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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった [閑話休題]

 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。

1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより)
(1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『 大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
(2)538年(戊午)説
 『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。

2 私見
 通説は、仏教は欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、とする。このことに反論する者はいない。未だかってこのことに疑いを差し挟む者はいなかった。しかし、日本書紀の公伝年は改ざんされている。なぜだろうか。それは百済の聖明王は仏像を贈っておらず、仏像を贈ったのは新羅の法興王だからである。百済史官は日本書紀を作るにあたり、百済と新羅を入れ替えたから、新羅王とあったのも百済王にしなければならなかった。三国史記だと思われるがそこには「538年、法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった」とあった。これを百済の聖明王に直さなければならなかった。日本書紀では仏教公伝の2年後に亡くなっているから、聖明王が亡くなる2年前の552年に釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつったとした。538年も聖明王の在位期間中であるが、百済は538年に都を熊津から泗沘へ移しており、倭国に仏教を公伝するようなゆとりはなかったはずである。538年ならば法興王が亡くなる2年前であり、日本書紀の王の名を変えるだけで法興王とぴたりと重なる。
 聖明王は554年に亡くなっているから、538年説では、仏教公伝から16年後となる。日本書紀には「仏教公伝は欽明天皇13年冬10月。聖明王の死は欽明天皇15年冬12月(15年12月9日に百済攻撃を開始している。16年2月に倭国に王子が行き王の死を報告しているので葬儀の期間も考えると王の死は15年12月中と思われる)」とあり、王の死は仏教公伝から2年後である。仏教公伝から王の死まで16年の間の出来事を日本書紀につくりあげることは不可能であるから、聖明王が亡くなる2年前の552年に仏教公伝があったことにした。また聖明王の死は7月とされる。しかし、日本書紀では「聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」であり7月ではない。史実は仏教公伝は538年10月であり、王の死は540年の12月であった。
 新羅において527年に仏教を公認した法興王が538年に倭国に仏教を公伝した。2年後の540年に法興王はなくなった。高句麗から新羅に仏教が伝わったのではなく、新羅から直接中国に行くルートがあり新羅は直接中国から仏教を導入したものと思われる。法興王の時代に公認された(527年)後、新羅は南朝梁との交流もあり、国家主導で仏教振興策をとっていた。大規模な寺院跡が見つかるのは百済ではなく新羅である。新羅の皇竜寺の規模は東西288m、南北284m。仏国寺はさらに大規模であった。倉吉の大御堂廃寺の規模は東西は135m、南北は220mである。また、法興王の名は法興寺(規模は南北293m、東西は、北辺215m、南辺260mの台形)や法隆寺や法楽寺の名と似ており関連があるように思われる。特に日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んでつけられたものと思われる。日本書紀・崇峻天皇・法興寺の創建の条も新羅を百済に置換えている。
 ウィキペディアでは「いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたことは疑いないと思われる」とする。その根底には、日本書紀の改ざんされた記載を信じて「倭と百済は盟友関係にある」という思いがある。実は倭と盟友関係にあったのは新羅であった。
 また「次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった」とする。
 「538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされる」とするが、泗沘は熊津より南にあり、より任那や新羅に接近している。これは任那や新羅に対して攻勢を仕掛けるためであり、2年後(540年)に新羅の法興王を殺害した。倭に援軍をさかんに要求したのは新羅である。大して負けてもいないのに白旗を掲げるのは、権力者に近づくためであり、六韜に基づいた行動である。百済出身の鎌足は六韜を暗記するほど愛読していた。高句麗や百済の行動パターンを見ても六韜に基づいて行動していることが判る。権力者に近づいておだててみたり、時として蜂や大蛇のように牙をむきだしたりと、六韜に基づく行動である。六韜は高句麗や百済のバイブルであった。


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日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている [閑話休題]

 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている。

1 欽明天皇はおらず、この時の倭国天皇は蘇我稲目天皇であった。原文では新羅とあったものを百済に書き換えているため、新羅王も百済王とした。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)と思われる。

