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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国・卑弥呼 その1 ブログトップ
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第二節 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。

1 古事記を読んだ百済出身者の史官や藤原不比等にとってみれば、非常に面白くない。藤原不比等や百済史官は卑弥呼が日女命であり、またの名を倭迹迹日百襲媛命であることは知っていた。日本書紀を作るにあたって、彼らは卑弥呼は死んだことにして、新羅国をやっつける英雄を作り上げる必要があった。それが神功皇后である。卑弥呼を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。稚日女命は陰部をついて死んだし、倭迹迹日百襲媛命も陰部をついて死んだ。死に方が全く同じである。呼び名の違う同一人物を両者とも陰部をついて死んだことにした。後者の神話をなぜ挿入する必要があったのか。後者がなければ完全に騙されるところであった。まるっきり、その場で思いついた作り話である。大物主は天忍穂耳であり時代がまったく違う。
 全国に祀られている稚日女命も卑弥呼である。全国の神社は藤原氏が掌握していたのであるから、日女命に稚を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社や賀茂神社や天満宮や春日大社は藤原氏が作ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込まれていた。

2 私見

(1)孝霊天皇と倭迹迹日百襲姫命は出雲に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と倭国大乱を戦っていた。
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
鬼.jpg
 特に鬼(鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれていた青銅器文化の一族=出雲神族であり倭国大乱の相手方)が住んでいたといわれる鬼住山の背後の大山山麓の日光村には、孝霊天皇(山田神社)と稚日女命(吉原神社)が祀られている。周辺の地名に大(王)の付く地名が8ヶ所集中しているので栃原集落に実際に孝霊天皇がいたものと思われる。その背後の吉原集落には稚日女命がいた。これは倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(ヤマト王権)の陣地の痕跡だと思われる。鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。お告げをした天津神は、栃原集落に陣取っていた孝霊天皇の背後の吉原集落にいた稚日女命と思われる。
 孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)は出雲神族(準王一族=青銅器文化の一族)と戦うために、鳥取県西部の出雲と接する2郡(西伯郡と日野郡)にいたと思われる。稚日女命は卑弥呼か台与か問われれば、稚日女命は倭国大乱を一緒に戦った孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命であるということになる。

(2) 海部氏勘注系図を見ると11世孫の妹の日女命のまたの名には小豊姫命があり、小豊姫命が魏志倭人伝にいう台与と言う説がある。小豊姫命のまたの名に稚日女命や倭姫命もある。私は稚日女命や倭姫命を卑弥呼としている。本当に小豊姫命が台与であろうか。(コ)トヨなのでトヨは別に書かれているのではないだろうか。10世孫の妹に豊鋤入姫命がいる。彼女こそ本当の「トヨ」と思われる。
 魏志倭人伝にある「男王」とは、卑弥呼が248年、崇神天皇が258年に亡くなっているので、生前譲位した崇神天皇(在位186年~220年)や垂仁天皇(在位220年~248年)ではなく景行天皇(在位248年~280年)と思われる。日本書紀では景行天皇の妹は倭姫命となっている。本来孝元天皇の妹である倭姫命を「倭姫命世紀」を造った関係で、景行天皇の妹に持ってきた。一緒に全国を巡行した倭建命(開化天皇)も同時代になるように景行天皇の皇子に持ってきた。
 本来豊鋤入姫命は垂仁天皇の妹ではなく景行天皇の妹であった。景行天皇の妹に倭姫命を持ってきたので、景行天皇の妹であった豊鋤入姫命を垂仁天皇の妹に持っていった。
 日本書紀や倭姫命世紀の順序は豊鋤入姫命(台与)→倭姫命(卑弥呼)である。しかし、魏志倭人伝では卑弥呼(倭姫命)→台与(豊鋤入姫命)の順である。日本書紀や倭姫命世紀と魏志倭人伝とでは順序が逆である。勘注系図も日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序にしてあるのは、籠神社の宮司が藤原氏に見せる時に、日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序である、と説明するためと思われる。
 藤原氏は先に豊鋤入姫命がきて、後に稚日女命や倭姫命が書いてあるので日本書紀や倭姫命世紀と順序が同じであるとして検閲を通す印を押した。しかし、11世孫の日女命は9世孫の日女命と同一神と思われる。勘注系図はここを悟られないようにして稚日女命や倭姫命を11世孫に持ってきた。11世孫にある稚日女命や倭姫命も本来は9世孫の日女命であり、亦名は倭迹迹日百襲媛命であった。
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えたものと解される。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を胡麻化すためと思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命である。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼であるとする説が有力である。稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼となる。勘注系図の稚日女命=倭姫命より、稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼=倭姫命となる。鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた倭迹迹日百襲姫命は7歳のときに、天日槍の造った丹波国に1年ほど疎開していた。ちなみに、勘注系図の6世孫と10世孫の大倭姫は同一神(台与)と思われる。

