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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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九州における卑弥呼・倭健命の軌跡 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

九州における卑弥呼・倭健命の軌跡。

1 卑弥呼は伊万里市から新羅に向けて出港した。

若宮神社.jpg

まず壱岐に向けて出港した。対馬海流を考慮した出港である。

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すぐ向こうは海である。

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佐賀県伊万里市黒川町小黒川鎮座
若宮神社
祭神 若日孁尊(稚日女命=卑弥呼)
御由緒
「当神社は神功皇后征韓の砌(みぎり)若日孁尊の威霊を現わされし給いしにより此地◯◯に是を鎮祀給うた古社にして・・・。」とある。

日女命に稚をつけて稚日女命とし、ここでは若日孁尊としている。由緒に神功皇后が出てきているので、若日孁尊は卑弥呼である。

2 熊襲は江田船山古墳のあたりいたのではないかと思われる。崇神天皇が中山神社を拠点とされたように、平定した相手の拠点をヤマト王権の拠点とした。

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柿原神社は確認できなかったが卑弥呼が拠点にしていたはずである。

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四王子神社 祭神 倭健命

摂社若一皇子社 祭神 若晝女神(稚日女命)

ここでも稚日女命を若晝女神に変えている。

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ワカタケル(雄略天皇)銘であると思われる。江田船山をヤマト王権は拠点とした。

3 天草の「天」は、隋書東夷伝倭国伝にある「倭王、姓は阿毎(アマ)」とある「天(アマ)」である。

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路木神社より海が見える。当時はもっと手前まで海岸がきていたはずである。

海岸近くが多いので船で移動していたものと思われる。

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天草市牛深の夕日

卑弥呼たちは天草市牛深にも来ていた。


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第十節 卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか [邪馬台国・卑弥呼 その2]

  第十節 卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか。
 魏志倭人伝によると「卑弥呼の死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された」とある。また、「倭の墓は棺をもってあるも槨なく、土を封じて塚をつくる」とある。箸墓古墳はこれに該当しないのではないかと思われる。

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伊射波神社より700mくらい南西にある。
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安楽島町から500mくらい北にある。
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 軽自動車が通れるほどの道は左に大きく迂回するように造られている。
 歩行者は丸い丘の上辺を通る近道がある。


 それほど勾配のある丘でもないのに、広い道をつくる時に、なぜこの丸い丘を崩して真っすぐな道路をつくれなかったのだろうかという疑問が沸いた。
 上空から見る限り、もともとは、卑弥呼のいた伊射波神社に通ずる道が南北に真っすぐあったのではないか。卑弥呼が亡くなってから卑弥呼の居所に通ずる道を塞ぐ意味も込めてその道のど真ん中に墳墓をつくったのではないか、という推測が生まれる。
202
 円の直系は75mくらい。

 カギ穴形状の端から端までは200mくらいである。 
 ここを通るときに、青谷上寺地遺跡が発掘されるまでの青谷町の薄気味悪い雰囲気が思い起こされた。風もそれほどないのに竹藪の竹の擦れる音が大きくて、助けをもとめているように聞こえた。私以外にも、神社に行くまでの薄気味の悪さを書いておられる方がいる。殉葬された者達の無念さが残っているのかもしれない。
 追記(11月16日) 地元の方から情報をいただきました。「安楽島町では此処を松の鼻古墳と言っています。 昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市 三重県 へ寄付した」そうです。

 稚日女命(姫小松)の墳墓の可能性がある。

 


