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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

百済王12代から45代までの倭国王 ブログトップ
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初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち26天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している [百済王12代から45代までの倭国王]

  初代から30代までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外する)

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 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。    第十三代武内宿禰天皇 鳥取県北栄町原。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 遠飛鳥宮。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬。   第二十六代蘇我稲目天皇 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十七代蘇我馬子天皇 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿天皇 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂天皇 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町。


2  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。
 尾張国にいたはずである。
 第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。
 景行天皇の実在性には疑問が出されている。    
 第十三代成務天皇 近つ淡海の志賀高穴穂宮。
 成務天皇の実在性には疑問が出されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。淡海に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。第十三代は武内宿禰天皇であった。   
 第十四代仲哀天皇 穴門豊浦宮 筑紫橿日宮。
 仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。第十四代は仁徳天皇であった。
 第十八代反正天皇 丹比柴籬宮。
 淡路島の生まれ。淡路島はヤマト王権に敵対する一族がいた。
 第十九代允恭天皇 遠飛鳥宮。
 允恭天皇の実在性について疑問とする説あり。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に遠いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十三代顕宗天皇 近飛鳥八釣宮。
 億計・弘計2王の発見物語は劇的な要素が強く、史実として信じ難いことが指摘されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十八代宣化天皇(蘇我稲目天皇) 檜隈廬入野宮。
 天皇が並立していたとの説あり。宣化の在位期間中、倭国(鳥取県中部)の天皇は蘇我稲目天皇であった。蘇我稲目天皇は泊瀬(倉吉市)と磯城(湯梨浜町)に宮を持っていた。

 

3  私見
(1) 鳥取県中部に皇居が特定できない天皇は、実在性に疑問のある天皇が多いため、初代から第三十代までの天皇は、鳥取県中部に皇居があった。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って初代天皇として即位し、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠んでから、倭国の外を活動本拠地にしても、皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。たとえ出張先が吉備や纏向であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。皇居が他所にある天皇は何らかの改ざんが加えられている。
(2) 宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の父(済)と兄(興)は戦死したように書いている。

 第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の皇居のヒントが全く見つからないのは、両天皇は高句麗・百済に壊滅的な打撃を受けたからと思われる。天皇も戦で亡くなったかも知れない。亡命百済王朝は両天皇の在位時期にヒントが残らないくらい両天皇の存在を消している。第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の名前もおかしな名前である。両天皇に置換えられた倭国天皇の皇居は赤丸のいずれかにあったと思われる。
(3) 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代30人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。




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第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
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 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3 鳥取県中部の空撮
軽島明宮3.jpg

 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。

軽島明宮.jpg 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

軽島明宮1.jpg軽島明宮2.jpg 


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持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた [百済王12代から45代までの倭国王]

 持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた。

1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読まれた。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。

2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰られた。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。

3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行かれた時も倉吉に残っていた。

4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653生まれで高市皇子は654生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。そのほかの妻がいつごろ天武天皇のもとに来たのかは判らないが、父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の皇女や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。

5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。


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藤原鎌足は「翹岐」であり、中大兄皇子は「豊璋」である [百済王12代から45代までの倭国王]

 中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である


1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について


(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるからとする。「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり、恐れ多いこと、などが理由であると思われる。


(2) 中大兄皇子=翹岐説では
 舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、このときの百済王は武王であり義慈王が百済王になるのは641年であるから、631年は間違いである、とする。また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。


2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」


◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。
◎推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。
◎皇極元年(642年)、百済の従者たちは「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
◎皇極2年(643年)2月21日に、「筑紫の大宰府から早馬で伝えて、『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。
◎舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。
◎舒明13年(641年)冬10月9日、「天皇は崩御された。東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は16歳で誄をよまれた」とある。  
◎皇極3年(644年)、「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。
◎斉明七年(661)九月(天智紀)、「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。


