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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇 ブログトップ

鳥取県大山の大神山神社の地に神南備を創建したのは崇神天皇である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 鳥取県大山の大神山神社の地に神南備を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。


1 大神山神社の由緒にある「磯城の瑞垣」とは崇神天皇の皇居である。古い文献伝承があったのだろうが藤原氏を恐れて
崇神天皇とは書かずに崇神天皇を連想させる「磯城の瑞垣」と書き残した。大山中腹の現今の奥の宮の所在地に神南備を創建したのは崇神天皇(紀元155年~258年)である。崇神天皇と姉の卑弥呼が全国の神社のもとを創ったのであるから、皇居が鳥取県中部にあった崇神天皇は真っ先に大神山神社を創建した。また崇神天皇は始めに登りダイセンと名付けた始祖の天照大神(徐福)を祀ったのであり、大国主を祀ったのではない。藤原氏は神社名を大神山神社としたため大神山にいた大国主を祭神にした。そして大国主の本拠地が出雲の近くにあるように創った。

2 大山の大神山神社の宮司はアジスキタカヒコネの子孫であり、このことは現宮司まで一子相伝で語り継がれてきたそうである。現宮司の先祖は奈良時代に倉吉市の法華寺畑遺跡で行われていた血脈狩りの公開処刑を見ていた。だから天皇家に対する恐怖心を人間天皇になった今まで抱いてきた。奈良時代土佐王の池田氏が助けを求めて琴浦町にあった伊勢神宮に来たことが方見神社の由緒に残っている。隼人の乱(720年)も「乱」などというが亡命百済王朝が政権を奪うための前準備であった。ウィキペディアでは「隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である」とするが、間違いである。八百年の間ヤマト王権(鳥取県中部)に属していた隼人が亡命百済王朝の支配に対して抵抗したということである。

3 私の先祖も法華寺畑遺跡で殺されたのか「夢の中でその時の映像が映し出される」。それでも一族は20数軒残っているので良しとしよう。大神山神社の現宮司と同じく私の家系も一子相伝であった。故父は「神武天皇の道案内をしたのでこの名前をもらった」と言っていた。神武天皇の道案内をしたのは神武天皇の一番の家来の「道臣」である。私の姓には始めに「道」が付いている。藤原氏は私の家系抹消もしたかったのだろう。しかし、大神山神社の現宮司と私の先祖も生き延びた。だから、大山の大神山神社の祭神を現宮司の先祖ではなかった、とは言いづらい。しかし、現天皇家が政権をとる奈良時代(734年)までは天照大神(徐福)が祀られていた。

4 十数系統あった大国主の子孫の多くは奈良時代から平安時代にかけて血脈狩りにあった。それは734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝によるものであり、それまでの天皇家は大国主の子孫を大事にしていた。アジスキタカヒコネは倉吉市灘手地区の鋤集落にいた。だから、奈良に行ってはいない。アジスキタカヒコネを鴨族だとし、奈良の葛城にいたように創作したのは、倭国を乗っ取った藤原氏である。アジスキタカヒコネの子孫は奈良に行っておらず、伯耆国を転々としていた。大神山神社の現宮司が大国主の直系の子孫であるならあえて異議を唱えないが、734年までは大神山神社の祭神は天照大神(徐福)であった。



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山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた。

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 山陰型甑形土器は愛媛県でも発掘されているが、このことは 楽楽福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒が事実であったことを証明するものである。

1  楽楽福神社 鳥取県日野郡日南町宮内 由緒(昭和9年鳥取県神社誌より抜粋)
 彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し。社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し。若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)。但し、豫章記(伊豫国河野家譜) に孝霊天皇孝元天皇此孝元天皇御弟伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女孝霊第二皇子御諱彦狭島命)。「此頃南蠻戎動令蜂起之間、此御子当国下給仍西南藩屏将軍云、即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々」此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし。此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり。彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也。

