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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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第一節 鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には奈良から帰ってきた神武天皇がいた [神武天皇と欠史八代]

 第一節 鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には奈良から帰ってきた神武天皇がいた。
 


1  岡山県久米郡美咲町百々大宮には第十一代垂仁天皇がいたと比定したのであるが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名である。久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、倉吉の大宮は弓削なり久米の地名は近くにある。ということは、ここにいた王は第十一代よりも初期であったという推測が成り立つ。
 鵜草葺不合は火火出見のあだ名であったから火火出見(鵜草葺不合)は倉吉市の四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は磯城(東郷池周辺)である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るのは、奈良から帰って来た神武天皇である。


 


2 地図より


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県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。


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大宮集落の東北に隣接する弓削集落です。


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左上は小鴨川。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は橋一本で孤立している集落である。隣の集落は弓削集落である。小鴨川周辺は旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。岡山の方はスケールが大きいが、こちらはスケールが小さい。ヤマト王朝でも初期のものであろう。


3  神武天皇の長男・五瀬命は長髄彦(青銅器文化の一族)の矢にあたって亡くなった。「神武天皇は昔兄を殺した長髄彦を討とうと思われ」とあるので兄の五瀬命を殺害した長髄彦は鳥取県中部にいた。長髄彦は「中洲」の豪雄と呼ばれていた、とあるが、「中洲」とは笠沙之御前の柄の部分(伊那佐山から天香久山までの間の砂地)と思われる。神武天皇が兄磯城と戦ったのは磐余邑(北栄町土下山の西側)である。神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。倉吉市大宮で初代天皇として即位した。橿原神宮が創建されたのは明治23年であり国威発揚のためであるから史実に忠実ではない。
 二男の稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。神武天皇の即位には辰韓から帰っていた稲飯命も同席していたはずである。このことは上里神社の由緒より推測できる。辰韓から帰る途中の隠岐島から倭国までの海が荒れないように上里神社を建立した。稲飯命はまた辰韓に行き、神武天皇即位(紀元前60年)の3年後(紀元前57年)に新羅を建国した。


4 大宮の前にある小鴨神社


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播州完粟郡柏野庄(現在の兵庫県宍粟市)と関係があったようである。山崎八幡宮より寄進されたものだろう。藤原氏は知っていた。ということは、古事記の原本にこのことも書いてあったということである。


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予測した通り、この神社から、若い頃、兄たちと居られた四王寺山が見える。
 小鴨神社の祭神は奈良時代まで神武天皇であったはずである。全国の神社を掌握した藤原氏によって祭神が替えられたものと思われる。


5 県道38号線より
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大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない

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大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
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広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。


6 弓削集落です。



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左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。


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弓削集落から大宮集落が見える。


7  私見
 広瀬川は小鴨川と合流するが、小鴨川の上流に行けば神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志と言われていた長瀬高浜に到る。多芸志耳命は長瀬高浜で大陸からの船を誘導していた。多芸志耳命は神武天皇が東征に出発する前に生まれている。母親の阿比良比売は神武天皇が日向(倉吉市の四王寺山)在住時に娶った。
 神沼川耳(第2代綏靖天皇)は神武天皇が高齢のときに生まれた世継天皇(52歳で即位後、娶った妻の第3子)である。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は、神武天皇が初代天皇として即位した(紀元前60年)のち、鳥取県伯耆町久古から娶った姫蹈鞴五十鈴姫の第3子として生まれているから綏靖天皇の生年は紀元前50年頃と思われる。多芸志耳命とは20歳以上の年齢差があるものと思われる。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は四王寺山の隣の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社に皇居を建てた。
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 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。橿原の地とあるが、これは奈良ではなく倉吉市大宮であった。倉吉市大宮は鳥取県中部では奥深く安住に適した地である。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。倉吉市大宮に宮殿を造営し、倉吉市大宮で初代天皇として即位した。紀元前60年のことである。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。この倉吉市大宮は四王寺山(畝傍山)から見れば、東南になる。
 倭大乱が150年頃から始まっているが、卑弥呼の生年は151年頃である。卑弥呼は96歳で亡くなった。卑弥呼の兄が第8代孝元天皇になっているから、孝霊天皇の生年は120年頃とし、孝元天皇の生年を149年頃とすれば、孝霊天皇が29歳頃に生まれた世継ぎ天皇となる。第2代綏靖天皇の生年は神武天皇が60歳位の時に生まれたから紀元前50年頃となる。孝霊天皇とは170年の開きがある。これを5代で割れば世継天皇の生まれた年齢が平均34歳となり、おかしくはない。神武天皇までの平均が34歳(ニニギ命は紀元前180年頃、孫の神武天皇は紀元前112年頃の生まれ)だから神武天皇以降もほぼ同じくらいの年齢で世継ぎ天皇が生まれたことになる。但し、神武天皇は特別で60歳くらいで世継ぎ天皇が生まれた。
 したがって、神武天皇の即位年は紀元前60年としておかしくない。その3年後の紀元前57年に次男の稲飯命が新羅を建国した。
 紀元前70年に辰韓に現れた壮年の稲飯命を卵生神話に作り替えた。卵生神話への作り替えは他にもある。赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。


