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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

日向三代と神武天皇四兄弟 ブログトップ
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鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。
  先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。
2 ウィキペディアより
 ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。
3 私見
(1) 日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。系譜に関しては、記紀より先代旧事本紀のほうが信用できる。先代旧事本紀は瓊々杵尊と磐余彦尊との間には一人しかいないとする。したがって、彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。
(2) 「産屋を建てるのが間に合わなかった」はあだ名にはなるが、正式な名前とは思われない。これも、あだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けたものと思われる。
(3) 古事記・日本書紀には鵜草葺不合の事蹟はほとんどない。神社の由緒にもない。これは、旧辞のない欠史八代と同列に論じることはできない。名前自体があだ名にふさわしいので、鵜草葺不合の実態はなかったと思われる。
(4) 京都で暇を持て余していた藤原氏は空想科学小説が好きだったようで、あだ名に過ぎないウガヤフキアエズを独り歩きさせて、数十代にわたるウガヤフキアエズ王朝なるものを作り上げた。
(5) 豊玉姫と玉依姫の姉妹は2人とも彦火火出見の妻であった。豊玉姫は一人しか生まなかったから、産んだ子は五瀬命と思われる。玉依姫は次男の稲飯命、三男の御毛沼命、四男の磐余彦命を生んだ。こういう系譜なら今でもありそうである。
(6) そう解することで、高倉下命と宇摩志麻治命は磐余彦の叔父くらいの年齢になり同時代に生きていたことになる。

(7) 彦火火出見(鵜草葺不合)は父瓊々杵命のいた北栄町のクシフルタケではなく、倉吉市の四王寺山に宮を造ったと思われる。そこで、神武天皇の4兄弟は育てられた。
(8) 四王寺山(倉吉市)の防御の構造は彦火火出見(紀元前150年~)の時代に、近くに敵がいたことを想像させる。それは「トミ」と名乗った準王一族(出雲神族)と思われる。饒速日が降臨して長髄彦の妹の三炊屋媛を妻とした鳥見(トミ)の白庭山(北栄町の土下山)にもトミの一族はいたと思われる。

(9)このことによって、天忍穂耳から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれた時の父親の平均年齢は36歳になる。
 饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年26歳くらい。瓊瓊杵命が降臨したのが4歳ならばに瓊瓊杵命は紀元前184年(天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年)ころの生まれと思われる。天忍穂耳が伯耆国に到着してから26年後となる。紀元前184年引く紀元前112年(神武天皇の誕生年は紀元前112年)は72年であり、それを2で割ると36歳となる。火火出見命は3男、神武天皇は4男だからこの結果になる。

(10)鵜草葺不合を生んだのは豊玉姫ではなく木花之佐久夜毘売であった。鵜草葺不合の父は瓊瓊杵命であり、母は木花之佐久夜毘売であった。

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神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された。

1 鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。

 倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 
 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。

2 遺跡の位置
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 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。

3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」とする。

 神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )におられたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下には多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。

※2016年6月22日追記

 倉吉市教育委員会事務局 文化財課の上記記事は6月12日の時点では確かに存在し、コピーさせていただいた。しかし6月22日の時点では削除されている。私の仮説が証明されたら大変なことになる。政府は神武天皇の即位は紀元前660年であるとし、建国記念日を設けている。これが600年水増しされており紀元前60年が神武天皇の即位年ということになれば、日本書紀も政府・自民党も国民を騙してきたことになる。倉吉市には問い合わせや相当な圧力があったものと思われる。

 私と倉吉市とは交流はない。また私のブログを見ていてそれに合わせて倉吉市は中尾遺跡の年代を創作したとも思われない。発掘された遺物から年代を算定したものと思われる。どうか倉吉市に間違った圧力をかけないで欲しい。


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神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった。

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1  鳥取県神社誌(昭和9年)より
上里神社 村社 東伯郡

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東に向いている。

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高いところにある。
鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下
現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番
祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命

