So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

前の10件 | -

今までのまとめ [まとめ]

 今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 伊邪那岐・伊邪那美は葦原中津国(鳥取県北栄町)を造るため蒜山高原(瀛州)より倉吉市の新宮神社に降臨していた。伊邪那美は病気で打吹山周辺に収容された。三貴神(天照大御神・素戔嗚・月読命)は葦原中津国に到着した。伊邪那岐は三貴神を葦原中津国で出迎え「~は~を治めよ」といった。素戔嗚以外は蒜山高原(瀛州)に上がった。高天原は蒜山高原(岡山県真庭市)である。三貴神以前の神々も蒜山高原(瀛州)にいた。


2 天照大御神は男性である。天照大御神は道教の方士徐福である。徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡り、徐福本隊は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着した(紀元前210年)。徐福は三神山〈蓬莱山(大山)・方丈山(烏ヶ山)・瀛州山(蒜山)〉に上がり始皇帝にいわれたように王(天照大御神)となった。月読命は保食神であり女性である。


3 素戔嗚は葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから瀛州(蒜山高原)に上がり、降りて八岐大蛇を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。八岐大蛇伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。素戔嗚はその後、稲田姫と鳥取県八頭町大江郷に住んで大国主(八島士奴美神)を生んだ。根堅洲国(黄泉国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。素戔嗚は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社に須勢理姫(宇迦之御魂神)と住み、東山神社に移った。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原にあった。


4 伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市中心市街地)から葦原中津国(鳥取県北栄町)までの鳥取県道23号線である。伊邪那岐が禊をした原は北栄町原であった。大国主はスセリ姫を背負って黄泉比良坂の麓から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に逃げた。大国主は素戔嗚と稲田姫の子である。


5 大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲神族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名とともに、全国の国造りをしていた。
 伊邪那岐や大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。少彦名がいなくなってから、天忍穂耳(大物主)が大国主と協力して全国の国造りをした。この時の天忍穂耳(大物主)の本拠地は北栄町下神(しもつみわ)の三輪山(神山)であった。


6 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきて交渉した伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。


7 天照大神・月読命(保食神)・饒速日命一行は蒜山高原(岡山県真庭市)より倉吉市関金町に降臨し、天照大神・月読命(保食神)一行は伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。健御名方は琴浦町方見村に居た。饒速日命は鳥取県北栄町の土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)に降臨し定住した。猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。


8 饒速日命が亡くなったので、2番目に弟の瓊々杵命が鳥取県北栄町下種・茶ヤ条の大宮神社に降臨し、葦原中津国を平定した。瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。瓊々杵命と木花之佐久夜毘売の子の火火出見命(鵜草葺不合)は辰韓に行き豊玉姫と結ばれ、五瀬命が生まれた。また、玉依姫と結ばれ神武天皇が生まれた。火火出見命(鵜草葺不合)は日向の四王寺山に宮を造った。
 北条砂丘全体が「笠沙之御前」であると確認できたこと、地形・周辺の神社の祭神の配置などより葦原中津国は100%間違いありません。この葦原中津国より、すべてが導き出されてきた。


9 神武天皇の四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(畝傍山・日向)にいた。神武天皇の四兄弟は二男と三男が大陸に渡るため、一旦九州に行った。神武東征の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。長男と神武天皇は九州から奈良に行かれ長男は亡くなったが、神武天皇は奈良から倭国(鳥取県中部)に帰り、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。二男の稲飯命は辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。


10 欠史8代の天皇は鳥取県中部にいた。第2代天皇は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社にいた。第3代は師木の湯梨浜町橋津観音堂。第4代は軽の倉吉市小田山。第5代は葛城の倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇は北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇(卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の兄)は倉吉市小田にいた。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦・倭建命)は鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた。欠史8代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。
 倭国天皇家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲神族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国天皇家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。


11 倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲神族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇の妹であった。景行天皇の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であった。
 卑弥呼は倭建命や皇軍と共に東は岩手県、西は長崎県、朝鮮半島までの広範囲を平定した。卑弥呼は終の棲家を志摩国に定めた。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。奈良の纒向で全国の代表者を集めての祭祀をするときは、卑弥呼の安全のため、吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳である。


12 第10代崇神天皇(大吉備津彦、卑弥呼の弟・湯梨浜町長和田)と第11代垂仁天皇(湯梨浜町川上)は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動していた。第12代は景行天皇(皇居は鳥取県中部)。第13代は武内宿禰天皇(北栄町原)。第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰・湯梨浜町松崎神社)。第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦・倉吉市穴窪と湯梨浜町小鹿谷)。第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃・北栄町米里)。第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍・皇居は鳥取県中部)。第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済・皇居は鳥取県中部)。第19代は安康天皇(興・北栄町米里)。第20代は雄略天皇(武・倉吉市長谷寺)。第21代は清寧天皇(北栄町米里)。第22代は仁賢天皇(倉吉市大原)。第23代は武烈天皇(倉吉市打吹山)。第24代は継体天皇(北栄町米里)。第25代は安閑天皇(三朝町大瀬)。第26代は蘇我稲目天皇(湯梨浜町龍島と倉吉市大江神社)。第27代は蘇我馬子天皇(北栄町北条島)。第28代は蘇我入鹿天皇(北栄町由良宿)。第29代は蘇我倉山田石川麻呂天皇(湯梨浜町長江)。第30代は天武天皇(倉吉市賀茂神社)。第31代は高市天皇(キトラ古墳・皇居は鳥取県中部)。第32代は忍壁天皇(高松塚古墳・皇居は鳥取県中部)。第33代は穂積天皇(皇居は鳥取県中部)であった。第34代天皇(皇居は鳥取県中部)は安全のため鳥取県中部にいた。

 

13 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・磐余邑・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社は鳥取県中部(倭国)にあった。天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社にあった。天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王も泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教を会得した。

 660年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大御神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。

 紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、倭国の都は鳥取県中部であった。





 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。


 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。


 任那(全羅南道)を侵す百済に対して、蘇我馬子天皇は日羅の進言に基づき、王か王子を倭国に来させるように要求していた。


 631年、百済が全羅南道にあった任那を侵すので、中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿天皇の皇居(由良の宮)に人質としてこさせられた。中大兄王子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会うまで大海人皇子と同じように蘇我入鹿天皇のもとで育てられた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から六韜に基づいて蘇我入鹿天皇を徹底的におだてた。高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は、645年に聖徳太子である蘇我入鹿天皇を斬首した。647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂天皇が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。天武天皇は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。