3 参考
 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 



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台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった。

1 魏志倭人伝によると「卑弥呼の後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した」とある。
 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。〈原古事記にあった詳細は倭姫命世紀に書き出されている〉
 豊鋤入姫命は天照大神を奉斎していたので魏志倭人伝の台与(トヨ)である。
 原古事記には「孝霊天皇の皇女、日女命またの名、倭迹迹日百襲媛命」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあったはずである。藤原氏は日女命を稚日女命とし倭迹迹日百襲媛命を倭姫命とし、垂仁天皇の皇女の豊鋤入姫命を倭姫命と入れ替えた。その動機は「倭姫命世紀」という書物を作ったからである。はじかれた豊鋤入姫命をそのまま垂仁天皇の皇女にすると入れ替えたことが分かるので崇神天皇の皇女とした。
 以前景行天皇の在位期間を260年~290年としていたが、景行天皇の在位を248年~280年頃に訂正します。妹の倭姫命(豊鋤入姫命=トヨ)は13歳で卑弥呼の宗女となった。魏志倭人伝の「男王」とは景行天皇であった。皇居は鳥取県中部にあったが多くは奈良の纒向日代宮におられ、全国の代表者を集めて妹の豊鋤入姫命(台与)が祭祀をしていた。中国にとって男王は影が薄かったようだが、中国のいう女王と倭国の男王(天皇)は並立していた。

2 勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命

3 私見
(1)海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とするのが通説である。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命はニニギ命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年まではホホデミ命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であったものと思われる。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中であった。日本書紀に合うように書かれている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀に合っているから藤原氏の検閲をパスした。日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え、11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。代はずれているが「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当の順序は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であった。史実は、「倭姫命」が9世孫の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫の妹であった。
(2)孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。卑弥呼も鬼道を使い倭国大乱の時期を生きた。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生ており、卑弥呼は孝霊天皇の一族と考えるべきである。
 鳥取県神社誌(昭和9年当時2市7郡)のうち孝霊天皇(9神社)と稚日女(8神社)の祀られている神社は、出雲国に接する西伯郡と日野郡である。稚日女命も孝霊天皇も出雲神族(準王一族)の鬼と戦うために西伯郡と日野郡にいたものと思われる。稚日女命は孝霊天皇と一緒に戦っていたのであり、倭国大乱の同時代に生きていたと解される。稚日女命は倭国大乱が終わってから宗女になる台与ではない。孝霊天皇の一族と解するほうが自然である。東は岩手県から西は長崎県まで全国の多くの神社に祀られている稚日女命は台与ではなく卑弥呼である。
(3)全国を巡行して社を建てさせ、準王一族(出雲神族)の祭祀を道教の神道に強制的に変えさせる巡行は倭姫命がしている。「倭姫命世紀」は倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行した一部である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。あとは纒向に全国の代表を集めて道教(神道)の祭祀をするだけであった。全国の巡行は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は全国の代表者を纒向に集めて道教(神道)の祭祀を行えばよく、わずかな巡行をすればよかった。倭姫命も倭建命と同じ倭国大乱の時期(146年~189年)を生きているから台与ではない。
 稚日女命も倭姫命も台与ではなく卑弥呼であった。
(4)豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇の妹ではない。崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言われているので、魏志倭人伝に言う「男王」ではない。しかし、台与は豊鋤入姫命とするのが通説である。崇神天皇は享年103歳くらいで258年に亡くなっているから、豊鋤入姫命は崇神天皇の13歳の妹ではない。垂仁天皇の在位も崇神天皇から生前譲位を受けて在位220年~248年くらいであろう。「男王」は景行天皇と思われる。台与(豊鋤入姫命)は景行天皇の妹と思われる。しかし、日本書紀では景行天皇の妹に倭姫命がいる。
 豊鋤入姫命と倭姫命とは別人である。伊勢神宮でも2人を別人として扱っている。2人は会ったこともないので天照大神を直接託すこともなかった。日本書紀では時代を、あとさき入れ替えて書いている。
 日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。「倭姫命世紀」を独立した書物にした関係で日本書紀では景行天皇の妹を豊鋤入姫命と入れ替え、倭姫命とした。倭建命も景行天皇の皇子に持ってきた。本来、倭建命も倭姫命も孝霊天皇の皇子と皇女である。

