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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

徐福、天照大御神 ブログトップ
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鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社 [徐福、天照大御神]

 鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社

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1 海岸近くの日御碕神社
(1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455
   日沈宮はもと経島に鎮座した。
(2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通
   現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86
 由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野政重この地に移住し宮司となり、政昭、昭高三代相継ぎて奉祀せしが、後昭高別に祭主を置きて帰国せしが、当時の領主厚く崇敬して箆津の庄を社領に附し、境内において殺生を禁じ、・・・。当社建立の際は出雲日御碕神社の古材を以て建立せられ、出雲日御碕神社造営の節は必ず当社も修繕せらるるを例とせり。現今の玉殿は日御碕の社より寄進せられしものなりと云えり。当社の北方境内に接する地に検校屋敷と称する所あり。これ天長年間より延長六年まで殆んど百年間、小野家の祖三代居住せらりし地なりと云う。
(3)鎮座地 米子市大字陰田字小天竺
   現住所 鳥取県米子市陰田町535番
(4)鎮座地 西伯郡渡村大字渡字宮前(境港)
   現住所 鳥取県境港市渡町1487-4
(5)鎮座地 西伯郡中村大字小篠津字本宮(境港)
   現住所 鳥取県境港市小篠津町1174

2 海抜20m以上にある日御碕神社
(1)鎮座地 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
   現住所  鳥取県西伯郡南部町東上656番
(2)鎮座地 西伯郡幡郷村大字岩屋谷字屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町岩屋谷453番
(3)鎮座地 西伯郡幡郷村大字諸木字中屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡南部町諸木329
(4)鎮座地 西伯郡大幡村大字吉長字三才木 
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町吉長370番

3 大神山神社(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
 由緒 神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり。

4 大神山神社奥宮(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 祭神 大巳貴命
 由緒 上古よりこの山に座す大山神の事は本社の由緒に記せり。大神谷に本社の大山権現又は大山智明権現と称し、例祭祭祀の典式等旧時の遺風を存し、全く神事を廃せざるものあり。
 特殊神事 古式祭 祭日7月14日15日
 御祭神は医薬の神にませば、古式により神職等は斎戒沐浴して、15日の午前1時に神水汲派遣祭(もひとり神事)を宮司以下奉仕執行す。派遣使は白の装束にて随行の白衣の参籠者と共に出発。頂上の池より神水を汲み、付近より薬草を採取して帰路につく。

5 私見
(1) 日御碕神社は全国的にも珍しい神社である。出雲市日御碕神社を総社としてほかに伯耆国に8社確認できる。日御碕神社の祭神は天照大神命と素戔嗚命であるが、徐福(天照大神)と素戔嗚が辰韓から鳥取県中部の葦原中津国に到着するまでに停船したところであると解する。
 海抜20m以上にある伯耆国の4社は遅れてくる徐福一行を迎えるために徐福(天照大神)と素戔嗚が蒜山から降りてきたところと思われる。
(2) 「大神山」の由来についての文章は鳥取県神社誌に基づいて書かれているものがほとんどである。
 その大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
 出雲風土記の「伯耆国大神岳」の「岳」とは百済語のクシフルタケ(岳)と同義であり、より古い新羅語では「タケ」と言わずクシフルネ(根)とする。したがって「岳」とは尾根のような丘陵を指す。「伯耆国大神岳」とは伯耆国の大神郷にある岳のこと示しており1711mの大山ではなく北栄町茶臼山のことである。大神岳とは標高93mの茶臼山のことである。はっきり「大神山神社」と出てくるのは延喜神名式(927年)からである。延喜神名帳には大和国一宮の「大神大物主神社」ともあるので大神郷の大神(みわ)の文字を確信的に流用しているのは延喜式神名帳からである。
(3) 天照大御神(徐福)は大国主より40歳くらい年配であるから、天照大御神(徐福)が先に大山の薬草を採取していたはずである。不老長寿の仙薬を探しに東海の三神仙(蒜山)に来たのだから山を「セン」と読む蒜山周辺に50くらいある山には登っていた。大山(ダイセン)もその一つである。もひとり神事は白装束でなくてはならないのだから、これも徐福(天照大神)たちと重なる。



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徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった [徐福、天照大御神]

 徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった。

1 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。
 昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
 王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。

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 辰韓より出航すると、東に流れる対馬海流と南に流れるリマン海流によって、出雲から伯耆に流れるように到着する。

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 徐福一行はまだ地続きでなかった島根半島と本土との間を通ってきた。大山は中海から見ると秀麗な山容となる。少女一行の多くは米子に到着した。徐福の本隊は鳥取県北栄町の小さな湾(葦原中津国)に到着した。徐福一行が2回目(紀元前210年)に来たときは仙人(イザナギ命)は小さな湾(葦原中津国)に降りてきていたようである。仙人(イザナギ命)は徐福に私に替わって蒜山(高天原)を治めよといい徐福のNO2(素戔嗚)には私に代わって泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を治めよ、と言った。その時に徐福のNO2(素戔嗚)は「母の国」と言って泣いた。徐福は蒜山(三神山)に上がって王(天照大御神)となった。
 伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいことが実証される。