(1) 日本書紀も中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も「任那は新羅に滅ぼされた」と記している。
この記述は正しいか。
※私見
 任那は新羅と倭(鳥取県中部)を守るために垂仁天皇(在位230年~260年頃)が名付けた地域である。新羅が任那を犯すことはない。
 「翰苑」は現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。太宰府天満宮は藤原氏の管理下にあり、藤原氏は自由に改ざんできる。「通典」は代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂されたが、藤原朝廷の遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。その後の「太平御覧」や「冊府元亀」も遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。現在の三国史記も日本書紀に従っている。三国史記の原本は藤原氏によって焚書されたものと思われる。
 歴史書を改ざんし、原本を焚書するのが好きな藤原氏である。日本書紀との辻褄を合わせるために、それが他国の歴史書であってもこれくらいの改ざんは平気でしている。「翰苑」も「通典」も「太平御覧」も「冊府元亀」も「三国史記」も史実とは違ったことを記しており、任那を滅ぼしたのは新羅ではなく百済である。

(2) 後漢書・弁辰伝は「弁辰と辰韓は雑居しており、城郭、衣服などいずれも同じで、言語と風俗は異なる。その族は背が高くて大きく、美しい髮、衣服は清楚である。刑罰法令は厳格。その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる」とする。
 南斉書・加羅國伝は「弁辰は辰韓に雑居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、風俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる。皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である」とする。
 弁辰と言い弁韓と言い、伽耶と言い加羅と言うのは、ほぼ同じ地域である。ほぼ、弁辰=弁韓=伽耶=加羅となる。弁辰(加羅)と辰韓(新羅)は雑居していたのであるから、新羅と加羅(伽耶)は紀元前210年の頃から同族である。
 任那という地域名は垂仁天皇(在位230年頃~260年頃)が新羅と倭国を守り中国に行く途中経路としての役割を与えて名付けた朝鮮半島南西部の任那四県の地域名である。任那は新羅と倭を守り中国に行く途中経路としての役割を与えられて名付けられた地域なので、新羅が任那を犯すことはない。
 日本書紀・欽明天皇23年(562年)春1月に「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
 京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と疑いを差し挟まれないように、あえて具体的に10国の名を挙げた。「任那とは加羅10国のことである」と、作り話を念押しして加筆した。皆この一文を信じて「任那とは加羅10国のことである」と思い込んでいる。
 任那とは、倭建命と倭姫命が三韓を訪れて中国に行くルートを創設した時から、660年に百済が滅んだ時まで全羅南道の任那4県であった。
 また、日本書紀は「新羅が任那を侵した」とするが、三国史記の原本にあったと思われる「百済が任那を侵した」文章を書き換えている。ことほど左様に日本書紀・欽明天皇の段は「新羅」と「百済」を入れ替えている。

(3) 百済は高句麗と同族の扶余族であり、六韜に基づいて4世紀(364年卓淳国で倭国への道順を尋ねた)から倭国と新羅を乗っ取ることを考えていた。それが成就したのは734年であった。卓淳国というのは、今日の大邱付近に存在した国である。卓淳国は慶州の西に在り慶州に入って来ようとするものを防ぐ役割があった。もともと新羅に属していた。百済が卓淳国に使者を派遣して、倭国との通交の仲介を要請した。346年に建国した百済にとっては建国後僅かに18年後のことであり、百済は倭国や新羅を乗っ取るために高句麗が建国したものとしか思われない。
 卓淳国は、この百済の要求に従って、倭の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と倭国との正式交渉の端緒を作った。百済は364年卓淳国で倭国への道順を尋ね、367年に倭国に使者を送る。七支刀を贈ったのもこの頃である。382年には新羅は高句麗に乗っ取られていた(三国遺事)。そのときの倭国天皇は応神天皇(葛城長江襲津彦)(在位354年~394年)であった。百済にとって応神天皇(誉田別命)は最初に朝貢したときの天皇であり特別な存在であった。倭国を乗っ取ってから百済は応神天皇(誉田別命)を八幡神社の祭神にした。これが史実であり、高句麗・百済と倭国・新羅との関係史はこれが基本である。これに反する歴史書は改ざんされている。
 百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(ソウル)に移り、その後たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(公州)、さらに538年に下流の泗沘(しび)に移された。

