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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天忍穂耳命、長男の鐃速日命、次男の瓊々杵命について [天孫降臨]

 天忍穂耳命、長男の鐃速日命、次男の瓊々杵命について


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 鳥取県大山町の壹宮神社は天孫降臨の地か

 昭和9年刊鳥取県神社誌より
1 壹宮神社 
 鎮座地 西伯郡高麗村大字上萬字澤形  
 現在地 鳥取県西伯郡大山町上万1124番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、萬幡豊秋津師姫命、天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵命
 由緒 創立年月不詳と雖も、郡中の旧社にして、古来壹宮大明神と号し、往昔より神田若干を寄附せられ、元和寛永の頃に至りても旧格に準ぜられ、崇敬他に異なりしこと古證書等に判然たり。故に今猶宮田神子森田などの字近傍の耕地に存す。又一ノ宮と称すること社伝に曰く「高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなり」と。古事記に曰く「爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也」とあるを以て証すべし。又旧記に拠なしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」と。該郡に於ては最も秀抜の社殿なりしが建久以降尼子風土を争闘し兵燹に罹り神器古証書等多く焼失せり。現今上萬原と称する所の人戸は社地の西辺に断続したる一村落なりしが、灰燼の原野となり、方今の所に転居せし者なり。今猶此所を上萬原と称するは此故なり。村内荒神社も其故地に存在せしを神社改革の際廃祠となれり。従来郡中五穀豊登風雨旱疫の災を穣ふの祭祀永年執行すべき旨を以て旧藩中特別崇敬あり。社殿営繕の費額幾分を該郡に賦課すること維新前迄之を例とす。
 明治元年十月神社改正の際、大明神の号を廃し壹宮神社と改称せられ同五年三月郷社に列せられる、明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

※私見
 壹宮とは藤原氏の神社神名式(927年)の一宮ではない。734年以前の伯耆国で一番最初にできた神社である(天孫降臨よりも4年前の紀元前200年頃)ことを示している。天照大御神が降臨した琴浦町の伊勢神宮や素戔嗚命が十握剣を奉納した石上神宮(倉吉市大原)よりも古いことを示している。
 古老の口碑に伝ふる「往古神祠創設の始原此郡郷の開けし際に方(あた)り神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、因て人民迎尊して一ノ宮と号す」は「神社を建つるの濫觴(はじまり)にて、・・・・・因て人民迎尊して」であり、「・・・・・」は明治維新の申請の時に削除されている。

2 江美神社 
 鎮座地 日野郡江尾村大字江尾字上ノ段
 現在地 鳥取県日野郡江府町江尾1894番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 天照国照彦天火明櫛玉鐃速日命、伊弉諾命、厩戸豊聰耳命、倉稲魂命
 由緒 創立年月不詳、旧記に拠れば昔時天歴年中此の地方に進氏(永禄年間江美城主蜂塚右衛門尉の重臣進五郎兵衛の祖先なり)と云ふ豪族ありて、地方を開拓して多くの荘園を有し土民と撫育せしが、其の頃大和国石上神宮の御分霊を勧請せるものなりと云ふ。往古は磐船神社と称せしが、(勧請の時天之磐船をを模造せる神輿に奉安して迎へしによれると云)其後厩戸豊聰耳命を合祭して王子権現と改称せり。当社は古来此の地方の産土神にして細原荘(小原荘とも云)一円の総鎮守なれば、往古より大社或は大宮又高氏等の社格を称へしことあり。天文五年本村旧領主蜂塚右衛門尉本社を造営し、社領高六十三石五斗を寄進す。後永禄八年八月蜂塚氏吉川氏の為に攻落さる。此の時社殿兵燹に罹り古文書宝物等を焼失す。天正元年十一月社殿造営(吉川駿河守元春の名ある棟札在)。慶長六年米子城主中村一忠社領高六石を寄進す。寛文七年六月旧藩主池田氏社領高一石二斗七升二合を寄附せらる。
 明治元年神社改正の際江尾社と改められ、同五年村社に列す、同六年江尾神社と改称す。
 明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

3 矢送神社 
 鎮座地 東伯郡矢送村大字山口字横路
 現在地 鳥取県倉吉市関金町山口447番
 祭神(大正合併の祭神は除く) 天津彦火瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命
 由緒 当神社は人皇八十九代亀山天皇御宇文応元年、日向国高千穂槵觸の峯より勧請し矢送庄九ヶ村の大社として奉祀したるものとなりと云ひ伝ふ。
 元禄三年九月本社建立の際松平伯耆守より米三石寄進せらる。初め矢矧山社杵米大明神と称せし。
 明治元年山口神社と改称せられ、更に明治三十五年四月矢送神社と改称す。
 明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

4 八幡宮(大宮神社)
 鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山(現在地 鳥取県東伯郡北栄町西高尾)