由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。

2 私見
 「神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際」・・・「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ」とある。「東夷」とは東にいる蝦夷のことである。蝦夷とは鬼・猿・土蜘蛛などと呼ばれていた青銅器文化の一族であり、殷王朝末裔の準王一族のことである。紀元前194年に馬韓より列島に渡り早い段階で全国に展開していた。
 古事記には「神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。」とあり日本書紀には「塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」とあるが、これらは藤原氏によって改ざんされている。神武天皇は鳥取県倉吉市四王寺山(日向)より殷王朝末裔の準王一族(東夷)の平定に旅立たれ、山陽から帰ってこられてからこの地でも準王一族(東夷)を平定された。兄磯城や長髄彦とは鳥取県中部に帰ってから戦った。鹿児島県大崎町の永吉天神段遺跡から出土した弥生時代中期中葉の鉄鏃5点は神武天皇の皇軍が放ったものである。弥生時代中期中葉の同型の鉄鏃は福岡県太宰府市の吉ケ浦遺跡と佐賀県鳥栖市の安永田遺跡でも見つかっている。
 「稲飯命」は神武天皇の兄である。ニニギ命が稲飯命に神かかったのは紀元前60年~紀元前57年頃である。稲飯命は東夷の平定が終わった連絡を受けて辰韓より鳥取県中部に帰って来ていた。人力の船でも1日あまりで帰ってこれる。神武天皇が初代天皇として倉吉市大宮で即位する前である。稲飯命は神武天皇の即位を見届けてから、辰韓に帰って新羅を建国された。半島には準王一族の残党もいたから、辰韓の6村の信頼を得るのには時間がかかった。鳥取県中部の神武天皇を助けるためにも、神武天皇即位の3年後(紀元前57年)に信頼も得て新羅を建国した。
 四王寺山の大谷集落の外敵から守る構造や、倉吉市大宮の外敵から守る構造は、準王一族(東夷)に対する防御のためであった。私見では神武天皇の生年は紀元前112年頃であったから東夷の危険はすでに存在していた。神武天皇の東征の目的は全国に展開していた東夷(殷王朝末裔の準王一族)を平定することであった。吉備国や安芸国に長く居たのは鳥取県中部を準王一族に占領されており帰ることができなかったし、吉備国や安芸国の住民に高地性集落を造らせたのではないかと思われる。初代神武天皇から10代の崇神天皇が全国を統一するまで天皇家は東夷と対立していた。「福は内、鬼は外」の起源である。


 


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神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた [日向三代と神武天皇四兄弟]

神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた。

1 宮崎県高千穂町の四皇子峰

「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。 

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周囲には何もない。遺跡もない。

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四皇子峰は周辺に守るものが何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。

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四皇子峰

「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(ニニギ尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという」とある。

2 鳥取県倉吉市の四王寺山(畝傍山)

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 鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。

 四王寺山の下の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと上がれないようになっている。この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。

 四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入る者は集落の数件の家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四皇子を守り育てるならこの構造がベストである。

3 鳥取県倉吉市の四王寺山の南には、伯耆国府跡 国庁跡・法華寺畑遺跡・不入岡遺跡・伯耆国分寺跡など8世紀に主要な建築物が建てられていた。鳥取県西部の米子市周辺には、孝霊天皇の足跡が多く残っているにもかかわらず、鳥取県中部は伯耆国の中心として位置ずけられていた。それだけ大事なものがあったのである。この鳥取県倉吉市の四王寺山は新羅の海賊から守るために四王寺を建てた(9世紀)だけの山ではない。

 筑前国の四王寺山は神武天皇たちがしばらくおられ、天児屋根・武みか槌命・事代主を祭っておられたという伝承が残っている。鳥取県倉吉市の四王寺山から葦原中津国を見ると事代主は亀谷におられたし天児屋根命は穂波におられた。神武天皇たちにとっては事代主も天児屋根も身近な神様であった。

4 鳥取県倉吉市の四王寺山のすぐ北には葦原中津国がある。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであった。神武天皇たちは日向から出発されたという。この地は日当たりの良い地であるとニニギ命がいい、ニニギ命は日向の御子というあだ名まで付けられている。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであり、神武天皇の四兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山から北九州に向けて出発された。

 藤原不比等は鳥取県倉吉市の四王寺山に神武天皇の四兄弟がいたことを山上憶良から聞いて知っていた。地名・伝承を宮崎県高千穂町に移し鳥取県倉吉市の四王寺山の伝承は二百年かけてきれいに消した。人的にも物的にもである。