 


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葛城は奈良県御所市ではなく鳥取県中部にあった [神武天皇と欠史八代]

 葛城は奈良県御所市ではなく鳥取県中部にあった。

1 初代天皇から8代天皇までの皇居は鳥取県中部にあった。
日本書紀・神武天皇・宮殿造営には「神武天皇は令を下していわれた。・・・見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである」とある。


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 初代神武天皇の皇居は奈良の橿原神宮あるいは柏原である、とするが、国を大和国(奈良盆地)であるとするとどちらも国の奥深く安住に適した地にはならない。また橿原神宮は畝傍山の南南東にはなるが畝傍山の中であり、創建が明治時代である。柏原は畝傍山の南南西になる。
 鳥取県倉吉市大宮は倭国(鳥取県中部)の奥深く安住に適した地になり畝傍山(四王寺山)の南南東になる。神武天皇はここで即位されたのであり、辰韓で鉄の武器を造っていた稲飯命も東郷池に到着し即位式には出席していた(清谷の上里神社の由緒より)。辰韓から倭国(鳥取県中部)までの海は相当荒れていた。
 欠史8代の宮の比定地については欠史8代のカテゴリーをご覧ください。
 私も奈良の初代天皇から10代の崇神天皇の宮の比定地を見てきたが、多くは石碑があるだけであり、葛城、軽、磯城に付合していないものもあった。鳥取県中部の葛城、軽、磯城の地域区分は間違っていないものと思われる。「軽の坂上の厩」の位置に現在は馬場町があった。軽の境岡(小田山)には4代天皇の宮があり、軽の境原(小田)には8代天皇の宮があった。磯城は東郷池周辺に比定したが7代天皇の庵戸宮は湯梨浜町宮内であった。2代は曲の岡神社に宮があった。5代は葛城の掖上であるので葛城山の西の脇上の穴沢に比定している。掖上の岡から見れば灘手の尾根が重なって見えるので秋津がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。奈良に島はふさわしくないから州という字をあてた。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。奈良の片塩の地名は藤原氏がつけたものである。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。決してそこに昔から地名があったわけではない。
 神武天皇から8代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族は準王一族であった。鴨族は水稲農耕をしていた呉から来た一族である。奈良の葛城という地名も藤原氏が付けたものである。
 初代天皇は初めて西日本を平定していったのであり、10代天皇は初めて東日本も平定していった。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、三輪王朝なるものも作り話である。

2 卑弥呼(倭姫 149年~248年)と吉備武彦(倭健 155年~185年)は全国を平定したのだが奈良も平定した。のちに吉備武彦(倭健)は開化天皇になるが若くして亡くなった。吉備津彦(倭健の兄)が次の崇神天皇に即位した。崇神天皇は準王一族たちが造った奈良盆地の多くの環濠集落の環濠を埋めさせた。190年ごろである。姉の倭姫と弟の倭健の活躍によって全国の準王一族を平定したのだが、崇神天皇がハツクニシラススメラミコトといわれてもおかしくない。

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 橿原考古学研究所付属博物館展示の鶏型木製品はコブハクチョウである。纒向石塚古墳は埋葬施設はないが倭健の3つの古墳の一つである。

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 東郷池の養生館横にいたコブハクチョウ。倭健は東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれた。東郷池周辺に倭健の古墳がある。

 あと一つは実際になくなったところにある。第9代開化天皇は倭健であり邪馬台国(志摩国)の北の尾張国にいた。開化天皇は一大率であったので宮跡も陵のある地名も率川とした。奈良市率川の地名も宮跡も陵も藤原氏の造りものである。

3 土蜘蛛は準王一族の鉱石の採掘を担当していたものである。銅の鉱石を採掘し銅剣や銅鐸などを作った。少人数でいち早く全国に展開していた。藤原氏が奈良に葛城と名付けた所にもいた。神武天皇もここで争ったものと思われるが、平定することができなかった。葛城族(準王一族)は鴨族(呉からの渡来人)と鴨都波遺跡あたりで環濠を作り水稲農耕をしていたが、卑弥呼(倭姫)と吉備武彦(倭健)の倭王権に平定され環濠を埋めさせられた。

4 高天彦神社で祀っている葛城族とはヤマト王権と敵対していた準王一族であり、高鴨神社周辺にいたのは呉からの渡来人である。のちに鴨都波神社周辺に降りて水稲農耕をしていた。

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高天集落。その向こう一帯を高天原である、とする。準王一族の高天原である。

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蒜山。天孫族(徐福一行)の高天原。

5 葛城長江襲津彦は15代応神天皇であり湯梨浜町長江に皇居(難波大隅宮)があった。長江がなぜ長柄や名柄になるのか。これも苦しい説明である。葛城長江襲津彦は高句麗や百済に悩まされていた。奈良の葛城と後に名付けられた所などにいるわけがない。下照姫を祀る長柄神社もあるが、下照姫は鳥取県中部の湯梨浜町宮内で生涯出産の手助けをしていたのであり、奈良の長柄にいたことはない。