 祭神(大正合併の祭神は除く) 誉田別命、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命
 由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして・・・・・。
 明治五年郷社に列せられ、高尾神社と改称せらる。
 明治十二年旧社号八幡宮と復旧せり。
 明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 大正四年四月二十一日
 ◎ 栄村大字上種字宮惣鎮座(現在地 鳥取県東伯郡北栄町上種)村社大宮神社(祭神 大己貴命、別雷神、瓊々杵命、素戔嗚命、菅原道真)
 栄村大字東高尾字堂山鎮座無格社東高尾神社(祭神 素戔嗚命)を合併す。
 当社に古き経筒を蔵す。理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば藤原時代の献納物ならんと。尚当社が石清水別宮なりしこと、元暦二年正月十九日右大将源頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。

5 私見
 壹宮神社の祭神は瓊々杵命であるが降臨したところではない。海面が海抜4mの地形を見ると、壹宮神社の近くは淀江町より西が津になっているが「葦原中津国の前には笠沙之御前がある」とするのが定説である。淀江町の前に笠沙之御前は確認できない。したがって、淀江町の西の津は葦原中津国ではない。
 壹宮神社の祭神は瓊々杵命とその両親だから壹宮神社は瓊々杵命が生まれたところである。天孫瓊々杵命は四歳で高天原から降臨するので、それまでに高天原(蒜山)に上がっていた。
 天孫瓊々杵命は蒜山高天原から鳥取県中部の矢送神社経由で北栄町の大宮神社に降臨した。北栄町には笠沙之御前(北条砂丘)が前にある葦原中津国が確認できる。
 天孫瓊々杵命と一緒に豊受姫(倉稲魂命)も降臨している。豊受姫は幼い瓊々杵命の世話をしていた。江尾神社の祭神に倉稲魂命(豊受姫)がいる。倉稲魂命(豊受姫)は天照国照彦天火明櫛玉鐃速日命の世話をしていた。
 九州の方で神武天皇の子供に耳が付くので耳族と名付ける方がいたが、耳とは生まれた地名である。鳥取県倉吉市関金町耳集落のことである。
※ 倉吉市関金町耳集落
 天忍穂耳は生まれは中国だが、しばらく倉吉市関金町耳集落にいた。
 鐃速日命の子孫は神武天皇のうわさを聞き神武天皇を追って高天原(蒜山)から降りてきた。その後倉吉市大原を拠点として物部氏と名乗った。


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筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である [百済王12代から45代までの倭国王]

 筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である。

1 日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2 私見
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(1) 任那は新羅を守るためにできた連合国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは崇神天皇(155年~258年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。しかし、倭国と兄弟国であった新羅にも侵略するものが出てきたため、新羅の周辺を守る伽耶国(加羅国)ができた。新羅と同じ秦韓族(徐福一行の子孫)である。北は大邱から南は釜山を中心にした北の山脈までである。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。百済は倭国に甘言を弄して朝貢や人質を送った。660年には百済王朝は倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済と倭国は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と倭国を奪おうとしていた。

3 〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  

 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。



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鳥取県大山の大神山神社の地に神南備を創建したのは崇神天皇である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 鳥取県大山の大神山神社の地に神南備を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。


1 大神山神社の由緒にある「磯城の瑞垣」とは崇神天皇の皇居である。古い文献伝承があったのだろうが藤原氏を恐れて
崇神天皇とは書かずに崇神天皇を連想させる「磯城の瑞垣」と書き残した。大山中腹の現今の奥の宮の所在地に神南備を創建したのは崇神天皇(紀元155年~258年)である。崇神天皇と姉の卑弥呼が全国の神社のもとを創ったのであるから、皇居が鳥取県中部にあった崇神天皇は真っ先に大神山神社を創建した。また崇神天皇は始めに登りダイセンと名付けた始祖の天照大神(徐福)を祀ったのであり、大国主を祀ったのではない。藤原氏は神社名を大神山神社としたため大神山にいた大国主を祭神にした。そして大国主の本拠地が出雲の近くにあるように創った。

2 大山の大神山神社の宮司はアジスキタカヒコネの子孫であり、このことは現宮司まで一子相伝で語り継がれてきたそうである。現宮司の先祖は奈良時代に倉吉市の法華寺畑遺跡で行われていた血脈狩りの公開処刑を見ていた。だから天皇家に対する恐怖心を人間天皇になった今まで抱いてきた。奈良時代土佐王の池田氏が助けを求めて琴浦町にあった伊勢神宮に来たことが方見神社の由緒に残っている。隼人の乱(720年)も「乱」などというが亡命百済王朝が政権を奪うための前準備であった。ウィキペディアでは「隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である」とするが、間違いである。八百年の間ヤマト王権(鳥取県中部)に属していた隼人が亡命百済王朝の支配に対して抵抗したということである。

