘇我氏の正倉であった。


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第七節 倉阪神社、神郷神社、神田神社に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

   第七節 倉阪神社、神郷神社、神田神社に行ってきました。
1 鳥取県琴浦町倉坂の倉阪神社(祭神、石凝姥命・事代主命・素戔嗚命・稚産霊命・大山祇命・豊櫛命)です。
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2 鳥取県琴浦町大杉の神郷神社(祭神、大物主命・猿田彦命・手力男命・素戔嗚命・大山祇命・金山彦命・大日孁貴命・稚産霊命・豊櫛命)です。
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 倉阪神社と神郷神社の祭神である「豊櫛命」は古事記にある「天石門別の神」である。古事記には「天石門別の神は、一名櫛石窓の神、また豊石窓の神とも言い、御門の神である」とある。豊石窓の神と櫛石窓の神の一字づつを採り「豊櫛命」とした。鳥取県神社誌831神社中「天石門別の神」を祭神とする神社はない。鳥取県神社誌831神社中「豊櫛命」を祭神とする神社は倉阪神社と神郷神社の二神社だけである。
3 鳥取県倉吉市関金町の神田神社(祭神、天照日大御神・天忍穂耳命・日子番能邇邇芸命・日子穂穂手見命・鸕鷀草葺不合命)です。
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 これらの祭神は、伊勢神宮と違い実際にこの地にいたはずである。天孫降臨の地と高天原を行き来していたと蒜山の人は言われる。
4 天孫降臨に先立って、誰がどこに降りてきたかが判るので、後に古事記が書き換えられたのかもしれない。
 

 天照大神と月読命が琴浦町伊勢野と琴浦町槻下に降臨していたことは古事記に書いてあったはずである。それを現在の伊勢神宮のために藤原氏は消している。天孫(ニニギ命)よりも天照大神と月読命の降臨のほうが重要である。天孫降臨を古事記に記載するなら、天照大神と月読命の降臨がまっ先に記載されなければならない。
 天照大神・月読命・天忍穂耳命と石凝姥命・手力男命・玉祖命は邇邇芸命や天児屋根命・天太玉命に先立って蒜山の高天原から伯耆国に降りてきていた。天孫降臨までの間、邇邇芸命や天児屋根命・天太玉命は矢送神社の地で邇邇芸命が成長するのを待っていた。矢送り神社の祭神は邇邇芸命・天児屋根命・天太玉命である。
 そのときにはすでに、天照大神・月読命・天忍穂耳命と石凝姥命・手力男命・玉祖命は降臨していた。天照大神・月読命と石凝姥命・手力男命はそれぞれ琴浦町伊勢野・琴浦町槻下と琴浦町倉坂・琴浦町大杉に降臨していた。天忍穂耳命(大物主)と玉祖命はそれぞれ北栄町下神と湯梨浜町長瀬高浜に降臨していた。天照大神が最初に降り立った地は鳥取県琴浦町伊勢野であった。
 5 北栄町の葦原中津国を東と西から挟み撃ちにした格好である。天穂日命と天稚彦命は大国主命に負けたが、天忍穂耳命(大物主)は最初に鏡で大国主命の目を眩ませておいて国譲りに成功した。天忍穂耳命(大物主)は大国主命に勝ったのである。天照大神は天照皇大神宮に月読命は月下の宮に居られ、それを守るように倉坂の谷に石凝姥命と大杉の谷に手力男命が居たものと思われる。琴浦町の倉坂集落と大杉集落には縄文時代晩期・弥生時代前期の遺物・遺構があるものと思われる。月読命と天太玉命が居た槻下集落と中尾集落の間からは縄文時代晩期・弥生時代前期の遺物・遺構が見つかっている。
 和久産巣日神と豊宇気毘売神は第二次の邇邇芸命・天児屋根命・天太玉命と一緒に猿田彦に連れられて降臨した。そして和久産巣日神は天太玉命と同じ中尾集落に、豊宇気毘売神は外宮の月下の宮のある槻下集落に到着した。猿田彦が、邇邇芸命・天児屋根命を日向(下種集落と穂波集落)に案内し「次は伊勢に行く(天太玉命・和久産巣日神・豊宇気毘売神を中尾集落と槻下集落に案内)」と言ったのは事実だったのである。


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第六節 猿田彦について [伊勢野の天照皇大神宮]

   第六節 猿田彦について
<古事記>
 さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに「私は国つ神で、名はサルタビコノ神と申します。私がここに出ているわけは、天つ神の御子が天降っておいでになる、と開きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた。

 猿田彦は、道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神とされる。通常、この役目として村の境などに「道祖神」がある地域が多い。道祖神は男女の二像が多く、ほとんどが猿田彦命と天宇受売命とされる。
私見
 猿田彦は天孫降臨に際して、鏡ヶ成で高天原と地上とを鏡で照らしていた神である。高天原と地上の境界にいたのでサイ(境界)の神と呼ばれるようになった。漢字としては、道祖神あるいは才ノ神、妻ノ神とも書く。ニニギ命の時代にすでにこの呼び名で呼ばれていたようである。ニニギ命が大宮神社(下種)に行く手前で少し足止めをくっている(上福田集落)が、猿田彦も近くで待っていた(近くに妻ノ神集落がある)。
 北栄町下神の三輪山に天忍穂耳がいたのだが、隣の松神に猿田彦はいて、本拠地としていた。松神神社には猿田彦と木花咲耶姫が祀られているが、猿田彦と木花咲耶姫は本当に松神にいた。猿田彦は天忍穂耳の家来であり、鏡による通信手段を使い、天孫降臨の際には天忍穂耳の指示でニニギ命をお迎えに行き、道案内をした。
 大山祇は天孫降臨の前から天忍穂耳を知っており、大国主命の国造りに協力していたのも知っていたので信頼していた。大山祇は木花咲耶姫がニニギ命に求婚されたことを知り、天忍穂耳の子息だと大いに喜んで、姉の石長姫まで差し出した。
 猿田彦一族(縄文人)は北栄町島の丘陵地(蜘ヶ家山)に住んでいたが、猿田彦は三輪山(下神)の西隣の鳥取県東伯郡北栄町松神に本拠地をおいていた。