6 一言主は事代主の替え玉である。事代主は神社明細帳の波波伎神社の由緒で神のクシフルネより180人とともに倉吉市福庭に引越しをしたと記載されており、引越し以前はその間にある蜘ヶ家山を歩き回っておられたはずである。原古事記には雄略天皇が葛城山で出会った神は事代主であると書いてあった。事代主ならば雄略天皇がひれ伏してもおかしくない。一言主のモデルも準王一族である。準王一族は土佐も拠点としていたので、土佐に行かされたという話もなるほどである。波波伎神社の神社明細帳は百済語の「クシフルタケ」ではなく新羅語の「クシフルネ」としているため亡命百済人の藤原氏が倭国を乗っ取る以前からあった文書であると思われる。極秘文書として藤原氏に提出しなかったため、あきらめて記紀を書換え、奈良に一言主神社なるものを作った。
 阿遅鋤高日子根命、下照比売命、天稚彦命、御歳神、高照姫、事代主を鴨族としているが、彼らも事代主に従った180人のうちのメンバーであり奈良の葛城に来たという文献はない。

7 藤原氏は奈良時代に30万人くらいいたことになるが、663年(白村江の戦い)に一度に渡ってくることは不可能である。734年以降藤原氏が倭国を乗っ取ってから同じ馬韓(百済)から渡ってきていた準王一族に藤(百済)の一字を付けさせたのではないだろうか。藤原鎌足は馬韓(百済)の地に残っていた準王一族の子孫かもしれない。初代天皇から10代天皇までは準王一族を平定していった旧辞が多く書いてあったものと思われる。藤原氏となった準王一族は自分たちの祖先が平定されていく旧辞を消していったものと思われる。準王一族は東北や出雲に多くいた。
 奈良の葛城の地にいたのは準王一族であり葛城の地名は734年以降に藤原氏がつけた。奈良県御所市にあるのは「葛城」というテーマパークである。本当の「葛城」は鳥取県中部にあった。

8 おまけ

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 吉野山を開いた役小角の生誕地は奈良の葛城ではなく、三徳山(開山は役小角)のある鳥取県中部の葛城(蜘ヶ家山より西)である。


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神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]

 神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった。

1 日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

2 私見
 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
 この島は磐余邑にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子天皇は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子は島大臣と呼ばれていた。池上に同棺複数埋葬の島古墳群がある。
 神武天皇は二人に天香久山の土を下させた。それが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていたようである。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇の見えるところに鵜飼いはいた。奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。

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 饒速日の子孫は蒜山(高天原)から小鴨川→天神川→伊那佐山に降りてきて神武天皇を助けた。のちに倉吉市大原集落に居住し石上神宮(大原神社)を守り物部氏と名乗った。

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 島から伊那佐山を望む。紀元前60年頃は伊那佐山の西辺まで汽水域になっていた。島の住民は汽水域で鵜飼いをしていた。

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 「魚を食いすぎるので鵜の駆除をします。〇時から〇時までこの土手は通行止めにします」倉吉市職員。それ以来、天神川の鵜が少なくなった。
 写真は、島の近くの天神川河口で2016年4月25日に写した鵜。
 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?


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 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった [神武天皇と欠史八代]

 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった。
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1 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の谷田神社である、としていたが、谷田神社の痕跡が見つからない。鳥取県神社誌(昭和9年発行)には載っているので、合併(明治時代)までは存在していたはずである。山の周りを廻っても見つからないので、八幡神社の宮司に聞いたところ「 清熊稲荷神社の登り口の5~6軒家があるあたりではないか」という。しかし、祠も何もない。ひょっとしたら、宇迦之御魂命は稲荷神だから現在の清熊稲荷神社ではないのだろうか、と思い上がってみることにした。

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この丘陵地の一等地にあった。八幡神社よりもずっと古いのだから一等地にあっておかしくない。

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鳥居はこの冬に倒れた。神社庁の管理する神社ではないので修理する予算もないのだろう。

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だいぶ上がったがまだまだである。右が泊瀬の山(打吹山)である。

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右から上がってきてまだ左に上がっていかなくてはならない。石段も掃除されてなく、落ち葉で見えないくらいである。


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宇迦之御魂命(須勢理姫)は稲荷神だから狐である。

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かなりの荒廃ぶりである。

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家が何軒でも建てられるような広さがあった。蛇もムカデも出そうなところである。

2 第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮(古事記では葛城高岡宮)は奈良ではなく、鳥取県北栄町曲の岡神社であった。

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奈良県御所市葛城古道にある第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮の石碑である。

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ここのテーマパークの名前は藤原氏が占領してから「葛城」と名付けられた。じつは「高岡」が本当であったが「高丘」に直している。 千の嘘のうちのほんの一つである。

