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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか [倭国大乱の原因]

 吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか。

1 日本書紀・崇神天皇・神宝・において「このとき出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。しかし筑紫の国に行っていたので会えなかった。・・・出雲振根は筑紫から帰ってきて・・・」とある。吉野ヶ里遺跡のある平野を筑紫平野というので、出雲振根は吉野ヶ里に行っていたと考えられる。吉野ヶ里遺跡の周辺では銅剣・銅矛の鋳型も見つかっている。また銅鐸の鋳型も見つかっているから、吉野ヶ里は青銅器文化の一族であり、出雲国と同盟関係にあったと思われる。 

2 吉野ヶ里には殷王朝末裔の準王一族が住んでいたのではないかと推測される。溝と柵の位置が通常と反対であるのは、中に奴隷がいたから逃げられないようにするためである、という説や二千以上の遺骨は祭祀の犠牲者ではないか、という説がある。頭のない遺骨などからも、生贄の風習を残していた殷王朝末裔の準王一族であった可能性が高い。

3 西野凡夫はその「新説古代史」において「熊本県阿蘇・菊池地区と大分県直入・大野地区の、弥生後期から終末期にかけての鉄鏃出土数は計336本で九州全出土数の過半数を占める。これらの鉄鏃は副葬品ではなく、住居跡から出土しているという特徴がある。この地域が弥生後期から終末期にかけて日本列島内の最激戦地であったことは疑う余地がない」とする。

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稚日女命(卑弥呼)を祀る神社

 ヤマト王朝の皇軍はここを拠点としていた。卑弥呼・倭健命たち皇軍は大分県直入・大野地区と熊本県阿蘇・菊池地区にかけて九州を横断している。大分県側から入ったものと思われる。

4 弥生後期、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡2号墳で107cmの鉄刀とともに副葬されていた12個の鉄鏃が出土した。弥生時代後期に鳥取県中部には鉄鏃を使う一族がいて、九州には鉄鏃を使われる一族がいた。

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鳥取県湯梨浜町宮内第5遺跡2号墳より

 地元の方には申し訳ないが吉野ヶ里は邪馬台国ではない。吉野ヶ里に居た勢力はヤマト王権(卑弥呼・倭健命たち)に敵対する勢力であった。卑弥呼・倭健命たちは吉野ヶ里を攻撃している。吉野ヶ里で見つかった鉄鏃は鳥取県湯梨浜町宮内遺跡に副葬されていた12個の鉄鏃とは異なりヤマト王権が吉野ヶ里に対して放った鉄鏃である。その他の鉄製品もヤマト王権が持ち込んだものである。

5 鳥取県中部(北栄町大島)の宮崎神社由緒によれば「日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引き寄するが如く本社地乾の隅に着御し給えり。尊大に歓喜し給いて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮き出づるはこは浮洲(島)にや』と。洲(島)の中央に大麻を挿立て、御自ら御飯を炊き給いて二尊(兄の孝元天皇が皇子のとき奉斎されたイザナギ・イザナミ)を祭り、神助を謝し給えり」とある。

 倭健命が湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮を去られたのは1歳の時であった。倭健命はその後開化天皇になり東国を伐たれた。


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銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった [倭国大乱の原因]

銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった。

1 準王については、三国志魏略(280年)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。」とある。

 準王が馬韓を攻めたのは紀元前195年のことであった。魏略には「準王は海中にあり」と記述されているが、海中とは対岸という意味であり、列島に渡ったということである。準王一族は数千人(後漢書)であり、多くが列島に渡ったものと思われる。朝鮮半島には帰らなかった。その後絶滅したとあるのは、半島には確認出来なかったので絶滅したと記載した。実は、列島に渡り、西日本を中心に全国に展開していたのである。本拠地は吉野ケ里であり、出雲であった。

2 銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈は瀬戸内海を中心に広がっている。高地性集落も瀬戸内海を中心に広がっている。これは先住民が青銅器文化の一族を避けて、集落を高地に造ったからである。

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 最近の年代測定では一番古い銅鐸で紀元前190年頃とする。紀元前194年に列島に渡って来た殷王朝の末裔・準王一族が銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈をつくったと解するのが正しいと思われる。列島に銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作った一族の候補は準王の一族の他は見つからない。大和王権の銅製品は銅鏡だけである。

