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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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鳥取県北栄町の葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである) [大国主命]

 兎の予言したとおり大国主神は八上姫と結ばれ、やっとのことで国作りを完成させることができ、葦原中津国(狭義)を治める神様となりました。

 古事記には「大国主の命は葦原中津国(狭義)を中心に治めていた」とある。

1 葦原中津国を構成する集落
葦原中津国の13集落.jpg
1 瀬戸  2 西穂波  3 亀谷  4 津原  5 谷  6 鋤  7 穴田  8 別所  9 尾原  10 穴沢  11 穂波  12 原  13 大島

2 大国主と須勢理比売と八上比売は鳥取県北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)に住んでいた。
(1) 素戔嗚の娘の須勢理比売(鳥取県中部ー倉吉市出身)と大国主は異母兄妹である。子供もない。根国から大国主に背負われて黄泉平坂の麓まで行き宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)の松樹庵に住んだ。素戔嗚は「・・・出雲の国を治めるがよい。お前の連れている、我が娘の須勢理比売を正妻として・・・」と言っているがこれも藤原氏による改ざんである。
(2) 八上比売(鳥取県東部ー鳥取市出身)は大国主の妹の須勢理比売とおりあいが悪かった、ということは宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)に須勢理比売と一緒に住んでいたものと思われる。子供を置いて八上郡に帰った。

3 古事記・大国主神御末神等の段
 古事記には「この大国主の神は、后に歌われたように、多くの妻を持ち、したがってまた多くの御子を持った」とある。
(1) 胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命(鳥取県西部ー米子市出身)を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。(鋤)
(2) 神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神。(亀谷)
(3) 八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。
(4) 日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は國忍富神。
(5) 葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神。
(6) 天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神。
(7) 淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神。
(8) 比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は美呂浪神。
(9) 敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神。
(10) 若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神。
(11) 天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神。
以上に述べた八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神まで、これを十七世の神という」とある。
※私見
 大国主神御末神等の段とあるが「多くの妻を持ち、多くの御子を持った」のであるから、「この神」とは大国主と解すべきである。八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神までも大国主の妻と御子である、と解される。「十七世の神」は「合わせて十七神」を改ざんしたものと解される。

4 古事記・大年神羽山戸神御子等の段
(1) 大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。
(2) 香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。
(3) 天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が斉拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。
 大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。
 この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
※私見
 大年神羽山戸神御子等の段は大国主神御末神等の段との間に少名毘古那神の段と幸魂奇魂の段が入っているが大年神羽山戸神御子等も葦原中津国で生まれたものと解される。大年神は大国主の異母弟であるから、大国主は葦原中津国の国造りに大年神を誘ったものと思われる。大年神が3人の妻を娶った場所は大国主と同じ葦原中津国と思われる。
 「次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である」とあるが、平安時代に京都の藤原氏が加筆したものと思われる。羽山戸神の子も国譲りの時までに葦原中津国で生まれていたものと思われる。