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葛城古道に石碑があるだけである。

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左の農道は近年になって作られたものである。それまでは家々の人に見られながら、この坂道を上がらなければ、岡神社に行くことはできなかった。

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この細い坂を上がっていく。


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左右の家が葛城高岡宮の守りをしていた。

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両サイドの家々に見られながら、まだ左にうねうねと上がっていく。

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こんなところに神社があるとは気づかないようなところである。

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神社の右下に先ほど通ってきた集落がみえる。

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岡神社とある。

3 私見

第2代綏靖天皇の時代はまだ準王一族と抗争していたときであり、神武天皇四兄弟のいた大谷集落や神武天皇の皇居があった大宮集落と同じく、外敵からの守りを厳重にする必要があった。


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神武天皇の皇軍と兄磯城の軍と戦った舞台は、鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]

 神武天皇の皇軍と兄磯城の軍と戦った舞台は、鳥取県北栄町であった。

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1 日本書紀・神武天皇・兄猾弟猾・兄磯城弟磯城において

 兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。天皇はこれを憎まれた。夢に天神が現れ教えていわれた。「天の香久山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」と。天皇は夢の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。その時弟猾がまた申し上げるのに、「・・・・今、天の香久山の赤土をとって平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら討ち払いやすいでしょう」と。
 天皇はやはり夢のお告げが吉兆であると思っておられた。弟猾の言葉をきいて心中喜ばれた。そこで椎根津彦に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に箕を着せて、老人のかたちにつくっていわれるのに、「お前たち二人、香久山に行って、こっそりと頂きの土を取ってきなさい。大業の成否は、お前たちで占おう。しっかりやってこい」と仰せられた。
 このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。椎根津彦は神意を占っていうのに、「わが君が、よくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」と。言い終わって直ちに出かけた。そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑って「きたならしい老人どもだ」といって道をあけて行かせた。二人は無事山について、土を取って帰った。天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)、などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。・・・・・。これまで皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、甲冑の兵士は疲労しなかったわけではない。そこで少し将兵の心を慰めるために歌を造られた。
 いなさの山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼をする仲間達よ。いま、助けにきてくれよ。

2 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(いなさ山)であった
 以前にも述べたように、大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(いなさ山)であった
  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社(鳥取県神社誌より抜粋)
 祭神 少彦名神
 国坂神社の祭神について、『特撰神名牒』には大穴牟遅神 少彦名神 事代主神、『神祇志』には大己貴命とある。『大日本史』に土人の説として、大己貴命を祀るという。『日本地理志科』もまた大国主命を祀るという。『日本地理志科』はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

3 私見

 国譲りの交渉はいなさ山(茶臼山)のいなさの小浜で行われた。大国主は事代主さえよければ、天孫族に葦原中津国を譲りましょうと言って、天孫族は葦原中津国を手に入れた。神武天皇はその「いなさ山」を拠点としていた。神武天皇は弟猾と椎根津彦に老人のかたちを造って香久山の土を取ってこさせた。土を下したところを土下(はした)という。現在の鳥取県北栄町の土下(はした)集落である。茶臼山(いなさ山)と土下山(天香具山)の間にある。土下山(天香具山)には土下古墳群があり現在二百以上の古墳がみつかっている。


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日本書紀の「日本」(ヤマト)や古事記の「大和」(ヤマト)とは鳥取県中部の「倭」(ヤマト)である [神武天皇と欠史八代]

日本書紀の「日本」(ヤマト)や古事記の「大和」(ヤマト)とは鳥取県中部の「倭」(ヤマト)である。

1 古事記・朝日のただ射す国・において「ニニギ命が言うには『この地は韓国を望み、韓国からの船が笠沙之御前を巻くように通る。朝日のまともに射す国、夕日の照り輝く国である。こここそは吉相の地である。』とある。
笠沙之御前や葦原中津国は鳥取県中部(倭国)にあった。

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天孫降臨の頃(紀元前200年頃)の海面は今より4m高かった。

2 日本書紀・神武天皇・橿原即位・において「神武天皇の御巡幸があった。掖上の嗛間の丘に登られ国のかたちを望見していわれるのに、『なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトネメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と。これによって始めて秋津洲の名ができた。
昔、伊弉諾尊がこの国を名づけて『日本(ヤマト)は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていてよく整った国』といわれた。
また大己貴大神は名づけて『玉牆の内つ国』といわれた。」とある。

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正面は北栄町島(室秋津島)