 大和王権は準王一族と神武天皇のときから敵対してきたが、第7代孝霊天皇のときに皇子の倭健命や崇神天皇、皇女の卑弥呼の活躍で全国を平定することができた。ただし、東国にいた青銅器文化の一族(蝦夷)は東北に逃げていて平定できなかった。蝦夷(青銅器文化の一族)は縄文人でもなければ、アイヌ人でもない、東北に逃げていった殷王朝の末裔準王の一族である。

3 日本書紀・景行25年・において「武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた」。景行27年武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に日高見国があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また、土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」とある。

 武内宿禰は大臣ではなく皇太子のときであった。のちに第13代天皇となる。私見では在位290年~330年(古墳時代前期)である。原古事記には、入の沢遺跡が焼打ちにあったので、視察に行ったと書いてあった。「攻略するとよいでしょう」は百済史官による挿入である。倭国天皇が百済王に仕えるという構成をとる。

 日本書紀・景行40年・倭健命の再征・において・天皇は倭健命を征夷の将軍に任ぜられ、「かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。・・・どうか深謀遠慮をもって、良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。ことばを考えて暴ぶる神を鎮まらせ、あるいは武を振って姦鬼を打払え」といわれた、とある。

 倭健命がこのとき任じられたのは征夷の将軍ではなく第9代天皇であった。倭健命は第12代天皇の皇子ではないが、青銅器文化の一族(蝦夷)がどういう一族か知るのに役立つ。生け贄の風習のあった殷王朝の末裔である。倭健命と姉の倭姫命(卑弥呼)は一緒に巡行していた。稚日女命(卑弥呼)が岩手県の永岡神社に祀られているので、倭健命と倭姫命(卑弥呼)はここまで来ている。永岡神社の30kmほど手前に宮城県の入の沢遺跡がある。

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4 平成27年7月29日付読売新聞に、大和王権と続縄文・交流と軋轢と題して「宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された古墳時代前期(4世紀)の集落跡が、考古学者の関心を集めている。銅鏡や装身具などの出土品が大和王権とのつながりを示すとともに、丘陵上に深い溝を巡らせて防御を固めた構造は、比較的平和に共存していたと考えられていた王権と続縄文文化の間に、厳しい緊張があったことを示す可能性があるからだ。」とある。

 銅鏡・鉄製品・勾玉・管玉・ガラス玉などの遺物より、この遺跡は倭王権の遺跡である。大和王権が敵対していた一族(続縄文と表現)とは、土着の縄文人やアイヌ人ではなく、東北に逃げていた殷王朝の末裔の準王一族(蝦夷)であった。


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第十一節 孝霊天皇の黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった [倭国大乱の原因]

第十一節 孝霊天皇の黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
1 鳥取県教育文化財団調査報告書(重要だと思われる部分のみ抜粋)


遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第6遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地 鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山


公開日 :2014年3月13日


http://sitereports.nabunken.go.jp/13629

 ぜひご覧になってください。

発掘 1995年より

 遺跡概要


集落跡-弥生後期~古墳前期  竪穴住居跡18+土溝21+

弥生土器+土師器+勾玉+管玉+ガラス小玉+ヤリガンナ+鋤先+ボウ製内行六花文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末  墳丘墓+土壙墓84


弥生土器+管玉+鉄剣+鉄刀+ヤリガンナ+鉄鎌+刀子
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F3 鉄刀 107.2cm+6.8cm 宮内第5遺跡2号墳
204
210
F5 鉄刀 94.5cm 宮内第1遺跡1号墳
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 特記事項
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第遺跡1号墓からは全長
94cm
の大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。


 まとめ


 今回の調査では、宮内第遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、号墓、号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。


 なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
 以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。                 


                         1996年
 2 遺跡所在地


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上(C区)と真ん中(D区)が第1遺跡である。今は崩されて道路になっている。


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工事後の宮内の空撮


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左が宮内集落。中央上あたりが第1遺跡(D区)である。


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両サイドの丘がつながっていてその上に宮内第1遺跡があった。


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 第1遺跡(D区)からは下蒜山、大山、茶臼山、長瀬高浜などが見え、出雲山より見晴らしが良い。出雲山はのちに藤原氏によって造られたのではないか。下照姫は宮内から出雲山まで行かなくても、より近いここで総てが見渡せる。