5 私見
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 先代旧事本記によると「大国主は素戔嗚と稲田姫との御子であり、大年神と須勢理姫は素戔嗚と神大市比売との御子である」とする。大年神は大国主の異母弟にあたる。大国主は異母妹の須勢理姫と一緒に葦原中津国の国造りを始めたのだから同じ異母弟の大年神も誘ったものと思われる。古事記・神代10の巻(大年神羽山戸神御子等の段)に記載されている大年神の子は、大国主と同じく葦原中津国において生まれたと思われる。
 「百八十神」という表現や葦原中津国の広さからすると大国主、大年神、それに葦原中津国から逃げずに大国主に従った準王一族(出雲神族)の妻子も一緒であったと思われる。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族が列島に渡ってきたのが紀元前194年頃であるから、その頃、大国主は14歳くらいであった。八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼であった(千賊山の案内板より)から、因幡の白うさぎ伝説に出てくる兄の八十神は、のちに鬼と言われた準王一族(出雲神族)であったと思われる。準王一族(出雲神族)は大国主がまだ妻を娶る前から伯耆国より東の因幡国に来ていたのだから、その途中にある伯耆国の葦原中津国にも来ていたはずである。天忍穗耳命が「豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい」と言っったのは準王一族(出雲神族)が豊葦原の水穂の国(葦原中津国・磐余邑を含む)を占領していたからと思われる。その後、大国主は父の素戔嗚から譲られた武器で八十神(準王一族)を蹴散らして葦原中津国の国造りを始めた。
 原古事記にはニニギ命の降臨の前に饒速日の降臨が記されていたが、記紀においては削除されている(先代旧事本記による)。北栄町の土下山(天香久山)に降臨した饒速日は準王一族(出雲神族)の妹を娶っている(先代旧事本記)。北栄町の土下山(天香久山)には長髄彦の妹の登美夜須毘売が饒速日の妻になって来ていたから、土下山(天香久山)周辺には準王一族(出雲神族)もいたものと思われる。同じ北栄町の葦原中津国にも準王一族(出雲神族)が残っていたと解するのが無理がないと思われる。大国主の妻子や大年神の妻子を合わせても五十五神ほどである。百八十神は大まかな数字だとは思われるが百八十神になるにはあと百二十五神必要である。
 饒速日の降臨は紀元前185年頃と思われる。饒速日が亡くなってニニギ命が降臨したのは紀元前180年頃と思われる。国譲りが終わったのは紀元前160年頃と思われる。国譲り(紀元前160年頃)の後、大平山に退いた事代主と一緒の百八十神の中には準王一族(出雲神族)も多くいたものと思われる。葦原中津国を退いた百八十神の多くは大平山を下り東郷池の波延の地に住んだものと思われる。
 神武天皇が帰ってこられたとき(紀元前60年頃)に、大平山を降りた東郷池周辺(磯城)には兄磯城・弟磯城がいた。日本書紀・兄磯城・弟磯城に「天神の御子が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。・・・。」とあるので兄磯城・弟磯城一族は天神の存在を以前から知っていたものと思われる。兄磯城・弟磯城は事代主と一緒に退いた百八十神の中にいた準王一族(出雲神族)の子孫と思われる。兄磯城は神武天皇に従わず戦ったので殺されたが、弟磯城は神武天皇に従い師木県主となりその住んでいる地名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)と名乗った。
波延2.jpg
 百八十神は大平山の千坂を下り門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落に住んだものと思われる。百八十神の中にはのちに磯城県主(弟磯城)になる準王一族(出雲神族)も含まれていたものと思われる。古事記・雄略・白い犬にある「鰹木をあげて屋根を作った志幾の大県主の家」は門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落などの波延地域のどこかにあったものと思われる。
 「千坂」は通行人が賊に襲われることがあったので、以前は「血坂」と書いていたと郷土史家はいう。

6 参考 古事記訳文
(1) 神代9の巻
 ◎ 須勢理比売の歌
大国主神の正妻である須勢理比売命は、すなわち多くの后の中の大后であって、すでに八上比売が御子を置いて稲羽へ帰ったことでも分かるように、ほかの后たちに対して嫉妬する心がとくに激しかった。・・・。
 ◎ 大国主神御末神等の段
この大国主神が、胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命である。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。
大国主神が、また神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神である。また八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は国忍富神。この神が葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神である。この神が天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神である。この神が淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神である。この神が比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比比売を娶って生んだ子は美呂浪神である。この神が敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神である。この神が若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神である。この神が天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神である。このくだり、八嶋士奴美神から遠津山岬帶神まで、十七世の神という。
(2) 神代10の巻
 ◎ 少名毘古那神の段
この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。・・・。
 ◎ 幸魂奇魂の段
大国主神は愁い歎いて、「私一人で、どうやってこの国を作り終えることができよう。どの神と協力すればいいのだろうか。」と言った。このとき、・・・。
 ◎ 大年神羽山戸神御子等の段
その大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。また香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。また天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が齋拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。このくだり、大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
(3)神代11の巻
 ◎ 国平御議の段
天照大御神は、「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が治めるべき国である」と言って、高天原から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、ひどく騒がしく乱れているようだ」と言って、再び高天原へと戻り、その由を天照大御神に説明した。・・・。
(4)神代12の巻
 ◎ 大国主神国避の段
・・・。すると大国主神は「私の子たちの言う通り、私も従おう。この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は黄泉の国に隠れよう。私の子の百八十神たちは、事代主神が指導者として天神に仕えたなら、反逆することはない。」こう言って、・・・。