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中央は室秋津島。神武天皇は葛城掖上の丘に来られた。

3 私見
 大己貴大神と神武天皇の「国」とは葦原中津国のことであり、伊弉諾尊の「国」とは倭国のことである。
「掖上」とあるのは第5代孝昭天皇の皇居のあった掖上池心宮(日本書紀)、葛城掖上宮(古事記)であり倉吉市穴沢に比定したが、そこの灘手神社のある丘ではないかと思われる。
 「秋津州」とは第6代孝安天皇の皇居のあった室秋津島宮(日本書紀)葛城室之秋津島宮(古事記)であり北栄町大島に比定したが、どちらも天孫が降臨した葦原中津国にある。 
 伊弉諾尊は伊弉冉尊に葦原中津国を一緒に造ろうと言った。しかし、完成しなかった。「日本」と「良い武器が沢山ある国」というのは、後の藤原氏による改ざんである。「日本」とは「倭」とあったのを書き換えたものである。また、倉吉市大原の石上神宮から奪った沢山の武器が良かったので「良い武器が沢山ある国」を挿入した。倉吉の「倉」は石上神宮のことであり「吉」とは倉に良い武器があったからである。打吹天女伝説と同じく藤原氏が命名したものと思われる。
 大己貴大神(大国主命)は伊弉諾尊が成しえなかった葦原中津国の国づくりを完成させ、「玉牆の内津国」と言った。

4  やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとし うるわし

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葛城山(蜘ヶ家山)から東南方向を望む。手前は天香具山(土下山)。
倭健命はこの景色を思い浮かべて、歌を詠まれた。


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神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町米里集落である [神武天皇と欠史八代]

 神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町米里集落である。

 

 三天皇が皇居を置いた磐余とはどこであろうか。 

1 日本書紀・神武天皇では

 兄猾弟猾・において「また兄磯城の軍は磐余邑にあふれた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。・・・椎根津彦は神意を占って言うのに、わが君がよくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう。と言い終って老人老婆のかたちで直ちに出かけた。・・・道が開け、天香具山の赤土を無事に取ってきて平瓦や、手抉、厳瓮などをつくった。」とある。

 長脛彦と金鵄・において、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに『天皇がむかし厳瓮の供物を召上げられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十タケルがそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったがついに滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という』と」とある。

2 私見

 神武天皇が青銅器文化の一族を攻めて、皇軍があふれたから磐余(伊波礼)という、とある。これは、鳥取県中部に帰ってきてからの事柄だから、磐余は鳥取県中部にあった。天香具山は北栄町の土下山に比定したのであるが、この山に上がるには北栄町米里集落を通らなければならない。

 天穂日と準王たちとは安来・松江で接触があったはずである。兄磯城は天穂日が国譲りの交渉に来たことがあるので、天穂日の話を聞いて国譲りの地として知っていたので、神武四兄弟が留守の間に占拠していた。青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルが米里集落に集まっていた。皇軍は米里集落の北のいなさ山(茶臼山)に籠城して戦った。米里集落から銅鐸が発掘されている。青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルは天皇軍と戦ったがついに滅ぼされた。

3 磐余(伊波礼)を皇居とする天皇

 履中天皇 磐余稚桜宮(伊波礼若桜宮)(北栄町米里)

 清寧天皇 磐余甕栗宮(伊波礼甕栗宮)(北栄町米里)

継体天皇 磐余玉穂宮(伊波礼玉穂宮)(北栄町米里)

皇統は途切れていないから皇居を転々と移してはいない。始めから磐余玉穂宮であった。

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古事記・日本書紀の神武天皇の段で伯耆国に関係すると思われる地名など [神武天皇と欠史八代]

 古事記・日本書紀の神武天皇の段で伯耆国に関係すると思われる地名など

1 日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入があったものと思われる。

 日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが無理である。

「今」と書いてある文章は、後(平安時代)に書き加えたものである。

 第9代天皇の旧辞がないというが、第9代開化天皇はヤマトタケル命であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭の大乱の記述として詳しく書かれている。また、第7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇や神武天皇の土蜘蛛との戦いとして挿入されている。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。欠史8代の旧辞は他の天皇の旧辞の中に入れ込んでいるようである。


2 日本書紀・神武・橿原即位

至饒速日命乘天磐船而翔行太虚也、睨是郷而降之、故因目之曰「虚空見日本國矣」

「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本の国』という。」とある。面白いけれども、空想科学小説であり、のちに挿入されたものである。この文章は原古事記にはなかった。原古事記においては、饒速日命は、その子孫が神武天皇の後を追って家来になった、ということだけである。それ以外はつくりばなしである。ただ「ソラミツヤマトの国」は神武天皇が言ったのだろう。日本(ヤマト)とは伯耆国とくに鳥取県中部のことである。

 「ソラ」を「虚空」と書くようになったのは後のことである。奈良時代には「「虚空」と書かなかったはずである。この文章は後世に挿入されたものである。

 日本書紀によれば「ソラミツヤマトの国」と言ったのは饒速日命であるとする。饒速日命は歴史の前面に出ることはしていないので饒速日命ではない。「ソラミツヤマトの国」と言ったのは神武天皇である。原古事記には「ソラミツヤマトの国」と音読みの漢字が書かれていた。ソラミツの「ソ」を漢字で書くと「徐」であろう。稲飯命が建国した新羅の国号は「徐那伐」とした。ソナバルの「ソ」は「徐」である。