 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。


 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。

 日本書紀は壬申の「乱」とするが「乱」ではなく、神武天皇の時から倭国天皇家が準王一族(蝦夷)の「乱」に対して行なってきた平定であった。


 不比等は天皇や側近を徹底的におだてた。不比等と鸕野讃良は天皇や多くの要人を次々に毒殺した。高市天皇(在位686~696)、忍壁天皇(在位696~705)、穂積天皇(在位705~715)は在位期間が短いので毒殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた天皇(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。


 唐は日本は倭ではないことを知っていたので席次は新羅より下であった(753年)。日本は780年には新羅との国交を断絶する。倭国を乗っ取った政権(藤原一族)は八紘一宇を掲げて太平洋戦争が終結するまで大陸進出を試みた。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。


 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を隠すために亡命百済王朝(日本)の神社として始まった。3世紀、倭国の倭姫命(卑弥呼)と崇神天皇が全国を統一するために始めた神社のやり方を真似て、神社をそれ以上に多く創って列島を支配することを始めた。倭姫命や崇神天皇が造っていた神社をも取り込んで列島を支配した。それまで倭王朝に虐げられていた馬韓出身の準王一族にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。宮司に藤付き姓が多い。また準王一族は東北や出雲や阿蘇に多い。


 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。(藤原氏の思い通りにするよう仕掛けて実行させ、その行為が後に批判を受けても、藤原氏の指示ではない、と逃げる。)源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛文麿は藤原氏である。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)は百済人が始めた。


 藤原氏の支配は政財界や各種組織のリーダーとして現在でも続いている。明治維新は王政復古であり藤原王朝が元気を取り戻した時代であった。半面、明治維新は鳥取県中部(倭国)にとってはさらに受難の時代であった。歴史上重要な神社が並み以下にされた。天照皇大神宮を方見神社とし、賀茂皇大神宮を賀茂神社とされた。倉吉の雄略天皇と武烈天皇の皇居の間に大きな鎮霊神社を建立した。明治政府の冷遇に鳥取県はうるさかったようだ。明治政府はうるさいことを理由として鳥取県を無くし、明治9年に島根県に合併して松江を県都にした。この藤原体制は太平洋戦争が終了するまで続いた。戦後70年経って、藤原氏はまた戦前までの藤原体制を再興しようとしている。「藤原にあらざれば人にあらず」(国民の命を虫けらのように扱う)の精神が復活しようとしている。



 

※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。     平成28年5月11日更新

 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA

続きを読む


nice!(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

第二節 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。


1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「倭迹迹日百襲媛命またの名を日女命」と言う説が有力であり、調べてみることにしました。
 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみました。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡でありましたが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していました。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「倭迹迹日百襲媛命またの名を日女命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみました。ところが、祭神として倭迹迹日百襲媛命も日女命も祀っている神社はありませんでした。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかりました。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係です。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないのだろうか。倭迹迹日百襲媛命も倭姫命と同神ではないのだろうかと思い、調べてみました。
 古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。
 稚日女命はただの織女で卑弥呼ではない。しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んでいる。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと神社の祭神「日女命」とあったものに「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。もしそうだとすると動機は何であろうか。


2 私見
 原古事記を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に卑弥呼や倭建命のヤマト王権によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。籠神社の祭神を替えさせるため、日本書紀編纂中の717年に籠神社に行っている。その際、原勘注系図も見ているはずである。藤原不比等や百済史官は卑弥呼が日女命であり、またの名を倭迹迹日百襲媛命であることは知っていた。百済人は刀をかざしながら勘注系図の作り直しも指示したはずである。動機は半島にいるときから夢見ていた倭国の乗っ取りである。
 日本書紀を作るにあたって、彼らは全国と半島を統一した卑弥呼は死んだことにして、新羅国をやっつける英雄を作り上げる必要があった。卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。新羅国をやっつける英雄を神功皇后として新たに造った八幡神社の祭神にし、日本書紀・古事記も卑弥呼の記述を書き直して神功皇后の段を作った。すべて、改ざんがわからないように整合性に気を付けながら創作している。
 古事記と日本書紀によると稚日女命は陰処をついて死んだし、倭迹迹日百襲媛命も陰部をついて死んだ。死に方が同じである。呼び名の違う同一人物を両者とも陰部をついて死んだことにした。倭迹迹日百襲媛命の作り話をなぜ挿入する必要があったのか。倭迹迹日百襲媛命の作り話がなければ完全に騙されるところであった。「端」から「箸」を連想したのかもしれない。まるっきり、その場で思いついた作り話である。大物主は天忍穂耳であり時代がまったく違う。
 全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたのであるから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。


3 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていたと思われる。
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原


鬼.jpg
 特に鬼(鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれていた青銅器文化の一族=出雲神族であり倭国大乱の相手方)が住んでいたといわれる鬼住山の背後の大山山麓の日光村には、孝霊天皇(山田神社)と稚日女命(吉原神社)が祀られている。周辺の地名に大(王)の付く地名が8ヶ所集中しているので栃原集落に実際に孝霊天皇がいたものと思われる。その背後の吉原集落には稚日女命がいた。これは倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(ヤマト王権)の陣地の痕跡だと思われる。鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。お告げをした天津神は、栃原集落にいた孝霊天皇の背後の吉原集落にいた稚日女命と思われる。
 孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)は出雲神族(準王一族=青銅器文化の一族)と戦うために、鳥取県西部の出雲と接する2郡(西伯郡と日野郡)にいたと思われる。稚日女命は卑弥呼か台与か問われれば、稚日女命は、「稚」を付けられた日女命であり、亦の名を孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命と答える。稚日女命は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命と同一神と思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(亦名は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。


4 次に、稚日女命は「倭姫命世紀」の倭姫命と同神となるか。
(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。卑弥呼=稚日女命である。
(2) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。
(3) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。
(4) 倭姫命に仕えたはずの伊射波登美命を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。
(5) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。
 以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命=倭姫命となる。
 倭迹迹日百襲姫命は孝元天皇の妹であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世紀では景行天皇の妹になっている。倭姫命は本当に景行天皇の妹であろうか。