2 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は書き換えられている。
 書き換えられる前の原文を再現してみる(抜粋)。参照したのは宇治谷訳日本書紀。

(1)法興王・任那復興の協議
 新羅の法興王は任那の旱岐らに語って、「倭の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか」。任那の旱岐らが答えて「先に再三百済とは話し合いましたが、まだ返事もありません。・・・。任那は百済と国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
 法興王は「昔、わが先祖の世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願った。ところが百済に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。
  ・・・。任那の境に百済を呼んで、話し合いに応ずる気があるかどうか尋ねよう。天皇への使いが帰らないうちに、百済が隙ををみて任那を侵すならば、自分が行って助けるだろう。お前らは、卓淳らの禍を繰り返すのを恐れるといったが、百済は自分の力が強くてできたわけではない。かの㖨己呑は加羅と百済との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救いたすけられなかった。それで亡んだ。南加羅も亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら百済に内応した。それで亡んだ。
 昔、百済は高麗に助けを乞い、任那と新羅を攻めたけれども、勝てなかった。百済がどうして独力で任那を亡ぼすことが出来ようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば任那はきっと復興できる」といった。

(2)百済謀略の戒め
 法興王は任那に対して「・・・。百済が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。計略にはまれば、国を失い、家を亡ぼし身は虜となる。聞くところでは任那と百済が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表わすと、世の人はいう。・・・。」と。
 法興王はまた「倭の諸卿は長く任那の国にあって、百済に交わり、百済の実情はご存知である。任那を侵し、倭の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて百済が動いていないのは、近くは新羅を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。百済が任那の倭府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」といった。

(3)任那復興の計画
 法興王は語っていった。「任那とわが新羅とは、古来子弟のような間柄であった。今、印岐弥が百済を討ち、さらに新羅をも討とうとしている。また好んで百済の偽りに騙されているのである。昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした。助け合う国として友好をむすぼうとしても、かえって後悔することになろう。聞くところによると、百済と安羅の国境に大きな河があり、要害の地であるという。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせ加え、百済人に耕作させないようにして困らせたら、百済の久礼山の五城は、自ら兵を捨てて降伏するだろう。卓淳の国もまた興るだろう。倭から遣わされる兵士には、自分が衣服を給しよう。これが第一の作である。なお新羅が下韓に郡令・城主を置くことは、どうして天皇に違背することになろうか。わが願いとすることは、強敵(高句麗)を討つことである。およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう。北敵(高句麗)は強大で、わが国は微弱である。もし南韓(下韓)に郡令・城主を置かなかったら、この強敵を防ぐことはできない。また百済を防ぐこともできない。それで百済を攻めて、任那の存在を図るのである。さもないと滅ぼされて天皇にお仕えすることもできなくなる。これが第二の作である。・・・。」と。
 六年秋九月、新羅は丈六の仏像を造った。願文を作って「この功徳によって天皇がすぐれた徳を得られ、天皇の治められる諸国が、幸いをうけることを願いたい。また天下の一切衆生が、業苦を脱することを祈願して、お造り申し上げる」といった。


(4)倭への救援要請
 十二年春三月、新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した。また軍を進めて平壌を討った。すべて六郡の地が回復された。
 十三年五月、新羅・加羅・安羅は倭国に遣使し「高麗と百済と連合して、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」と言った。詔して「今、新羅の王・安羅の王・加羅の王・倭府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」と言われた。