3 私見


 地元の人の言っていた「宮内の古墳」とは平安時代の経塚(国宝であり奉納したのはたぶん藤原氏)のことであった。第1遺跡の1号墳や3号墳は道路工事で崩されて無くなっていた。
 宮内遺跡で弥生時代後期の大小7本の鉄剣や鉄刀が見つかったこと(日本で最長の鉄刀を含む)は全国的にみても大きな意味がある。私見によると、孝霊天皇は115年頃の生誕で156年頃には黒田宮をあとにされたから、孝霊天皇が黒田宮に居られたのは弥生時代後期となる。




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第十節 孝霊天皇の皇居であった黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった [倭国大乱の原因]

   第十節 孝霊天皇の皇居であった黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。

1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居られたから宮内という地名が付けられたと思われる。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の一か所だけである。この東郷池周辺の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田宮であろう。


 下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田宮であった。


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宮内集落である。
2 私見


 出雲から来た一族が孝霊天皇一族を追い出したのである。


倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。


松崎神社の祭神に天穂日が祀られているのはこの子孫が松崎地区も支配していたからだと思われる。時代は倭の大乱の頃である。


青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。


3 湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。


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倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)

 主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。

 藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。


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第九節 孝霊天皇は天孫族が大陸へ行くためのルートを確保するために鬼たちを平定していった。倭の大乱の発端はこれであった [倭国大乱の原因]

   第九節 孝霊天皇は天孫族が大陸へ行くためのルートを確保するために鬼たちを平定していった。倭の大乱の発端はこれであった。

1 孝霊天皇は鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼と鬼の発生元の出雲も平定していった。妻木晩田の奥の大山町宮内に居られたこともある。出雲で和平協定が成立してからは、孝元天皇に皇位を譲られ、広島県府中市の南宮神社で生涯を終えられた。いずれも天孫族が大陸に行くためのルート上にあり伯耆国の西部である。倭の大乱の最初は瀬戸内、吉備国から始まったが、大陸へ行くルートを確保することが当初の目的であった。そのために孝元天皇は皇居に残られ伊弉諾・伊弉冉を祀るなど後方から支援しておられた。卑弥呼(倭姫命)は吉備津彦(崇神天皇)や吉備武彦(開化天皇・倭健命)と一緒に瀬戸内や吉備国を平定して父の孝霊天皇と合流した。大山町宮内も溝口町も日南町宮内も広島県に出るまでの大陸へ行くルートである。

 孝霊天皇の一族は日南町宮内の樂樂福神社をしばらく拠点にしておられたようである。

2 卑弥呼(稚日女命)も父を助けているという自覚はあったが、父は腹違いの母子と一緒であったため、距離を置いておられた。近くには居たが祀られている神社が別々である。孝霊天皇が樂樂福神社(日南町宮内)に居られたときは、今は合祀でなくなった岩崎神社(日南町湯河宮ノ前)に居られたはずである。
 孝霊天皇は細姫が亡くなってから、大山町の宮内に行かれ、現地妻の朝妻姫を娶られた。鶯王が生まれ鬼住山で戦ったが、戦死された。福姫が日南町宮内で生まれて亡くなるまで、鶯王が大山町宮内で生まれて亡くなるまで、倭の大乱の間、少なくとも二十年近くは伯耆国西部に居られたものと思われる。孝霊天皇の腹違いの子である孝元天皇・卑弥呼・吉備津彦・吉備武彦や鬼に苦しめられた地元の者達の協力によって、中国地方の倭の大乱は終結した。

3 鳥取県日南町宮内の樂樂福神社。
 孝霊天皇はここを平定してから溝口町の鬼住山に向かわれたと思われる。細姫も福姫もこの地で亡くなった。

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祭神 若建吉備津彦命、大日本根子彦太瓊命、細姫命、福姫命
由緒 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若建吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅命に因って当国に巡行あり、(この西道は七道分割以前の時にて今の山陰山陽に当たると) 此の地に悪鬼占拠して(今に此の地を鬼林山と称ふ) 人民を鹵掠せしを、遂に平定し給ふ。因て若建吉備津彦命の功績を畏みて此の地に祀る。大日本根子彦太瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並に正后妃に当たらせらる。