2  愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」[愛媛県史]伊予の祭祀遺跡より
 宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。

3 私見
 山陰型甑形土器は暖房のために使われていたものと思われるが、遠征時の寒さを凌ぐために倭健命や崇神天皇によって考案されたものである。山陰、特に鳥取県中心に広がっているから初期ヤマト朝廷が鳥取県にあったことがわかる。
  楽楽福神社由緒では歯黒皇子が彦狭嶋命か稚武彦命かで問題視しているが、いずれにしても歯黒皇子は倭の大乱の時に父の孝霊天皇と一緒に鳥取県日南町宮内におられたのである。後に青銅器文化の一族を平定するために伊予国に行かれた。宮前川遺跡はその時の遺跡である。


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第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて
 1 奈良歴史漫歩「三輪山祭祀の謎」橋川紀夫  より
  三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も多量に出土する。
 三輪王朝は古墳時代前期にあたるが、禁足地および周辺山麓からはこの時期の遺物は出土していない。三輪王朝での三輪祭祀の場所について示唆する記述が「崇神紀」にある。天皇が卜占する時、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸したとある。また、太田田根子を謁見した時、諸王・卿・八十諸部を引き連れて神浅茅原に出でましたという。神浅茅原は多くの人々が集えるほどの開けた場所のように思える。山麓であっても山全体を眺めわたせるほど離れた場所で祭はとり行われたのであろうか。
 これですぐ思い浮かぶのは巻向遺跡である。遺跡からは祭祀に用いられた多量の遺物が出土している。遺跡は古墳時代前期をもって途絶えるが、禁足地周辺の遺物が中期から後期を示すのと符合して、三輪山周辺をめぐる祭祀のあり方が4世紀末を境にして大きく変わったことを暗示する。
 『日本書紀』は、天照大神を始祖とする万世一系の天皇というイデオロギーでもって貫かれる。そのため幾重にもフィックションが張り巡らされた。三輪山祭祀をめぐる『書紀』の記述が謎めいているのも何かが隠されているからだ。王朝の交代は仮説であるが、謎を解くひとつの手がかりとなるのではないだろうか。

2 私見
 健全な考えだと思われるので掲載させてもらいました。奈良の三輪山からは4世紀前半以前の祭祀遺跡は見つかっていない。崇神天皇(在位186年~230年)垂仁天皇(在位230年~260年)景行天皇(在位260年~290年)の在位期間は3世紀である。この頃、奈良の三輪山では祭祀は行われてはおらずただの山であった。奈良では纏向に鳥羽市安楽島町伊射波神社にいた卑弥呼を呼んで祭祀を行っていたものと思われる。
 卑弥呼・崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代の三輪山といえば、天忍穂耳(大物主)のいた鳥取県北栄町下神の三輪山のことである。大田田根子は鳥取県神社誌では西部の4神社に大田命として祀られている。鳥取県西部は天忍穂耳(大物主)が大陸に行く途中に宿泊されたところであり、子孫が居ても不思議ではない。崇神天皇(吉備津彦)も倭の大乱のときに鳥取県西部はよく知っており、探し出すのに難しくはなかった。神浅茅原も北栄町の三輪山の近くにあったものと思われる。この頃の奈良での祭祀は纏向の地で行われており、のちの三輪山での祭祀はまだ行われていなかった。
 崇神天皇は津山から奥津人形峠を通られて東郷池の長和田の皇居や北栄町下神(松神)の神浅茅原に帰ってきて大田田根子に会われたり、津山から奈良の纏向に行かれ、卑弥呼の祭祀に立ち会われたり、活発に活動しておられた。


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第六節 崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地 [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

第六節 崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地

1 崇神天皇の皇居は師木の水垣宮であり、東郷池周辺の水辺に近く、天孫降臨の時、思金神が降臨された湯梨浜町長和田集落であろう。はえ(波延とも蠅とも書く)という地名や一族は長和田集落や長和田集落出身であると思われる。当時地形的に、日本海の波が真っすぐ届いていたと思われる。