4 参考
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
 しかし、史実は「2世紀、倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行し、3世紀、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)が少しの巡行をした」であった。
(1)倭姫命(卑弥呼)倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)
 1、大和国 字多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、伊勢国 桑名野代宮 11、伊勢国 奈具波志忍山宮 12、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 13、伊勢国 飯野高宮 14、伊勢国 佐々牟江宮 15、伊勢国 伊蘇宮 16、伊勢国 大河之瀧原宮 17、伊勢国 矢田宮 18、伊勢国 家田田上宮 19、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)
(2)豊鍬入姫命(台与)垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹
 20、倭国 笠縫邑 21、但波乃 吉佐宮 22、倭国 伊豆加志本宮 23、木乃国 奈久佐濱宮 24、吉備国 名方濱宮 25、倭国 彌和乃御室嶺上官

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第十一節 三神社の由緒に見る「稚日女命と神功皇后との関係」と魏志倭人伝に見る「千人の婢」について [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第十一節 三神社の由緒に見る「稚日女命と神功皇后との関係」と魏志倭人伝に見る「千人の婢」について
1 神戸の生田神社の由緒
 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の和魂あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。

 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。
2 三重県の伊射波神社の由緒
 稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
3 和歌山県の玉津島神社の由緒
 稚日女尊は、天照大神の御妹に当たられる。長足姫命は即ち神功皇后である。神功皇后が海外に軍をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、神功皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた神功皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなった。
4 稚日女命と神功皇后との関係(ある方の思い)
 神功皇后が凱旋したときに、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮座しましょう」とおっしゃた。いつの間に船に乗ったのでしょう?
 神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せられた・・・としています。稚日女尊はご自分から先導を申し出られたのではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想像できます。ただ、その場合気になるのは優先順位です。既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」とおっしゃってるのに、稚日女尊に援助を願うというのは、前者三方にとっては失礼なことです。また、稚日女尊は天照大神の妹神です。天照大神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」のお家事情があるならば、天照大神より高位ということも考えられる。しかし、天照大神より高位だとすれば、「稚」なんて文字使いますか???