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第九節 全国に散らばった青銅器文化の一族を平定していった卑弥呼の巡行 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第九節 全国に散らばった青銅器文化の一族を平定していった卑弥呼の巡行
1 青銅器文化を持った一族が紀元前2世紀から日本列島各地に勢力を伸ばしていた。彼らは殷や秦の流れをくむ一族であり、情け容赦なく女子供を殺したりした。古事記にいう「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」であり鬼と呼ばれることもあった。徐福が蓬莱国に行ったことを聞いていた始皇帝の多くの家来も日本に着いていたものと思われる。彼らの進出にストップをかけたのが、孝霊天皇に始まる天孫族である。倭姫命世紀には南北に巡行して彼らを従わせた記録が書かれている。古事記には倭健命の東西の平定説話として書かれているが、どちらも卑弥呼の巡行である。
2 卑弥呼は焼津で野火に囲まれ、木花之佐久夜毘売の火中出産を思われたはずである。焼津から巡行を進めるうちに福地(富士宮)で徐福の子孫(第一次)に出会われた。同じ徐福の子孫として親しみを感じられたのだろう。そこで、野火に囲まれたことを話された。「まるで木花之佐久夜毘売のようであった」とおっしゃった。その時より徐福の子孫は木花之佐久夜毘売を祀るようになった。806年に浅間大社が山宮(現山宮浅間神社)から現在地に遷座して来るまで、同地には福地神社が地主神として鎮座していた。富士山本宮浅間大社が建立されるずっと前から福地神社(ふくちじんじゃ)で木花之佐久夜毘売を祀っていた。
 富士吉田にも徐福の子孫(第一次)がおり、卑弥呼は「焼津で野火に囲まれ、木花之佐久夜毘売の火中出産を思った」ことを話された。
静岡県の稚日女命が祀られている神社。卑弥呼が寄ったと思われるところ。
静岡県三島市加茂川町 賀茂川神社
静岡県静岡市小鹿 若一王子社
静岡県島田市南町 茨神社
静岡県袋井市国本 冨士浅間宮摂社天白社
 野火事件のあった焼津市は島田市と静岡市との間にある。
 北口本宮冨士浅間神社のほうが本物だと言っているのは、木花之佐久夜毘売が実在した鳥取県北栄町亀谷と緯度をピッタリに作っているため自信を持っているからである。
3 卑弥呼たちが新羅から船で帰途の途中ついでに寄ったと思われるところである。稚日女命が祀られている。
島根県簸川郡大社町大字日御碕 摂社立花神社
島根県八束郡美保関町片江 方結神社
石川県加賀市大聖寺神明町  甲加賀神明宮摂社橋姫神社
石川県珠洲市長橋町 北島荒御前神社
石川県鹿島郡能登島町曲 大宮神社
新潟県柏崎市刈羽村大字刈羽 見日神社
 卑弥呼の時代までは、新羅は入植者の中継基地であり、攻撃することはありえない。卑弥呼も入植者を増やしてほしいと交渉にいったか、あるいは食物の不作でその打開策を交渉しに行ったのかもしれない。この時島根半島は陸続きになっていた。皇朝十二銭に神功開宝があるが、明治時代の神功皇后の紙幣と同じで、国威発揚のために発行された。これを以て神功皇后が実在したことにはならない。

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第八節 原古事記の倭建命には卑弥呼が同行していた。神功皇后の三韓征伐は卑弥呼が新羅に行った記事を改ざんしたものである [邪馬台国・卑弥呼 その2]