天皇此所に於て悪鬼を退治ありし地なりと伝来す、此地に鬼塚と号して方五間に余る大きな塚あり、社殿に其所の悪鬼尸を埋めたる塚なりと云へり、其外山中所々に奇異の古跡不可勝計」といへり。

4 鳥取県大山町宮内の高杉神社
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参道を奥に行くと鳥居がある。向こうの山が孝霊山である。

祭神 大足彦忍代別命、大日本根子彦太瓊命、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳、近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。

私見
 本媛とは細姫ではなく、近くの妻木から娶られた朝妻姫のことではなかろうか。妻木晩田は出雲系文化であるが、能義平野(安来市)にいた天穂日の子孫が出雲の鬼から逃げてきたのではないだろうか。高地性集落の原因は全国に展開した鬼から高いところに逃げたからだと思われる。

 朝妻姫は天穂日の子孫であることを孝霊天皇は知っていたから朝妻姫を娶ったのである。妻木晩田の住民は孝霊天皇の敵ではなかった。

 おまけ

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 神社の前は稲刈りをしておられた。


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第八節 孝霊天皇一族について [倭国大乱の原因]

   第八節 孝霊天皇一族について

1 古事記(抜粋)
 「大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(倭国香媛)を娶って、夜麻登登母々曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命)、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命=大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)、倭飛羽矢若屋比売(倭迹迹稚屋姫命)を生んだ。
 また、阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼(絚某弟)を娶って、日子寤間命(彦狭島命)、若日子建吉備津日子命(稚武彦命)を生んだ。

 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。
  大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
  日子寤間命は針間(播磨)の牛鹿臣の祖。日子刺肩別命は高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖」とある。

2 日南町の樂樂福神社(東西二社)の祭神
 大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇

 天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。

若建吉備津彦命(稚武彦命) 皇子

 兄皇子の大吉備津彦命と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。  
大吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)

 若建吉備津彦命の兄皇子
絙某弟命
 若建吉備津彦命の母
細媛命 皇后 
 孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。
福媛命 后妃
 孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命」(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。

彦狭嶋命 皇子別名 歯黒皇子

 此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、ご性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。

3 奈良の孝霊神社(庵戸神社)
祭神 孝霊天皇、倭迹迹日百襲媛命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命、ほか。
由緒
 岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、古事記・日本書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するものである。
ウィキペディア
 庵戸宮は、桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされているが、伝説を鵜呑みに捉えた場合、
 桃太郎と卑弥呼は共に孝霊天皇の皇子皇女として兄妹であったということになり、それら兄妹の生誕の地としても伝えられている。

4 私見 
 『古事記』では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)を儲けるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。(ウィキペディアより)
 倭健命を孝霊天皇の皇子とすると矛盾がなくなる。また奈良の孝霊神社の由緒では桃太郎は孝霊天皇の皇子となるが桃太郎は誰がモデルだろうか。私見では桃太郎は倭健命と同一人物であると解する。倭健命は吉備から関金に来られ「この矢の止まる限りをわが守護の地とならん」と言った伝承が残っている。桃太郎は吉備団子を猿・雉・犬に与えて鬼を平定された。
 倭健命は吉備武彦であった。古事記では倭健命は小碓命であり大碓命と双子であるとしているが、吉備武彦と吉備津彦は孝霊天皇の異母兄弟として記載されている。吉備武彦と吉備津彦は異母兄弟だが生年が同じであったと解する。そのことをもって藤原氏は倭健命は兄の大碓命と双子であったと改ざんしたと思われる。どちらも西暦157年の生まれであり後に吉備武彦は開化天皇に、吉備津彦は崇神天皇になった。
 古事記には朝妻姫と鶯王と福姫のことが書いてない。これも書いてあったが削除したものと思われる。高杉神社と樂樂福神社の伝承を消したかったのだろう。