(5)仏教公伝
 法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。
 十四年新羅は遣使して軍兵を乞うた。
 内臣を使いとして新羅に遣わした。良馬二匹・諸木舟二隻・弓五十張・矢二千五百本を賜わった。
 新羅は倭に遣使上表し「今年にわかに聞くところでは百済と高句麗が通謀し『新羅と任那はしきりに倭に赴いている。思うにこれは軍兵を請うて、わが国を討とうとしているのであろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠からぬことである。まず倭の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って倭の路を絶とう』といっています。願わくば天慈をもって、前軍後軍を遣わし、引続き救援をお願いします。派遣の軍がわが国に着いたら、衣粮の経費は臣が負担します。任那への場合も同様ですが、もし任那が堪ええない時は、臣が責任をもって、決して不足はさせません。何とぞ天慈をもって、速やかに代理を遣わして、任那をお鎮めください。またこちらの諸国は弓馬に不足しております。古来、天皇にお助けを頂いて強敵を防いできました。天慈をもって多くの弓馬を賜わりとうございます」といった。
 新羅は倭に遣使上表し「新羅王と安羅にはべる倭の諸臣たち、任那の旱岐らが申し上げます。思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています。十二月九日に、百済攻撃を開始しました。ただ百済のみならば、内臣が率いてきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗・百済の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも遣わして、臣の国を助けてください。また、任那を助ければ事は成功します。自分は軍士一万人を遣わして任那を助けます。今、事はまさに急です」といった。

(6)法興王の戦死
 百済の将があって言った。「よろしくない。倭の天皇は任那のことで、しばしばわが国を責められた。ましてや新羅の滅亡を謀れば、後に憂えを残すことになる恐れがある」と。それで、中止した。
 十六年二月新羅の王子は弟を倭国に遣わして奏上し「法興王は賊のため殺されました」と報じた。天皇は聞かれて深く悲しまれた。使者を遣わし、難波津(東郷池)に出迎えて慰問をされた。許勢の臣が「倭に留まることを望まれるか、あるいは本の国に向かわれますか」といった。蘇我稲目天皇が尋ねて「法興王は天道地理をさとって、名は四方に知られていた。永く平和を保ち、海西の諸国を統べて、千万年までも私に仕えるものと思っていたのに思いがけないことになってしまった。何かの咎があって、こんな禍を招いたのだろうか。今どんな方策で国を鎮められようか」と。王子は対えて「自分は、天性愚昧で大きな計を知らず、ましてや禍福の因るところや、国家の存亡についても分かりません」と。そこで蘇我稲目天皇は「むかし雄略天皇の御世に新羅が高麗に攻められて、累卵の危うきにあった。そのとき天皇は神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、国が鎮まり、人々も安らぐであろう』といった。これによって神をお招きし、行って新羅を救われた。聞くところによるとあなたの国では、祖神を祀らないということですが、神の宮を修理し神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう」といった。

(7)任那の滅亡
 二十三年一月、百済は任那の宮家を討ち滅ぼした。
 六月、詔して「百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。百済は任那を攻め、人民を虐げた」といわれた。
 七月一日、百済は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは百済が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土に帰らなかった。倭人民同様に遇された。今、河内国・・・の百済人の先祖である。

(8)伊企儺の妻大葉子
 百済が任那を攻めたときの様子を問責しようとして大将と副将をしゅっぱつさせた。任那に到り、家来を新羅に遣わしいくさの計画を打ち合わせさせた。百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた。大将軍は、勝って軍を率い、新羅の軍営に入った。
 百済は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。副将は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると百済の武将は「副将軍はいま降伏した」といって、軍を進めて撃破した。副将は軍を退却させ、野中に陣営を敷いた。副将と妾は百済の闘将に生け捕りにされた。 
 八月、天皇は大将軍を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。大将軍は新羅の計を用いて高麗を撃破した。大将軍は美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目天皇に送った。天皇は二人の女を召しいれて、妻として軽の曲殿に住まわせた。
 十一月百済は使いを遣わして、献上品と調とをたてまつった。使人は帰国を願わず、本国に帰らなかったのでわが国の人民同様に遇した。今、摂津国・・・の百済人の先祖である。