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長和田(ナゴウタ)集落です。

2 崇神天皇の和風諡号は御真木入日子印恵命であるから、御真木国に入って活動していた。御真木国とは岡山県津山市中山神社あたりである。

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中山神社の奥には猿神社がある。中山神社は猿の伝承が全面に出されている。この手法は父の孝霊天皇が居られた倭文神社のある湯梨浜町宮内の伝承を下照姫に置き換えて全面に出す手法と似ている。

3 垂仁天皇の皇居は師木の玉垣宮にあったから、東郷池周辺の少し高いところにある湯梨浜町川上集落であろう。

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日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は・・・川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・石上神宮に納めた」とある。

4 垂仁天皇の和風諡号は伊久米伊理毘古伊佐知命だから岡山県久米郡美咲町大宮神社あたりを活動拠点にしておられたものと思われる。

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ニニギ命の大宮神社はまわりが畑であるが、垂仁天皇の大宮神社は集落の中にある。鳥羽や奈良には中山神社より近い。

5 東郷池から津山にいたるルートは国道179号線であった。東郷池→人形峠→奥津→津山といたるルートは崇神天皇の頃に造られたものと思われる。人形峠には土蜘蛛(青銅器文化の一族)の伝説があり、奥津・津山の「津」は東郷池のことである。崇神天皇から垂仁天皇に譲位があったのは、230年頃と思われる。垂仁天皇から景行天皇への譲位は260年頃だと思われる。纏向に纏向石塚古墳や建物を最初に造ったのは、津山にいた崇神天皇である。纏向石塚古墳の被葬者は崇神天皇の弟の倭健命の可能性がある。私見では185年頃に亡くなっておられるが、他所に葬られていたものをこちらに移葬したことも考えられる。

 三輪山との関係では祭祀遺跡が見つかるのは4世紀後半からであり、それまで三輪山祭祀は行われていなかった。崇神天皇の大田田根子の話も伯耆国(北栄町下神)の三輪山が舞台である。奈良での祭祀は志摩国から卑弥呼を呼んで纏向で行われていた。


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第五節 神道の始まりは道教であり、全国に広めたのは倭姫命(卑弥呼)・倭健命・崇神天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 神道の始まりは道教であり、全国に広めたのは倭姫命(卑弥呼)・倭健命・崇神天皇であった。

1 倭姫命が定めた20社(神話の森・倭姫命世紀による)

また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張ももはる蘇我の国、五百枝刺いほえさす竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
  ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
  さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
  そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
そこから幸行すると、速河彦はやかはひこが現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広あぜひろの狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
  さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田をかたかだ深坂手国ふかさてのくに」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
  さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神まなご のかみが現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
そこから幸行すると、久求都彦くくつひこが現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野くくのをのとなづけ、久求社を定められた。久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。
その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。倭姫命が、「御水おもゆ飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。それを讃めて水門に水饗神社を定められた。
かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨 二見国」と申上げた。永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。
そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
  また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。「恐し」と詔して、神前社を定められた。
その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神あはのみこのかみとなづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。還り幸行して御船を泊めた処を、津長原つながはらとなづけ、津長社を定められた。
その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。
彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。
鶴の住処には八握穂社を造り祠った。

2 古事記における第十代の和風諡号と皇居のあった場所
 第十代 崇神天皇 御真木入日子印恵命 師木の水垣宮
 師木は東郷池周辺なので崇神天皇の皇居は鳥取県中部にあった。崇神天皇は「御真木入」であるので「御真木国」を活動拠点にしておられた。大国主が最初に逃げていた「木国」は鳥取県智頭町であるが、「御真木国」は木国に似ているが本当(御真)の「木国」という意味であり木国(鳥取県智頭町)の近くにあった。木国は紀伊国ではなく鳥取県智頭町であるが「御真木国」は岡山県津山市であった。中山神社には中山神が来るまで大国主がいたという伝承がある。