3 私の先祖も法華寺畑遺跡で殺されたのか「夢の中でその時の映像が映し出される」。それでも一族は20数軒残っているので良しとしよう。大神山神社の現宮司と同じく私の家系も一子相伝であった。故父は「神武天皇の道案内をしたのでこの名前をもらった」と言っていた。神武天皇の道案内をしたのは神武天皇の一番の家来の「道臣」である。私の姓には始めに「道」が付いている。藤原氏は私の家系抹消もしたかったのだろう。しかし、大神山神社の現宮司と私の先祖も生き延びた。だから、大山の大神山神社の祭神を現宮司の先祖ではなかった、とは言いづらい。しかし、現天皇家が政権をとる奈良時代(734年)までは天照大神(徐福)が祀られていた。

4 十数系統あった大国主の子孫の多くは奈良時代から平安時代にかけて血脈狩りにあった。それは734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝によるものであり、それまでの天皇家は大国主の子孫を大事にしていた。アジスキタカヒコネは倉吉市灘手地区の鋤集落にいた。だから、奈良に行ってはいない。アジスキタカヒコネを鴨族だとし、奈良の葛城にいたように創作したのは、倭国を乗っ取った藤原氏である。アジスキタカヒコネの子孫は奈良に行っておらず、伯耆国を転々としていた。大神山神社の現宮司が大国主の直系の子孫であるならあえて異議を唱えないが、734年までは大神山神社の祭神は天照大神(徐福)であった。



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鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社 [徐福、天照大御神]

 鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社

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1 海岸近くの日御碕神社
(1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455
   日沈宮はもと経島に鎮座した。
(2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通
   現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86
 由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野政重この地に移住し宮司となり、政昭、昭高三代相継ぎて奉祀せしが、後昭高別に祭主を置きて帰国せしが、当時の領主厚く崇敬して箆津の庄を社領に附し、境内において殺生を禁じ、・・・。当社建立の際は出雲日御碕神社の古材を以て建立せられ、出雲日御碕神社造営の節は必ず当社も修繕せらるるを例とせり。現今の玉殿は日御碕の社より寄進せられしものなりと云えり。当社の北方境内に接する地に検校屋敷と称する所あり。これ天長年間より延長六年まで殆んど百年間、小野家の祖三代居住せらりし地なりと云う。
(3)鎮座地 米子市大字陰田字小天竺
   現住所 鳥取県米子市陰田町535番
(4)鎮座地 西伯郡渡村大字渡字宮前(境港)
   現住所 鳥取県境港市渡町1487-4
(5)鎮座地 西伯郡中村大字小篠津字本宮(境港)
   現住所 鳥取県境港市小篠津町1174

2 海抜20m以上にある日御碕神社
(1)鎮座地 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
   現住所  鳥取県西伯郡南部町東上656番
(2)鎮座地 西伯郡幡郷村大字岩屋谷字屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町岩屋谷453番
(3)鎮座地 西伯郡幡郷村大字諸木字中屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡南部町諸木329
(4)鎮座地 西伯郡大幡村大字吉長字三才木 
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町吉長370番

3 大神山神社(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
 由緒 神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり。

4 大神山神社奥宮(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 祭神 大巳貴命
 由緒 上古よりこの山に座す大山神の事は本社の由緒に記せり。大神谷に本社の大山権現又は大山智明権現と称し、例祭祭祀の典式等旧時の遺風を存し、全く神事を廃せざるものあり。
 特殊神事 古式祭 祭日7月14日15日
 御祭神は医薬の神にませば、古式により神職等は斎戒沐浴して、15日の午前1時に神水汲派遣祭(もひとり神事)を宮司以下奉仕執行す。派遣使は白の装束にて随行の白衣の参籠者と共に出発。頂上の池より神水を汲み、付近より薬草を採取して帰路につく。

5 私見
(1) 日御碕神社は全国的にも珍しい神社である。出雲市日御碕神社を総社としてほかに伯耆国に8社確認できる。日御碕神社の祭神は天照大神命と素戔嗚命であるが、徐福(天照大神)と素戔嗚が辰韓から鳥取県中部の葦原中津国に到着するまでに停船したところであると解する。
 海抜20m以上にある伯耆国の4社は遅れてくる徐福一行を迎えるために徐福(天照大神)と素戔嗚が蒜山から降りてきたところと思われる。
(2) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(3) 天照大御神(徐福)は大国主より40歳くらい年配であるから、天照大御神(徐福)が先に大山の薬草を採取していたはずである。不老長寿の仙薬を探しに東海の三神仙(蒜山)に来たのだから山を「セン」と読む蒜山周辺に50くらいある山には登っていた。大山(ダイセン)もその一つである。もひとり神事は白装束でなくてはならないのだから、これも徐福(天照大神)たちと重なる。




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