(9)難船の高麗使人
 三十二年三月五日、坂田耳子郎君を使者とし百済に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。
 四月、天皇は病に臥せられた。皇太子を呼び寄せ「お前は百済を討って、任那を封じ建てよ。またかってのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。

3 私見

(3)に「昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした」とある。
(5)に「思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています」とある。
(7)に「詔して『百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。』といわれた」とある。
※ 「無道」という代名詞を3度も使われている国は新羅であろうか、百済であろうか。
 日本書紀・武烈天皇・武烈の暴挙において「百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた」とある。この文章は改ざんされていないと思われる。武烈天皇のころから百済は無道を行う国とされていた。
(3)に「およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう」とある。
(4)に「新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した」とある。
(8)に「百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた」とある。
※ 百済は六韜に基づき、最終的に倭国を乗っ取るためなら倭国の権力者にも近づき倭国に味方をする芝居もした。

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 もともと新羅の地は紀元前210年頃秦国から徐福一行が来たので馬韓に譲ってもらい辰(秦)韓と呼んでいた。その後神武天皇の兄の稲飯命が斯蘆国(新羅の前身)を建国した。倭国は鳥取県中部であったから、倭国に行くには、海流を考慮すると、慶州に都があるのが一番良かった。人力の船でも1日余りで到着する。伽耶(加羅)は古くから新羅と雑居しており、同族であった。任那を広義と狭義に分ける必要はない。任那とは全羅南道の任那4県のことである。伽耶(加羅)は任那ではない。全羅南道の任那は卑弥呼や倭建命が三韓征伐をされてから百済が滅ぶまで存在した。その間百済は何度も任那を侵したが、その都度新羅や倭国の応援によって失地を回復した。

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 日本書紀・継体天皇・任那4県の割譲は詐欺・賄賂に基づくものであり、倭国は割譲していない。新羅と倭国は任那4県を通って中国に行っていた。任那4県を百済に割譲すれば、倭国から中国に行くのに長崎県・熊本県から船を出さなければならない。不便なことであり、新羅と倭国は任那4県を手放したりしていない。日本書紀における任那とは全羅南道の任那4県のことであった。

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 日本書紀・欽明天皇の段の任那とは任那四県のことであった。多数説は加羅の地を狭義の任那とし、任那とは加羅の地である、とする。新羅と接する地は加羅だから加羅を中心に取り上げて論じていた。その原因は藤原氏が新羅を百済と入れ替えているからである。倭国はいったん新羅によって任那四県から中国に行っていた。任那四県がないと新羅に寄らずに中国に行くことになる。対馬海流の関係でこのルートであった。このルートを確立したのは、卑弥呼と倭健命であった。神功皇后の三韓征伐に変えられている。

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 前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。任那とは全羅南道の任那4県のことである。任那4県があれば新羅は直接中国から仏教を導入することができる。新羅への仏教導入はこのルートであったと思われる。




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遣隋使について [百済王12代から45代までの倭国王]

