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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった。


1 魏志倭人伝によると「卑弥呼の後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した」とある。
 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。〈原古事記にあった詳細は倭姫命世紀に書き出されている〉
 豊鋤入姫命は天照大神を奉斎していたので魏志倭人伝の台与(トヨ)である。
 原古事記には「孝霊天皇の皇女、日女命またの名、倭迹迹日百襲媛命」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあったはずである。藤原氏は日女命を稚日女命とし倭迹迹日百襲媛命を倭姫命とし、垂仁天皇の皇女の豊鋤入姫命を倭姫命と入れ替えた。その動機は、伊勢神宮を創設した由緒を創らなければならなかったからである。伊勢神宮を創設した姫は、倭国(鳥取県中部)周辺の6か所しか巡行していない豊鋤入姫命では役不足であり、全国を巡行した倭姫命でなければならなかった。本来、倭建命は孝元天皇の弟であり、同じく孝元天皇の妹であった倭姫命を欠史8代ではない景行天皇の妹に持ってこなければならなかった。豊鋤入姫命をそのまま垂仁天皇の皇女にすると改ざんしたことが分かるので崇神天皇の皇女とした。
 以前景行天皇の在位期間を260年~290年としていたが、景行天皇の在位を248年~280年頃に訂正します。妹の倭姫命(豊鋤入姫命=トヨ)は13歳で卑弥呼の宗女となった。魏志倭人伝の卑弥呼が亡くなった後の信頼されない「男王」とは景行天皇であった。皇居は鳥取県中部にあったが多くは奈良の纒向日代宮におり、全国の代表者を集めて妹の豊鋤入姫命(台与)が祭祀をしていた。中国にとって男王は影が薄かったようだが、中国のいう女王と倭国の男王(天皇)は並立していた。


2 勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命


3 私見
(1)海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とする説がある。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与?)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命は瓊々杵命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年までは火火出見命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であったものと思われる。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中であった。日本書紀に合うように書かれている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀に合っているから藤原氏の検閲をパスした。日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え、11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。代はずれているが「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当の順序は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であった。史実は、「倭姫命」が9世孫(孝元天皇)の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫(景行天皇)の妹であった。本来13世孫の妹を10世孫の妹に持ってきて、本来9世孫の妹を11世孫の妹に持ってきた。これで順番は逆になる。
(2)孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。卑弥呼も鬼道を使い倭国大乱の時期を生きた。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生きており、卑弥呼は孝霊天皇の一族と考えるべきである。
 鳥取県神社誌(昭和9年当時2市7郡)のうち孝霊天皇(9神社)と稚日女(8神社)の祀られている神社は、出雲国に接する西伯郡と日野郡である。稚日女命も孝霊天皇も出雲神族(準王一族)の鬼と戦うために西伯郡と日野郡にいたものと思われる。稚日女命は孝霊天皇と一緒に戦っていたのであり、倭国大乱の同時代に生きていたと思われる。稚日女命は倭国大乱が終わってから宗女になる台与ではない。孝霊天皇の一族と解するほうが自然である。東は岩手県から西は長崎県まで全国の多くの神社に祀られている稚日女命は台与ではなく卑弥呼と思われる。
(3)全国を巡行して社を建てさせ、準王一族(出雲神族)の祭祀を道教の神道に強制的に変えさせる巡行は倭姫命がしている。「倭姫命世紀」は倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行した原古事記の一部を抜き取ったものである。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。あとは纒向に全国の代表を集めて道教(神道)の祭祀をするだけであった。全国の巡行は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は全国の代表者を纒向に集めて道教(神道)の祭祀を行えばよく、反乱のあった地域のわずかな巡行をすればよかった。倭姫命も倭建命と同じ倭国大乱の時期(146年~189年)を生きているから台与ではない。
 稚日女命も倭姫命も台与ではなく卑弥呼であった。
(4)豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇の妹ではない。崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と尊敬さているので、魏志倭人伝に言う信頼されない「男王」ではない。しかし、台与は豊鋤入姫命とするのが通説である。卑弥呼は享年96歳くらいで248年に亡くなっているし、崇神天皇は享年100歳くらいで258年に亡くなっているから、豊鋤入姫命は崇神天皇の13歳の妹ではない。垂仁天皇の在位も崇神天皇から生前譲位を受けて在位220年~248年くらいであろう。「男王」は景行天皇と思われる。台与(豊鋤入姫命)は景行天皇の妹と思われる。しかし、日本書紀では景行天皇の妹に倭姫命がいる。
 豊鋤入姫命と倭姫命とは別人である。伊勢神宮でも2人を別人として扱っている。2人は会ったこともないので天照大神を直接託すこともなかった。日本書紀では時代を、あとさき入れ替えて書いている。
 日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。「倭姫命世紀」を独立した書物にした関係で日本書紀では景行天皇の妹を豊鋤入姫命と入れ替え、倭姫命とした。倭建命も景行天皇の皇子に持ってきた。本来、倭建命も倭姫命も孝霊天皇の皇子と皇女である。