3 私見


(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。中臣鎌足は百済人であった。鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。中大兄皇子が百済の王族であることがわかっていたから鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。
 中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、義慈は武王の長男である。義慈は塞上を弟王子と言っている。豊璋は塞上の兄である。豊璋と義慈は兄弟である。631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。豊璋も武王の子である。豊璋は631年に倭国に来ている。
 日本書紀・斉明6年(660年)に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある 。豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。豊璋は武王の次男になるから、義慈の次の百済王になるのである。豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。
 645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。一方翹岐は3年にすぎない。乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。翹岐が倭国に来たのは642年である。643年の記述を最後に消えてしまう。年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。


(2)中大兄皇子=翹岐説は「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。しかし私見では、512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。


(3) 中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。その時は18歳であった。「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。中臣鎌足は奈良にいた。豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。中大兄皇子=翹岐説は「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから。蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。


(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。


(5) 豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族から受け継いだものと思われる。石川麻呂の娘の遠智姫と結婚したのは中大兄王子である。石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。遠智姫と豊璋は一緒に住んでいたものと思われる。中大兄王子と遠智姫は一緒に住んでいたから、遠智姫に見せる機会があった。中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、遠智姫に見せる機会がない。豊璋またの名は中大兄王子が妻の遠智姫に義父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。


(6) 豊後国の西寒田神社縁起には「663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそうした。大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。
 一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け、軍兵5千余を率いて、豊璋を百済国に護り送らせた。中大兄皇子自身も百済に行ったものと思われる。豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。中大兄皇子と豊璋を決別させるため(豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだからもう百済王子の豊璋ではなく倭国の王子になったことにするため)の日本書紀の粋な計らいである。百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。


(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月~6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足が登場する。
 皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。島流しは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。何で倭国に着いたのか。609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。
 一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。 翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。翹岐は王族ではないと思われる。周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。上手口を言って歓待されたのである。
 583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。


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遣隋使について [百済王12代から45代までの倭国王]