第八節 原古事記の倭建命には卑弥呼が同行していた。神功皇后の三韓征伐は卑弥呼が新羅に行った記事を改ざんしたものである。

1  古事記の抜粋
天皇は「西の国に、熊曾建という者が二人いる。彼らを殺せ」と命じた。そこで叔母の倭比賣命に女性の衣裳を借り、叔母の着物を着た。そして都に帰る途上、山の神、川の神、穴戸の神たちをみな平定して帰った。
 天皇は「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じた。叔母の倭比賣命に「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。」と言って、泣き憂えた。倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて、「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」と教えた。相模国に到った時、その国造が彼を騙して、「沼に住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。刀で身の周りの草を切り払い、それに倭比賣命にもらった燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちを斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
 さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、・・・そこでその国を「あづま」(関東)と言う。
 その国を越えて甲斐(山梨県)に出た。そこで酒折宮(山梨県)にしばらく滞在し、歌って「新治(茨城県)、筑波(茨城県)を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。
 その国から科野の国(長野県)に越え、科野の坂の神を退治し、尾張へと帰り着いた。
2  「 」は古事記の地名であり、稚日女命(卑弥呼)を祀る神社と対応させる。
「熊曾」 熊本県玉名郡南関町四原 柿原神社(熊襲の比定地)
 (近くにワカタケル銘の鉄剣)熊本県玉名郡和水町  江田船山古墳
「蝦夷」 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字永栄字飛鳥田後 永岡神社
     福島県郡山市安積町荒井字萬海 柴宮神社
「新治」 茨城県水戸市元石川町 手子后神社
「筑波」 茨城県つくば市筑波 筑波山神社摂社稚日女神社
「あづま」 栃木県栃木市平井町 大平山神社摂社機織姫神社
    群馬県群馬郡榛名町下室田 大森神社
    埼玉県鴻巣市大間 大野神社(近くにワカタケル銘の鉄剣)
       千葉県成田市船形 麻賀多神社
    東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎 狭山神社
    神奈川県座間市栗原中央 栗原神社
    神奈川県伊勢原市三ノ宮 三宮比々多神社
    神奈川県伊勢原市神戸 木下神社
    山梨県西八代郡六郷町鴨狩津向 城山神社
「科野の坂の神」  長野県駒ケ根市上穂栄町 三和社
        長野県飯山市大字緑字塩辛 布施田神社
「尾張」  愛知県名古屋市中区大須 日出神社
    愛知県一宮市千秋町芝原字石原 生田神社
    愛知県日進市大字本郷字宮下 白山宮摂社香良州社
    愛知県岩倉市下本町下市場 神明生田神社
    愛知県東海市加木屋町宮ノ脇43 熊野神社摂社香良州神社
その他 新潟県 1社
    石川県 3社
 「筑紫の末羅縣の玉嶋の里」佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社 (卑弥呼はここから出航した)
 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触 天手長比賣神社(新羅に行くときの通過地点である)

3 倭建命と倭姫命(卑弥呼)は古事記を見る限り親密であり同行していたとみるべきである。原古事記は卑弥呼の東西の巡行を記していた。また、卑弥呼は自ら壱岐まで行っており、そのまま新羅まで行ったとみるのが自然である。原古事記はそれも記していたのだが、卑弥呼の伝承を消すために八幡神社を造り神功皇后を祭神とし周辺の卑弥呼の伝承を神功皇后に置換え、原古事記の倭健命と一緒に全国を巡行した卑弥呼の記述を消した。藤原氏は卑弥呼(日女命)の伝承を神功皇后の伝承に書き換えている。
 原古事記の卑弥呼(倭姫命)の段には 倭健命と卑弥呼(倭姫命)が一緒に全国を巡行したことが書いてあった。藤原氏は卑弥呼が蝦夷(藤原氏の一部)を平定する記述を消すために新羅を懲らしめる神功皇后の段を作った。原古事記の卑弥呼を神功皇后に書き換え、全国に4万社余りの八幡神宮を作り、近くに残る卑弥呼の伝承を神功皇后に置換えていった。
 山口県や九州に多く残る神功皇后の伝承は卑弥呼の伝承であり、八幡神宮を多く建てて卑弥呼の伝承を神功皇后であったとしたため、倭姫命(卑弥呼)が倭健命と一緒に全国の巡行をしていたことが判ると容易に記紀の改ざんが判るので、倭姫命(卑弥呼)が倭健命と一緒に巡行していた記述を消した。