 その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ずっと力の強い神であった、とか。女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・神功皇后も、天照大神も一目置く女神であった、ということならば納得できるのですが・・・。
5 私見
 ある方の思いからすると、稚日女命は天照大神・事代主命・住吉三神や神功皇后よりも高位でなければならない。
 稚日女命は「稚」を付けられた日女命である。全国の神社の祭神となっている。倭姫命は「迹迹日百襲」を省略された倭迹日百襲媛命である。「倭姫命世紀」の主人公である。海部系図にある日女命(またの名は倭迹迹日百襲媛命)は邪馬台国の女王であり魏志倭人伝の卑弥呼である。
 卑弥呼の全国巡行は原古事記に書いてあった。「倭姫命世紀」は原古事記に書いてあった卑弥呼の全国巡行の南北巡行部分を基本としている。そして、原古事記に書かれていた卑弥呼の全国巡行を神功皇后の三韓征伐と入れ替えたと思われる。神功皇后は新羅国に恨みを持つ藤原氏(百済出身者)が新羅国をやっつける英雄として造りだした空想上の人物である。藤原氏が日本を乗っ取る以前から日女命として祀られていた三神社の由緒に神功皇后を登場させているのは日女命の祟りを恐れたからである。倭国を乗っ取り、皇統が途切れたことがわかっているから、あえて万世一系の皇統と戦前まで言い続けてきた。日本という国名は669年の百済王天智の発案である。日本書紀は不比等の創作であり、勝者の歴史書である。敗者の歴史書は書き換えられ葬り去られる。
 古代史が混迷に陥っている原因は、藤原氏が作った官制の日本書紀に間違いはない、あってもわずかな部分だけだろう、と思っているからです。天武天皇が作らせた原古事記には天武天皇まで書いてあったはずです。それを、改ざんして日本書紀を作り、原古事記の後半部分は消し去った。しかも、古事記に残っているものでさえ、半分近くは書き換えられていると思われる。その書き換えられた本当の部分を明らかにするのがこれからの古代史研究家に託された使命であると思う。
 例えば、神功皇后は空想上の人物だし、出雲国・伊勢国と書かれているところは後で藤原氏が書き換えた部分があると思いながら読む必要がある。神武天皇の四兄弟の二男が海原に入ったと書いているが、これも対岸の朝鮮半島(辰韓)に渡ったというのが真実である。豊玉姫も玉依姫も朝鮮半島(辰韓)から来ている。決して海中からではない。ニニギ命とコノハナサクヤ姫の話は人間臭い話であり今でもありそうな話で、古事記の改ざんはほとんどないであろう。しかし、その子や孫の話は大陸に似たような話があり、大陸出身の百済史官が書き換えた可能性がある。また神武四兄弟が奈良に行くようになった動機も消されている。
6 「魏志倭人伝」には、「以婢千人自侍」(女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ)とあり、「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女(うねめ)の貢上が書かれている。千人という数字をそのまま真に受けることはできないが、50国から20人づつの釆女(うねめ)の貢上があれば千人の奴婢となる。また現在の伊勢志摩の海女の起源である可能性もある。千人の釆女(うねめ)の食事はどうしたの、ということである。この釆女なり奴婢は人質というような説もあるが、海女は卑弥呼に感謝の念をもっているようであるから、捕われていたのを助けられたのではないかと思われる。

