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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天忍穂耳(大物主) ブログトップ

出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか [天忍穂耳(大物主)]

 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか。


1 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 島根県東部には古代出雲王朝があり、その王朝の王はクナトの神であった。久那戸(クナト)大神は伊弉諾・伊弉冉の長男で出雲王朝の始祖である。クナトの大神は富家の遠神祖、真の大国主である。クナトの大神は五十七代にわたって存在した。出雲大社の東宇伽山の麓、出雲井神社は久那斗大神(クナト大神)を祭る。出雲大社は、霊亀2年(716)に熊野(クナト大神)(出雲熊野神社の亀太夫の神事)から杵築へ移った。クナトの大神は、日本書紀では「岐神」、古事記では「衝立船渡神」と書く。
 出雲王朝の最盛期には、北九州から新潟に至る広範な地域を領有していた。富家の伝承には「大和(奈良)や紀伊(和歌山)は出雲の分国」とある。天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。


2 出雲王朝は、海の向こうからやってきた部族による、度重なる侵略を受けた。その第一派が、素戔嗚によるものであった。第二派が、『記紀』に国譲り神話として記された天孫族との戦い。第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。
 出雲神族は、天孫族と長い闘争の末、帝位を奪われ滅亡した。(時系列で整理してみました)
(1)第一派が、素戔嗚によるものであった。
 出雲国は、まず素戔嗚による侵略を受けた。素戔嗚(出雲神族ではない渡来人)は、出雲へ侵攻した。素戔嗚は牛頭天皇(牛頭は朝鮮の地名)である。
(2)第二派が、記紀に「国譲り神話」として記された天孫族との戦い。
 「国譲り物語」とは2千年前、天孫族の使者・武甕槌命が稲佐の浜で矛を突き立て「否(イナ)、然(サ)」と迫った事件である。大国主は降伏し抗議の自殺をした。事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。富氏は唇を震わせながら言った。「青柴垣の神事は天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ。屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」と。呪いを残して死んだ事代主は天孫族に非常に恐れられていた。大国主命から出雲国を奪った天孫族は大国主命の血族を完全に根絶する為、どれほど苛酷な迫害を繰り返したことか。国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された。
(3)第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 今度は神武一族が九州から攻めて来た。勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。神武一族は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。我々は「カラの子(韓の子?)」と呼んでいた。朝鮮からの八咫烏が神武の味方にについた。彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノ長髄彦は傷つき、大和(倭)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。長髄彦(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武は橿原(倉吉市大宮)で即位し大和(倭)の王となった。神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。縄文時代も終り(史実は弥生時代中期)のことである。
(4)最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。
 天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。天之日矛は但馬を支配していた。孝霊天皇一族は10年ほど親戚の天之日矛の支配する但馬に疎開していた。出雲族の受難はさらに続いた。後を追うように、「尾張」・「物部」の連合軍に侵攻される。
(5)ホヒ(天穂日)について
 神魂神社の秋上氏によると、「事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である」とする。ホヒ(天穂日)は出雲の祭祀権を握り子孫は国造に取り立てられる。出雲大社が杵築へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
 出雲国造家(北島・千家)は天穂日命(天孫)の後裔である。神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。