 大吉備津日子命(崇神天皇)と若建吉備津日子命(開化天皇・倭健命・桃太郎)は以前、播磨で生まれたとしていたが、鳥取県湯梨浜町宮内ですでに生まれていて、孝霊天皇と一緒に逃げたものと思われる。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫命)は最後に逃げられた。細姫と大倭根子日子国玖琉命(孝元天皇)はこの地に残られた(天神川の西の小田集落に逃げられた)。
 奈良の孝霊神社(庵戸神社)由緒の「黒田庵戸宮は、桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされている」は信じるに足る。そのほうが、大吉備津日子命(崇神天皇)と若建吉備津日子命(開化天皇・倭健命・桃太郎)の年齢が妥当なものとなる。倭健命が関金に来られた時には倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)は18歳で倭健命(桃太郎)は12歳位であった。
 景行天皇の皇子である日本武尊と叔母の倭姫命の全国巡行は、孝霊天皇の皇子である桃太郎(倭健命)と皇女である卑弥呼(倭姫命)の全国巡行であった。大吉備津日子命(崇神天皇)と若建吉備津日子命(開化天皇・倭健命・桃太郎)は孝霊天皇の異母兄弟皇子であり、鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で生まれた。


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第七節 安来市の佐々布久神社の祭神は孝霊天皇である [倭国大乱の原因]

    第七節 安来市の佐々布久神社の祭神は孝霊天皇である。
1 安来市の佐々布久(ささふく)神社の祭神は大己貴尊(大国主命)であるとする。
 この祭神は改ざんされていると解する。
 藤原氏は、713年から733年の間20年で出雲国の大改造をしている。その時に祭神と神社の漢字表記を変えたものと思われる。
 藤原氏は9世紀に始皇帝の子孫であると言っていたくらいだから、秦王国(出雲国)をよほど気に入っていたのだろう。そのような秦王国(出雲国)を平定した孝霊天皇を出雲国の神社の祭神にしたくなかった。
 藤原氏は、713年に出雲風土記を提出させたときに、出雲に秦王国があったが倭国に平定されたことを知って、出雲国を大改造し、最初の出雲風土記を廃棄し新たに20年後に出雲風土記を作成した。
2 鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
 「ささふく」の名称由来
 ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。
この伝承に基づいて名付けられた名称である。
 神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
  「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。

3 佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。

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おまけ

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石段の途中の踊り場から足立美術館が見える。足立美術館の日本庭園の借景の一部になっているのかもしれない。


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第六節 溝口の鬼の館に行ってきました [倭国大乱の原因]

   第六節 溝口の鬼の館に行ってきました。
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1 鬼の館の説明文より
《孝霊天皇は、鬼住山の南の笹苞山に陣を敷いて、鬼の館を見下ろしました。人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出せば、弟の乙牛蟹が出てきました。大矢口命が矢を射ると見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまいました。しかし、兄の大牛蟹は手下を連ねて荒々しく手向かってきてなかなか降参しません。ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました。鬼は逃げ散り、天皇は一兵も失わずに勝ちました。麓に逃げた鬼は蟹のようにはいつくばって、「降参します。これからは天皇の配下となって北を守らせてください」と願ったので、天皇は、「よしお前の力をもって北を守れ」とお許しになりました。》
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鬼住山です。
 下の日野川との間を通る旅人を襲っていたのだろう。天孫族は天照大神の時代からこのルートを通って日南町広島北九州大陸に行っていた。
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笹苞山です。
 孝霊天皇はこの山に陣取って天津神のお告げを聞いた。そのお告げは卑弥呼(稚日女命)から出たものであろう。

2 稚日女命(卑弥呼)の動き
 卑弥呼は吉備津彦の皇軍とともに移動していたのだろう。移動の順番は正確ではないが、讃岐を出られてからは、以下の神社の所在地あたりを転々と移動していたものと思われる。石蟹魁師荒仁は石蟹(新見市石蟹)で新見市に拠点を置いていた。稚日女命(卑弥呼)は新見市を取り巻くように移動している。
1 岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663  大森神社

2 岡山県浅口郡金光町大字下竹736  大森神社

3 岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社

4 岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
5 岡山県津山市綾部1086  綾部神社
6 岡山県津山市沼430  齋神社
7 岡山県苫田郡奥津町久田下原43  久田神社

8 岡山県真庭郡久世町大字久世948  朝日神社
9 岡山県真庭郡八束村中福田392  福田神社

10 岡山県真庭郡川上村西茅部1501  茅部神社

3 大山周辺の卑弥呼と父の孝霊天皇

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 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
(9)安屋咩神社  安来市赤江町400 
(神)倭姫(比女)命
(10)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(11)高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
(12)蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
 若日孁神
(13)五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
(14)福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田392  