おまけ

宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝

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 高千穂町にはほかにも天真名井がある。

 伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。


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第七節 お盆のルーツは倭人が建国した新羅に有った [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第七節 お盆のルーツは倭人が建国した新羅に有った。
1 『北史』『隋書』新羅伝
 『北史』『隋書』新羅伝には、「新羅の風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は太陽の神・月の神を祭祀して拝む。八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める」とある。
2 『北史』『隋書』新羅伝では風俗、祭祀は高麗、百済と同じである、とするが正月・八月十五日の行事は高麗、百済にはないからあえて書いたものと解する。これにより盆・正月の行事は新羅がルーツであると思われる。
 初期の辰(秦)韓を造った徐福は道教の方士であったから、盆・正月は道教に基づいているのかもしれない。「旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる」(ウィキペディア)
 新羅がルーツの行事は厳かな行事である。八月十五日には官人たちに施しをする賞品のでる流鏑馬を行っていたようである。八月十五日の行事が僧侶たちに施しをして成仏できる、とする仏教のお盆になった。
 逆に高句麗・百済がルーツの行事は派手で賑やかな行事である。神楽・御田植祭(五月)・秋の収穫祭(十月)などは高句麗・百済がルーツの行事である。

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第十一節 神武天皇の即位年は西暦紀元前660年であるとする。しかし、改ざんされているという説が有力である。何年改ざんされているのだろうか。 [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第十一節 神武天皇の即位年は西暦紀元前660年であるとする。しかし、改ざんされているという説が有力である。何年改ざんされているのだろうか。
1 神武天皇の即位年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この即位年は改ざんされているというのが主流であるが、何年改ざんされているかについては説が分かれる。600年改ざん説、660年改ざん説、720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
 私は600年改ざん説をとる。神武天皇の即位が紀元前60年でその時52歳ならば出生は紀元前112年頃となる。また、天忍穂耳は第1次の徐福一行の少年であったと思われるから、第2次の時は18歳くらいになっていたと思われる。天忍穂耳の生年が紀元前228年頃と思われる。228年-112年=116年となり、これを3代(鵜萱葺不合はカウントしない)で割ると平均39歳で世継ぎ天皇が生まれている。これは、次男、三男、四男が世継ぎ天皇になっているからである。何らおかしくはない。ほぼ天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという仮説にも符合する。
 600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。改ざんした張本人の子孫が主張するのだから、改ざんの仕方もよく分かっているのだろう。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年としか言えない。
2 「神武天皇の即位は紀元前60年」について
 倭大乱が155年頃から始まっているから、卑弥呼の生年は149年頃である。卑弥呼の兄が第8代孝元天皇(生年145年頃)になっているから、孝霊天皇が30歳頃の世継ぎ天皇であるとすれば、孝霊天皇の生年は115年頃として大差なかろう。
  綏靖天皇の生年は神武天皇が60歳位の時に生まれたから紀元前52年となる。孝霊天皇とは167年の開きがある。
 
 綏靖天皇から第七代孝霊天皇までを平均すると各天皇が33歳の時に跡継ぎ天皇がうまれたことになる。神武天皇までの平均が29歳だから神武天皇以降は少し高齢の時に生まれたことになるが、これはなかなか子供が生まれない場合もあるし、なかなか男の子が生まれない場合もあるのが原因であると思われる。5人のうち1人でも45歳で世継ぎ天皇ができるとほかの4人が29歳でも平均33歳になる。ちなみに、神武天皇は60歳くらいで世継ぎ天皇が生まれた。
3 天照大神と天忍穂耳や天穂日は血がつながっていない。連れてこられた少年たちであった。宗像三女神も連れてこられた少女たちであった。天照大神と素戔嗚との誓約は実際に子供を産んだのではなく、行方不明になっていた少年少女を探し出したということである。宗像三女神のように徐福一行の少女たちは米子周辺に漂着していた。のちに神武天皇の皇后となられる比売多多良伊須気余理比売(日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛ー鳥取県伯耆町久古神社の祭神)も徐福一行の少女たちの子孫であると思われる。

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第十節 神武元年はいつか [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第十節 神武元年はいつか。 
1 日本書紀説 日本書紀にしたがって、12人の100歳以上の天皇から60歳をさしひいて720年短くするので紀元60年となる。
2 田村誠一説 古事記にしたがって90歳以上の天皇9人から60歳を差し引き、なおかつ崇神168歳、垂仁153歳からさらに60歳を引くと、660年短くなるので神武紀元は紀元0年となる。
3 古事記に基づいて60歳を10回差し引いて600年短くする説がある。この説によると、神武紀元は紀元前60年となる。
 