遣隋使について

1 隋書倭国伝(東亜古代史研究所 塚田敬章より) 
(1)倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
(2)毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」
(3)開皇二十年(600年) 倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」 
(4)大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。その国書にいう。”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々” 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。」
(5)明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
(6)倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」
(7)其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。”私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。” 裴世清は答えて言った”(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。” 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」
(8)其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。”隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。” そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命令して清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」
2 日本書紀・推古天皇・遣隋使(宇治谷訳より抜粋)
 15年(607年)秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。
 16年4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名付けて、蘇因高とよんだ。大唐の使人裴世清と下客12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。
 6月15日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船30艘で、客人を江口に迎えて新館に入らせた。
 8月3日、唐の客は都へ入った。・・・。使者裴世清は自ら書を持ち、その所には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天明を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。
 8月16日、客たちを朝廷で饗応された。
 9月5日、客たちを難波の大郡でもてなされた。
 9月11日、裴世清たちは帰ることになった。天皇は唐の君をとぶらってのべられるのに、「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」といわれた。このとき学問僧と学生の8人を遣わされた。
3 日本書紀・推古天皇・新羅征討の条は改ざんされている。百済と新羅を入れ替えて書いている。原古事記に書いてあったと思われる文章を以下に記述する(抜粋)。
 8年(600年)春2月百済と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。任那のために百済を討つことになった。百済を目指して船出した。百済に着いて5つの城を攻略した。百済王は白旗をあげて、将軍の印の籏の下に来たり、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅の6つの城を割譲して、降伏を願い出た。その時将軍は「百済は罪をわきまえて降伏してきた。強いて討つのはよくあるまい」と言って奏上した。天皇は難波吉士神を百済に遣わされた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わし事情を調べさせられた。百済・任那両国は使いを遣わし調を奉り上奏してきたので将軍を召還された。将軍らは百済から帰った。しかし、百済はまた任那を犯した。
 8年(600年)秋9月8日、百済の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして、上野国に流した。
 冬11月5日に、百済を攻めることを議った。
 10年(602年)春2月1日、来目皇子を百済攻略の将軍とした。
 夏4月1日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。
 6月3日、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
 10年冬10月、新羅の僧観勒がやってきた。そして暦の本・天文地理の本、それに遁甲方術の本を奉った。
 11年(603年)夏4月1日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を百済を討つ将軍とした。しかし妻が亡くなったため、征討はやめになった。
4 私見
 倭はヤマトと読む。奈良では大和をヤマトと読ませる。なぜ字を変えたのだろうか。これは藤原氏得意の当て字である。奈良は倭ではないから、大和の字をヤマトと読ませた。。
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  鳥取県中部では上神、下神の地名のように、山側を上(カミ)、海側を下(シモ)と表記する慣例がある。従って、「更造新館於難波高麗館之上」は高麗館の山側(上)ということが判る。これを「近く、脇、ほとり、二階」と訳する方が多く、山側(上)と訳する方はいない。大阪ではこれを山側(上)と訳す慣例が無いようだ。
 応神紀の「軽の坂上の厩」でこれを山側(上)と訳したところ、その場所に今は倉吉市馬場町の地名がついていた。現在の東郷池西畔の湯梨浜町上浅津(山側)と下浅津(海側)もこの地の慣例を現わしている。大阪では山側(上)と訳す慣例が無いので「難波高麗館之上」の解釈に困るのである。「難波高麗館之上」は大阪ではなく鳥取県中部を舞台として書かれたものである。難波津とは鳥取県の東郷池である。 
 やはり、難波津は東郷池である。高麗館は湯梨浜町龍島にあったはずである。新館はその山側にあった。蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は北栄町島にあった。聖徳太子(蘇我入鹿)の皇居は由良にあったが、近くに曲の後宮があるのは島である。「土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る」。神武天皇も狭い国だといった。一切経は「倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にある小さな国である」とする。隋書は「倭国は百済・新羅の東南にある」とする。鵜飼いは北栄町島にいた縄文人の猿田彦一族が神武天皇の時からしていた。
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 蘇我稲目天皇が仏像を山名寺に置いていたが、倭国(鳥取県中部)に疫病が流行って、物部氏の反対もあり、倭国に寺院を建てることができなかった。蘇我馬子と蘇我善徳(聖徳太子)は寺院を奈良に建てることにした。その際中国の長安を模範に奈良に長安のような都を創ることを考えた。そのために隋に遣使を送った(600年)。同じ年に百済が任那を犯したので朝鮮半島情勢は不安定になっていた。任那は新羅を守るためにできた地域だから、新羅が任那を犯すことはない。反面百済は懐柔政策を織り交ぜながら南下政策をとっていた。また百済は隋に良い印象を持っていなかったようである。何度も遣隋使を派遣しているが、隋は百済と高句麗の関係を知っていたので門戸を閉ざしていた。隋ではなく大唐と書いている。隋は唐に乗っ取られるが、この頃乗っ取りが流行り、やがて百済も倭国を乗っ取った。630年の遣唐使は聖徳太子(蘇我入鹿)が出している。乗っ取りが嫌いであった聖徳太子(蘇我入鹿)は唐からの使者に冷たくあたったようだ。
 608年に裴世清たちが倭国にやってくるが、蘇我馬子大王は用心に用心を重ねていたため筑紫から下関にわたり陸路で都まで来させた。それは蘇我馬子の「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた」という言葉に現れている。船で行くと地形を覚えられる恐れがあるから陸路を通らせた。したがって秦王国とは周防であろうと思われる。この地域は殷王朝末裔の準王一族がいたし、長登銅山やその近隣にも銅山があり、弥生時代の青銅器がまだ残っていたものと思われる。銅鐸や銅剣を見て裴世清は先祖が華夏の人だと信じた。今残っていないのは、東大寺大仏の資材として使われたものと思われる。
 ルートは周防→広島市→三次市→庄原市→日南町→米子市→旧東郷町と思われる。
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 中国から贈られた三次の白い鵜
 到達した海岸は米子の海岸だと思われる。そこにしばらく泊まらせられた。蘇我馬子は阿輩臺と哥多毗(日本書紀では難波吉士雄成)に裴世清らを迎えに行かせた。