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第十節 「倭姫命世紀」は卑弥呼の全国巡行の記録の原古事記の一部分である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第十節 「倭姫命世紀」は卑弥呼の全国巡行の記録の原古事記の一部分である。
 稚日女命を祭神とする神社は東は岩手県・福島県・石川県から西は長崎県・熊本県まである。宮崎県にはない。卑弥呼が実際に全部の地に行ったとは思えないが、かなり広範囲まで巡行したことは史実であろう。「倭姫命世紀」はその時の記録の一部を書いたものであると推測する。
 藤原氏の作った日本書紀は原古事記を消して書換えている。推古天皇以降や自分たちに都合の悪いことは消しているので、日本書紀にしか書いていないことは嘘を証明するのに苦労する。ただ「倭姫命世紀」は藤原氏の手法からすれば、宮下文書におけるがごとくまず基本となる文書があり、それに自分たちの目的に合うように改ざんしていくということである。宮下文書は徐福が書いた原文があり、それを高天原は蒜山ではなく、富士山にあったと思わせるように書き換えていく、という手法である。
 これを「倭姫命世紀」に当てはめるならば、卑弥呼が全国を巡行して多くの国を従わせていった原古事記を、伊勢神宮の祭神である天照大神がどうして祀られるようになったかということを主眼に変えて書かれている。「一書に曰く」があるので、これも藤原氏が書いたものである。全国巡行の最後に志摩国を都に決めるのであるが、その時に手段として連れて歩いた天照大神は志摩の磯部の伊雑宮に祀った。これが伊勢神宮の本家である。現在の伊勢神宮も卑弥呼の巡行の頃に創建されたように書いているが、実際には奈良時代後期に創建したものと思われる。日本書紀と同じように、古く見せるという手法である。
 やはり、天照大御神は男性である。古事記には性別は書いてない。日本書紀にはスサノオが姉と言ったと書いてある。このことで早合点して天照大御神は女性である、と思われてきたのであるが、日本書紀は虚偽が多いということと、もし女性ならば、皇軍を率いて女性の声で「汝じの国の名は何ぞ」と言っても、効果は少ない。卑弥呼が降霊して男性の声で、「汝じの国の名は何ぞ」と言って効果があるからこそ、天照大神を連れて歩いたのである。

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第九節 邪馬台国(女王国)は志摩国であり、倭姫は卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 第九節 邪馬台国(女王国)は志摩国であり、倭姫は卑弥呼である

1  魏志倭人伝の女王国より「以北」21ヶ国
 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。
 1.斯馬國(志摩国)。2.己百支國。3.伊邪國。4.郡支國。5.彌奴國。6.好古都國。7.不呼國。8.姐奴國。9.対蘇國。10.蘇奴國。11.呼邑國。12.華奴蘇奴國。13.鬼國。14.為吾國。15.鬼奴國。16邪馬國。17.躬臣國。18.巴利國。19.支惟國。20.烏奴國。21.奴國。此れ女王の境界の尽きる所なり。
※私見
 女王国より「以北」21ヶ国だから、最初に書いてある斯馬國(志摩国)が女王国であり邪馬台国である。

2  「倭姫命世紀」について(ある方の文を引用しています)
※  1~21は倭姫命(卑弥呼)の巡行
1.大和国・宇多秋宮    (阿紀神社=奈良県宇陀郡大宇陀町) 
2.大和国・佐佐波多宮   (篠畑神社=奈良県宇陀郡榛原町) 
3.伊賀国・市守宮     (宇流冨志禰神社=三重県名張市)
4.伊賀国・穴穂宮     (神戸神社=三重県上野市上神戸)
5.伊賀国・敢都美恵宮   (都美恵神社=三重県阿山郡伊賀町)
6.淡海国・甲可日雲宮   (頓宮=滋賀県甲賀郡内)
7.淡海国・坂田宮     (同=滋賀県坂田郡近江町)
8.美濃国・伊久良河宮   (天神神社=岐阜県本巣郡巣南町)
9.尾張国・中島宮     (酒見神社=愛知県一宮市今伊勢町)
10.伊勢国・桑名野代宮   (野志里神社=三重県桑名郡多度町)
11.鈴鹿国・奈其波志忍山宮 (布気皇館太神社=三重県亀山市布気町)
12.伊勢国・藤方片樋宮   (加良比乃神社=三重県津市藤方森目)
13.伊勢国・飯野高宮    (神山神社=松阪市山添町)
14.伊勢国・佐佐牟江宮   (竹佐々夫江神社=三重県多気郡明和町)
15.伊勢国・伊蘓宮     (磯神社=伊勢市磯町)
16.伊勢国・滝原宮     (同=三重県度会郡大宮町)
17.伊勢国・矢田宮     (同=伊勢市楠部町)
18.伊勢国・家田田上宮   (神宮神田=伊勢市楠部町)
19.伊勢国・奈尾之根宮   (津長神社=伊勢市宇治)
20.伊勢国・五十鈴宮    (内宮=伊勢
21.志摩国・伊雑宮     (同=三重県志摩郡磯部町)