5 魏志倭人伝の台与について
 魏志倭人伝にある卑弥呼が亡くなった後の「男王」とは、卑弥呼が248年、崇神天皇が258年に亡くなっているので、生前譲位した崇神天皇(在位186年~220年)や垂仁天皇(在位220年~248年)ではなく景行天皇(在位248年~280年)と思われる。男王(景行天皇)は20歳前後で即位したのだろうが人民から信頼されなかった。その男王に代わって台与は13歳で女王になったのだから景行天皇の妹くらいの年齢と思われる。おそらく魏志倭人伝にいう台与とは景行天皇の妹と思われる。
 しかし、日本書紀・倭姫命世紀では景行天皇の妹に倭姫命がいる。倭姫命に「トヨ」の発音は見いだせない。「トヨ」の発音にふさわしいのは豊鋤入姫命である。藤原氏は孝元天皇の妹である倭姫命の事蹟を欠史八代の旧辞を消したのと同じ理由で消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世紀」を作るために、本来孝元天皇の妹であった倭姫命の大和国から志摩国まで巡行した事蹟を利用することを考えた。しかし欠史八代の孝元天皇の妹とすることはせず、景行天皇の妹とした。一緒に全国を巡行した倭建命(開化天皇)も同時代になるように景行天皇の皇子とした。
 本来、豊鋤入姫命は垂仁天皇の妹ではなく景行天皇の妹であった。景行天皇の妹に倭姫命を持ってきた関係上、豊鋤入姫命を移動させなければならなかった。孝元天皇は欠史八代だから、その妹にすることはできず、豊鋤入姫命は一代前の垂仁天皇の妹に持っていった。
 日本書紀や倭姫命世紀の順序は豊鋤入姫命(台与)→倭姫命(卑弥呼)である。しかし、魏志倭人伝では卑弥呼(倭姫命)→台与(豊鋤入姫命)の順である。日本書紀や倭姫命世紀と魏志倭人伝とでは順序が逆である。勘注系図も日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序にしてあるのは、籠神社の宮司が藤原氏に見せる時に、日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序である、と説明するためと思われる。
 卑弥呼(倭姫命)は全国・半島を平定しているから多くの国の巡行をしている。台与(豊鋤入姫命)は誅殺し合った国(鳥取県中部の周辺)だけを平定すればよかったから少ない国の巡行ですんだ。日本書紀や倭姫命世紀の順序は本来の順序と反対にしてある。本来は倭姫命は孝元天皇の妹であり、豊鋤入姫命は景行天皇の妹であった。


6 海部氏勘注系図について
 10世孫の妹の大倭姫命の一云に豊鋤入姫命がいる。彼女こそ魏志倭人伝の「台与」と思われる。
 海部氏勘注系図は先に豊鋤入姫命がきて、後に稚日女命や倭姫命が書いてあるので、藤原氏は日本書紀や倭姫命世紀と順序が同じであるとして検閲を通す印を押した。しかし、11世孫の日女命は9世孫の日女命と同一神と思われる。勘注系図はここを悟られないようにして稚日女命や倭姫命を11世孫に持ってきた。11世孫にある稚日女命や倭姫命も本来は9世孫の日女命であり、亦名は倭迹迹日百襲媛命であった。
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えたものと解される。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためと思われる。
 ちなみに、勘注系図の6世孫の大倭姫と10世孫の妹の大倭姫は同一神(台与)ではないと思われる。おそらく、13世孫あたりの妹に大倭姫(豊鋤入姫)が書かれていたのだろうが717年の訳あって祭神を替えさせられたように、細工を見破った藤原氏に書き直せと言われたと思われる。その結果ありもしない6世孫の大倭姫を作ったと思われる。藤原氏はよくできたとして合格印を押した。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。


7 参考
 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 


 


 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。

1 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。

紀伊半島旅行 254.jpg

紀伊半島旅行 263.jpg

紀伊半島旅行 266.jpg

天武天皇の次は高市天皇であり、持統ではなかった。

2 キトラ古墳の被葬者は高市天皇である。

紀伊半島旅行 205.jpg

現在は工事中である。

紀伊半島旅行 206.jpg

キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3 高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。

紀伊半島旅行 233.jpg

紀伊半島旅行 243.jpg

高市天皇の次は忍壁天皇であった。

4  私見
(1) 忍壁天皇の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。

名称未設定-2.jpg 

 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはないと思われる。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。

 その解説として「平城京の朱雀大路には柳の並木が植えられていた(?)。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。 

名称未設定-1.jpg 

 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていたと思われる(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはないと思われる。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市天皇であり、次は忍壁天皇であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が天皇にふさわしいすばらしいものである。高市皇子も忍壁皇子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の天皇を下僕として描くための改ざんであり、高市皇子も忍壁皇子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市天皇(696年没)や忍壁天皇(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(663年~)(泊瀬の斎宮)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれたと思われる。​


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

神武天皇たちは妻木晩田を開いた [日向三代と神武天皇四兄弟]

5c5fbdb8.jpg
1 糺(ただす)神社
 明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。


2 妻木晩田遺跡・松尾頭地区

7ca78a30.jpg
 糺(ただす)神社から南西3kmのところに妻木晩田遺跡・松尾頭地区があり、紀元前100年頃の竪穴住居跡(SI100)や土坑(SK161)が発掘された。


3 線刻土器

9c5b5d1c.jpg

 妻木晩田遺跡のパンフレットより

53f131b9.jpg

 SK179で発掘された線刻土器
 SK179は紀元前100年頃のSK161のすぐそばにあり、この線刻土器も紀元前100年頃の線刻土器と思われる。

11021c62.jpg

 「妻木晩田遺跡で発見された線刻土器はこれで4点目であり、そのすべてが松尾頭地区で出土していることは、この地区の性格を考えるうえで重要である」とある。この4点とも祭祀に関係した土器であり、神武天皇たち(紀元前100年頃)に関係していると思われる。


4 妻木晩田遺跡・松尾頭地区の祭殿

343d62d5.jpg

 「このひさし付きの建物はむらのまつりを執り行った祭殿と考えられている」とある。


5 私見
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)たちは殷王朝末裔である出雲族(準王一族)の銅鐸祭祀を線刻土器の祭祀に変えさせよう(ただす)としていた。その最初の拠点が妻木晩田遺跡の松尾頭地区と思われる。しかし、この地では線刻土器祭祀へ変更させる(ただす)ことはできなかった。
 神武天皇たちは全国に散っていた出雲族(準王一族)の祭祀を変更させるための巡行に出なければならなかった。神武東征の原型は出雲族(蝦夷)の平定であった。
 出雲族が妻木晩田に住み始めたのは出雲族が平定されて神武天皇が即位(紀元前60年)した後であった。しかし、いつまた反乱するかわからない爆弾を抱えているような状態であった。実際、孝霊天皇の時代(120年~211年)に出雲族は出雲族の姫を殺したとして反乱(青谷上寺地遺跡に代表される倭国大乱)を起こした。

f6919022.jpg

 松尾頭地区の南西2.4kmで出土した稲吉角田遺跡の絵画土器も紀元前100年頃であり、神武天皇たちが作ったと思われる。
 また、鳥取県大山町長田集落の造りは倉吉市大谷集落の造りと似ており、集落にだいぶ近づかないと家並みが見えない。長田集落も大谷集落と同じく神武天皇の時代(紀元前100年頃)に造られたと思われる。
 長田集落も含めて松尾頭地区より孝霊山側は天孫族の領域であり、松尾頭地区より日本海側は出雲族の領域であったと思われる。同じように鳥取県中部でも四王寺山(鵜草葺不合=火火出見と玉依姫の宮)と土下山(鳥見=出雲族の白庭山、後に天の香久山)でも天孫族と出雲族は住み分けをしていた。四王寺山の前に不入岡(岡にはいるべからず)という地名がある。

nice!(1) 
共通テーマ:学問

倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について [百済王12代から45代までの倭国王]

藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。
1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見 
 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
 倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
 沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。


2 好太王(広開土王)碑文(414年)
(1)日本学会の通説
 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
 倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。


3 高句麗と百済は倭国よりも早く中国(宋)から将軍の称号を受けた。
(1)高句麗と百済
 413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
 416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
 420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。
 425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」
(2)倭国
 421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
 425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
 賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
 珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。
   451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。
※ 私見
 済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」
※ 私見
 興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。
※ 私見
 武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
 502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。


4 「宋書蛮夷伝」にある武の 478年遣使の際の上表文
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
 わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
 王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
 支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
 私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。


5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
 また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
 始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
 継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
 479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。475年に滅亡したのは新羅と思われる。雄略天皇は百済を攻撃し479年に百済の三斤王は戦死したと思われる。雄略天皇が復興したのは新羅国である。
 百済は北部に後退していたが、高句麗にはっぱをかけられ5世紀末から6世紀前半に任那に攻勢を仕掛けてきた。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
 5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
 502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
 全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
 倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
 新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。


6 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
 さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。


7 私見
 中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
 蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝) 
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
 その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
 日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。

 


nice!(1) 
共通テーマ:学問

倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を統一するまで小国であり、鳥取県中部であった [倭国大乱の原因]

1 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年) 第5章 青谷上寺地遺跡をめぐる諸問題 第4節 殺傷痕のある人骨をめぐる諸問題 より

11%20aoyakamiziti%20zinkotu.jpg
(1)弥生時代の戦い

名称未設定-1.jpg
 次に墓壙内出土の鏃について検討する。すでに述べたとおり、青谷上寺地では銅鏃およびその可能性のあるものが嵌入した人骨が4例あり、全国的にも鏃の嵌入例または墓壙内出土例が多いことから飛び道具としての鏃の検討は避けられない。表33に山陰を中心とする日本海沿岸地域における鏃の墓壙内出土例をまとめた。丹後の墳墓には鉄製武器や工具が副葬される場合が多く、鏃のみの場合もなくはないが、基本的に墓壙内の鏃は副葬品と思われる。但馬の東山墳墓群では5基の墓壙より鉄鏃(1点・1点)・銅鏃(2点・1点・1点)が出土しているが、木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう。
 青谷上寺地と同じ因幡に所在する2遺跡はどうであろうか。鳥取市布勢鶴指奥墳丘墓SX06には銅鏃(1点)が認められた。出土状況からは墓壙内に残されたいきさつは判断できないが、中心主体部の底面形態から埋置された棺が舟底状木棺と考えられることや破砕した土器を供献する点に丹後あるいは但馬といった東の影響を見て取ることができ、銅鏃についても副葬品と考えたほうが妥当であろう。鳥取市桂見1号墓は後期末に属するものであり、第1主体(1点)と第3主体(1点)から鉄鏃が出土している。第1主体例は墓墳上面の出土であり、第3主体は写真を見る限り底面直上付近と思われるが、ヤリガンナと並ぶように出土していることから、両者とも副葬されたものと思われる。西伯の大山町仙谷3号墓第5埋葬主体の鉄鏃(1点)は底面直上と報告されているものであるが、人体に嵌入していたものかどうか判断できない。こうしてみると墓壙内出土の鏃は青谷上寺地人骨にかかわる後期に属するものに限れば、副葬品と判断されるものがほとんどで、人体に嵌入したものと分かるものはない。    (湯村 功)
(2)青谷上寺地と「倭国大乱」との関係
 以上のように見てみると、青谷上寺地遺跡において殺傷痕の残る人骨が埋められた時期、言い換えれば多数の殺傷痕を生じさせる何かが起こった時期というのは、史書に伝える「倭国大乱」の時期と重なるものの、遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない。「倭国大乱」と呼ばれる争乱は記述によれば国々の争いであり、考古事象に現れる場合は広い地域に共通する社会の動きが見出せるはずである。青谷上寺地の弥生後期後半に起こった出来事は、環濠の掘削や廃絶との関係で顕著に示されたように山陰から丹後までの日本海沿岸地域の中では弥生社会の動きと連動したものとは思えない。
 断っておきたいが、弥生時代の戦いそのものを否定はしないが、弥生後期後半に青谷上寺地で起こった多数の殺傷痕を生じさせた出来事は、それ以外の考古事象からは「倭国大乱」を直接的に示すものとは断定はできないことがいいたいのである。もちろん人が多数傷つき、埋葬された遺体を掘り起こして環濠に埋め込むことなど、とても尋常なこととは思えない。何かが起こったであろう。しかし安易に「倭国大乱」と結びつけることは危険である。何が起こったのか、それを明らかにすることはできなかったが、近年盛んな「弥生戦争論」に対する問題提起としたいのである。    (湯村 功) 


2 青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価
・・・・・。
 中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる。      (高尾浩司)


3 私見

青谷上寺地遺跡-1.jpg

(1) 魏志倭人伝には「倭人は、帯方郡の東南の大海の中(日本海沿岸=鳥取県中部)にあり、山(蜘ヶ家山・四王寺山・土下山・向山・大平山など)や島(北条島・大島・穴窪=軽島之明宮・龍島など)によって国や村をなしている。・・・。倭の兵器には、矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃(宮内第5遺跡)や骨鏃(青谷上寺地遺跡)を用いる」とあり、倭国は銅鏃を用いない。青谷上寺地遺跡から弥生時代後期以前の鉄製品は274点出土している。このことより、少なくとも、青谷上寺地遺跡は銅剣・銅鐸の青銅器文化の一族(出雲族)ではないことが判る。青谷上寺地遺跡から出土した60点の銅鏃は青銅器文化の一族(出雲族)が青谷にいた一族を虐殺するために用いたと思われる。骨鏃は青谷上寺地遺跡から42点出土している。鉄鏃は鳥取県中部の王族に渡していたと思われる。