おまけ
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 湯梨浜町龍島で東郷中学生徒によるドラゴンの舞。隋からの使い(裴世清たち12名)をもてなしたときの名残と思われる。横は中国風造りの水明荘。龍島の隣の引地には河北省が造った中国庭園の燕趙園がある。



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筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である [百済王12代から45代までの倭国王]

 筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である。

1 日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2 私見
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(1) 任那は新羅を守るためにできた連合国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは崇神天皇(155年~258年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。しかし、倭国と兄弟国であった新羅にも侵略するものが出てきたため、新羅の周辺を守る伽耶国(加羅国)ができた。新羅と同じ秦韓族(徐福一行の子孫)である。北は大邱から南は釜山を中心にした北の山脈までである。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。百済は倭国に甘言を弄して朝貢や人質を送った。660年には百済王朝は倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済と倭国は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と倭国を奪おうとしていた。

3 〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  

 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。



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天武天皇の后・妃・嬪・宮人について [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇の后・妃・嬪・宮人について

 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分もありますが同感な部分を引用します。

1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗証できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
この「六韜」には例えば、
 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。

2 私見

(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。

(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。

(3)倭国から奈良へのルート

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 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。
 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた。

(4) 尼子娘と額田王

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 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
 伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出られた。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
  額田王は伯耆町大殿の出身である。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女と鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
 665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。

(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
 669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
 670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。

(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが 、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
 壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは思わなかった。

(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建された。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。


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「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について [百済王12代から45代までの倭国王]

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について


 藤原氏は嘘を積み重ねれば本当になるとした。偶然も積み重ねると真実が見えてくる。藤原氏は記紀だけでなくほかの文献や遺跡や神社も嘘を積み重ねていった。それは百や千どころではない。万の嘘だと思われる。記紀を世に発表するまで数百年にわたって嘘を作ってきた。
 「聖徳太子は蘇我入鹿である」(関裕二)を読んでみた。結論は賛成である。しかし、理論構成においておかしいと思われるところがある。例えば、私は架空の天皇としている「推古天皇が大々王である」としておられる。また、二朝並立論も賛成であるが、「九州王朝」と「出雲王朝」が並立していたと論じておられる。二朝とは、倭王朝(鳥取県中部)と亡命百済王朝(日本)のことである。
 出雲は準王一族の本拠地であり藤原氏が倭国を乗っ取ってからテーマパーク化したところである。出雲王朝(島根県東部)は倭王朝(鳥取県中部)ではない。九州にも吉野ヶ里を始めとして準王一族は多くいた。現政権が吉野ヶ里や八幡神社を大事にするのはそのためである。
 関裕二氏の他の本では天孫降臨の地は宮崎県であるとしておられる。ここにも高天原があるが、いたのは天孫族(徐福一族)ではなくて準王一族(鬼八)であった。阿蘇にも準王一族(鬼八)がいた。
 また、倭健命は実在したが、関裕二氏は実在しなかったとする。


1 「元興寺伽藍縁起帳」において大々王の文字が使われている。大々王とは蘇我馬子である。
 「大々王の牟久原の後宮」を二回、「大々王の後宮」を二回つかっている。
 「後宮」とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する(ウィキペディア)。「後宮」とは男王に侍る女がいるところであるから、大々王は男性である。
 「池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。・・・・。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた」とある。
 「寺をつくる場所を見定める」ように天皇に命じられたのだから、実際に「寺をつくる場所を見定めた」のも命じられた二人である。天皇の命に反して見定める者が変わったときは書かれるはずである。馬屋門皇子も聡耳皇子も聖徳太子の別名であるから同一人物である。あと一人の大々王と馬古大臣も同一人物となる。
※ 『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』を偽書ではないと擁護する説もある。それによると「馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである」とする。


2  聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である。
 縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だと言っている。
 「大々王天皇命が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。『この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子よ、すぐにことにあたってください(我子急速可仕俸)。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください』」とある。