 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(15)倭文神社 湯梨浜町宮内
(16)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
(17)楽楽福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
      現住所 西伯郡南部町東上
(18)楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
(19)楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
(20)山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
     現住所 日野郡江府町杼原
(21)佐々布久神社 
     現住所 安来市広瀬町石原

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※ 私見
 卑弥呼と父の孝霊天皇は鳥取県西部に足跡を多く残していることが判る。出雲の勢力と戦っていたからである。
 鳥取県神社誌(昭和9年刊)には時々誤植がある。日光村に大字杼原はない。山田神社の鎮座地の杼原は栃原の誤植と思われる。孝霊天皇は日光村大字栃原におられ、稚日女命(卑弥呼)は日光村大字吉原におられた。これは鬼住山の鬼を笹苞山から笹の葉を吹いて成敗する前に陣取っていたところと思われる。
 日光村周辺には大字に大が付く地名が多い。京都の藤原氏の流れが作った伯耆誌には「大を王と読み替えるとは何事だ」とするが、これほど密集していると大は王(山田神社におられた孝霊天皇)ではないかと思われる。





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第五節 鳥取県神社誌に見る倭の大乱に関係すると思われる祭神 [倭国大乱の原因]

 第五節 鳥取県神社誌に見る倭の大乱に関係すると思われる祭神

1 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
 以下は倭の大乱のために陣取った場所だと思われる。西伯郡・日野郡はどちらも出雲国と接している。
倭文神社 湯梨浜町宮内
高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
楽楽福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
      現住所 西伯郡南部町東上
楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
     現住所 日野郡江府町杼原
佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原

2 稚日女命(夜麻登登母母曾毘売命・孝霊天皇の娘)、(神)倭姫(比女)命、若日孁神    
  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷
夜麻登登母母曾毘売命が船で対馬海流に乗って 丹波国に逃げる途中に寄ったものと思われる。孝霊天皇に遅れて黒田の宮を出られた。水主神社の記録にも、「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。これは、黒田宮に人がいなくなったため都を出られた、と解釈できる。
以下の神社の西伯郡と日野郡は出雲国と接しており稚日女命・(神)倭姫(比女)命・若日孁神は倭の大乱を終結させるために来たものと思われる。(大正合併までの神社)
 稚日女命
平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
     現住所 米子市淀江町平岡
富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
     現住所 西伯郡大山町妻木
前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
     現住所 西伯郡大山町古御堂
古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
     現住所 西伯郡大山町加茂
前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
     現住所 西伯郡南部町西
岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
     現住所 日野郡日南町多里
吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
     現住所 日野郡江府町吉原
大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
     現住所 西伯郡伯耆町大原
安屋咩神社  安来市赤江町400 
(神)倭姫(比女)命
天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
     現住所 西伯郡南部町天萬
高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
 若日孁神
五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田  
※ 私見
 卑弥呼と父の孝霊天皇は鳥取県西部に足跡を多く残していることが判る。出雲の勢力と戦っていたからである。
 鬼住山を攻める前に孝霊天皇と日女命(稚日女命=卑弥呼)は鬼住山の奥の日光村にいた。