遣隋使について

1 隋書倭国伝(東亜古代史研究所 塚田敬章より) 
(1)倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
(2)毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」
(3)開皇二十年(600年) 倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」 
(4)大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。その国書にいう。”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々” 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。」
(5)明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
(6)倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」
(7)其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。”私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。” 裴世清は答えて言った”(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。” 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」
(8)其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。”隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。” そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命令して清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」
2 日本書紀・推古天皇・遣隋使(宇治谷訳より抜粋)
 15年(607年)秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。
 16年4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名付けて、蘇因高とよんだ。大唐の使人裴世清と下客12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。
 6月15日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船30艘で、客人を江口に迎えて新館に入らせた。
 8月3日、唐の客は都へ入った。・・・。使者裴世清は自ら書を持ち、その所には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天明を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。
 8月16日、客たちを朝廷で饗応された。
 9月5日、客たちを難波の大郡でもてなされた。
 9月11日、裴世清たちは帰ることになった。天皇は唐の君をとぶらってのべられるのに、「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」といわれた。このとき学問僧と学生の8人を遣わされた。
3 日本書紀・推古天皇・新羅征討の条は改ざんされている。百済と新羅を入れ替えて書いている。原古事記に書いてあったと思われる文章を以下に記述する(抜粋)。
 8年(600年)春2月百済と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。任那のために百済を討つことになった。百済を目指して船出した。百済に着いて5つの城を攻略した。百済王は白旗をあげて、将軍の印の籏の下に来たり、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅の6つの城を割譲して、降伏を願い出た。その時将軍は「百済は罪をわきまえて降伏してきた。強いて討つのはよくあるまい」と言って奏上した。天皇は難波吉士神を百済に遣わされた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わし事情を調べさせられた。百済・任那両国は使いを遣わし調を奉り上奏してきたので将軍を召還された。将軍らは百済から帰った。しかし、百済はまた任那を犯した。
 8年(600年)秋9月8日、百済の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして、上野国に流した。
 冬11月5日に、百済を攻めることを議った。
 10年(602年)春2月1日、来目皇子を百済攻略の将軍とした。
 夏4月1日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。
 6月3日、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
 10年冬10月、新羅の僧観勒がやってきた。そして暦の本・天文地理の本、それに遁甲方術の本を奉った。
 11年(603年)夏4月1日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を百済を討つ将軍とした。しかし妻が亡くなったため、征討はやめになった。
4 私見
 倭はヤマトと読む。奈良では大和をヤマトと読ませる。なぜ字を変えたのだろうか。これは藤原氏得意の当て字である。奈良は倭ではないから、大和の字をヤマトと読ませた。。
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  鳥取県中部では上神、下神の地名のように、山側を上(カミ)、海側を下(シモ)と表記する慣例がある。従って、「更造新館於難波高麗館之上」は高麗館の山側(上)ということが判る。これを「近く、脇、ほとり、二階」と訳する方が多く、山側(上)と訳する方はいない。大阪ではこれを山側(上)と訳す慣例が無いようだ。
 応神紀の「軽の坂上の厩」でこれを山側(上)と訳したところ、その場所に今は倉吉市馬場町の地名がついていた。現在の東郷池西畔の湯梨浜町上浅津(山側)と下浅津(海側)もこの地の慣例を現わしている。大阪では山側(上)と訳す慣例が無いので「難波高麗館之上」の解釈に困るのである。「難波高麗館之上」は大阪ではなく鳥取県中部を舞台として書かれたものである。難波津とは鳥取県の東郷池である。 
 やはり、難波津は東郷池である。高麗館は湯梨浜町龍島にあったはずである。新館はその山側にあった。蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は北栄町島にあった。聖徳太子(蘇我入鹿)の皇居は由良にあったが、近くに曲の後宮があるのは島である。「土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る」。神武天皇も狭い国だといった。一切経は「倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にある小さな国である」とする。隋書は「倭国は百済・新羅の東南にある」とする。鵜飼いは北栄町島にいた縄文人の猿田彦一族が神武天皇の時からしていた。
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 蘇我稲目天皇が仏像を山名寺に置いていたが、倭国(鳥取県中部)に疫病が流行って、物部氏の反対もあり、倭国に寺院を建てることができなかった。蘇我馬子と蘇我善徳(聖徳太子)は寺院を奈良に建てることにした。その際中国の長安を模範に奈良に長安のような都を創ることを考えた。そのために隋に遣使を送った(600年)。同じ年に百済が任那を犯したので朝鮮半島情勢は不安定になっていた。任那は新羅を守るためにできた地域だから、新羅が任那を犯すことはない。反面百済は懐柔政策を織り交ぜながら南下政策をとっていた。また百済は隋に良い印象を持っていなかったようである。何度も遣隋使を派遣しているが、隋は百済と高句麗の関係を知っていたので門戸を閉ざしていた。隋ではなく大唐と書いている。隋は唐に乗っ取られるが、この頃乗っ取りが流行り、やがて百済も倭国を乗っ取った。630年の遣唐使は聖徳太子(蘇我入鹿)が出している。乗っ取りが嫌いであった聖徳太子(蘇我入鹿)は唐からの使者に冷たくあたったようだ。
 608年に裴世清たちが倭国にやってくるが、蘇我馬子大王は用心に用心を重ねていたため筑紫から下関にわたり陸路で都まで来させた。それは蘇我馬子の「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた」という言葉に現れている。船で行くと地形を覚えられる恐れがあるから陸路を通らせた。したがって秦王国とは周防であろうと思われる。この地域は殷王朝末裔の準王一族がいたし、長登銅山やその近隣にも銅山があり、弥生時代の青銅器がまだ残っていたものと思われる。銅鐸や銅剣を見て裴世清は先祖が華夏の人だと信じた。今残っていないのは、東大寺大仏の資材として使われたものと思われる。
 ルートは周防→広島市→三次市→庄原市→日南町→米子市→旧東郷町と思われる。
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 中国から贈られた三次の白い鵜
 到達した海岸は米子の海岸だと思われる。そこにしばらく泊まらせられた。蘇我馬子は阿輩臺と哥多毗(日本書紀では難波吉士雄成)に裴世清らを迎えに行かせた。