3 「日本書紀」によると、「596年の冬十一月に、法興寺造り竟りぬ。則ち大臣(蘇我馬子)の男・善徳臣を以て寺司に 拜す」とある。
 「元興寺伽藍縁起帳」には「巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた」とある。(蘇我善徳16歳)
 先代旧事本紀には「蘇我善徳は物部鎌姫大刀自の長子である」とある。また「580年、物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰 ふ」とある。


4 蘇我善徳=蘇我入鹿
(1)蘇我馬子の長子は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)
(2)物部鎌姫大刀自の長子は蘇我善徳(先代旧事本紀)
(3)580年、物部鎌姫大刀自、蘇我馬子の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公(先代旧事本紀)
(4)蘇我入鹿は蘇我馬子の長子である(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)
  腹違いの子が何人いようと、一人の父親の長子(最初に生まれた子)・太郎(長男)は一人しかいない。蘇我馬子の長子・太郎は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)であり、蘇我入鹿(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)である。このことより、蘇我善徳=蘇我入鹿となる。


5 聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳
(1)聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子(元興寺伽藍縁起帳)
 蘇我馬子の子に聖徳太子はいないから実在した子の別名であったことは容易に察しが付く。
 蘇我馬子の子にについては蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿は孫。以外はみつからない。先代旧事本紀によると、蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、前述の(4)より、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物である。蘇我馬子の子は蘇我善徳と蘇我倉麻呂の二人となる。
(2)聖徳太子は蘇我善徳か蘇我倉麻呂か。
 元興寺縁起によると、聖徳太子は蘇我馬子の子であるが、どちらであろうか。私見では聖徳太子は蘇我善徳であると解する。
 どちらも徳の一字がある。聖武天皇の時代、聖武の「聖」と善徳の「徳」を取って聖徳太子の諱をつけたものと思われる。
(3)元興寺伽藍縁起帳において蘇我馬子と聡耳皇子の二人が主人公のように言動が書かれている。天皇と皇太子の関係であってもおかしくない。他にもいろんなところで協力しあっている。例えば、蘇我馬子と厩戸皇子は国記・天皇記の編纂、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの国家的事業を行っている。
 元興寺伽藍縁起帳には日本書紀の空想上の天皇が現れては消えるが、池辺天皇も蘇我馬子と思われるので蘇我馬子と蘇我善徳(聡耳皇子)の二人が中心になって飛鳥寺(元興寺)を造ったものと思われる。
 聡耳皇子をさしおいて巷哥有明子(蘇我馬子)の長子・善徳(16歳)を元興寺の責任者としたのはなぜ、と思われるが、聡耳皇子=蘇我善徳ならばなるほどと頷ける。
(4)胸形尼子姫(皇子の天武天皇の正后)の父は胸形徳善という。また同時代に生きた新羅の女王の諱は善徳女王という。
  このことより、聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳となる。


6 私見
 結論として、聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿となる。
 穴穂部間人皇女は架空の用明天皇の皇后であるので架空である。架空なので実在は証明できないが、物部出身であるところは同じにしている。物部鎌姫大刀自連公がモデルであると思われる。架空の用明天皇と架空の穴穂部間人皇女との間にできた厩戸皇子の名はニックネームである。本名は蘇我善徳といった。
 キリストは厩の中で生まれたが、蘇我善徳は厩の外で生まれた。急に産気付き厩の前で生まれたとしているが、倉吉市馬場町(応神天皇の時代にできた軽の坂上の厩)に産屋を建てていたものと思われる。
 日向の御子と同じように厩戸皇子は鳥取県中部のものが付けたニックネームである。本名は蘇我善徳である。聖徳太子とは蘇我善徳をモデルにした聖武天皇の時代に付けられた諱であった。