※ 22~27は豊鋤入姫命(トヨ)の巡行
 22.大倭国・笠縫邑     
 23.丹波国・吉佐宮    
 24.大倭国・伊豆加志本宮  
 25.木之国・奈久佐浜宮   
 26.吉備国・名方浜宮    
 27.大倭国・御室嶺上宮   
 倭姫(卑弥呼)には、安倍、大伴、物部、中臣、和珥(わに)氏など五人の有力将軍が随伴していた(倭姫命世記)。天照大神を戴くヤマト軍が侵攻してきたとき、その国の人々は、ヤマトの支配に従うか、それとも戦うかの選択を迫られた。
 大神は国名を問いかけた。国名を問われることは、帰順の諾否を尋ねられることであった。大神の問いかけに対し、国の長は従順に返答し、自分の国を差し出していった。「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女の貢上、地口や御田、物品の進上などが列挙されている。これは、ヤマト王権の全国巡行の一部であり、もともと原古事記に記載があったものである。
 「倭姫命世紀」に倭姫(卑弥呼)が嶋(志摩)の国を巡行した折に「神堺を定めたまひき」とある。それは倭姫(卑弥呼)による志摩国の領有、王権の支配拡張を意味する。

※私見
 豊鋤入姫命は魏志倭人伝の台与であり、景行天皇の妹である。倭姫命は魏志倭人伝の卑弥呼であり、孝元天皇の妹である。記紀では順序を入れ替えて記されている。平定の巡行は卑弥呼が行っているので、豊鋤入姫命(台与)の巡行は少なくてよかった。倭姫命の巡行において最後に至ったところが志摩国であり、そこに神堺を定めた。志摩国が倭姫命(卑弥呼)の邪馬台国である。安楽島町と伊射波神社との間には径100歩余り(普通の一歩は75cmだから75m)の前方後円墳も存在する。

3  私見
  「魏志倭人伝」には、「以婢千人自侍」(女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ)とあり、「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女(うねめ)の貢上が書かれている。千人という数字をそのまま真に受けることはできないが、50国から20人づつの釆女(うねめ)の貢上があれば千人の婢となる。この釆女なり婢がどういう立場にあるのかは、人質というような解釈もあるが、鬼たちに捕らえられていた少女たちではないだろうか。卑弥呼に対して感謝の念を持っていたものと思われる。また現在の伊勢志摩の海女の起源である可能性もある。千人の釆女(うねめ)の食事はどうしたの、ということである。
 倭姫は卑弥呼である。藤原氏はここでも名前を変えている。
 卑弥呼がなぜ大物主から天照大神に乗り換えたのかがよくわからないが、この巡行は青銅器文化の一族を含む多くの国を従わせることが目的であった。
 大物主は天忍穂耳であり、天穂日を祀る出雲国の代表もいるのだから、天忍穂耳と天穂日の親である天照大神を祀らなければ連合国では通用しなかったものと思われる。

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第八節 魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第八節 魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である。
伊射波神社パンフレットから-
志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ)   通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕  三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔社格〕  旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
〔御祭神〕  稚日女尊(わかひめのみこと)
       伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
       玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
       狭依姫命(さよりひめのみこと)
〔御由緒〕 天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたとされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
御祭神について
 伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられています。後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。
 玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の娘と記されています。
 大二座のもう一座は、稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射披神社。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました。「加布良古の外峯(とみね)に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の大明神に、遊びの上分(じょうぶん)参らする請玉(うけたま)の宝殿(たからのみやから)」 これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行なわれ、その様子を歌ったものです。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されます。『神宮紀(じんぐうき)』によれば、「尾田(おだ)(加布良古の古名)の吾田節(あごとうし)(後の答志郡)の淡郡(あわのこうり)(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
 狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご祭神でもあります。安楽島では、粟嶋と呼称されていたころ、神乎多乃御子神社(小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻瀬とある)という島嶼(とうしょ)にお祭りされていましたが、戦国の世地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。