3 私見
 富氏の口伝は、シュメールとかいうからとんでも本の烙印を押されるのであるが、あながちでたらめとも言えないのではないだろうか。しかし、その内容は、出雲族の怨念の歴史ともいえる内容であるため、多分に誇張や誤伝承も含まれている。特に一部「記紀」に準じている内容になっている点も見過ごせない。
 青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔の準王一族しか思い当たらない。一番古い銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔の準王一族が作ったものと思われる。出雲王家(クナトの神)は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔であり、「クナトの神」は殷王朝末裔の準王一族であった。出雲王国を支配していたのは「クナトの神」というなら、「クナトの神」は鬼・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲神族の大祖先は、「クナトの神」であり、殷王朝末裔の準王一族である。出雲神族は自らを「竜蛇族」と名乗っていた。
 八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日が能義平野(安来市)に行ったときはすでに松江市南部を本拠地としていたはずである。天穂日が能義平野(安来市)に行ってからの動向は判らなかったが、準王一族(クナトの神)とのやり取りが判ったように思われる。
 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野に天穂日であり、松江市南部には殷王朝末裔の準王一族(クナトの神)であった。島根県松江市乃白町の田和山遺跡は殷王朝末裔の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に素戔嗚や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。素戔嗚(倉吉市余戸谷町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山)、事代主(倉吉市福庭の波波伎神社の奥)、天忍穂耳(北栄町下神の三輪山)、瓊々杵命(葦原中津国=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(倉吉市灘手地区の鋤)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には素戔嗚や大国主命や事代主の本拠地はなかった。
 富氏の口伝では、「出雲国は、天孫族による侵略を受けた。これが国譲りのモデルとなった」というが、「国譲り」という表現は、「記紀」の影響によるものであり、後世に付加されたものである。国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県北栄町にあった。「国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された」とするが、蜘蛛の子が散るように自分たちで全国に散ったのでかなかったか。それで神武天皇一族が西日本を平定してまわらなければならなかったのである。全国に散った出雲人(準王一族)を倭国の天皇家が平定していく過程をもって「記紀の国譲り」に例えたものと思われる。
 クナトの神は鬼・土蜘蛛などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神天皇・倭健命・卑弥呼は全国のクナトの神を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。
 神魂神社の秋上氏は「天孫族は九州にいる」というが、出雲では「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀が全国で初めて発掘された。倭建命は皇子であり、長瀬高浜の被葬者は皇女であった。
(1)素戔嗚について
 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある素戔嗚を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。
 八岐大蛇伝説の舞台は鳥取県三朝町山田であった。その後、素戔嗚は伊邪那岐の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐村に来ていた神大市比売との間に須勢理姫が生まれた。伊邪那岐が亡くなってから約束通り、須勢理姫と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷神社)に住んだ。一人になった素戔嗚は東山神社に移り対岸の石上神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。
 素戔嗚は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、素戔嗚・稲田姫・足名椎命・手名椎命・天穂日命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。
 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄合わせ(整合)が行われている。大日本史の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。それに輪をかけたように富氏の口伝は「記紀の国譲り」は自分たちがモデルで被害者であるがごときを述べる。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、素戔嗚が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。
(2)大国主(大穴持)について
 大国主に真の大国主と真でない大国主がいるとは初めて聞いた。「出雲国風土記のオオナムチ(大穴持)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたりオオナムチ(大穴持)を名乗った」とする。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持)はただ一人である。
 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣神の子として杵築周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、素戔嗚の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。素戔嗚と稲田姫の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。
 大国主の本拠地は島根県の三刀屋の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(茶臼山)の松樹庵である。
 大己貴命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名命と共に行動した経路は3系統ある。①伯耆国→北陸地方 ②伯耆国→出雲→山口県→福岡県→大分県 ③伯耆国→因幡国→播磨国24ヶ所→讃岐国2ヶ所→伊予国7ヶ所の3系統である。
 島根県下における大国主伝承地として、多根神社、佐比売山神社、加多神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(クナトの神)の妨害を受けずに出雲で農業を教えたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。
 神祇志料(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名と須勢理姫は伯耆国の大神山に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根で農業を教えた」とある。大神山は大山ではない。鳥取県北栄町の茶臼山は伯耆国久米郡大神郷に属していた(北条八幡宮由緒より)。大神郷にあった山だから大神山と言っていた。大神山とは茶臼山のことであった。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山であった。これを前提にすればその後の歴史がきれいに繋がっていく。偶然が重なっても歴史がきれいに繋がっていくのは比定地が正しいからである。
 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁天皇の時代であるからだ」とする。
 長瀬高浜遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁天皇の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。
 しかし、稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(タギシ)の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。
 天照大神(徐福)と素戔嗚は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(徐福)は高天原(蒜山高原)に上がったが、素戔嗚は八岐大蛇を退治して夫婦になった稲田姫と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、オオナムチ(大穴持)を名乗らせたと思われる。
(3)事代主について
 ある方の見解
 出雲国風土記が編纂された当時、事代主を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。
 ※ 私見
 鳥取県倉吉市福庭の波波伎神社(祭神は事代主)の由緒には「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ(岳)と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主は亀谷丘陵の先端から福庭の青柴巻籬に移って住んでいた。