おまけ
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 湯梨浜町龍島で東郷中学生徒によるドラゴンの舞。隋からの使い(裴世清たち12名)をもてなしたときの名残と思われる。横は中国風造りの水明荘。龍島の隣の引地には河北省が造った中国庭園の燕趙園がある。



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伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に [閑話休題]

 伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に

1  磯部伊雑宮についてのある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。
 『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、「伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたってはニニギ命を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大御神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。
 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

2 以上のことより、人づてによる口伝たる「伯耆民談記」こそ真実が残るのであり、時の権力の影響を一番に受ける文書たる「伯耆誌」は「伯耆民談記」の改ざん改変を強いるものである。
 「伯耆誌」は地名・人名の読み方の共通性を取り上げて論ずることが多く、机上で論ずるが多いところは藤原氏の論法に似ている。また1850年頃は明治維新前であり、国威を発揚するために長年にわたって改ざんしてきた「大日本史」を完成させなければならなかった。徳川光圀が暴いた倭国の都を消し去らなければならなかった。
 また、「伯耆民談記」では大原安綱を作った大原は倉吉市大原であるとするが、倉吉市大原は石上神宮があったところだから私も同感である。しかし、通説(これも藤原氏が作り上げた)は西伯郡伯耆町であるとする。西伯郡伯耆町に安綱の碑文が作ってあるが、これも藤原氏による比定地の改ざんである。
 徳川家康は賢かった。秀吉が藤原氏にどう扱われていたのかをよく見ていたので京都に近づこうとしなかった。したがって徳川時代は伯耆国の神社は優遇されていた。皇大神宮と名乗ることを許された神社が五社あった。
 明治政府の伯耆国に対する冷遇に対して伯耆国は反発したはずである。明治政府(藤原氏)は明治9年に鳥取県がうるさいことを理由として島根県に併合し鳥取県をなくした。

3  溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より 
 第7代孝霊天皇の時代のことです。
 「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
 などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
  天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
  天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
  伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
〈高杉神社の由緒〉
雄略天皇丙辰の年近郷衆庶に崇りあり。在事年を累ね人民これを歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松姫命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇りありとし、これを神廟に祭祀し御告の隋に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)、二ノ御前社(中殿)、三ノ御前社(末殿)と奉仕し、祭日には嬲神事とて三人の仕人物忌み神懸りあり。幣帛をもって打合せ式あること絶えず。・・・。当社社伝には孝霊山は景行天皇御草創の地にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりと。
〈私見〉
 私見によると、嫉妬の崇りがあったのは孝霊天皇の正后である細姫ではなく、高杉神社の近くの妻木から娶られた朝妻姫であると解する。都は奈良にあったと思わせるように書かれているが、都は鳥取県中部にあったから妻木に行ったり来たりはその日のうちにできた。