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第七節 鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社と神戸の生田神社・志摩国の伊射波神社の由緒 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第七節 鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社と神戸の生田神社・志摩国の伊射波神社の由緒

1 天穂日を祀る神社は八頭郡の神社が8社あるが、国譲りの交渉に派遣されるまでにいた所であると推定する。出雲国から子孫が来て占領するならば、海岸に近い鳥取市内も占領していくはずであるが、鳥取市内には全くないからである。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり国譲りの交渉が失敗し、天忍穂耳に米子から日野川上流・溝口町・日南町まで開けてもっと西に行くようにと言われるまで、大国主の計らいで拠点にしていたものと思われる。
天穂日命

中村神社  岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社  八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社  八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社 八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社 八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社  八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社  八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社 八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社 八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社  気高郡大郷村大字大畑字森崎
五郷神社  三朝町牧560の1 
大原神社  倉吉市大原619番 
田内神社   倉吉市巌城1494番 
松崎神社  湯梨浜町松崎566番
天萬神社  南部町天万1009番
多里神社  日南町新屋70
末尾神社  手間村大字田住字松尾
御崎神社  米子市尾高
北野神社  米子市赤井手
新印神社  米子市新印137番
古川神社  春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社  米子市古豊千
東千太神社  米子市古豊千888番
御崎神社  米子市河岡630番
北原神社  米子市福万667番
巨勢神社  米子市八幡254番3
逢坂八幡神社  大山町松河原233番
小町神社  伯耆町小町455番
三部神社  伯耆町三部824番
上の荘神社  伯耆町福吉264番
安井神社  日野町津地423番
2 日本書紀にある神戸生田神社
 201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私はいくたながさの国に居りたいのです。うなかみのいそさちに命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。
3 志摩国一宮 伊射波神社(いさわじんじゃ) 通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔御由緒〕天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたおされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
4 私見
 
この2社辺りに卑弥呼は居たのではないかと思われる。

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第六節 卑弥呼(夜麻登登母母曽毘売)は七才まで湯梨浜町宮内にいた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第六節 卑弥呼(夜麻登登母母曽毘売は七才まで湯梨浜町宮内にいた。
1 鳥羽市安楽島町加布良古崎と湯梨浜町宮内とは共通点がある。
 どちらも、海あるいは大きな汽水池に面していて、高台になっていることである。目の前の海あるいは池からは海産物やシジミなどの魚介類がとれる。伊射波神社の海抜は80mくらいである。宮内第一遺跡のあたりは50mくらいである。どちらもすぐ下が急な崖になって海あるいは汽水池に面している。
 卑弥呼は七才まで湯梨浜町宮内で過ごしたから、同じような環境のところを終の棲家とした。東郷池は、当時はまだ海抜が今より高く、東郷池と海との出入り口が広かったため、海の魚介類も取れたのではないか。
 湯梨浜町宮内と安楽島町加布良古崎と違うのは、安楽島町加布良古崎のほうが気候が温暖であるところである。卑弥呼は幼少期を過ごした湯梨浜町宮内と環境の良く似たところを終の棲家として選んだ。
2 伊射波神社の下の鳥居の海辺は船着き場であったはずである。

IMG_0614
 伊射波神社の下の鳥居。船をこちらに着け、ここから左の急な坂を上がって海産物を届けたものと思われる。
2
宮内集落の空撮。第1遺跡の下に船着き場が確認できる。
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当時は水面が2m~3m高かったから、かなり大きな船でも接岸できたはずである。
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御冠山。下が宮内集落。その下が船着き場である。