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第三節 北栄町の三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)と三輪神社跡 [天忍穂耳(大物主)]

   第三節 北栄町の三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)と三輪神社跡
 以前、大物主は天忍穂耳命であり北栄町の三輪山にいた、と結論づけたが、ニニギ命が四歳以前から成長して葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山にいて、隣の茶臼山にいた大国主を助けて、稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。もとは大国主族のやっていた事業を国譲りの後は天孫族が引き継いでやっていた。北九州に天孫族の伝承が残るのは、半島や常世国(中国南部)に行く必要があったからである。
0022-01
北栄町の隣の東郷町誌の古地図には三輪山が載っている。
1
下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑1
蜘ヶ家山より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)があった。同じく蜘ヶ家山より。東に茶臼山(大国主の本拠地)がある。
下は右に茶臼山(大国主の本拠地)と左に三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)を睨むように造られている八幡神社の山。
2
 北栄町北尾にある八幡神社の由緒にもある。
 三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
1 地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ.大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
2 往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓 字三輪脇に在りし・・・・・。
 元官帳は藤原朝廷が作成したものである、という前提で読んでください。
 八幡神社も藤原朝廷が建立したものです。
 「大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ」と「三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す」のこれが問題です。藤原氏は下神の三輪神社がないことをいいことに、下神の三輪神社の祭神を大国主尊、少彦名尊としているが、実際は大物主(天忍穂耳)が祀られており、茶臼山の国坂神社には大国主・少彦名が祀られていた。
 藤原氏は嘘も百回つけば本当になるという信念を持っている。

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第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である [天忍穂耳(大物主)]

   第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である。
 北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
 下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。結婚して後は亀谷集落におられたが下種の大宮神社におられた邇邇芸命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山を往復をしておられた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 邇邇芸命は四歳で関金の神田神社に降りてこられ、成長するまで矢送神社におられ、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築かれたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移られてから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言われた。地元の住民(国神)はこれを聞いて邇邇芸命を「日向御子」と名付けた。邇邇芸命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
 また地元の住民は神阿多都比売のことを「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通られると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
 私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
3
 このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないものである。

 「日向御子」とは邇邇芸命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名である。
 米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を消し去ろうとしていた跡がみられるが、米子の三輪神社ではなく、ここの三輪山が本当のモデルである。邇邇芸命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
 神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説があるが、日向とは北栄町の葦原中津国のことであり、なぜ日向というのかは、邇邇芸命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは邇邇芸命のことであり神武天皇ではない。
 原因は藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、また日向御子を奈良の三輪山に持って行ったからである。邇邇芸命が下神の三輪山によく行っていたことと、日向の地名の成り立ちが分かっていないからである。
 下神の三輪山にいたのは、邇邇芸命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。

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第一節 大物主について [天忍穂耳(大物主)]

   第一節 大物主について

1 『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 「特選神名牒」では、桜井市三輪の大神神社の祭神は、「倭大物主櫛瓶玉命」と、「櫛瓶玉」がついている。松山市の国津比古命神社の祭神は、「櫛玉饒速日命」と、「櫛玉」がついている。大物主神は「大物主櫛瓶(甕)玉命」、饒速日は「櫛玉饒速日命」と呼ばれていた。
 饒速日について、神名の中に「櫛玉」があること、また大物主神には「櫛瓶(甕)玉」があることから、原田常治氏は「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」と結論して、「大物主は饒速日尊であることが判明した」と言った。
 しかし、「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」ではなかった。「櫛玉」は息子であり、「櫛瓶(甕)玉」は父親であった。

