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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった [閑話休題]

 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。

1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより)
(1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『 大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
(2)538年(戊午)説
 『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。

2 私見
 通説は、仏教は欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、とする。このことに反論する者はいない。未だかってこのことに疑いを差し挟む者はいなかった。しかし、日本書紀の公伝年は改ざんされている。なぜだろうか。それは百済の聖明王は仏像を贈っておらず、仏像を贈ったのは新羅の法興王だからである。百済史官は日本書紀を作るにあたり、百済と新羅を入れ替えたから、新羅王とあったのも百済王にしなければならなかった。三国史記だと思われるがそこには「538年、法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった」とあった。これを百済の聖明王に直さなければならなかった。日本書紀では仏教公伝の2年後に亡くなっているから、聖明王が亡くなる2年前の552年に釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつったとした。538年も聖明王の在位期間中であるが、百済は538年に都を熊津から泗沘へ移しており、倭国に仏教を公伝するようなゆとりはなかったはずである。538年ならば法興王が亡くなる2年前であり、日本書紀の王の名を変えるだけで法興王とぴたりと重なる。
 聖明王は554年に亡くなっているから、538年説では、仏教公伝から16年後となる。日本書紀には「仏教公伝は欽明天皇13年冬10月。聖明王の死は欽明天皇15年冬12月(15年12月9日に百済攻撃を開始している。16年2月に倭国に王子が行き王の死を報告しているので葬儀の期間も考えると王の死は15年12月中と思われる)」とあり、王の死は仏教公伝から2年後である。仏教公伝から王の死まで16年の間の出来事を日本書紀につくりあげることは不可能であるから、聖明王が亡くなる2年前の552年に仏教公伝があったことにした。また聖明王の死は7月とされる。しかし、日本書紀では「聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」であり7月ではない。史実は仏教公伝は538年10月であり、王の死は540年の12月であった。
 新羅において527年に仏教を公認した法興王が538年に倭国に仏教を公伝した。2年後の540年に法興王はなくなった。高句麗から新羅に仏教が伝わったのではなく、新羅から直接中国に行くルートがあり新羅は直接中国から仏教を導入したものと思われる。法興王の時代に公認された(527年)後、新羅は南朝梁との交流もあり、国家主導で仏教振興策をとっていた。大規模な寺院跡が見つかるのは百済ではなく新羅である。新羅の皇竜寺の規模は東西288m、南北284m。仏国寺はさらに大規模であった。倉吉の大御堂廃寺の規模は東西は135m、南北は220mである。また、法興王の名は法興寺(規模は南北293m、東西は、北辺215m、南辺260mの台形)や法隆寺や法楽寺の名と似ており関連があるように思われる。特に日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んでつけられたものと思われる。日本書紀・崇峻天皇・法興寺の創建の条も新羅を百済に置換えている。
 ウィキペディアでは「いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたことは疑いないと思われる」とする。その根底には、日本書紀の改ざんされた記載を信じて「倭と百済は盟友関係にある」という思いがある。実は倭と盟友関係にあったのは新羅であった。
 また「次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった」とする。
 「538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされる」とするが、泗沘は熊津より南にあり、より任那や新羅に接近している。これは任那や新羅に対して攻勢を仕掛けるためであり、2年後(540年)に新羅の法興王を殺害した。倭に援軍をさかんに要求したのは新羅である。大して負けてもいないのに白旗を掲げるのは、権力者に近づくためであり、六韜に基づいた行動である。百済出身の鎌足は六韜を暗記するほど愛読していた。高句麗や百済の行動パターンを見ても六韜に基づいて行動していることが判る。権力者に近づいておだててみたり、時として蜂や大蛇のように牙をむきだしたりと、六韜に基づく行動である。六韜は高句麗や百済のバイブルであった。


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