 「海中」の意味は「対岸」である。事代主や準王の文章にも「海中」とある。倭国(倭州)とは、当時、列島に100あまりあった小国の一つであり鳥取県中部であった。
(2) 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷皇子は、菟砥の河上(川上)においでになり、鍛冶の名は河上(川上)という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部(舎人)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた」とある。
 垂仁天皇(私見では在位230年~250年)は古墳時代前期の天皇であり、湯梨浜町大字川上(字鍛冶屋谷)宮で太刀一千口を造らせた。材料は三朝町から得た。三朝町で204のたたら遺跡が見つかっている。その刀を忍坂邑(三朝町片柴)から倉吉市大原の石上神宮に納めた。
 当時、青谷と鳥取県中部とは鉢伏山側を通る県道51号線で湯梨浜町川上集落まで結ばれていた。近世は因幡国であるが、当時は鳥取県中部に属していた。鍛冶技術を持ったものが青谷から湯梨浜町川上に来たと思われる。
(3) 湯村功は「木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう」とするが、こういうものは副葬品ではない。湯村功は鉄鏃・銅鏃はすべて副葬品だとするが、九州(鹿児島県・佐賀県・福岡県)で出土した弥生中期の鉄鏃は棺内にあってもすべて副葬品ではないとしている。1点や2点は人体に嵌入したものとみるべきである。
 また、「遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない」とするが、すぐ近くの湯梨浜町の宮内遺跡をわざと隠しているとしか思われない。宮内第5遺跡2号墳(弥生時代後期)石棺内から出土した107cmの鉄刀と12点の鉄鏃は明らかに副葬品である。きれいに並べておいてあり、生前、埋葬者が使う予定であった鉄鏃である。6年前(1996年)に刊行されていた宮内遺跡発掘報告書の鉄鏃12点を、知らないはずはない。なぜ挙げなかったのだろうか。倭国は鳥取県中部だ、という証拠を示したくなかったと思われる。
 「しかし安易に倭国大乱と結びつけることは危険である」とし「弥生戦争論」に逃げているが、「危険」とは何を意味するのであろうか。青谷上寺地の虐殺を倭国大乱と認めてしまうと倭国とは鳥取県中部にあったことになり、今までの日本の古代史の定説が覆り、古事記・日本書紀の信憑性が揺らぐからである。   

 42.jpg

 


nice!(1) 
共通テーマ:学問

第一節 鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には奈良から帰ってきた神武天皇がいた [神武天皇と欠史八代]

 第一節 鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には奈良から帰ってきた神武天皇がいた。
 


1  岡山県久米郡美咲町百々大宮には第十一代垂仁天皇がいたと比定したのであるが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名である。久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、倉吉の大宮は弓削なり久米の地名は近くにある。ということは、ここにいた王は第十一代よりも初期であったという推測が成り立つ。
 鵜草葺不合は火火出見のあだ名であったから火火出見(鵜草葺不合)は倉吉市の四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は磯城(東郷池周辺)である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るのは、奈良から帰って来た神武天皇である。


 


2 地図より


名称未設定-1
県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。


名称未設定-2
大宮集落の東北に隣接する弓削集落です。


200
左上は小鴨川。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は橋一本で孤立している集落である。隣の集落は弓削集落である。小鴨川周辺は旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。岡山の方はスケールが大きいが、こちらはスケールが小さい。ヤマト王朝でも初期のものであろう。


3  神武天皇の長男・五瀬命は長髄彦(青銅器文化の一族)の矢にあたって亡くなった。「神武天皇は昔兄を殺した長髄彦を討とうと思われ」とあるので兄の五瀬命を殺害した長髄彦は鳥取県中部にいた。長髄彦は「中洲」の豪雄と呼ばれていた、とあるが、「中洲」とは笠沙之御前の柄の部分(伊那佐山から天香久山までの間の砂地)と思われる。神武天皇が兄磯城と戦ったのは磐余邑(北栄町土下山の西側)である。神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。倉吉市大宮で初代天皇として即位した。橿原神宮が創建されたのは明治23年であり国威発揚のためであるから史実に忠実ではない。
 二男の稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。神武天皇の即位には辰韓から帰っていた稲飯命も同席していたはずである。このことは上里神社の由緒より推測できる。辰韓から帰る途中の隠岐島から倭国までの海が荒れないように上里神社を建立した。稲飯命はまた辰韓に行き、神武天皇即位(紀元前60年)の3年後(紀元前57年)に新羅を建国した。


4 大宮の前にある小鴨神社


1 079
1 075
播州完粟郡柏野庄(現在の兵庫県宍粟市)と関係があったようである。山崎八幡宮より寄進されたものだろう。藤原氏は知っていた。ということは、古事記の原本にこのことも書いてあったということである。


新規_1_1 113
予測した通り、この神社から、若い頃、兄たちと居られた四王寺山が見える。
 小鴨神社の祭神は奈良時代まで神武天皇であったはずである。全国の神社を掌握した藤原氏によって祭神が替えられたものと思われる。


5 県道38号線より
1 072
大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない

1 082
大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
1 117
広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。


6 弓削集落です。



1 060
左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。


1 139
弓削集落から大宮集落が見える。


7  私見
 広瀬川は小鴨川と合流するが、小鴨川の上流に行けば神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志と言われていた長瀬高浜に到る。多芸志耳命は長瀬高浜で大陸からの船を誘導していた。多芸志耳命は神武天皇が東征に出発する前に生まれている。母親の阿比良比売は神武天皇が日向(倉吉市の四王寺山)在住時に娶った。
 神沼川耳(第2代綏靖天皇)は神武天皇が高齢のときに生まれた世継天皇(52歳で即位後、娶った妻の第3子)である。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は、神武天皇が初代天皇として即位した(紀元前60年)のち、鳥取県伯耆町久古から娶った姫蹈鞴五十鈴姫の第3子として生まれているから綏靖天皇の生年は紀元前50年頃と思われる。多芸志耳命とは20歳以上の年齢差があるものと思われる。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は四王寺山の隣の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社に皇居を建てた。
5.jpg