3 崇神天皇は吉備津彦であったから、倭の大乱終結後もそのまま岡山県に居られた。姉の卑弥呼は三重県の志摩国を邪馬台国とし鳥羽の伊射波神社に居られた。
 出雲(殷王朝の末裔と秦王国の家来が建国した)・吉野ヶ里(殷王朝の末裔)を本拠地として全国に展開していた青銅器文化の一族の生け贄を伴う祭祀は、止めさせなければならなかった。崇神天皇は津山で新たな祭祀を考えられた。それは、始祖から伝わる道教に基づく神道であった。日本書紀・垂仁25年には「先皇御間城天皇祀神祇」とある。神祇信仰は神道と同義である。実際に全国に社を定めて行ったのは倭姫命(卑弥呼)であった。
 崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を行われた。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族に神祇を祀らせた。代表者を纏向に集めて、卑弥呼主宰の祭祀を行われることもあった。卑弥呼の安全のため、祭祀場は志摩国ではなく、奈良の纏向に造られた。
 神道の語の初見は中国の易経で、神道の語の出典は道教の教典である。神社は日本独特の宗教とされるが、道教と共通する部分が多くある。例えば、心身を清める儀式、柏手を打つ拝礼、鏡と剱(道教)玉(儒教)の神器、お札・お守り、鈴を鳴らす、などである。

4 崇神5年に疫病が大流行し、大田田根子を探し出し三輪山で大物主を祀らせたとあるが、大田命を祀る神社(青木神社 鎮座地 鳥取県米子市青木1157番、阿陀萱神社 現在地 鳥取県米子市橋本623番、上長田神社 鎮座地 鳥取県西伯郡南部町下中谷823番、田中神社 現住所 鳥取県西伯郡南部町刺1070番、菅福神社
現在地 鳥取県日野郡日野町上菅250番、福栄神社 現在地 鳥取県日野郡日南町神福1247番、鳥取県神社誌には西部だけに6社)が天孫族が北九州にいくためのルート上にあるため鳥取県西部にいたものと思われる。
 天忍穂耳は大陸に行くために、鳥取県西部を通って北九州に何度も行っていたのだから、その子孫が鳥取県西部にいたとしてもおかしくない。崇神天皇(大吉備津彦)は鬼の平定で鳥取県西部はよく知っていたので、大田田根子を探すのは難しくなかった。大田田根子を鳥取県中部(北栄町下神)の三輪山に連れてきて、大物主(天忍穂耳)を祀らせた。崇神天皇が大田タネコ(伯耆国西部の6神社)をみつけてきて大物主を祀らせた三輪山は鳥取県北栄町の三輪山である。後の奈良の三輪山はこの時はまだ祭祀は行われていなかった。この時は伯耆国出身の卑弥呼は志摩国に、崇神天皇は木国(岡山県津山地方)にいて奈良での祭祀は纏向で行うことを始めた。崇神天皇の時代(186年~)から、全国の代表を集めての祭祀は卑弥呼の居所を知られないように安全を考えて奈良の纏向で行われた。卑弥呼の安全を考えれば、卑弥呼の居所の近くで行うのではなく、奈良の纏向で行うのが良かった。


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第四節 倭健命は吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定した孝霊天皇の皇子二人のうち弟の方である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 第四節 倭建命は吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定した孝霊天皇の皇子二人のうち弟の方である。