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第五節 斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである [伊勢野の天照皇大神宮]

   第五節 斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである。

1 「南原千軒遺跡発掘報告書」(平成16年)より
 古代 
 現在県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、初期の仏教文化の姿を最もよく残し、山陰では唯一の国特別史跡に指定されている斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される。
 大高野遺跡では、総柱礎石建物群が検出されており、正倉(郷倉)と考えられ、郡衙推定地もその周辺に比定されている。その周辺の伊勢野遺跡、水溜り・駕籠据場遺跡、森藤遺跡群では、掘立柱建物を中心とする集落が見つかっている。

2 伽藍配置

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斎尾(斎王)廃寺の伽藍配置である。
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法隆寺の伽藍配置である。

3 私見
 県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 670年以降に法隆寺を再建した豪族と白鳳時代(650年~710年)に斎尾廃寺を建てた豪族は同じ一族であると思われる。「南原千軒遺跡発掘報告書」にある「斎尾廃寺周辺で勢力を持っていた畿内と結びつきの深い有力豪族」とは蘇我氏と思われる。
 斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良に聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の総本家があったものと思われる。天武天皇も斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良の出身と思われる。蜘ヶ家山(葛城山)から由良も含め加勢陀川の東岸まで東西7kmにわたっての地域が葛城であった。百済から来て、由良で育てられた中大兄王子(豊璋)は葛城皇子と自称していた。
 天武天皇は天照大御神が最初に高天原(蒜山高原)から降りてきた斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良の出身であった。由良遺跡の時代は4世紀末ごろから奈良時代までの連続した複合遺跡であり、半径500mの広い台地上のクロボクを取り除き、きれいに整地して建物を建てている(由良遺跡発掘調査報告書より)。



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第四節 槻下(月下)集落と斎尾(斎王)廃寺に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

   第四節 槻下(月下)集落と斎尾(斎王)廃寺に行ってきました。
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槻下神社の社叢である。

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先に見えるのが槻下本村である。

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斎尾(斎王)廃寺の案内板。
 「槻下」は「月下」であり、「斎尾」は「斎王」であった。藤原氏は日本書紀と同じように原漢字の読みと同じ読みの別の漢字に書き換えている。徐福は斎王(斎の国の王)であった。
 建立時期は白鳳時代(650年~710年)であるがいつ廃寺になったかは判らない。白村江の戦いや藤原京・平城京(奈良朝)の成立と関係ありそうである。

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 斎尾(斎王)廃寺の塔址から伊勢野方面を見る。右先に見えるのは、伊勢崎地区コミュニティー施設である。施設の下は池があるが、もとは堤である。この辺りには水田稲作に必要な小型の堤が多い。

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 周辺には伊勢野遺跡がある。伊勢崎小学校跡地も見えます。
 斉尾廃寺の仏頭はおおらかな表情である。奈良の山田寺の仏頭もおおらかな表情である。


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第三節 方見神社の由緒にある「外宮の月下の宮」に居られたのは月読命である。 [伊勢野の天照皇大神宮]

   第三節 方見神社の由緒にある「外宮の月下の宮」に居られたのは月読命(保食神)である。
1 月読命(保食神)は伊弉諾命が禊ぎで生んだ三貴神(天照大御神・月読命・素戔嗚命)の一人にであり伊弉諾命に「お前は夜の食国を治めよ」と命じられた。天照大御神とは仲が悪くはなかった。ニニギ命の天孫降臨に先立って天照大御神は伊勢野(鳥取県琴浦町)に月読命(保食神)は槻下(鳥取県琴浦町)に降りてこられた。まだ、国譲りは終わっておらず、日向の葦原中津国を避けて、5kmほど西側に天照皇大神宮と外宮として位置していた。天孫降臨のときには伊勢の神宮は存在していたのである。
2 イザナミの小便からは和久産巣日神が生まれた。この神は豊宇氣毘賣神(倉稲魂命)を生んだ。
 豊宇氣毘賣神(倉稲魂命)はイザナミの孫である。月読命とは叔母・姪くらいの関係である。天孫降臨と一緒に降りてきたが、ニニギ命を日向にお連れしてから、猿田彦とともに伊勢(伊勢野)の月読命(保食神)のいた外宮の度会に行った。度会とは外宮の施設の一部ではなかろうか。厨房とかで食事を作っていたのかもしれない。日向とは葦原中津国のことであり、伊勢とは天照大御神が一番最初に降り立った伊勢野(鳥取県琴浦町)のことである。距離にして5kmくらい東西に離れている。歩いても、2時間くらいで行ける距離である。「天照大御神が一番最初に降り立ったところ」というのは、奈良時代には全国に知れ渡っていた。
3 猿田彦はニニギ命を日向にお連れしてから、伊勢に行かれたという文章を読まれて、まさにこれは神話だ、生身の人間にできるわけがない。と書いておられる方がありました。この文章でいう日向とは宮崎県ではありません。伊勢とは三重県ではありません。どちらも鳥取県の中部にあり歩いて2時間くらいの距離でありました。

 天照大御神(徐福)・月読命は方見神社(伊勢)あたりで亡くなったものと思われる。


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