3 日本書記では神武天皇は論功行賞を行われた。原古事記には書いてあったのだろうが、今の古事記からは削除している。

 弟猾に猛田邑を与えられた。それで猛田の県主という。弟磯城を磯城の県主とされた。また剣根というものを葛城国造とした。

 論功行賞などの部分は改ざんしていないと思われる。このような部分を改ざんしても意味がないからである。

 論功行賞を行われたのは、橿原宮(倉吉市大宮)で即位された後であるので、鳥取県中部である。

 「猛田」は三朝町竹田地区のことである。国道179号線を人形峠を降りて三朝町本泉まで、国道482号線を三朝町福山から降りてきて三朝町本泉までの竹田川の流れる竹田の谷一帯である。

 「磯城」は東郷池の周辺である。

 「葛城」は蜘ヶ家山と日向を合 わせた地域である。

 「日向」は葦原中津国と四王寺山(畝傍山)を合わせた地域である。

 「天香具山」は土下山であろう。土下山は国譲りの「伊那瑳(いなさ)のおばま」のあった北栄町の茶臼山に面しており、砂浜でつながっていた。天孫族は4回も国譲りの交渉で何度もこの山を通っている。したがって天がつくのである。兄磯城(青銅器文化の一族)が陣取っていたのも「天香具山」である。麓から銅鐸が見つかっているし、頂上は赤土である。

 「伊那瑳(いなさ)山」は北栄町の茶臼山である。日本書紀では、「いなさ(否砂)山」に立て籠もった後で長脛彦が出てくるので鳥取県中部が舞台である。古事記では「その後、かって兄の戦死する原因をなした長脛彦に対して、ついに復讐の一戦を挑むことになった。」長脛彦を討ち果たした後に兄師木・弟師木という賊を攻めて「いなさ(否砂)山」に立て籠って戦った。疲れ切って助けを求めたところ、饒速日命の子孫がやってきた、という話の流れである。「さらに旅を続けて」などの接続詞がないので長脛彦とは鳥取県中部で戦ったものと考えてよい。

 

4 その他の地名
(1)久米
四王寺山(畝傍山)の南西を久米ヶ原という。その南の川(国府川)を久米川と言っていたはずである。久米中学校やJA久米支店などの地名が残る。
(2)石上
倉吉市大原を石上と言っていた。高倉下の倉はここにあった。大原には倉〇氏や倉□氏が多い。素戔嗚は晩年対岸の東山神社におり、八岐大蛇を切った十握剣を大原神社に奉納した。以前大原神社は伯耆国二宮の母木神社と言っていた。大原の安綱は倉吉市大原の出身である。大原神社(倉)に多くの(吉)い刀があった。
(3)母木邑
「その木を指して『恩は母のようだ』といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきむら)といった」とある。母木邑とは、倉吉市大原の大原神社を古代は母木(ははき)神社と言っていたので大原集落を母木(ははき)邑と言っていた。伯耆国はもと母木国と書いていた。母木邑は母木国の元になった邑である。母を「おも」と読むのは韓人である。
(4)磐余
北栄町米里と島を磐余に比定する。兄磯城の兵が天香具山にあふれていたので磐余邑という。天香具山の赤土を神武天皇の二人が取って下した。米里・島に接する土下山が天香具山である。この土下山の赤土を神武天皇の二人が現在の北栄町土下集落に下した。
(5)橿原
倉吉市大宮を橿原に比定する。近くにある久米や弓削の地名はヤマト王権に属する部族がいた集落である(ウィキペディア)とする。岡山県の久米郡大宮も弓削があるが、倉吉の弓削は大宮のすぐそばにあり、大宮には初期の天皇が居た。この橿原の地は国の奥深くにある。私見では30人の天皇の皇居のなかで一番山側(奥)にある。日本書紀の記述と一致する。
(6)伊勢
伊勢野にあった、方見神社の前身を江戸時代まで天照皇大神宮と言っていた。これが本当の伊勢神宮である。この方見(カタミ)郷に建御名方(ミナカタ)命がいた。藤原氏は奈良時代に伊勢国を造り、伊勢神宮も造った。伊勢国風土記に「神武天皇が伊勢津彦から伊勢国を譲り受けた」とあるが、これは原古事記に天照大御神が建御名方から鳥取県中部の伊勢を譲り受けた記述を転用したものである。原古事記にあった「伊勢」も鳥取県中部の伊勢として記されていた。
(7)難波
「今難波というのはなまったものである」とある。今とあるのは、京都にいた藤原氏が加筆したものである。日本書紀の他の記述と合わせて、難波とは東郷池のことである。
(8)河内
 「河をさかのぼって、河内国草香村(日下村)青雲の白肩津に着いた」とある。河内国とは倉吉市「鴨河内」の鴨を取ったものである。さかのぼった河は小鴨川である。
(9)忍坂
 以前、忍坂は倉吉市の千坂であり、忍坂邑は倉吉市山根としていたが、紀元前後の頃はまだ東郷池の水面が高く、川上集落から倉吉市の千坂まで行くことは困難であったと思われる。川上集落から石上神宮に行くには湯梨浜町波関峠を通るのがメインであった。三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。三朝町片柴集落は三朝町山田(ヤマタノオロチ伝説の舞台)と三朝町坂本(稲田姫の両親がいた)との間にあり、準王一族(出雲神族)がいたものと思われる。素戔嗚も川下の三朝町山田集落で八岐大蛇(準王一族と始皇帝の部下)に酒を飲ませている。