1 孝元天皇の皇后の「欝色謎命」は開化天皇の皇后になり、御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命を生んだ、とある。兄が亡くなったので、兄の妻を娶り子供が生まれるということは時々聞く。年齢的に出産が可能であるからである。しかし、自分の実の母親を娶り子供を作ることは聞いたことがない。女性の生理年齢的にもあり得ないと思われる。開化天皇は孝元天皇の皇子ではなく弟であった。
 では、父は孝霊天皇であるが、どの皇子であろうか。古事記にある大吉備津日子命か若建吉備津日子命であると思われる。「この二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた」のであるからその功績を認められ天皇になったと思われる。大吉備津日子命か若建吉備津日子命は吉備国を平定した。倭建命の伝承が鳥取県中部に2ヶ所残っている。その伝承の内容より倭国大乱の時代のこれも吉備国平定の一環である。倭建命も吉備を平定している。大吉備津日子命か若建吉備津日子命も吉備を平定している。同時代なので大吉備津日子命か若建吉備津日子命が倭建命であると思われる。「建」の字は熊襲を成敗したときにもらった字である。「建」が付いている方が倭建命である。若建吉備津日子命が倭建命であった。
 大碓・小碓の双子の小碓が倭建命である、とするのは改ざんである。大吉備津日子命が異母兄であった。おそらく生年は同じ頃と思われる。倭建命は倭大乱の時代(146年~189年)に生きた。私見では155年生まれ185年没である。
 倭建命は西国を平定していた時は皇子であったが、東国を平定したときは天皇になっていた。全国の平定が終わってから、倭建命は尾張国に住まわれた。倭建命も若くして亡くなったのであるが、次の崇神天皇は開化天皇の皇子であったのだろうか。倭国天皇家では天皇が戦いなどで若くして亡くなった場合、兄弟承継をしていたようである。大吉備津日子命がまだ生きているではありませんか。卑弥呼は大吉備津日子命を次期天皇に指名したはずである。崇神天皇は大吉備津日子命であった。御真木(私見では木国は鳥取県智頭町であり御真木国は岡山県津山市)入彦なので岡山県津山市に宮を造っていたはずである。

2 蠅伊呂杼(紐某弟)の皇子
 日子寤間命は針間の牛鹿臣の先祖である(古事記)。彦狭嶋命は海直(あまのあたい)らの祖である(先代旧事本記)。
 若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣、笠臣の先祖である(古事記)。稚武彦命は宇自可臣(うじかのおみ)らの祖である(先代旧事本記)。
 日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である(古事記)。弟稚武彦命(先代旧事本記)。

3 参考 
 日本書紀の系譜は先代旧事本記と重なるので比較するのは古事記と先代旧事本記である。
(1)孝霊天皇
(古事記)
細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)である。
(先代旧事本記)
細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
(古事記)
また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。
また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。
(先代旧事本記)
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
(古事記)
またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼を娶って生んだこが日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。
(先代旧事本記)
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
(古事記)
この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>
 大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>
次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>
次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>
次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>
(先代旧事本記)
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖]。
次に、弟稚武彦命。
(2)孝元天皇
(古事記)
この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。
(先代旧事本記)
欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
(3)開化天皇
(古事記)
庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。
(先代旧事本記)
伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)をお生みになった。

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第三節 倭健命ゆかりの地(鳥取県関金町清水集落)に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

   第三節 倭健命ゆかりの地(鳥取県関金町清水集落)に行ってきました。

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倭健命が矢を放った塔王権現は清水集落の奥にあると聞き、出会った人は「この奥1kmくらいだが道もなく迷ってしまうようなところだから案内できない。清水集落でも知っているものは少ない。戦時中は兵隊がよく拝みにきたものだ。」と言っていた。先ごろの戦争にも利用されたらしい。先に見えるのが清水集落。


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古いポスターを大事にしている清水集落は倭健命が「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った気持ちを表しているようである。


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橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。


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矢止めの荒神さま。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。


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案内板には『伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ「この矢の止まる限りをわが守護の地とならん」と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り「貴き神の矢なるべし」と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている』とある。