 下神の三輪山について(当時は海に面していた)
 「奈良の三輪山・三輪神社の祭神が日向御子と大物主であり、大物主は日向御子の父である」というヒントをもとに、北栄町下神の三輪山・三輪神社の祭神を考えてみると、日向御子はニニギ命で間違いない。日向御子というニックネームで呼ばれていたし、父のいた三輪山に下種の大宮神社から下神の三輪山まで行き来をされていた行幸通りが特定できる。下神の三輪山の祭神はニニギ命(日向御子)である。
 ニニギ命の父は実父(天忍穂耳)か義父(大山祇命)か。
 神武天皇の四兄弟のいた四王寺山の横に上神がある。天孫族のいた山の麓には〇神という集落がある。それなら下神の横にある三輪山にいたのも天孫族でなくてはならない。天忍穂耳が下神の三輪神社に祀られていた。天照大御神から葦原中津国の統治を頼まれたときはすでに下神の三輪山におり、少彦名神が常世の国へ去った後、大国主命とともに稲作を全国に広める大事業を行っていた。天照大神やまわりの者もそのことは知っていた。だから葦原中津国の統治を無理強いしなかった。国譲りの後、大国主命は引退し代わりにニニギ命が天忍穂耳を補佐して大事業を行っている。 

3 三輪山(天忍穂耳)側から茶臼山(大国主)を見る。20130804-IMG_0050
 大物主は天忍穂耳であり関金町耳の出身であって、船で小鴨川ー天神川ー海に出て、すぐ西にある茶臼山にいた大国主のところへやってきた。光り輝いてきたのは、鏡で照らしていたからである。天忍穂耳は鏡による通信手段を知っていた。天孫降臨に際して、鏡を持った猿田彦を迎えに行かせたのも天忍穂耳である。

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鳥取県北栄町下神にある三輪神社跡の石碑20130804-IMG_0174
茶臼山(大国主)側から三輪山(天忍穂耳)を望む。当時は高い山があった。
 砂で出来ていたので壊しやすかった。この三輪山にいれば、葦原中津国とも近いため葦原中津国の様子がよくわかった。
 茶臼山に大国主がいたことを、消し去るために藤原氏は反対する者は容赦なく処刑している。崇りを鎮めるために朝廷が弘法大師を派遣しているのは、関金と同じである。

4 饒速日命が祀られている江尾神社の周辺は大物主が祀られている。
大物主.jpg
 饒速日命の父親は天忍穂耳であり、饒速日命を祀る数少ない神社の江尾神社の周りには天忍穂耳は祀られていなければならないが、周辺の神社に祀られているのは大物主が多い。
 特に、御机神社、山口神社、大河原神社は饒速日命の祀られている江尾神社から蒜山に行く途中にあり、天忍穂耳は蒜山(高天原)と饒速日命のいた江尾との間を行き来する時に通らなければならない。

勝田神社 米子市博労町
犬田神社 米子市陰田町
壹宮神社 西伯郡大山町上萬
熊野神社 西伯郡南部町金田
鶴田神社 西伯郡南部町鶴田(大物主)
北野神社 米子市赤井手(大物主)
三輪神社 米子市小波(大物主)
森脇神社 西伯郡伯耆町畑池(大物主)
井原神社 日野郡日野町福長(大物主)
矢原神社 日野郡日南町茶屋(大物主)
御机神社 日野郡江府町御机(大物主)
山口神社 日野郡江府町下蚊屋(大物主)
大河原神社 日野郡江府町大河原(大物主)
小林神社 西伯郡伯耆町小林(大物主)
水谷神社 日野郡日南町笠木
山根田神社 日野郡日南町福萬来
野組神社 日野郡日南町新屋
霞神社 日野郡日南町霞
福成神社 日野郡日南町神戸上

 


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