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5 古事記・七乙女には「しかし、この阿比良比売は后であって、まだ天下を治める時の正式の大后は決まっていなかったから、命は大后にするための乙女を求めていた。」とある。

 大久米命は高佐士野の丘の上を、七人の乙女たちが野遊びをしているところに天皇を誘った。そして、「七人のうちだれがよろしいですか」と聞いた。天皇は「先頭に立っている乙女を妻にしたい」と言われた。それがイスケヨリ姫である。イスケヨリ姫の家は狭井河のほとりにあった。狭井(さい)とは山百合のことである。イスケヨリ姫の家があった場所は伯耆町久古の久古神社であろう。その家で神武天皇は一晩を過ごされた。対岸の丘陵地(越敷山の麓)の三嶋神社(伯耆町大殿)にはイスケヨリ姫の母のセヤダタラ姫が祀られている。事代主は鳥取県北栄町から美保関に魚釣りに行かれるくらいだから、鳥取県伯耆町大殿に泊まられていてもおかしくない。美保神社と倉吉市の波波伎神社(事代主の国譲り後の終の棲家)とは最近まで交流があったそうです。日本書紀はこの部分を簡単な記述で済ませている。

 また、イスケヨリ姫の父が大物主(天忍穂耳命)であったとしても、大田田根子も鳥取県西部で見つかっているため、大物主(天忍穂耳命)は伯耆町大殿にもいたものと思われる。どちらがイスケヨリ姫の父親であれ、どちらも鳥取県西部にいた。 


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日本書紀・神武天皇にある畝傍山は四王寺山であった [神武天皇と欠史八代]

 日本書紀・神武天皇にある畝傍山は四王寺山であった。

1 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代30人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。
 「橿原の地」とあるが、これは奈良ではなく倉吉市大宮であった。倉吉市大宮に宮殿を造営され、倉吉市大宮で初代天皇として即位された。紀元前60年のことである。倉吉市大宮は倭国(鳥取県中部)では「国の奥深く安住に適した地」である。第2代天皇からはニニギ命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を作られたが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営された。この倉吉市大宮は四王寺山から見れば、東南になる。
 「かの畝傍山」とは四王子が生まれ育ったところだから、「かの」とつけたのである。日本書紀を作っているときには「四王寺山」の麓に伯耆国庁を造って山上憶良に調べさせている。不比等たちはそれほど「四王寺山」を重視していたようである。特に百済を滅ぼした新羅を建国した稲飯命が生まれ育った地ということは脅威であった。


2 橿原即位に「天皇は論功行賞を行われた。大来目を畝傍山の西、川辺の地におらしめられた。」とある。
 四王寺山の西の丘陵地を久米ヶ原という。大来目たちは久米ヶ原にいて皇軍を組織した。久米ヶ原には久米中学や久米支所などの名前が残っている。
 

3 「畝傍山の東北の陵に葬った。」とある。
 四王寺山の東北は寺谷古墳群・土下古墳群など数百の古墳があるので、その中にあるはずである。

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4 このように3か所の方角が合うので日本書紀にいう「畝傍山」とはかってこのブログで何度も紹介してきた神武天皇たち四兄弟がおられた倉吉市「四王寺山」のことである。神武天皇も橿原の地(倉吉市大宮)で即位されてからも、今の小鴨神社と言われる地で畝傍山(四王寺山)をことあるごとに眺めておられた。

5 奈良県橿原市大谷町と倉吉市大谷集落との写真比較

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奈良県橿原市大谷町 上は畝傍山

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倉吉市大谷集落 上は四王寺山

 どちらも大谷(王谷)だし、どちらも山の入山口を塞いでいるし、どちらかが真似をしているようです。倉吉市大谷集落の入り口には3mくらいの高さの土手がある。青銅器文化の一族から守るために、外から大谷集落は見えないようにしてある。また道教の橋のように、トンネルのような入り口を入っても真っ直ぐに行けば中腹の寺に突き当たり行き止まりである。そこまで行かずに途中で右に折れ200mくらい行ったところが入山口である。そこから上がってすぐのところに右に小屋でも建っていたような広場があり、今度は反対にバックするように、左にくねくね道を頂上まであがって行くことになる。まるで道教の橋を想像させる。奈良県橿原市大谷町は開放的で大谷町を隠す土手などまるでない。大事な4人の皇子を育てるとすれば、集落ごと隠す構造にする。奈良の畝傍山の大谷町は倉吉市大谷集落を真似て造っているが本物ではない。


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古事記・日本書紀の神武天皇後半部分は伯耆国に帰ってこられてからの話である [神武天皇と欠史八代]