4 参考  倭姫命(19ヶ所)と豊鋤入姫命(6ヶ所)の巡行
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
 しかし、史実は「2世紀、倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行し、3世紀、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)が少しの巡行をした」であった。
(1)倭姫命(卑弥呼)倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)
 1、大和国 字多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、伊勢国 桑名野代宮 11、伊勢国 奈具波志忍山宮 12、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 13、伊勢国 飯野高宮 14、伊勢国 佐々牟江宮 15、伊勢国 伊蘇宮 16、伊勢国 大河之瀧原宮 17、伊勢国 矢田宮 18、伊勢国 家田田上宮 19、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)
(2)豊鍬入姫命(台与)垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹
 20、倭国 笠縫邑 21、但波乃 吉佐宮 22、倭国 伊豆加志本宮 23、木乃国 奈久佐濱宮 24、吉備国 名方濱宮 25、倭国 彌和(ミワ)乃御室(ミムロ)嶺上(カミ)官
(3)私見
 鳥取県中部が倭国であったから、但波(但馬)と木乃国(鳥取県智頭町)と吉備(岡山県と広島県)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。倉吉市高城には楯縫神社がある。


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持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた [百済王12代から45代までの倭国王]

 持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた。

1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読まれた。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。

2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰られた。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。

3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行かれた時も倉吉に残っていた。

4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653生まれで高市皇子は654生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。そのほかの妻がいつごろ天武天皇のもとに来たのかは判らないが、父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の皇女や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。

5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。


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第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨 [伊勢野の天照皇大神宮]

   第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨
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1 天孫降臨は2回に分けて行われた。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。記紀にこのことの記述はないが、神社の祭神などからこのような結論になる。
 また、三重県を敵にまわすことになるが、生きている人間の天照大御神が最初に高天原から降り立ったのは三重県ではなく、伯耆国であった。日本書紀は八割、古事記は五割が真実ではないと言われているが、原古事記に載っていた天照大御神の降臨を藤原氏は削除している。現古事記には高天原からその後、天照大御神がどうなったか何も書いてない。これは書いてあったが、削除されたと解すべきである。第三十四代舒明天皇より第四十代天武天皇までも書いてあったが、日本書紀に移して削除している。このほかにも削除して改ざんしているものが多くある。
 矢送神社・神田神社・大宮神社・神郷神社・倉坂神社・中尾神社・方見神社・亀谷神社・穂波神社の祭神や方見神社の由緒、天武天皇が生きて降り立った天照大御神の子孫だと言い伊勢野に法隆寺と同じ伽藍配置の斎尾廃寺あとがあること、ニニギ命が四歳では「この地は・・・・」の言葉が出てこないことなどにより、天孫降臨は2回に分けて行われたことが分かる。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。

2  古事記・葦原中津国平定の段(ウィキペディアより)
 建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。