7 「隋書 東夷 倭国」について
 当時の隋にとって改ざんする理由がない。これに反する日本書紀は改ざんされている。
 倭王の名「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
 妻子「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600~700人の女がおり、太子の名は利(和)歌彌多弗利という。
 隋の倭国使らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべて倭であるという。
 「至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(華夏の人と同じ秦王国についた。夷州とさげすむことはできない)とは殷王朝末裔の準王一族(青銅器文化の一族)がいた国に至ったからである。
 608年の隋の倭国使たちは九州から陸路で倭国(鳥取県中部)まで来た。経路は周防→岩国→広島→三次→日南町→米子→湯梨浜町と思われる。倭国は日本海沿岸にあったから、ついた海岸が日本海沿岸の倭国(鳥取県中部)であった。鳥取県北栄町島にあった皇居で隋の倭国使たちは倭王に謁見した。北栄町島集落に皇居があり曲集落に後宮があった。「姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌」の倭王は島大臣と呼ばれていた蘇我馬子大王であった。王の妻「雞彌」は物部鎌姫大刀自連公であり、太子の「利(和)歌彌多弗利」は聖徳太子こと蘇我善徳(28歳)であった。
 この後蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の飛鳥寺(元興寺)まで行った。この時すでに大国維新之化として奈良に藤原京・平城京を造る計画の打ち合わせを隋の倭国使たちとしていたと思われる。


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神功皇后の民間伝承は卑弥呼の伝承であった [百済王12代から45代までの倭国王]

 神功皇后の民間伝承は卑弥呼の伝承であった。

 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県に3千ヵ所もあった」とする。

1 神功皇后実在説の根拠
(1)民衆 名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。
(2)大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。
(3)地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。
(4)広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州の広い範囲で相互に連絡を取り合って神功皇后伝承を創作することは不可能である。

2 壱岐と対馬の伝承
壱岐に13ヶ所  
「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など
対馬に15ヶ所
「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 

※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。 

3 神功皇后非実在説の根拠
 「日本書紀」によると、神功皇后は3世紀の古墳時代にいた人物、となっている。しかし、3世紀というのは日本では弥生時代である。まだ百済国はできていない。また、神功皇后の、行動について、あまりにも、超人的な行動や、神がかり的な行動がたくさんある。たとえば、三韓征伐のときに、懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国してから出産(産み月を延ばした)し、15ヶ月も妊娠していたという話しや、遠征のときに、魚の助けによって船を進めたか、勢い余って波とともに、新羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏したとか、という話しなどである。まるで、おとぎ話の世界にいるような話しがたくさん残っている。また、伝承でもあとで作られたことを示す史料もある。

4 私見
 倭王朝と亡命百済王朝とは660年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が列島を乗っ取るのであるが、それ以前から倭国を乗っ取る準備を始めていた。
 崇神天皇や卑弥呼や倭健によって造られた全国の神社ネットワークを乗っ取り、自分たちの神社ネットワークも新たに造っていった。それが八幡神宮である。
 宇佐八幡宮の元宮八幡といわれている香春岳や英彦山は銅が採れ「鬼」ノ城や「鬼」杉の名があることから準王一族がいたものと思われる。藤原氏は準王一族のいたところを聖地にしているから、宇佐八幡宮にいた比売命も準王一族であったものと思われる。                
 原古事記の卑弥呼の段には、藤原氏にとって好ましくないことが書いてあった。それは全国の準王一族を平定していった旧辞であった。準王一族は藤原氏の先祖になるため卑弥呼の段を書き換えなければならなかった。新たな創作も混じえて神功皇后の段を創作した。卑弥呼の民間伝承も隠さなければならなかった。消せる伝承は消していったが、卑弥呼(稚日女・倭姫)の伝承は広範囲に渡り、消すことは困難であった。そのために八幡神社を造っていった。神社に住民を集めて、伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。そして八幡神社の祭神を神功皇后とした。他の祭神も万世一系にするため倭国の天皇を使わなければならなかった。八幡神社は全国に4万社余りあるという。
 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積天皇に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は特別に原古事記に記載されていた卑弥呼(稚日女・倭姫)の段を神功皇后の段に書き換えた。藤原氏は倭国を乗っ取ったことを隠すために天皇家は万世一系であるとしなければならなかった。卑弥呼に同行していた倭健には応神天皇の本当の父親の13代の武内宿禰天皇を持ってきた。13代には成務天皇を挿入した。14代には15代応神天皇の父親として仲哀天皇を持ってきた。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。応神天皇の在位は354年~394年である。百済は高句麗の手先であり(363年卓淳国で倭国への道を聞いている)その後裏切るが、このときは猫をかぶっていた。七支刀は369年に百済が初めて倭国に朝貢した際に献上された。13年後の382年には高句麗は新羅を乗っ取っている(三国遺事)。
 したがって、13代の武内宿禰天皇とその6男の15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。
 