 宮内の下は船着き場であったはずである。水産物はここからあげていた。卑弥呼はここから船で長瀬高浜に巫女になる修行に行っていた。大陸(新羅)からの船もこちらに着船したものと思われる。


 藤津は宮内から来るものや宮内に行くものを監視するために後に藤原氏が作った集落であると思われる。百済(藤)津である。


 倭文神社の宮司は藤津に住んでいる。


3 藤原氏が作ったと思われる岩のモニュメント


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4 私見


 倭文神社の主祭神を書換え、藤津をつくり、下照姫ゆかりの岩のモニュメントをつくり、下照姫の伝承を全面に強くだしたのは、藤原氏であると思われる。宮内(黒田宮)に孝霊天皇や夜麻登登母母曽毘売(卑弥呼)がいたことを消すためである。


 712年に古事記の原本を見た藤原一族は孝霊天皇の一族を恐れた。青銅器文化の一族と同じ運命をたどるのではないかと。


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第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた。
 

1 香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。
2 古事記には『倭建命は歌を詠んで、「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」』とある。
 長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
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 長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀。
小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)


IMG_0021 (2)
 6は柄部。7は中央部。
IMG_0023 (2)
 1は中央部。2は先端部

 倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。

 ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~477年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。

3 長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は1年半で道教を会得したから、卑弥呼は5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。


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第四節 中国地方の初期の倭大乱における卑弥呼の痕跡 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第四節 中国地方の初期の倭大乱における卑弥呼の痕跡
 卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命)が四国(讃岐)より応援にきた中国地方における初期の倭大乱である。この初期の大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が造られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。 
稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社

1 新見の石蟹への攻撃
岡山県久米郡中央町打穴北 磐柄神社
岡山県久米郡旭町西川上 徳尾神社摂社杉尾神社
岡山県津山市沼 齋神社
岡山県苫田郡奥津町久田下原 久田神社
岡山県津山市綾部 綾部神社
2 鬼住山への攻撃
岡山県真庭郡川上村西茅部 茅部神社
岡山県真庭郡八束村中福田 福田神社
岡山県真庭郡久世町大字久世 朝日神社
鳥取県日野郡江府町大字吉原 吉原神社
鳥取県西伯郡伯耆町番原 植松神社
鳥取県日野郡日野町舟場 嚴島神社
3 出雲本隊への攻撃(山越)
広島県庄原市市町 田原神社
鳥取県日野郡日南町新屋 多里神社
島根県大原郡大東町大字中湯石 日原神社
島根県大原郡大東町大字遠所 艮神社
4 出雲本隊への攻撃 (海岸沿い)
鳥取県西伯郡大山町上万 壹宮神社
鳥取県西伯郡大山町大字古御堂 前田神社
鳥取県西伯郡大山町大字加茂 賀茂神社
鳥取県米子市淀江町大字西原 日吉神社
鳥取県西伯郡南部町大字馬場 長田神社
島根県安来市赤江町 安屋め神社
5 倭姫命(卑弥呼)と倭健命が九州に行くまでの宿泊地だと思われる。
岡山県浅口郡金光町大字下竹 大森神社
岡山県浅口郡金光町大字占見新田 大森神社
広島県福山市赤坂町大目 生田神社
広島県呉市西川原石町 照日神社
広島県広島市安芸区船越 岩瀧神社摂社新宮社
広島県廿日市市串戸 廣田神社
山口県岩国市周東町獺越 河内神社
山口県岩国市周東町大字三瀬川 河内神社
山口県岩国市美和町大字阿賀 速田神社
大分県大分市大字上宗方 大明神社
6 古事記には初期の倭大乱についても記載があった。孝霊天皇と吉備津彦・吉備武彦(皇軍)と卑弥呼の連携で鬼や出雲軍を攻撃したことは明確に書いてあったはずである。しかしこれを改ざんしても、伯耆国に触れざるを得ないので、藤原氏は削除した。

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