〈参考〉
 鳥取県神社誌にも、神功皇后が5神社の由緒に書かれている。
P32
宮長神社
古伝に「竹内宿禰因幡国を巡視するや、未だ村里尠(すくな)し。僅かに河邊に一小村あり。白衣の老人あり。天鈿女命の裔胤(いんえい)と称し、宿禰に謂いて曰く「吾がために祖宗の祠廟を建てよ」と、宿禰乃ち社を築き奉斎せるに始まる。その後神功皇后(卑弥呼)新羅より凱旋せられ因幡国北浜に着せらるるや、本社に報賽せられ、神託によりて社領を附し、本社に宮長の号を奉られし」と伝う。
P66
彌長神社
かって彌長大明神また凱陣の宮と称す。即ち因幡誌に「凱陣山、凱陣の宮、土人の御凱陣山という二つ山の南の連岡是なり。その地、松林鬱茂の間に小社あり。伊與長大明神と号す。相伝う。神功皇后(卑弥呼)征韓御帰国の時、此のところに鷁首を繋ぎ給うその跡なるを以て、御魂を祭りて凱陣の宮と崇む、とぞ。按るに神功皇后(卑弥呼)、御諱を気長足姫と称す神号、彌長気長と和訓相似たり。疑うらくは気長訛謬??なるにや」
P123
和多理神社
因幡誌に「和多理の神社一座、延喜式神名帳所載、八上郡和多理神社是なり。社伝に曰く猿田彦命を祭る。神功皇后(卑弥呼)筑前国大渡島より神主を此処に遷す。よって和多理神と称す。云々。土俗今大多羅大明神と呼ぶもの大和多理の誤りならんか。和漢三才図会曰く。和多理明神は八上郡にある。社領三十五石。祭神猿田彦命。景行天皇(孝霊天皇)朝、これを祭る。云々。按に景行天皇(孝霊天皇)の時始めて筑前国に斎て神功皇后(卑弥呼)の御世、当国に遷座なるにや。時代少し異なりと雖も、今に至って凡そ二千年。その旧趾紛乱なし崇むべし。・・・。木石あり。和多理の長寿石と号す。天明年中この石の下に神鏡を掘出す。円五寸厚さ四分裏鶴亀模様あり。神前に納む。と見え。また社伝に大同二年九月和多理の山(一に越山という)より現地に遷座せられ、松樹および二股の竹を各一株、長寿石、この他種々の神宝を遷し奉れり」と。
P256
板井神社
当社縁起書の写しに「勧請の儀は、人皇十五代神功皇后(卑弥呼)三韓安く平け給う勅願による御神社なり。よって本朝安全のため人皇四十代天武天皇白鳳四年まで御勅使在之為金銭領被附置御儀は勧請記に分明云々」
この宮石家は元因幡国造伊福部氏より出でしたりしが後氏を宮石と称したるなり。
P425
国信神社
旧記によれば欽明天皇(蘇我稲目天皇)元年霊験に由って勸請すという。神功皇后(卑弥呼)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生。御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣。出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。(伯耆民談記に「祭神一座神功皇后(卑弥呼)なり。人皇五十六代清和天皇の御宇当郡稲光の庄国信の村に鎮座ありと云う。御船に移らせこの村の灘に着船ある。その地を船磯という。蓋聞國山八幡と号することは、国を治民を守るの鎮座の山なるゆえに國山八幡とは称すなり。御船着岸の時御籏鋒たちし所を幡鋒と云来れり。当村を国信という。左右に連なる村を末長、末吉という。蓋し、その称すことは当社鎮座の時よりしてなり。神能国に信なるが故に国信とす。末世の神威を寿き末吉と号す。神徳萬齢不易に長なることを祝して末長と称する」と云う。社伝に曰く・・・。)

〈私見〉
 日本書紀によると、神功皇后は財宝を乗せた船を従えて新羅から関門海峡を通り(人力船では不可能)南海を通って京(奈良)に行かれたのではなかったか。鳥取県までくれば人力船で海流に逆らって関門海峡に戻ることは不可能である。倭姫命(卑弥呼)は地名を付けて行ったから国信神社の由緒の神功皇后は倭姫命(卑弥呼)の事蹟である。国信神社由緒の「神功皇后(卑弥呼)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生」は日本書紀に従って書いている。人力船で新羅から筑前港へ凱陣することは不可能だから作り話である。史実は「倭姫命(卑弥呼)と倭健命は出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。その後、御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣」である。北栄町大島の宮崎神社の由緒には「日本武尊、西征の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが、不思議の神助にて御艦引寄せるが如く本社地に着御し給えり」とある。難風と霪風との表現の違いはあるが、御艦には倭姫命(卑弥呼)も同船していたと思われる。「日本武尊御自ら御飯を炊き給いて」とあり、「御自ら」と書いているところがわざとらしい。倭姫命(卑弥呼)も同席して神助を謝せられたはずである。その後鳥取市の北の浜に着かれ鳥取市宮長に行かれ、鳥取市福部町湯山の御凱陣から摩尼山へ御参詣された。倭姫命(卑弥呼)と倭健命の御艦は海流に乗って東へ東へと行った。