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第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった。

1 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王
)であった(生年月日が同じであるとするため)。14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡っている(382年)ので、応神天皇は6男の葛城長江襲津彦である。誉田別は伯耆国の神社では八幡神社ではなく単独で祀られている神社が多い。390社中75社で祀られている。
 (昭和9年鳥取県神社誌による) 落合神社 西伯郡法勝寺村大字落合 祭神 大鷦鷯命。藤森神社 日野郡黒坂村大字黒坂 祭神 大鷦命。吉原神社 日野郡日光村大字吉原 祭神 美佐々伎命。山口神社 日野郡日光村大字杼原 祭神 美佐々伎命。大瀧神社 日野郡日光村大字大瀧 祭神 美佐々伎命。
 鷦鷯=佐々木という説があり美佐々伎命は大鷦鷯尊であり武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)である。仁徳天皇は伯耆国では5社に祀られている。皇居は難波(東郷池)高津宮である。候補地は3か所ある。

2 蘇我稲目大臣(王)の磯城島金刺宮は湯梨浜町龍島にあり、崇神天皇の水垣宮は湯梨浜町長和田集落にあり、応神天皇のもう一つの難波大隅宮は湯梨浜町長江にあった。

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 東郷池に島はないため磯城島金刺宮の比定地は見つからないと思っていたが、水面が1m高いと龍島が島になるのでここに蘇我稲目大臣(王)の磯城島金刺宮があったと思われる。以前は龍頭と表示されていた。
 崇神天皇の皇居は原古事記の表記は「水垣宮」であったと思われる。瑞籬宮は同じ読みの別の漢字を持ってきた改ざん表記である。崇神天皇の水垣宮は水辺に近い長和田集落である。

 奈良の宮跡

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「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出しました。そして彼に託して三輪山に大物主神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。また、東海や、北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたところから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています」とある。
 古事記には「師木の水垣宮」とあるので水に近いところにあったはずである。皇居は鳥取県湯梨浜町長和田にあり、二ノ宮は岡山県津山市中山神社にあった。奈良の宮は三ノ宮か四ノ宮である。

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 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、長江に宮を置いていた。この当時、東郷池のことを難波と言っており、長江は東郷池の水辺にあった。長江は宮を置いていたところであり、葛城は生まれたところである。以前は長江で生まれたとしていたが、生まれたのは葛城であった。したがって、13代武内宿禰大臣(王)の皇居は葛城にあったことになる。私見では葛城山(蜘ヶ家山)の西の原集落であると思われる。
 難波大隅宮は東郷池周辺の長江だから、湯梨浜町長江である。

3 13代武内宿禰大臣(王)の皇居は北栄町原の元野神社である。

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 蘇我馬子大臣(王)が「葛城県は元、私の本貫(その県にちなんで蘇我葛城氏の名もある)である」といったのは武内宿禰大臣(王)の皇居が葛城にあったからである。武内宿禰大臣(王)は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。比定地としては他に海竜王神社や荒神神社があるが、元野神社が一番崇められているので元野神社に武内宿禰大臣(王)の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。
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元野神社。
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで生まれた。

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 すぐ下には原集落がある。 IMG_0172-3.jpg
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
祭神 素戔嗚尊
由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社を部落の氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。

4 私見
 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。
 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。

 

 


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