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伯耆国久米郡大神郷と大日本史について [大国主命]

 伯耆国久米郡大神郷と大日本史について


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 明治22年町村制の施行
下北条村 ← 弓原村、下神村、松神村、曲村、土下村、米里村、島村、北尾村、田井村(現・東伯郡北栄町)
中北条村 ← 江北村、国坂村(現・東伯郡北栄町)
上北条村 ← 中江村、小田村、古川沢村、下古川村、井手畑村、新田村、大塚村、穴窪村(現・倉吉市)

1 大神(みわ)山とは鳥取県北栄町の茶臼山であり、神(みわ)山とは同じく鳥取県北栄町の三輪山であった。
 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。

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 和名類聚抄(938年)に記される伯耆国久米郡内の郷に大神(みわ)郷はない。しかし神(みわ)の付く郷は10郷中3郷ある。その3郷とも大神郷の名残であったと思われる。

1八代郷 2立縫(たてぬい)郷 3山守郷 4大鴨郷 5小鴨(おがも)郷 6勝部郷 7久米郷 

8上神(かみつみわ)郷は倉吉市。
9下神(しもつみわ)郷は下北条村に重なる。
10神代(みわしろ)郷は上北条村に重なる。

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 上神集落を中心に郷があったのだから四王寺山の南まで上神郷であったはずである。上北条地区は古代神代郷であったという伝承が残っている。神(みわ)が郷名に残っている郷は久米郡10郷中3郷であるが大神郷の名残であると思われる。下神郷、上神郷、神代郷の比定地は間違っていない。古代大神郷は最低でもこれだけの地域であったと思われる。
北栄町茶臼山(大神山)のある中北条村(国坂、江北)は下神郷と神代郷に挟まれておりどちらかに属していたはずである。北条郷(上北条村、中北条村、下北条村)は古代神(みわ)のつく郷であり大神(みわ)郷であった。

2 北栄町三輪山について
 奈良県桜井市三輪にある大神神社(大和国一宮)は旧来「大神大物主神社」と呼ばれていた。 大神郷の大物主のいた神社であったから「大神大物主神社」と呼んでいた。大神郷は鳥取県北栄町にあった。大物主は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社にいた。奈良県桜井市三輪にある大神大物主神社名は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社から移されたものである。

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 三輪山(神山)の近くの中浜遺跡からは古墳時代前期後半(4世紀前半)の山陰型甑形土器が出土している。奈良の三輪山の遺跡は一番古いもので4世紀後半である。このことからも北栄町の三輪山のほうが古いことが分かる。
 北条町誌によると「三輪山は2万年前の火山灰が降り積もった地層で、標高は34mであった。土地の起伏は甚だしく険しい急な坂道のため人々が往来するのに大変な場所だった。昭和3年から開墾が始まり今はなだらかになっている。昭和45年頃から砂とりが始まった。三輪神社は宝暦3年(1753年)火災により焼失した」とある。

 大物主は天忍穂耳であり鳥取県北栄町の三輪(神)山にいた。大物主(天忍穂耳)は日向御子(ニニギ命)や大国主の子が成長してニニギ命が葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山(神山)にいて、隣の茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。カテゴリ〔天忍穂耳(大物主)〕を参照されたし。
 鳥取県北栄町茶臼山(大神山)は岩でできており標高は93mである。茶臼山(大神山)の松樹庵は大国主と少彦名と須勢理姫が本拠地としていた。松樹庵の案内板には「この庵の由来は明らかではないが境内には天明2年(1782年)に光明寺六世寂眼和尚が立てた石碑がある。また、石段上の地蔵は、寛政元年(1789年)『世出開了行者◯◯信女』の墓である」とある。カテゴリ〔大国主〕を参照されたし。