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第七節 伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった。(由緒など引用しています) [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第七節 伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった。(由緒など引用しています)
 ガイドブックによれば、伊射波神社に祀られているのは、稚日女尊、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、狭依姫命という4柱の神様で、伊佐波登美命以外は女神とある。
1 狭依姫命(女神)
 宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名である。加布良古崎の前海にあたる長藻瀬という島嶼の神乎多乃御子神社のご祭神として祀られていたが、戦国時代の地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまった。幸いご神体は村人らによって見つけ出され、伊射波神社に合祀された。海の守護神として卑弥呼のころに祀ったのかもしれない。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。
2 玉柱屋姫命(女神)
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」について、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されているそうである。
 瀬織津姫は天照大御神の妻であり、天照大御神を女神だとするようになってから、藤原氏が消していったものである。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。
3 伊佐波登美命(男神)

 伊佐波登美命以外は女神だから伊佐波登美命は男神である。伊佐波登美尊は、倭姫命が天照大神の御魂を鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられている。安楽島町には、加布良古崎の伊射波神社以外に安楽島町字二地の贄に伊射波神社本宮がありそこに伊佐波登美命が祀られていたそうである。
 安楽島町字二地の贄の遺跡からは、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した、おびただしい数の遺物・遺跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっている。
 伊射波神社本宮の社殿は贄遺跡の近くの一番高いところにあったそうである。後、伊射波神社本宮の衰退と共に、伊佐波登美命は加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。伊佐波登美命はもともと伊射波神社本宮に祀られており、現在の伊射波神社の祭神ではなかった。魏志倭人伝には「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す」とある。この男子とは伊佐波登美命のことである。
4 稚日女尊(女神)
 海部氏系図によると日女尊又の名を倭迹迹日百襲媛命といい第七代孝霊天皇の皇女であり、魏志倭人伝にいう卑弥呼である。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。 
 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
 稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
 鳥羽市国崎町字鎧崎にある海士潜女神社の由緒には、「倭姫命にアワビを献上したと伝えられている伝説の海女(お弁)は海女の元祖ともいわれ、年初めの漁が始まる前に海女たちは必ずここを訪れ、一年の無事と大漁を祈願する」とある。
 ここで倭姫命(倭姫命世紀)と稚日女尊(全国の神社の祭神)は同一人物だということが判りました。
5 加布良古崎の伊射波神社の祭神は最初は稚日女尊一神だけであった。稚日女尊は加布良古崎の伊射波神社の地に一人で居り、伊佐波登美命が飲食を給し、辞を伝え居処に出入していた。王となりしより、見たことのある者は少なかった。

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第六節 倭姫が最初に天照大御神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第六節 倭姫が最初に天照大御神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた。
1 ある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。
 『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたってはニニギ命を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大御神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。
 (地元の伝承) 形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

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 この看板のとおりだとすると、第一回目の式年遷宮は793年に行われたことになる。その時に20年ごとに改修しなければ、傷みがひどくなるという結論に達した。ということは、少なくとも最初に建てたときよりも20年は経っていたということである。773年より古いと思われるが、それよりも20年も古いとは思われない。いくら古くとも753年くらいではないだろうか。今の規模の伊勢神宮を造ったのは753年よりふるくはないと思われる。今の規模の伊勢神宮は持統が亡くなってから造られたものだと思われる。持統が勅賜門を千田寺に造ったときに小さな伊勢神宮のもとを造ったかどうかはわからない。倭姫命世紀の伊勢神宮をこの時に造ったという部分は改ざんして後に付け加えたものである。
 千田寺は聖徳太子が建てたものである。