 古事記・日本書紀の神武天皇後半部分は伯耆国に帰ってこられてからの話である。

1 古事記・神武・征旅の歌
 ここにニギハヤヒ命が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。「天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました。」こう言って、同じ天神の裔(子孫)であることを示す、証拠の宝物を献上して神武天皇に仕えた、とある。
 高天原とは蒜山のことである。神武天皇は奈良から帰られるのに、湯原町社を通って蒜山を通り、犬挟峠を降りてきた(国道313号線)。高天原(蒜山)から降りてきた。ニギハヤヒ命は何処にいたのだろうか。私は蒜山の西の鳥取県江府町江尾にいたのではないかと思う。江尾神社の主祭神はニギハヤヒ命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)である。珍しい祭神である。鳥取県神社誌831社の中でニギハヤヒ命を祀る神社は江尾神社だけである。ニギハヤヒ命の子孫は江府町江尾から蒜山に上がり蒜山から神武天皇を追って降りてきた。追って降りてきたのは、本人ではなくニギハヤヒ命の子孫である。

2 私見
 これは、ふつうに有りそうなことであるし、原古事記に書いてあったそのままだと思われる。問題は日本書紀の長脛彦である。長脛彦が「ニギハヤヒ命を君として仕えている」と言ったのは本当だろうか。
 先代旧事本記は「長脛彦の妹とニギハヤヒ命は結婚してウマシマジが生まれた」とする。また「ウマシマジは寝返って長脛彦を殺した」とする。これは、史実と思われる。長脛彦が「ニギハヤヒ命を君として仕えている」と言ったのは、長脛彦の妹がニギハヤヒ命と結婚していたからである。ただ、ニギハヤヒ命と神武天皇の間にはホホデミとウガヤフキアエズが入るので、神武天皇の時の長脛彦もニギハヤヒ命も子孫と思われる。
 長脛彦は、青銅器文化の一族の長(出雲神族の王)であった。神武天皇が帰ってこられたとき、鳥取県中部の磯城も葛城も大国主と一緒にいた八十神と言われた青銅器文化の一族(出雲神族)に占領されていた。神武天皇は鳥取県中部に帰ってきてから大国主と一緒にいた八十神(出雲神族)を平定する戦を多く行われた。だから、古事記も日本書紀も神武天皇の後半部分は伯耆国に帰ってこられてからの戦の話である。
 神武天皇は「昔兄を殺した長脛彦」と言っておられる。青銅器文化の一族同士で援軍を求められたからやってきた。やってきた場所は鳥取県中部であった。したがって、金鵄の話も奈良ではなく、鳥取県中部に帰ってこられてからの話である。

3 ニギハヤヒ命の子供の天香語山(高倉下)は高天原(蒜山)で生まれて、ウマシマジは降臨してから生まれた。ウマシマジの子孫は鳥取県西部の江府町江尾に住んでおられたようである。その子孫も神武天皇の家来となり、天皇家と一体化になった。特別にニギハヤヒ命を祀るような一族はいなかった。ニギハヤヒの子孫は倉吉市大原にいて石上神宮を守り、物部氏と言われていた。大原には倉◯、倉□姓が多い。

4 古事記 神武天皇 東への道(抜粋)
・・・正気を失って死んだように寝込んでしまった。この危急の際に、熊野の、高倉下という名の者が、一振りの剣を持って、天神の御子の寝ているところにまいり、これを献上した。御子はこの霊剣の功徳で、さっそく正気に復り、「ああ長い間眠ったことだ」こう呟いた。
 かの熊野山に住む荒々しくすさまじい神は、まだその剣を揮わないうちに、もう自然と切り倒されてしまった。
 天神の御子が、この剣を手に入れたその由緒を尋ねたので高倉下は次のように答えた。
 「夢の中に、天照大神と高木神が、武御雷神をお召になり『葦原中津国は、ひどく騒がしくて、乱れているようだ。葦原中津国は、汝が平定してきた国であるから、汝武御雷神が降っていくゆくがよい』と命じられたところ『答えて仰せられますには『私自身が降ってゆきませんでも、この前に国神を帰順させました時に、平定の役目を果たした剣がございます。これを私の代わりに降しましょう』この剣は石上神宮にある剣で名を布都御魂という。『この剣を降す方法は、高倉下の住む倉の棟に穴をあけて、そこから落として入れましょう』。そこで高倉下が朝に倉を見にゆきますとこの剣がございました。そこで献上しにまいった次第でございます」
 このように高倉下が答えて言った。
5 私見
 もともとこの文章は原古事記では神武天皇が鳥取県中部に帰ってこられてからの旧辞に書かれていた。原古事記では後半に書いてあった布都御魂の文章を現古事記では前半の熊野での出来事にもってきた。
 石上神宮は倉吉市大原の大原神社であった。葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。どちらも鳥取県中部にあった。原古事記には鳥取県中部に帰ってきてからの事柄として書いてあったはずである。
 石上神宮は647年に倉吉市大原から奈良県天理市に移されていたから、天神が布都御魂を献上されたところは熊野であっても不思議ではないように書き換えられている。


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