3 私見
 北条郷(上北条、中北条、下北条)は大神郷の中にあった。上北条(下古川、小田、古川沢、中江、大塚、新田、井手畑、穴窪)を神代(みわしろ)郷といい、下北条(松神、下神、曲、北尾、北条島、米里、弓原、田井、土下)を下神(しもつみわ)郷といい、「神」を「みわ」と読む名残があるため下北条も上北条も大神郷であったと思われる。中北条(国坂、江北)は神代郷か下神郷に属しており、大神(みわ)郷に含まれていた。
 北栄町茶臼山は大神郷にある山だから大神(みわ)山と言っていた。北栄町三輪山は神(みわ)山と言っていた。大神山は大山ではない。波波伎神社名が移されたように大神山神社名も北栄町の国坂神社から移されたものである。
大山(蓬莱山)は徐福(天照大神)一行が 大山の秀麗な山容を目標に辰韓から次々に東海を渡ってきたのであるから大山(蓬莱山)で国見をするのは徐福(天照大神)が一番ふさわしい。今の大神山神社には徐福(天照大神)が祀られていたはずである。南部町の赤猪岩神社の祭神は大国主と刺国若比売と素戔嗚と稲田姫であるが、大国主の母は稲田姫であり、刺国若比売は空想上の母である。大国主に対するいじめは旧八頭郡で完結しており赤猪岩の話は藤原氏によって創られたものである。赤猪岩神社にはより大事なものがあり、それを隠すためであると思われる。
 

4 大日本史と神祇志について(ウィキペディアなどによる)
(1) 大日本史は1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いた。
 まず「旧紀伝」と称されるものが完成する(1680)。天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰福 という人に、水戸からこういう書物を編修して差し上げるのは如何なものでしょうか、是非陛下にうかがって頂きたいと、光圀の意向を伝えた。霊元天皇は大変喜ばれ、是非献上せよ、とのお言葉があった。ところが、これを全面的に書き直すようにという命令が出る。そこで今まで編纂した「紀伝」は廃棄されることになり、新たに「新紀伝」の編纂が始まる(1683)。
(2) 徳川光圀の隠居(1690年)後 
元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。
元禄7年(1694年)11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。
元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。
徳川光圀の正室である近衛信尋の娘・尋子(泰姫)は結婚5年後に21才で病死している(1658年)。
(3) 光圀が史員に命じた歴史叙述の方法は、「正確に事実を究明して記述すれば、そのことの意味はおのずから明白となり、その事実を明らかにするために必要な事項は繁雑をいとわずこれを記載せよ。そのように厳正に記録された事実は「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめることになるであろう」という。
 水戸藩主八代(1797年-1829年)の時代に、大日本史の「志」・「表」という文化史的な、また各種の制度史的なことに関する歴史の編纂が進められて行くが、明治維新の時に出来上がったのは「紀伝」だけである。神祇志も含めた大日本史編纂事業が終結するのは1906年(明治39年)である。
 神祇志は神祇官や出雲大社や伊勢神宮について書いている。 神祇官は7世紀以来の律令体制下で、太政官と並ぶ中央最高官庁。朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄した。明治4年(1871)神祇省と改称。現在の神社本庁はその流れにある。

5 私見
 元禄時代に主に西日本の各地で歴史の辻褄合わせをしているが、徳川光圀が最初に編纂した「旧紀伝」を見た藤原朝廷は記紀との矛盾をなくすために各地で歴史の辻褄合わせをしている。徳川光圀は奈良時代に藤原氏が倭国を乗っ取ったことを知っていた。隠居後の八幡潰しや藤井紋太夫の刺殺がそれを示している。藤原氏は時間をかけて大日本史の改ざんをしていった。古事記・日本書紀の改ざんと同じである。序文に徳川光圀の信念を残しているのも、内容の信憑性を増すためである。古事記序文に天武天皇の編纂理由を残しているのと同じ効果を狙っている。
 元禄時代に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、スサノオが十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。茶臼山の松樹庵にいた世出開了行者◯◯信女が亡くなったのと、北栄町下神の三輪神社が火災により焼失したのがどちらも1700年代というのが気になる。


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第六節 伊那佐の小浜と葦原中津国 [大国主命]