第五節 「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第五節 「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想
 旅行中志摩市にいるときに、「邪馬台国は三重県にあった」直井裕著という本を知り読んでみました。
 邪馬台国は三重県にあった理由として以下の理由をあげておられる。青玉は蛍石であり三重県で取れる。真珠もとれる。丹(辰砂)や水銀も取れる。海辺の国でありサメ避けの入れ墨をしている。冬でも野菜が採れる。伊勢市の遺跡は弥生時代後期になって急に増えている。距離方角も上げておられるが、私にはよくわかりませんので割愛します。卑弥呼は伊勢神宮の近くにいたのではないか、としておられる。狗奴国の狗は犬であり、愛知県には犬を一緒に埋葬している墳墓が多く見つかることと、抜歯の仕方より、狗奴国は愛知県にあった、としておられる。
 狗奴国は愛知県でも三河であろう。尾張は邪馬台国に属していたから南にあると言っても間違いではない。また志摩国から見れば三河は東であるが、東としている中国の文献もある。邪馬台国三重県説はこの方以外に知らない。

 私は日女命(卑弥呼)がいるべきところにすべて稚日女命がいたので、これは神社の祭神が改ざんされているということに気づいて、稚日女命を祀る神社の由緒を調べていくうちに神戸の生田神社と鳥羽の伊射波神社に行きついたので、詳しく調べているうちに、邪馬台国は志摩国にあったという結論になりました。
 第三章の「邪馬台国のロマンを探る」特に「古代の国にタイムスリップ」の部分は空想科学小説のようでもあり「不思議なコーヒーショップのモカの味わい」にしても、芥川龍之介の「河童」をほうふつとさせるものであり、買って損したとは思わなかった。卑弥呼は徐福の子孫である、というくだりになると、誰も信じないだろうと思いながら、やはりそうかもしれないという思いもある。魏志倭人伝の鬼道とは道教である、としておられるがそれ以外は直観であろう。
 私の理由はいくつかあります。徐福も天照大神も蒜山高原(東海の三神山の一つの瀛州山の瀛州)にいたということと、徐福は始皇帝に言われていた「三神山に留まり王となれ」という言葉を守り三神山で王となった。王とは同じ高天原(蒜山高原)にいた天照大神と思われる。徐福は道教の方士である。卑弥呼は第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であり、天照大神の子孫である。天照大神は男性であり徐福である。卑弥呼も民衆を鬼道(道教)でまどわした。
 卑弥呼は120歳まで生きたとか、狗奴国の王と結婚していた、とかについては理由が示されておらず、なるほどとはならなかった。


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第四節 千田の御池の説明版より [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第四節 千田の御池の説明版より
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 大歳の神前へ真鶴が稲穂をふくみ来て落としたので、倭姫命がその稲の美しいのをご覧になり千田の神池に種つぎされて、その秋は垂穂・八握穂にたれて、はなはだ見事であった。それで日本国中へその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社・八百万の神たちに神酒をつくり、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。
 その後聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ「わたくしその地を遊覧しよう」と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである。
 持統天皇この地に行幸あり、数日みこしを留めさせられ、勅賜門を建てられた。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りをして、神池の霊水をいただき、太子のお影を拝むことが故実となっていた。のちに、堂宇は雨露のため破れ、御影を仮殿に安置して再建しようとしたが、かなわなかった。思うに、太子は神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者・士農工商いづれか太子の報恩を知らないでいられようか。
  文政十三年寅正月    志州磯部宮本無量山 願主千田寺

1.勅賜門がなぜ建てられたかを考えてみると、千田寺の前に建てたようである。それを建てるまでは、千田寺に自由に出入り出来ていたようである。太子自ら三歳の姿を彫刻した像のある、太子の建てた千田寺を封印するためである。
 壬申の乱の時に、持統と不比等は天武天皇と一緒にここも訪れた。天武天皇から「私は天照大御神の子孫である」と言われた。その時はまだ伊勢神宮はなかった。持統は不比等から天武天皇を毒殺するように頼まれていた。天武天皇を毒殺してから、聖徳太子(蘇我入鹿)の崇りを封印するために不比等の依頼で勅賜門を建てた。1年に7日しか拝観できないような寺はやがて衰退するのは分かりきったことである。