3  天穂日命
 天穂日を祀る神社は八頭郡の神社が8社あるが、国譲りの交渉に派遣されるまでにいた所であると推定する。素戔嗚と稲田姫の御殿(大江神社)を守るためであった。大国主は大江神社で生まれている。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり国譲りの交渉が失敗し、天忍穂耳に米子から日野川上流・溝口町・日南町まで開けてもっと西に行くようにと言われるまで、大国主の計らいで拠点にしていたものと思われる。
〈鳥取県東部〉
中村神社      岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社      八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社      八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社   八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社    八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社      八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社       八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社    八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社      八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社    気高郡大郷村大字大畑字森崎
〈鳥取県中部〉
五郷神社      三朝町牧560の1 
大原神社      倉吉市大原619番 
田内神社      倉吉市巌城1494番 
松崎神社      湯梨浜町松崎566番
〈鳥取県西部〉
天萬神社      南部町天万1009番
多里神社      日南町新屋70
末尾神社      手間村大字田住字松尾
御崎神社      米子市尾高
北野神社      米子市赤井手
新印神社      米子市新印137番
古川神社      春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社      米子市古豊千
東千太神社     米子市古豊千888番
御崎神社      米子市河岡630番
北原神社      米子市福万667番
巨勢神社      米子市八幡254番3
逢坂八幡神社    大山町松河原233番
小町神社      伯耆町小町455番
三部神社      伯耆町三部824番
上の荘神社     伯耆町福吉264番
安井神社      日野町津地423番
※ 私見
 鳥取県中部の4社は天穂日が国譲りの交渉をするため蒜山中和村から三朝経由で降りて来たことを示している。茶臼山の松樹庵にいた大国主と国譲りの交渉をしたのであるが、国譲りを断られたので鳥取県西部に行っていた。
 人力で海流に逆らって西には行けない。西に行くときは陸路であった。天忍穂耳は国譲りを成功させた。大陸へ行くためのルートを開けさせるため、天穂日に能義平野に行くように、話し合いをしたものと思われる。日南町から広島に入り、北九州から朝鮮半島に行くのがルートであった。
 国譲りの交渉に失敗した天穂日は葦原中津国に未練はあったはずである。 天穂日は鳥取県八頭郡で素戔嗚と稲田姫の御殿を守っていたので大国主を生まれた時から知っていた。出雲で知り合った準王一族と婚姻関係を結んだ天穂日は我が子のように可愛がってきた大国主の名前を出雲で出会った殷王朝末裔の準王につけたものと思われる。それ以来出雲神族の王は代々「長髄彦」とともに「大己貴神(オオナムチ)」と名乗るようになった。

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第四節 倭国大乱の原因 [倭国大乱の原因]

   第四節 倭国大乱の原因
 天照大御神は二番目に天穂日を遣わしたが、すぐに大国主(鳥取県北栄町茶臼山)に媚び付いて、三年もの間、状況を復奏しなかった。一番目に降りた天忍穂耳はその後、葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)の様子が分かる三輪山(鳥取県北栄町下神)に本拠地を構えていた。天穂日は大国主の計らいで米子周辺にいたはずである。国譲りを成功させた天忍穂耳は大陸へ行くルートを確保するため米子から日南町を通って広島県に至るルートを確保する必要があり天穂日にもっと西に行くように話し合いをした。天穂日は伯耆国より西を本拠地とする国(出雲国)を築いた。
 天孫族(徐福一行)は紀元前210年に伯耆国に到着した。それを追いかけるように紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族が九州と島根県東部に渡って来た。準王一族はのちに鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれるほど凶暴であった。天孫族は人口を増やしたかったイザナギを仙人・父と慕っていたので、天孫族も列島の人口を増やすことを主眼としていた。この点でも生け贄の風習のあった準王一族とは対立していた。神武天皇の四兄弟が育った四王寺山は四王子を守る構造に造られているので、鵜草葺不合命の時にはすでに準王一族の脅威があったものと思われる。記紀には神武東征の目的は遷都のように書かれているが、東夷(東にいる蝦夷)を平定することが目的であった(上里神社の由緒より)。倭国大乱の時期(146年~189年)は第7代・第8代・第9代の時期であり、第10代のときになって列島はヤマト王権によって統一支配された。
 第7代孝霊天皇の時に米子から日南町に行くルートを石蟹や鬼住山・鬼林山・大倉山の鬼にふさがれていたので孝霊天皇は出雲の振根と交渉した。その返事が青谷上寺地遺跡の虐殺である。出雲軍は青谷から陸路で泊(伯耆国)→松崎(伯耆国)に侵攻し、孝霊天皇一族は丹波国の親戚を頼って海路で伯耆国を後にされた。孝霊天皇は奈良から播磨を通られたのではなく、丹波国から播磨を通って吉備に来られた。古事記にはこのことが書いてあったが藤原氏はどこから出発したのかを消している。丹波国からだと伯耆国にいたことが推定されるからである。孝霊天皇は伯耆国奪回のために吉備に来られた。日女命は丹波国より安全な讃岐に預けられた。
 卑弥呼の前半は第9代開化天皇(倭健命)と全国を巡行し、後半は第10代崇神天皇と全国の代表を纏向に集めて祭祀を行った。初代神武天皇のときから準王一族を平定してきたのでそれを快く思わなかった藤原氏によって第2代から第9代までの天皇の旧辞は削除された。出雲も熊野も淡路も準王一族の支配が強かったところである。藤原氏はそこを聖地としている。


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