   第六節 伊那佐の小浜と葦原中津国

1 伊那佐の小浜はどこにあったか。
 古事記の「伊那佐」とは発音だけであり「いなさ」とは本来の漢字に直せば「否砂」である。
 砂ではない浜であるから、周りは砂浜だったということである。そこに岩盤でできた波打ち際があった。天孫降臨が行われたのは紀元前165年頃であったから、今では完全に海抜5mくらいの陸地のはずである。その条件にぴったり合うのが北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)である。大国主が造ったと言われる葦原中津国も同じ町内の近くにある。国譲りの交渉は大国主が住んでいた本拠地で行われた。
 北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)はまわりが北条砂丘であり岩盤でできた山である。南側の水田も表面だけであって、その下は20数m下まで砂であり、その下にやっと岩盤があるそうである。その岩盤が突き出ているのが茶臼山(宇迦能山=いなさ山)である。
 茶臼山(宇迦能山=いなさ山)のふもとの国坂神社の祭神は少彦名だけであるが、なぜ大国主が祭神でないのか、わざと消してあるところが怪しい。大日本史・日本地理志料・特撰神名牒・神祇志は国坂神社の祭神を大国主であるとする。日本地理志料は「国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。国坂集落には大国主の子孫がいて、国坂神社を奉祀している。
 この岩盤の山に大国主は住んでいたのである。海抜10mくらいのところに岩を削って清水のでる狭いが平たいところがある。ここに庵もあるがここで国譲りの交渉が行われたとみてよい。小さな砂でない浜である。実物の大国主が茶臼山(宇迦能山=いなさ山)に居られた。

2 茶臼山(宇迦能山=いなさ山)を一周

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3 葦原中津国を形成する十三集落の一つである穴沢集落にある天若日子命を祀っている灘手神社
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 穴沢集落の灘手神社に天照大御神、天若日子命、鋤集落に阿遅鋤高日子根、亀谷神社に大国主、事代主、木花之佐久夜毘売、穂波神社に天児屋根命が祀られている。地形的にも葦原中津国であり、十三集落のうち四集落に天孫降臨に関係する神が祀られている。
 徐福(天照大御神)は小さな湾(葦原の中津)に到着し(宮下文書)、宇記島(北栄町大島)・原(北栄町原)に上陸し灘手神社に来ていた。灘手神社の前は葦原の中津であった。
 神武天皇は掖上の岡(灘手神社)で国見をして、灘手の指(尾根)の重なりを秋津のトナメにたとえて北栄町大島を秋津島と名付けた。
 第5代孝昭天皇の葛城掖上宮は灘手神社にあった。


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第五節 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)であった [大国主命]

 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった


1  鳥取県神社誌より抜粋
  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社
 祭神 少彦名神
 由緒 創立年月不詳、白河天皇承歴四年六月御卜に国阪神の祭を穢せる祟りあるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載)。当社の御祭神に就いて大日本史に土人の説として、大己貴命を祀ると云ひ日本地理志料も又大国主命を祀る乃ちその裔の奉祀する所と記す。当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に蓴菜河骨を生ず、往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を煎用するときは神徳の霊験ありとて其の名遠近に高し、現今尚此の水草を刈取り毎年四月八日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。
 国坂神社の祭神について、「特撰神名牒」には大穴牟遅神、少彦名神、事代主神、「神祇志」には大己貴命とある。国坂神社の祭神に就いて、「大日本史」に土人の説として、大己貴命を祀るという。「日本地理志料」もまた大国主命を祀るという。「日本地理志料」はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

 私見
(1) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(2)少彦名神は薬草の神様でもあるため、実際にここにいた。大国主命もここを拠点として活動していていた。藤原氏は下神の三輪山に放火して三輪神社をなくしたのをよいことに、土下集落に移転した三輪神社の祭神を改ざんして大国主にしている。そして国坂神社の祭神から削除した。
 また、奈良の三輪神社の祭神が瓊々杵命と天忍穂耳であることを隠すためでもある。天孫降臨に関係する二人が奈良の三輪山に祀られることは、宮崎県と重複するからである。

2  国坂の茶臼山について(当時は海に面していた)IMG_0060-1

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 案内板を見ると弘法大師が茶臼山に来た可能性がある。
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 松樹庵の奥にある清水。岩盤が露出している。茶臼山は草木で覆われていて、地質が何でできているかわかりづらいのだが、全体が岩である可能性が高い。この周辺は北条砂丘(鳥取砂丘に次いで広い砂丘)が広がっており(笠沙の御前とは海のほうに傘型になった砂丘があったということである)茶臼山の周りは砂地なのだが、茶臼山が海に面していたときは、砂浜でない浜があった。伊那佐小浜である。建御雷之男による国譲りの談判は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)で行われた。
 大国主命、少彦名命、宇迦能御魂命(須勢理姫命)は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)の松樹庵を本拠地として全国の国造りに出かけていた。