 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。橿原の地とあるが、これは奈良ではなく倉吉市大宮であった。倉吉市大宮は鳥取県中部では奥深く安住に適した地である。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。倉吉市大宮に宮殿を造営し、倉吉市大宮で初代天皇として即位した。紀元前60年のことである。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。この倉吉市大宮は四王寺山(畝傍山)から見れば、東南になる。
 倭大乱が150年頃から始まっているが、卑弥呼の生年は151年頃である。卑弥呼は96歳で亡くなった。卑弥呼の兄が第8代孝元天皇になっているから、孝霊天皇の生年は120年頃とし、孝元天皇の生年を149年頃とすれば、孝霊天皇が29歳頃に生まれた世継ぎ天皇となる。第2代綏靖天皇の生年は神武天皇が60歳位の時に生まれたから紀元前50年頃となる。孝霊天皇とは170年の開きがある。これを5代で割れば世継天皇の生まれた年齢が平均34歳となり、おかしくはない。神武天皇までの平均が34歳(ニニギ命は紀元前180年頃、孫の神武天皇は紀元前112年頃の生まれ)だから神武天皇以降もほぼ同じくらいの年齢で世継ぎ天皇が生まれたことになる。但し、神武天皇は特別で60歳くらいで世継ぎ天皇が生まれた。
 したがって、神武天皇の即位年は紀元前60年としておかしくない。その3年後の紀元前57年に次男の稲飯命が新羅を建国した。
 紀元前70年に辰韓に現れた壮年の稲飯命を卵生神話に作り替えた。卵生神話への作り替えは他にもある。赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。


 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった [閑話休題]

 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった。


1 皇居と産屋の距離


皇居と産屋.jpg
(1) (瓊々杵命)鳥取県北栄町下種集落 大宮神社
(2) (木花之佐久夜毘売)鳥取県北栄町由良宿 高江神社
    (1)~(2)の間は4.1km
(3) (神武天皇)鳥取県倉吉市大宮集落
(4) (媛蹈鞴五十鈴媛命)鳥取県倉吉市耳集落
    (3)~(4)の間は3.7km
(5) (蘇我馬子天皇)鳥取県北栄町島集落
(6) (物部鎌姫大刀自)鳥取県倉吉市馬場町
    (5)~(6)の間は3.7km
(7) (物部氏の本拠地)鳥取県倉吉市大原集落
    (6)~(7)の間は4.2km
 瓊々杵命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからと思われる。
 また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。
 これら7つの比定地は正しいものと思われる。


2 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。 由良の宮.jpg


3 甘樫丘東麓遺跡と由良遺跡
(1) 蘇我蝦夷・入鹿は甘樫丘にそれぞれ居を構えた。 日本書紀では、蘇我蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」としている。
(2) 甘樫丘東麓遺跡現地説明会資料(奈良文化財研究所)調査成果 7世紀前半
 「調査区内の自然地形は、南北方向に谷筋が入っていました。この谷筋の中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てます。石垣は東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えをみせる視覚的な効果も果たしていたと思われます」とある。
 甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の邸宅跡とされる遺跡であることがほぼ確定された(朝日新聞)。蘇我入鹿は整地をして、家の外に城柵を巡らせていた。
 蘇我蝦夷が邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとする記述につながる「上の宮門」の焼け跡は見つからなかった、とする。
(3) 由良遺跡発掘調査報告書に「大栄町は、大山火山の北東麓にあたり、広く火山灰山におおわれているが、今回の発掘調査の試掘トレンチの断面より土層序は、地表から、(1)黒灰色の耕作土、(2)黒色粘質土(3)暗褐色粘質土(4)黄灰色砂質土となっていたが町内の畑地帯で一般的に見られるクロボクは認められなかった。遺構が検出された砂質ぎみの黄灰色土、又は、黄褐色土の緻密で堅く安定な地盤であった」とある。
「また、柵列跡とした遺構があるが、隣接した遺構に関係したものと考えるには、無理があるかもしれない。また、遺構として存在したこと自体が疑わしい」とする。


4 私見
(1) 先代旧事本記天孫本紀に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。
 甘樫丘の上に「上の宮門」の焼け跡は見つからないのは、蘇我蝦夷は架空の人物だからと思われる。
 宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。豊浦大臣とは蘇我蝦夷ではなく蘇我入鹿のことであった。蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は奈良では等由良に住んでいた。
 蘇我馬子は天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。
(2) 蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。由良の宮で、蘇我入鹿天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。
 中大兄王子(豊璋)は、育ての親の蘇我入鹿天皇(蘇我馬子と共に遣隋使を派遣した)から「大国維新之化」の話や「日の出ずる国の天子・・・」の話を聞いていたと思われる。中大兄王子(豊璋)は大化の改新や日本という国号の参考にした。
 「大化の改新」は蘇我馬子天皇が隋国の裴世清に「どうか大国維新之化を教えていただきたい」と言った言葉から出ている。大国維新之化(大化の改新)とは列島の道路建設などのインフラ整備のことであった。藤原京・平城京の建設もその一環であった。大化の改新(大国維新之化)は645年に急に始まったのではなく、隋の裴世清たちに教わったときからすでに始まっていた。
(3) 蘇我入鹿天皇は半径500mの広大な由良遺跡のクロボクを取り除き緻密で堅く安定な地盤に整地していた。由良遺跡発掘調査報告書の報告者は「柵列跡とした遺構」を否定するが、城柵が脳裏をかすめ「そんなことはない」と否定したと思われる。蘇我入鹿天皇は由良宮を柵で防御していたと思われる。
 甘樫丘東麓遺跡を大豪族の邸宅跡とするには小さすぎる、とする見解がある。蘇我入鹿は豪族ではなく天皇であった。皇居は鳥取県北栄町由良宿の半径500mの広い丘陵台地にあったから、甘樫丘東麓遺跡は奈良での仮の住まいであり、小さくてもよかった。


 


nice!(1) 
共通テーマ:学問

第五節 鳥取県神社誌に見る倭の大乱に関係すると思われる祭神 [倭国大乱の原因]

  鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神

1 天穂日命
〈鳥取県東部〉
中村神社      岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社      八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社      八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社   八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社    八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社      八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社       八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社    八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社      八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社    気高郡大郷村大字大畑字森崎
〈鳥取県中部〉
五郷神社      三朝町牧560の1 
大原神社      倉吉市大原619番 
田内神社      倉吉市巌城1494番 
松崎神社      湯梨浜町松崎566番
〈鳥取県西部〉
天萬神社      南部町天万1009番
多里神社      日南町新屋70
末尾神社      手間村大字田住字松尾
御崎神社      米子市尾高
北野神社      米子市赤井手
新印神社      米子市新印137番
古川神社      春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社      米子市古豊千
東千太神社     米子市古豊千888番
御崎神社      米子市河岡630番
北原神社      米子市福万667番
巨勢神社      米子市八幡254番3
逢坂八幡神社    大山町松河原233番
小町神社      伯耆町小町455番
三部神社      伯耆町三部824番
上の荘神社     伯耆町福吉264番
安井神社      日野町津地423番
※ 私見
 天穂日を祀る神社は八頭郡に8社あるが、国譲りの交渉に行くまで、素戔嗚と稲田姫の御殿(大江神社)を守っていた所と思われる。大国主は八頭町大江郷で生まれている。天穂日は大国主を生まれた時から知っていた。
 鳥取県中部の4社は天穂日が国譲りの交渉をするため蒜山中和村から三朝経由で降りて来たことを示している。茶臼山の松樹庵にいた大国主と国譲りの交渉をした。
 天忍穂耳や天穂日にとって荒神(荒ぶる神)とされる準王一族(出雲神族)が葦原中津国にいることは国譲りの障害であった。天忍穂耳と天穂日は準王一族の動向を探ることにした。天穂日は伊那佐山(北栄町国坂の茶臼山)の隣の三輪山(北栄町下神)にいた天忍穂耳に頼まれて、伊那佐之小浜での国譲りの交渉の時に、すでに葦原中津国に多くいた準王一族(出雲神族)の本拠地を大国主に聞いたと思われる。大国主は天穂日に準王一族の本拠地を教えた。
 天穂日は大国主の計らいで出雲神族の拠点である熊野大社の近くの能義平野(安来市)に移った。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり、能義平野(安来市)に移るまでにいたところと思われる。その後、天穂日は出雲神族(準王一族)の娘と結婚し、後続部隊の手引きをした。饒速日と長髄彦の妹を結婚させたのも天穂日と思われる。
 富氏の口伝によると「神武から数代の王は出雲神族の反乱を抑えるため出雲王家の娘を妻にした」とする。

2 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
 西伯郡・日野郡はどちらも出雲国と接している。
但馬に疎開してから11年後、反撃を開始して陣取った場所と思われる。
 高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
 楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中
      現住所 西伯郡南部町中(篠相)
 楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
 山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
      現住所 日野郡江府町杼原
 楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
 菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
 日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
 佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原

3 稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命・孝霊天皇の皇女)、(神)倭姫(比女)命、若日孁神 
  西伯郡と日野郡は出雲国と接しており稚日女命・(神)倭姫(比女)命・若日孁神は倭国大乱を終結させるため讃岐から来たと思われる。(以下は大正時代まで存在した神社)
(1)稚日女命
  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷
 倭迹迹日百襲姫命が但馬国に逃げる途中に寄ったと思われる。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇に遅れて皇居のあった湯梨浜町宮内を出た。香川県の水主神社の記録に「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。
 平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
     現住所 米子市淀江町平岡
 富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
     現住所 西伯郡大山町妻木
 前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
     現住所 西伯郡大山町古御堂
 古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
     現住所 西伯郡大山町加茂
 前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
     現住所 西伯郡南部町西
 岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
     現住所 日野郡日南町多里
 吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
     現住所 日野郡江府町吉原
 大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
     現住所 西伯郡伯耆町大原
 安屋咩神社  安来市赤江町400 
(2)(神)倭姫(比女)命
 天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
     現住所 西伯郡南部町天萬
 高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
 蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
(3) 若日孁神
 五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
 福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田

稚日女命.jpg 
※ 私見
(1) 鳥取県神社誌で稚日女命と(神)倭姫(比女)命を祀る神社は13社あるがそのうち10社は妻木晩田遺跡周辺に集中する。孝霊天皇は岡山県側から来たとする説があるが、この稚日女命の動きを見る限り妻木晩田をねらって東側から来たと思われる。妻木晩田を攻撃する時に孝霊天皇は大山町宮内の高杉神社にいたと思われる。
 出雲神族は妻木晩田の西に逃げ、南部町の手間山に逃げ込んだと思われる。手間山の周囲3か所を稚日女命は包囲しているので手間山での攻防は激しかったと思われる。原古事記には手間山での戦いのことも書かれていたはずだが、藤原氏は欠史8代の旧辞を消して、手間山での大国主の赤猪伝説を創作した。
(2)赤猪岩神社の由緒には、「手間山鎮座の赤猪神社(祭神は大穴牟遅と刺国若比売)を大正11年に合併した」とある。大国主の母親は稲田姫であり刺国若比売ではない。刺国若比売は架空の母であり、その架空の母を祀っている赤猪神社は藤原氏によって創られたものと思われる。
 古事記に「八上姫と婚約が成立して、大国主が兄の八十神にいじめられて木国の大屋彦のところに逃げた」とあるが、私見では木国は鳥取県智頭町であり、いじめられた場所も鳥取県東部と思われる。その後、津山→蒜山→倉吉の父のいる清熊稲荷神社にやってきた。そして根国での冒険と続く。大国主の話は鳥取県東部で完結しており、南部町手間山での話は倭国大乱の激戦地を隠すための創作と思われる。近くに倭国の伝承を消すための八幡神社もある。

IMG_0129.jpg

 赤猪岩神社の案内板には「大穴牟遅神は真っ赤に焼いた石を抱いて焼け死んだ。キサ貝比売とウムギ比売は貝殻を削った粉を母乳のように練って塗ったら大穴牟遅神は蘇生した。その岩は2度と掘り返されることがないように土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋がされ、その周りには柵が巡らされている」とある。
 掘っても無駄だと書いてある。そのような岩はないからである。おそらく地球の裏側まで掘ってもないと思われる。死んで蘇生するなどという話は青木繁の絵もあり面白いが創作と思われる。
(3)鬼住山を攻める前に孝霊天皇と稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命)は鬼住山の奥の日光村栃原と吉原にいたが、鬼住山の戦いより南部町手間山での戦いのほうが激しかったと思われる。
 倭国大乱において南部町手間山で戦いがあった。その時、孝霊天皇は米子市上安曇の楽楽福神社と南部町中(篠相)の楽楽福神社にいた。特に南部町中(篠相)の楽楽福神社の地では、手間山から出雲神族(準王一族)が逃れてくるのを待ち受けたと思われる。
 倭国大乱で手間山には出雲神族(準王一族)が立てこもっていた。大国主の兄の八十神も出雲神族(準王一族)であったから、藤原氏は大国主の赤猪岩の物語を創作した。

nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

第三節 伊勢神宮参拝 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。


1  伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。なにもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。
 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。