3  「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」
(1) 古事記・葦原中津国平定の段の建御名方神と建御雷神の説話は藤原氏によるのちの創作である。原古事記には伊勢国風土記の説話が書かれていた。天照大御神が降臨しようとした邑には神がいて名を建御名方神といった。その邑は方見邑であった。今の加勢陀川の西の鳥取県琴浦町上伊勢・下伊勢周辺である。
 原古事記には「天日別命は建御名方神に『汝の国を天孫に献上したらどうか』と問うた。すると答えて『私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる』といった。天日別命は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、『私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい』と。天日別命は問うて、『お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか』といった。すると申しあげていうには、『私は今夜をもって八風(大風)をおこし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これが私が退去したという証拠です』と。天日別命は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜更けになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。〔建御名方神は、信濃の国に住ませた。〕」とあった(「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」より)。
 加勢陀川の東には斎尾・槻下という地名があり漢字変更の前は斎王・月下であった(方見神社由緒より)。天照大御神(徐福)は斎王に降臨し、月讀命は月下に降臨した。これはすぐ東にある葦原中津国の国譲りの前である。天照大御神を神武天皇に、建御名方命を伊勢津彦に変えて伊勢国風土記を作った。そして建御名方命の国譲りの部分を記紀から削除した。
(2) 1回目は天照大御神・月読命・饒速日命一行であった。最初の天孫降臨は饒速日命が蒜山高天原から関金町まで天降った。天照大神や月読命も一緒であった。天照大御神・月読命・石凝姥命・手力男命・天石門別神は、そのまま関金町から葦原中津国を迂回し、県道50号線を通って、琴浦町伊勢野・槻下・加勢陀川西岸に到着した。玉祖命・天宇受売は長瀬高浜に、思金神は長和田に降臨した。これは、天若日子が国譲りの交渉で葦原中津国に行っている間に行われた。このことは八橋の地名由来よりわかる。下照姫は天若日子と一緒に行動していたからである。伊勢野・斎尾(斎王)は天照大御神が最初に降り立った地である。
(3) 2回目はニニギ命・天児屋根・太玉命・和久産巣日神・娘の豊受姫たちであった。ニニギ命・天児屋根・太玉命は関金町の矢送神社(矢送神社の祭神)から、北栄町の大宮神社に降臨された。その時案内した猿田彦は「ニニギ命を日向(葦原中津国)に案内してから伊勢(天照皇大神宮・外宮の月下の宮)に行きます」と言った。ニニギ命は大宮神社(日向)に、天児屋根は穂波(日向)に、太玉命は中尾(伊勢)に、和久産巣日神も中尾(伊勢)に、娘の豊受姫は槻下(月下)の外宮の度会に降臨された。

4  追記(2016.12.09) 先代旧事本紀の天孫降臨 

饒速日.jpg
―天神本紀―
  天照大神は、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が治める国であるとして、天降りさせようとした。ところが準備している間に子が生まれたため、押穂耳尊はこの子を天降りさせるべきであると天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。天神御祖は天璽瑞宝十種を授けた。三十二人の護衛がつかえ、五部の人が従い、天物部を率い、天物部等二十五部のひとがつかえ、船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に遷った。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、子が生まれないうちに亡くなった。
  天照大神はこのあとまた、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治める国であるとして、押穂耳尊を天降りさせることにする。そんな折、押穂耳尊は高皇産霊尊の女栲幡千々姫萬幡姫命を妻とし子が生まれた。その子は天津彦々火瓊々杵尊と名づけられた。押穂耳尊はこの子を天降りさせたいと天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。
  正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女萬幡豊秋津師姫命亦の名栲幡千々姫命を妻とし、二男をもうけた。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、弟は天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊である。
―天孫本紀―
  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦の名は天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という。天照大日孁貴尊の太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の女豊秋津師姫栲幡千々姫命を妻とし生まれた子である。天祖より天璽瑞宝十種を授かり、天磐船に乗り河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移り定住した。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれたが、宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊は亡くなった。
  饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、天香語山命が生まれた。天降って三炊屋媛を妻とし宇摩志麻治命が生まれた。天香語山は亦の名を高倉下命といい、磐余彦尊が熊野で毒気にあたったとき剣をもって助けた。
  天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫磐余彦尊が、天下を馭(おさめ)ようとして東征した。中洲の豪雄長髄彦は饒速日尊の子宇摩志麻治命を君とし、天孫に二種あるはずはないとして抵抗した。宇摩志麻治命は長髄彦の謀には従わず、長髄彦を殺して軍を率いて帰順し、饒速日尊より授かった天璽瑞宝十種を天孫に献上した。
  大歳辛酉正月一日、天孫磐余彦尊は橿原宮に都をつくり即位した。姫蹈韛五十鈴媛命を皇后とした。これは大三輪の神(天忍穂耳命)の女である。