3 倭国発祥の地

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蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山)
上の山は宇迦能山又の名は伊那佐山(現在北栄町国坂茶臼山)。大国主がスセリ姫を連れて本拠地とした。国坂集落には大国主の子孫が住み、国坂神社を奉祀している。
右下は島集落。下の島集落の丘陵地には縄文前期から晩期までの遺蹟遺構がある。そこに縄文人の猿田彦一族が住んでいた。
蘇我馬子天皇の皇居もこの丘陵地にあった。

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蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山)と土下山(天香具山)。
右に少し見えているのが天香具山(土下山)。天孫族は何度もこの山を通って大国主のいる伊那佐山に国譲りの交渉に臨んだ。
神武天皇は伊那佐山を拠点として天香具山の麓にいた兄磯城と戦った。香具山の土を取って下したところが土下集落である。写真では香具山(土下山)と伊那佐山(茶臼山)の間の集落である。


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第四節 鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました [大国主命]

   第四節 鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました
出雲山の由来1
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出雲山の由来2
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下照姫が見た景色。右上が茶臼山
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 ここから島根県や米子は見えません。宮内からなぜここまで来て見えないもの(現在の出雲)を見ようとするのであろうか。ここから見たいものが見えるから見に来たと思われる。父親(大国主)は茶臼山にいたはずである。自分も行ったことがある茶臼山を見に来ていた。また、夫(天若日子)と八年過ごした亀谷や鋤への入口の見えるところでもある。奥の鉄塔が一本立っている先に亀谷と鋤がある。出雲富士より少し右になるが、そちらに向いていたものと思われる。

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第三節 倉吉市灘手地区鋤に行ってきました [大国主命]

   第三節 倉吉市灘手地区鋤に行ってきました
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倉吉市灘手地区鋤に行ってきました。ここは、葦原中津国を形成する集落の一つです。むかいの集落も鋤です。
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 鋤の自治公民館
1 阿遅鋤高日子根について
 葦原中津国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命(あめのほひ)が三年たっても戻って来ないので、次に天若日子が遣わされた。しかし、天若日子は大国主の娘下照姫と結婚し、葦原中国を得ようと企んで八年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女(なきめ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女(あめのさぐめ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に進め、彼は遣された時に高御産巣日から与えられた弓矢で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その為、高御産巣日は「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天若日子の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天若日子の父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て葬儀をした。下照姫の兄の阿遅鋤高日子根も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鋤高日子根は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。
2 私見
 ニニギ命が矢送神社に降りてきたときは四歳だったのであり、天孫族はニニギが成長するまで待つ必要があった。従って、天穂日の三年と天若日子も八年戻って来なくても慌てなかった。雉の鳴女(なきめ)を遣したのは、ニニギが成長したからである。
 阿遅鋤高日子根の書き方は色々あるが、私は「阿遅鋤高日子根」が本当だろうと思っています。天若日子は葦原中津国の中心地(亀谷)にいたので鋤にいた義兄の阿遅鋤高日子根とは津原を隔てたすぐ近くに住んでいたので懇意にしていた。
 神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。
 阿遅鋤高日子根は大国主命と宗像三女神の多紀理姫の間の子。同母の妹に高姫(下照姫)がいる。
 大国主命は島根県、近くとも米子あたりにいたというのが通説であるが、鋤のちかくの北栄町の茶臼山にいたという説もある。国坂神社の祭神が少彦名だけというのはおかしい、というのが理由である。大日本史・日本地理志料・特撰神名牒・神祇志は国坂神社の祭神を大国主であるとする。日本地理志料は「国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。
 下照姫は東郷池の出雲山から出雲富士(この方向に亀谷がある)や出雲(茶臼山のほう)を見て何ごとか小声でつぶやかれていた、と案内板には書いてあります。

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