私見
 日本書紀は15%が本当で80%が嘘である、と言われているから、50%は本当であるといわれている古事記に従った説のほうがよさそうである。干支がずれないように60歳単位で増やしている。古事記に従った説でも二説あるが私は紀元前60年説が正しいのではないかと思われる。神武天皇の即位は紀元前60年であった。紀元前57年に新羅を建国した兄稲飯命と符合する。紀元前60年に周囲に自ら「弟が倭国の天皇になった」と言ったふしがある。

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第九節 北九州に行かれた四王子のその後 [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第九節 北九州に行かれた四王子のその後

 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。
 御毛沼命は中国の華南地方に行き、援軍を募った。
 稲飯命は朝鮮半島に渡り鉄製の武器を作り鳥取県中部の神武天皇のもとに送った。また、援軍を要請するとともに、新羅国の初代王となった。「妣の国として海原に入りました」という表現は死んでもいないのに「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。
 「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。大臣が何代にもわたって仕えるのは。日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。史実は仕えてはおらず、天皇であった。稲飯命も建国の重臣ではなく、建国者その者であった。
 新羅国と伯耆国は兄弟国であった。
 従って、173年5月 卑弥乎遣使を新羅国へ (三国史記)
191年 崇神紀5年に疫病が流行り、半分以上の人が死んだ。
193年6月 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡る。(三国史記)
の説明がつく。
  遣新羅使を派遣していた天皇や豪族は伯耆国出身であると思って間違いない。最後は天武天皇・長屋王であった。蘇我氏も伯耆国出身であったが、新羅を大事にしすぎて、百済出身者に殺された。
 白村江の戦いは蘇我氏が新羅と中国を巻き込んだ百済に対する復讐の戦いであったのではないか、と思っています。
 しかし、藪をつついて蛇がでるの如く、百済の国全体の日本への引っ越しを促がしてしまった。藤原さん、〇藤さん、藤〇さんは百済の出身かもしれない。

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第八節 難読地名について [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第八節 難読地名について
 伯耆国の四王寺山の南は難読地名が多い。
 北面(きたも)、上神(かずわ)、不入岡(ふにおか)、国府(こう)などである。
 これは、漢字が入ってくる以前からつけられていた地名である。漢字は後でつけた当て字である。私の名前も難読で当て字であるが、私の先祖は津原(つわら)に住んでいたそうである。葦原中津国をとりまく集落の一つである津原(つわら)に住んでいた。津原(つわら)と四王寺山は、目と鼻の先である。私の先祖が神武天皇たちの道案内をしたとしてもおかしくはない。
 津原(つわら)の横の亀谷集落には事代主と天稚彦と下照姫と、阿遅鋤高日子根(葦原中津国の灘手地区の鋤集落)が住んでいた。事代主と天稚彦と下照姫と、阿遅鋤高日子根(葦原中津国の灘手地区の鋤集落)の四人は国譲りで天神川の東に移されたのだが、もともとは亀谷に住んでいた。国譲りのあと亀谷にはコノハナサクヤ姫が住んでいた。

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第七節 神武天皇たちは陸路(伯耆国西部から広島経由)で北九州に行かれた [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第七節 神武天皇たちは陸路(伯耆国西部から広島経由)で北九州に行かれた。 
 神武天皇たちは日向の伯耆国の葦原中津国を出られてから、筑前国の四王寺山まで行かれ、さらに御毛沼命は波頭を踏んで常世の国に渡って行かれ、稲飯命は辰韓に行かれた。
 伯耆国の葦原中津国から筑前国の四王寺山へ行くまでは陸路と海路があるのだが、海路だと対馬海流に逆行して人力で漕ぐとなると、とても大変なことである。対馬海流は1ノット~3.5ノット。人力で船を漕ぐと3ノット。ほとんど進まない。したがって、陸路を通られた。
 朝鮮半島から日本海側にくるときは海流に乗ればよいからそのまま半島を出ればよいが、日本海側から朝鮮半島に行こうと思えば、北九州に陸路で行くのがアマテラス、ニニギの時代から常識であった。
 その場合伯耆国の日南町より広島県に出て、瀬戸内海沿いに北九州に行っていた。広島県内で神武天皇たちの動きがつかみずらいのは2回入出を繰り返しているからである。
 ここまで送り届けたら私の役目は終わりですが、藤原不比等は百済王国再興のため特に九州王国を作ろうとしていたので、筑前国の四王寺山の神武天皇たちの伝承は消さなかった。

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