5 私見
(1) 「記紀の天孫降臨」は史実にそぐわないように思われたが、「先代旧事本紀の天孫降臨」の記述のほうが史実に則しているように思われる。天孫降臨は史実では2回行われている。先代旧事本紀では、まず最初に饒速日が天降ったのであり、この時に天照大御神・月読命・五伴緒なども降り立った。
 ただ「船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って・・・」は京都で暇を持て余していた藤原氏が思い描いた空想科学小説である。まるで宇宙船に乗っていたかのように描いている。よほど虚空(そら)が好きだったようだ。史実は船で河を下ったものと思われる。
 饒速日ははじめ河内(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に到着し、やがて大倭(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移っった。この鳥見の白庭山は通説では、奈良県桜井市の外山のあたりと言われている。しかし、天照大御神が鳥取県琴浦町伊勢野に降臨したことは間違いない。五伴緒の降り立った場所も鳥取県中部に特定できるため、饒速日命は鳥取県中部に降臨している。鳥見の白庭山とは鳥取県北栄町の土下山(天香久山)ではなかろうか。そして2回目の瓊々杵命は北栄町の葦原中津国に降臨した。饒速日命は1回目の天照大御神たちと一緒に降臨した。河内国とあるが、これは関金の鴨河内のことである。河内国の河上の哮峰とは、後に瓊々杵尊もいた関金の矢送神社と思われる。その後、磐余彦と兄磯城(長髄彦の一族)とが戦った鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に定住したが、長髄彦の妹三炊屋媛と結婚し宇摩志麻治が生まれる前に饒速日命は亡くなった。
(2)「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」にある「天孫」とは饒速日命のことであった。記紀にある天孫降臨の瓊々杵命は2番手であった。
(3) 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。先代旧事本紀に「 饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれた」とあるのは信じられる。
(4) 宇摩志麻治命は母方ではなく父方の磐余彦に付いた。宇摩志麻治命が寝返ったから磐余彦は勝てたようなものである。
(5) 高倉下命と宇摩志麻治命は父が饒速日命の異母兄弟となる。一般に物部氏の祖は宇摩志麻治命とされる。
(6) 瓊々杵命と磐余彦命との間にはホホデミとウガヤフキアエズが入るため、磐余彦の時に登場する長髄彦も宇摩志麻治命も姫蹈韛五十鈴媛命も数代下った子孫でなければならない。数代の間に宇摩志麻治命は父が生まれた江府町江尾に移り住んでいた。
(7) 長髄彦とは出雲神族(準王一族)の王名である。大己貴神(オオナムチ)も出雲神族の王名である。出雲神族の王は代々、長髄彦であり大己貴神(オオナムチ)を名のっていた。


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出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか [天忍穂耳(大物主)]