2 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。


IMG_1080.jpg


 伊雑宮の宮司は「この祠は遷宮のときに心の御柱を建てる位置を示している」といった。


 伊雑宮は伊勢神宮より550年以上古い。伊雑宮の時代の本当の伊勢神宮は奈良時代まで鳥取県琴浦町にあった。伊雑宮ではこちらを「元伊勢」と言っていた。卑弥呼(稚日女命)はのちに安楽島の要害の地の伊射波神社で生涯を終えた。「いざわ」とは地名であり、藤原氏はそれぞれ異なった当て字をしているが、伊雑宮と伊射波神社は同系列の神社である。


3 伊勢神宮
130
伊勢神宮(内宮)の正面入り口
131
祭神は天照大御神だけである。
132
 
正面入口を入ったところに五十鈴川にかかる橋がある。
133
あまりにも広すぎて、往復すると疲れを感じる。


4 藤原氏は、原古事記にあった天照大神が建御名方命に鳥取県琴浦町の伊勢野を国譲りしてもらった記述を神武天皇と伊勢津彦の話に変えて伊勢国風土記を作った。同じく原古事記に記載のあった卑弥呼(倭姫命)の全国巡行の記述を倭姫命世紀として独立させ伊勢神宮ができた由来を創作した。これらの創作は750年以降である。藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠すために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。この目論見は今のところ見事に成功している。伊勢神宮は全国の約8万5千の神社の頂点である神社本庁の本宗と位置づけられている。神社本庁の下部組織の神道政治連盟国会議員懇談会には多くの政治家が加入している。神社本庁は改ざんが多くなされている古事記・日本書紀をもとに活動している。


5 「倭姫命世紀」偽書説は、「古語拾遺を始め、紀やその他からの転用が多く、古書の継ぎはぎだけでは済まない文脈の乱れがある」と指摘する。江戸中期の神道家・吉見幸和は「倭姫命世記」を含む「五部書説辨」(1736年刊行)で「乱世の時代ならば五部書のような偽書をも疑う者は居ないが、天下が治まり泰平の世が続けば学問も興り、私如き者すら信じず学識のある者が信じることなど恥ずかしいと思え」と記している。
※ 私見
 「倭姫命世紀」は偽書ではなく倭姫命(卑弥呼)の全国平定のための巡行を原古事記から抜き出して、伊勢神宮が出来た由緒を作るため、整合性を図って改ざんしたものであり、偽書に見えるが原典は偽書ではない。先代旧事本記も大成経(1679年刊行)が出た影響で偽書扱いされたが、記紀と異なる記載は参考になる場合があり、藤原氏が改ざんしていない部分は信用できる。
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」と整合性を持たせているが、史実は「2世紀倭国大乱の時に、倭姫命(卑弥呼)が全国(東は岩手県から西は長崎県まで)平定の巡行をし、3世紀、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)が都(鳥取県中部)周辺の乱を平定する少しの巡行をした」であった。
(1)倭姫命は倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)であり卑弥呼であった。
1、大和国 字多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、三河国渥美宮 11、遠江国浜名宮 12、伊勢国 桑名野代宮 13、鈴鹿国 奈具波志忍山宮 14、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 15、伊勢国 飯野高宮 16、伊勢国 佐々牟江宮 17、伊勢国 伊蘇宮 18、伊勢国 大河之瀧原宮 19、久求小野宮 20、伊勢国 矢田宮 21、伊勢国 家田田上宮 22、伊勢国 奈尾之根宮  23、伊勢国 渡会宮 24、伊勢国 五十鈴宮 25、志摩国 伊雑宮 
(2)豊鍬入姫命は垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹であり台与であった。
 1、倭国 笠縫邑 2、但波乃 吉佐宮 3、倭国 伊豆加志本宮 4、木乃国 奈久佐濱宮 5、吉備国 名方濱宮 6、倭国 彌和乃御室嶺の上(山側)の宮
(3)私見
 倭姫命世紀では「大和」と「倭」の字を使い分けている。「倭」は鳥取県中部であり「大和」は奈良であった。
 倉吉市高城には楯縫神社があるので、楯縫邑がありその近くに笠縫邑もあったと思われる。
 鳥取県中部が倭国であったから、但波(但馬)と木乃国(鳥取県智頭町)と吉備(岡山県と広島県)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。豊鋤入姫命はこれらの地域を平定する巡行をした。吉備国名方濱宮と但波乃吉佐宮は比定地が多く特定できていない。特に吉備国名方濱宮の比定地は和歌山県に2か所あり、比定地を和歌山県にもってこようとする藤原氏の意図が見て取れる。木国は大国主の時代だから国の大きさは直径5km~10kmくらいであり、山奥にあり濱はなかったと思われる。奈久佐濱宮は木国を和歌山県にしたい藤原氏の改ざんと思われる。
 「倭国、彌和乃御室嶺の上(山側)の宮」とあるが「上」を「ウエ」ではなく「カミ」と読ませる。「上」(カミ)とは鳥取県中部では山側(南側)のことを意味する。鳥取県北栄町下神の三輪神社跡の石碑は三輪山(御室嶺)の山側(南側)にある。奈良で、特定の方角を「上(カミ)」と呼ぶ慣例があるとは聞いたことがない。


名称未設定-1.jpg


三輪神社.jpg


IMG_0074.jpg


 彌和乃御室嶺上宮は宝暦三年(1753年)まで鳥取県北栄町下神にあった三輪神社と思われる。北栄町の三輪神社は焼失したが、京都の藤原氏による放火と思われる。北栄町の三輪神社が奈良の三輪神社の系列なら、同じ場所に再建するはずである。鳥取県中部に本物の三輪神社があるから「五部書説辨」(1736年刊行)のような書物が出て乗っ取りが完成しない、として藤原氏は証拠の隠滅をはかったと思われる。


6 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。
 10世孫の妹の大倭姫命の亦の名に豊鋤入姫命の名がある。彼女が魏志倭人伝の「台与」であり、11世孫の妹の日女命は、9世孫の妹の日女命と同じく「卑弥呼」であった。11世孫は崇神天皇にあたるから、豊鋤入姫命は13世孫(景行天皇)の妹であった。稚日女命は倭姫命と同神であり、倭迹迹日百襲媛命であった。倭姫命(卑弥呼)と豊鋤入姫命(台与)との順番を入れ替えるためにこのような細工をしたと思われる。


7 倭姫命は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて水田稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世紀にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大御神だけとなっている。
 安楽島の伊射波神社に伊佐波登美(トミだから出雲神族)を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。安楽島の伊射波神社の祭神に倭姫命はおらず、祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに「倭姫命」に仕えた伊佐波登美(イザワトミだからイザワ地域にいた出雲神族)を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一神であることを藤原氏は知っていて移動させている。倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。


 


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
前の10件 | -