2.天智は百済の官僚機構の左大臣右大臣制度を導入したが、天武天皇はこの制度を廃止し以前の官僚制度に戻した。しかし、持統は天武天皇が廃止した百済のこの官僚機構(左大臣右大臣制度)を再び復活させたという説がある。日本書紀を読むとこのように思われるのだが、660年より倭王朝と百済王朝が列島に並立していて、日本書紀は百済王朝の歴史を基本としているが倭国の有力な天皇を転記している、と考えれば倭国には大臣制度がなかったのであるから何もおかしくはない。
 
3.倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿)は同郷である。
 卑弥呼は師木(鳥取県湯梨浜町)の出身であり、蘇我氏は葛城(鳥取県北栄町)が出身母体である。どちらも鳥取県中部である。天武天皇は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子であり卑弥呼(倭姫命)の子孫になる。


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第三節 伊勢神宮参拝 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 伊勢神宮参拝
 神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。

1 伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。何にもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。
 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。

2.
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伊勢神宮(内宮)の正面入り口
131
祭神は天照大御神だけである。
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正面入口を入ったところに五十鈴川にかかる橋がある。
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あまりにも広すぎて、往復すると疲れを感じる。

3 藤原氏は、原古事記にあった天照大神が建御名方命に鳥取県琴浦町の伊勢野を国譲りしてもらった記述を神武天皇と伊勢津彦の話に変えて伊勢国風土記を作った。同じく原古事記に記載のあった卑弥呼(倭姫命)の全国巡行の記述を倭姫命世紀として独立させ伊勢神宮ができた由来を創作した。これらの創作は750年以降である。藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠すために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。この目論見は今のところ見事に成功している。伊勢神宮は全国の約8万の神社の頂点である神社本庁の本宗と位置づけられている。神社本庁の下部組織の神道政治連盟国会議員懇談会には多くの政治家が加入している。神社本庁は改ざんが多くなされている古事記・日本書紀をもとに活動している。

4 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。伊雑宮は伊勢神宮より550年以上古い。伊雑宮の時代の本当の伊勢神宮は奈良時代まで鳥取県琴浦町にあった。伊雑宮ではこちらを「元伊勢」と言っていた。卑弥呼(稚日女命)はのちに安楽島の要害の地の伊射波神社で生涯を終えた。「いざわ」とは地名であり、藤原氏はそれぞれ異なった当て字をしているが、伊雑宮と伊射波神社は同系列の神社である。 

5 海部氏勘注系図によると、稚日女命と倭姫命は小豊姫命であり魏志倭人伝の「台与」であるという説がある。しかし、「小豊」だから本当の「豊」は別にいるはずである。10世孫の妹の大倭姫命の亦の名に豊鋤入姫命の名がある。彼女が魏志倭人伝の「台与」であり、11世孫の妹の日女命は、9世孫の妹の日女命と同じく卑弥呼であった。稚日女命は倭姫命であり、邪馬台国の卑弥呼である。
 卑弥呼は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世紀にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大御神だけとなっている。安楽島の伊射波神社に伊佐波登美を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。伊雑宮を伊勢神宮の別宮にするのに、伊佐波登美はじゃまになったからである。安楽島にある伊射波神社には倭姫命は祀られていない。ここの主祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに伊佐波登美神を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一人物であることを藤原氏は判っていて移動させている。これなら崇りはないだろうという判断で。










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第二節 倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第二節 倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった。

1 讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したのだろう。

2 志摩国における倭姫命の農業開発
 倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、「此、あやし」と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を」と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ。(倭姫命世紀より)
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聖徳太子(蘇我入鹿)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。
(磯部町千田御池跡の説明板より抜粋)
3 
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磯部の伊雜宮本殿
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磯部の伊雜宮本殿 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
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 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったのだろう。
 この近くに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より)

 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。
 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。

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 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)
4 倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。
 倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物である。


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