 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか。


1 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 島根県東部には古代出雲王朝があり、その王朝の王はクナトの神であった。久那戸(クナト)大神は伊弉諾・伊弉冉の長男で出雲王朝の始祖である。クナトの大神は富家の遠神祖、真の大国主である。クナトの大神は五十七代にわたって存在した。出雲大社の東宇伽山の麓、出雲井神社は久那斗大神(クナト大神)を祭る。出雲大社は、霊亀2年(716)に熊野(クナト大神)(出雲熊野神社の亀太夫の神事)から杵築へ移った。クナトの大神は、日本書紀では「岐神」、古事記では「衝立船渡神」と書く。
 出雲王朝の最盛期には、北九州から新潟に至る広範な地域を領有していた。富家の伝承には「大和(奈良)や紀伊(和歌山)は出雲の分国」とある。天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。


2 出雲王朝は、海の向こうからやってきた部族による、度重なる侵略を受けた。その第一派が、素戔嗚によるものであった。第二派が、『記紀』に国譲り神話として記された天孫族との戦い。第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。
 出雲神族は、天孫族と長い闘争の末、帝位を奪われ滅亡した。(時系列で整理してみました)
(1)第一派が、素戔嗚によるものであった。
 出雲国は、まず素戔嗚による侵略を受けた。素戔嗚(出雲神族ではない渡来人)は、出雲へ侵攻した。素戔嗚は牛頭天皇(牛頭は朝鮮の地名)である。
(2)第二派が、記紀に「国譲り神話」として記された天孫族との戦い。
 「国譲り物語」とは2千年前、天孫族の使者・武甕槌命が稲佐の浜で矛を突き立て「否(イナ)、然(サ)」と迫った事件である。大国主は降伏し抗議の自殺をした。事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。富氏は唇を震わせながら言った。「青柴垣の神事は天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ。屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」と。呪いを残して死んだ事代主は天孫族に非常に恐れられていた。大国主命から出雲国を奪った天孫族は大国主命の血族を完全に根絶する為、どれほど苛酷な迫害を繰り返したことか。国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された。
(3)第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 今度は神武一族が九州から攻めて来た。勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。神武一族は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。我々は「カラの子(韓の子?)」と呼んでいた。朝鮮からの八咫烏が神武の味方にについた。彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノ長髄彦は傷つき、大和(倭)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。長髄彦(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武は橿原(倉吉市大宮)で即位し大和(倭)の王となった。神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。縄文時代も終り(史実は弥生時代中期)のことである。
(4)最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。
 天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。天之日矛は但馬を支配していた。孝霊天皇一族は10年ほど親戚の天之日矛の支配する但馬に疎開していた。出雲族の受難はさらに続いた。後を追うように、「尾張」・「物部」の連合軍に侵攻される。
(5)ホヒ(天穂日)について
 神魂神社の秋上氏によると、「事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である」とする。ホヒ(天穂日)は出雲の祭祀権を握り子孫は国造に取り立てられる。出雲大社が杵築へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
 出雲国造家(北島・千家)は天穂日命(天孫)の後裔である。神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。