4 孝霊天皇一族について記す伯耆国神社の由緒
(1) 生山神社
 伯耆誌に曰く「伯耆民談記に当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ、というは例の妄誕なるべし」と。
 当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ。
(2) 菅福神社
 当社の社伝記に「母来国日野郡菅ノ郷に鎮座の高宮大明神は人皇七代の帝孝霊天皇御旧跡の御社なり。この大御代に皇尊に背き国民を悩ます者あり。牛鬼という。帝の親征皇后細姫命幸を共にし給う。時に河の辺りに大なる石ありて、これを高御座となし、小菅を刈り薦(こも)となし、御鏡を石の上の置き給い、姫御子御降誕福姫命という。時に河音姦しく、天皇彼の御鏡を河に沈め給いて河伯に祈り給う。忽ち河音止まりぬ。その所を名付けて音無川といい、その地を産盥(たらい)という。さらに宮所を求め給い行宮を造らしめ給う。今の高宮社の地これなり。鏡を置かせ給える所を鏡岩大明神と斎ひ奉り、菅を刈らせ給いし所を菅の里という」と。
(3) 楽々福神社(日野郡溝口町宮原)
 当社鎮座につき伯耆民談記に曰く「楽々福大明神と号する社日野郡に建つ所都て四ヶ所、各孝霊天皇を祭る神社なり。但し印賀村の楽々福の社は彼の天皇の姫宮福姫を祭る神社なりと伝来す。当社を 日野大社と伝う。上古孝霊天皇の御宇当国西端に悪鬼あってこの地に御座をなされし鎮政なりと云う。すなわちこの所にして崩御あってその神跡と云って社の後に方八間の岩窟あり」。なお伯耆誌に曰く「・・・」
(4) 楽々福神社(日野郡大宮村印賀)
 祭神媛姫命(またの名は福姫)は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。伯耆誌に「今当社に福姫命一座とす。社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山といえるもあれど、すべて信じがたし。当社もと榎垣内村一條山に在りし」と。民諺記に記するものあり。溝口村郷社楽々福神社の所に記す。参照すべし。
 祭神媛姫命は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。
(5) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内東宮ノ廻リ)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、ついに平定し給う。よって、若健吉備津彦命の功績を畏(かしこし)みてこの地に祀る。大日本根子彦大瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並びに正后妃に当たらせられる。
(6) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内西馬場ノ筋)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と弟若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、大吉備津彦命これを平け給い。ついにこの地に薨し給うを以て斎祀る。伯耆民談記に「東西両社共に大社にして神宮寺あり。社の後ろなる山上に岩窟あり。天皇の皇女崩御の窟なりと云い伝う。凡人臨むこと叶わず」と。また伯耆誌に曰く「・・・」
(7) 福成神社
 なお、当社には牛頭天王、愛宕大明神をも合祀すれどもその年代明らかならず。したがって県の明細帳にも脱漏せるが実際には吉備津彦命、大日本根子彦大瓊命、稚武彦命、細姫命、倉稲魂命をも加えるべく、なお他にも脱せるものありて実数は五十柱にも及ぶと云えり。
(8) 日谷神社
 伯耆誌に曰く「当社今大を王にかえて王宮大明神とするは例の社家の杜撰なり。応永の古文書によるに、楽々福大明神の地といえり」

5 伝承は全国に多くあるが、その伝承に対し藤原氏の反論がある伝承が本当の伝承である。藤原氏の反論のない伝承は藤原氏自身が創作した伝承であり、九州の神武天皇の伝承や神功皇后の伝承などは、全国に4万社ある八幡神社を使って創作された藤原氏の伝承である。 鳥取県中部でも倭文神社の下照姫命や、九品山大伝寺の中将姫伝説や打吹山の天女伝説などは、そこにあるヤマト王権の伝承を消すために創作された伝説である。


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