 矢筈山とは大山の前にあり船上山に通ずる矢筈山ではない。その山ならば、矢止め荒神の真西になるからである。

 塔王権現は唐王権現が正しいであろう。鳥取県中部では705年に役行者が三徳山を開山して、山岳信仰が始まるが、849年に円仁が唐から帰り三徳山の三仏寺を開いた。この当時、修験者が三千人いたそうであるから、関金の伝承地にも来て唐王権現を置いたものと思われる。

 西国平定とあるが、この時(167年頃)は讃岐に逃れていた倭迹迹日百襲媛命が18歳になり丹後に逃れていた倭健命が12歳になったので、皇軍に二人が加わり、新見の石蟹を平定して蒜山に来られた時である。そのあと、鬼住山の鬼の兄弟を平定し、出雲を降伏させた。


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第二節 葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

   第二節 葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました。

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大島(旧島)の全体像。第六代孝安天皇(第八代孝元天皇の祖父)がおられた。当時、周辺は海であった。陸地になってからは、全面穀倉地帯になっています。白い建物はライスセンター・カントリーエレベーター。


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家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。


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島の一番高いところ。向こうに神武天皇四兄弟がおられた四王寺山が見える。


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島の一番高いところ。第六代孝安天皇の皇居があった。


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 島の一番高いところ。洲の中心であり、第八代孝元天皇が伊弉諾命・伊弉冉命を奉齋され、倭健命が洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨いて伊弉諾命・伊弉冉命を祭り神助を謝したところである。伊弉諾命・伊弉冉命が実際におられた倉吉市駄経寺町ではなく北栄町大島で奉齋されたのは、ここにおられた祖父の孝安天皇が青銅器文化の一族の犠牲になったからである。
 第八代孝元天皇が伊弉諾命・伊弉冉命を奉齋されたのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭健命の戦勝を祈願されたからである。
 倭健命が着御し、尊大に歓喜されたのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。


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第一節 倭健命は第九代開化天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

   第一節 倭健命は第九代開化天皇であった。
1 「常陸国風土記」では倭武天皇、「阿波国風土記」逸文では倭健天皇と書く。倭健命は第9代開化天皇である。ここに持ってこなければ時代が合わない。また第9代開化天皇と第10代崇神天皇は155年生まれの孝霊天皇の双子であるとしなければならない。倭健命(小碓命)は亡くなる前の5年くらいの間第9代開化天皇であった。30歳(185年)で亡くなった。倭健命が活躍したのは景行天皇の時代ではない。倭国大乱の時代(147年~189年)である。原古事記には正しく記載してあったが、日本書紀に移して改ざんしたため、後に古事記も日本書紀に合わせて改ざんした。
2 各天皇の生年と没年
卑弥呼 149年~248年 倭の大乱は早くとも147年からであるから、7歳の時156年頃に初期の大乱に遭い逃げたと思われる。
第7代孝霊天皇 115年~211年 卑弥呼の兄の孝元天皇(生年145年頃)を30歳の時に出生したとすると、115年生まれとなる。倭大乱が終結し、天孫族の大陸へ行くルートを確保したため安心して、広島の南宮神社のところに隠居された。
第8代孝元天皇  145年~180年  孝霊天皇不在中の臨時天皇
第9代開化天皇(倭健命・小碓命) 155年~185年  倭健命と大碓皇子は双子とされる。 享年30歳
第10代崇神天皇(大碓皇子) 155年~258年 
3 ウィキペディア
『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』ではヤマトタケルの兄弟や、妃と子の関係にかなりの異同がある。『古事記』は倭建命の曾孫(ひひこ)である迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるという系譜の記載があるため、景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な見解もある、とする。
4 173年卑弥呼と倭健命は新羅に行っている。新羅に行った後、祖父の孝元天皇が居られた葦原中津国にも立ち寄っている。(宮崎神社の由緒) 鳥取県倉吉市関金町にも倭健命の伝承が残る。「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と言ったのだから、倭健命=倭の大乱の時期(147年~189年)と考えるべきである。卑弥呼の前期は倭健命と一緒に行動している。


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