3 私見
 富氏の口伝は、シュメールとかいうからとんでも本の烙印を押されるのであるが、あながちでたらめとも言えないのではないだろうか。しかし、その内容は、出雲族の怨念の歴史ともいえる内容であるため、多分に誇張や誤伝承も含まれている。特に一部「記紀」に準じている内容になっている点も見過ごせない。
 青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔の準王一族しか思い当たらない。一番古い銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔の準王一族が作ったものと思われる。出雲王家(クナトの神)は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔であり、「クナトの神」は殷王朝末裔の準王一族であった。出雲王国を支配していたのは「クナトの神」というなら、「クナトの神」は鬼・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲神族の大祖先は、「クナトの神」であり、殷王朝末裔の準王一族である。出雲神族は自らを「竜蛇族」と名乗っていた。
 八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日が能義平野(安来市)に行ったときはすでに松江市南部を本拠地としていたはずである。天穂日が能義平野(安来市)に行ってからの動向は判らなかったが、準王一族(クナトの神)とのやり取りが判ったように思われる。
 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野に天穂日であり、松江市南部には殷王朝末裔の準王一族(クナトの神)であった。島根県松江市乃白町の田和山遺跡は殷王朝末裔の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に素戔嗚や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。素戔嗚(倉吉市余戸谷町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山)、事代主(倉吉市福庭の波波伎神社の奥)、天忍穂耳(北栄町下神の三輪山)、瓊々杵命(葦原中津国=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(倉吉市灘手地区の鋤)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には素戔嗚や大国主命や事代主の本拠地はなかった。
 富氏の口伝では、「出雲国は、天孫族による侵略を受けた。これが国譲りのモデルとなった」というが、「国譲り」という表現は、「記紀」の影響によるものであり、後世に付加されたものである。国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県北栄町にあった。「国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された」とするが、蜘蛛の子が散るように自分たちで全国に散ったのでかなかったか。それで神武天皇一族が西日本を平定してまわらなければならなかったのである。全国に散った出雲人(準王一族)を倭国の天皇家が平定していく過程をもって「記紀の国譲り」に例えたものと思われる。
 クナトの神は鬼・土蜘蛛などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神天皇・倭健命・卑弥呼は全国のクナトの神を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。
 神魂神社の秋上氏は「天孫族は九州にいる」というが、出雲では「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀が全国で初めて発掘された。倭建命は皇子であり、長瀬高浜の被葬者は皇女であった。
(1)素戔嗚について
 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある素戔嗚を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。
 八岐大蛇伝説の舞台は鳥取県三朝町山田であった。その後、素戔嗚は伊邪那岐の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐村に来ていた神大市比売との間に須勢理姫が生まれた。伊邪那岐が亡くなってから約束通り、須勢理姫と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷神社)に住んだ。一人になった素戔嗚は東山神社に移り対岸の石上神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。
 素戔嗚は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、素戔嗚・稲田姫・足名椎命・手名椎命・天穂日命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。
 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄合わせ(整合)が行われている。大日本史の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。それに輪をかけたように富氏の口伝は「記紀の国譲り」は自分たちがモデルで被害者であるがごときを述べる。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、素戔嗚が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。
(2)大国主(大穴持)について
 大国主に真の大国主と真でない大国主がいるとは初めて聞いた。「出雲国風土記のオオナムチ(大穴持)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたりオオナムチ(大穴持)を名乗った」とする。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持)はただ一人である。
 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣神の子として杵築周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、素戔嗚の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。素戔嗚と稲田姫の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。
 大国主の本拠地は島根県の三刀屋の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(茶臼山)の松樹庵である。
 大己貴命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名命と共に行動した経路は3系統ある。①伯耆国→北陸地方 ②伯耆国→出雲→山口県→福岡県→大分県 ③伯耆国→因幡国→播磨国24ヶ所→讃岐国2ヶ所→伊予国7ヶ所の3系統である。
 島根県下における大国主伝承地として、多根神社、佐比売山神社、加多神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(クナトの神)の妨害を受けずに出雲で農業を教えたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。
 神祇志料(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名と須勢理姫は伯耆国の大神山に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根で農業を教えた」とある。大神山は大山ではない。鳥取県北栄町の茶臼山は伯耆国久米郡大神郷に属していた(北条八幡宮由緒より)。大神郷にあった山だから大神山と言っていた。大神山とは茶臼山のことであった。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山であった。これを前提にすればその後の歴史がきれいに繋がっていく。偶然が重なっても歴史がきれいに繋がっていくのは比定地が正しいからである。
 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁天皇の時代であるからだ」とする。
 長瀬高浜遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁天皇の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。
 しかし、稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(タギシ)の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。
 天照大神(徐福)と素戔嗚は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(徐福)は高天原(蒜山高原)に上がったが、素戔嗚は八岐大蛇を退治して夫婦になった稲田姫と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、オオナムチ(大穴持)を名乗らせたと思われる。
(3)事代主について
 ある方の見解
 出雲国風土記が編纂された当時、事代主を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。
 ※ 私見
 鳥取県倉吉市福庭の波波伎神社(祭神は事代主)の由緒には「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ(岳)と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主は亀谷丘陵の先端から福庭の青柴巻籬に移って住んでいた。


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