2 郭沫若、王輯五のいう「徐福一行は出雲に移住し殷人の一種の銅器である銅鐸民族になった」とするのは正しいか。
 伯耆国は出雲の東にあり辰韓を出航すれば出雲を通り過ぎて伯耆国に到着する。出雲国に移住するのなら伯耆国まで来なくてもよい。伯耆国に来れば引き返さなければならない。
 徐福は不老不死の仙薬を得る為に東海の三神仙に行くことが目的であった。始皇帝も徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。三神仙とは蒜山三座のことである。徐福は伯耆国の小さな湾(北栄町の葦原中津国)に到着しそこで待っていた仙人(イザナギ命)に会って蒜山三座(高天原)を治めるように言われた。徐福は蒜山に上がり、周辺の山々(山をセンと名付けた)で仙薬を探した。そして始皇帝の言ったように「三神山(蒜山)に止まって始皇帝に替わって王(天照大御神)となった」。徐福は蒜山(高天原)で王(天照大御神)となり降臨をして平原(伊勢野・斎王野・鈴鹿野・方見村)と広沢(葦原中津国)を得た。
 出雲族は徐福集団ではなく殷王朝末裔の準王一族である。徐福集団(紀元前210年)の16年後(紀元前194年)に出雲の地に到着していた。

3 スサノオが泣いていたのは葦原中津国であった。

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 宮下文書に「宇記島原(浮島と原)に上陸し」とある。倭健命も北栄町大島のことを「こは浮島にや」(宮崎神社由緒)といった。葦原中津国には原集落(北栄町原)もある。倭健命と孝元天皇は大島で二尊(イザナギ・イザナミ)を祀っている。
 イザナギ命は大島で徐福を待っていた。
 徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいたイザナギ命に再会した。

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 天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国のほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。
 あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
 天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
 東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
 福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。

4 古事記において
 イザナギ命が三貴神に「~は私に代わって~を治めよ」と指示した場所は三貴神が到着した葦原中津国である。
 スサノオは泣いたが、イザナギ命は「この国に住んではならぬ」と命令した。この国とは葦原中津国である。
 スサノオは先に高天原(蒜山)に上がっていた天照大御神に暇乞いをしに上がって行った。泊瀬の海原に降りて周辺を調べているうちに三朝町山田で八俣の大蛇を見つけ退治した。
「このイザナギ命はのちの近江である淡海の多賀に鎮座している」の文はのちの挿入であり、史実ではない。私見では伊弉諾命は黄泉国を嫌い鳥取県八頭郡那岐村に移っていた。南には那岐山、岡山県奈義町がある。スサノオはヤマタノオロチを退治してから、鳥取県八頭郡にいた伊弉諾を頼って同じく鳥取県八頭郡に御殿を建て稲田姫と住んだ。イザナギが亡くなってから伊弉諾に治めよと言われていた根国(泊瀬の海原)に帰った。2番目の妻との間に生まれたスセリ姫と智頭町に降りていたが中山神社(御真木)→真庭市社(木国)→蒜山(高天原)→倉吉市余戸谷町(根国の谷田神社)のルートで根国に降りてきていた。谷田神社が「
根国での冒険」の舞台であり、1人になった素戔嗚は東山神社に移り、十握の剣を大原神社(石上神宮)に奉納した。スセリヒメは東山神社と宇迦能山(北栄町茶臼山)との間を行ったり来たりしていたようである。宇迦之御魂命を祀っている神社の並び方を見るとこういう結論になる。


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熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である [徐福、天照大御神]

 熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。

1 熊野三山の縁起(ウィキペディア)
 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(扶桑略記)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記)とするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは806年の史料中にある記述で、766年付で「速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入した」とあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑に一緒に祀られていたと見られる。
 9世紀中ごろになると、単に熊野坐神とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起・長寛勘文」所収)。
(私見)
 正史において神名が確認できるのは、速玉神と熊野牟須美神が766年、家津美御子(熊野坐神)が9世紀である。それ以前に熊野三山なるものはなく、熊野三山は伊勢神宮や出雲大社と同じく奈良時代後半になって藤原氏の列島における百済再興のあかしとして造られたテーマパークである。いくら、平安時代に歴代天皇が熊野詣でをしようが、所詮はUSJやディズニーランドと同じくテーマパークである。魂のない仏である。速玉男神と熊野牟須美神が熊野にいたのは短期間であり、船を造って伯耆国へ行った。

2 家津美御子神(別名 熊野坐神・素盞鳴神)
 家津美御子神は神倉神社に降臨した熊野権現である。
「昔、唐の天台山の王子信が日本の英彦山に天降った。その姿は高さ3尺6寸の『八角なる水晶の石』という。次に伊予国の石鎚峯、次に淡路国の遊鶴羽山、次に紀伊国の切部山付近にある松の木のもとに移った。それから熊野新宮の南の神蔵峯(神倉神社)に降臨した。その後、今度は新宮の東の阿須賀社の北、石淵谷に移る。ここではじめて『結玉家津美御子』という名を表わした。それから、神は『本宮大湯原』(明治22年まで本宮大社が鎮座していた大斎原)の、3本のイチイの木に3枚の月形となって天降った」とある(1163年の長寛勘文に引用の熊野権現御垂迹縁起より)。
(私見)
 熊野三山のなかで一番の主祭神とされている家津美御子は素戔嗚命ではない。熊野本宮大社の主祭神である家津美御子神は神武天皇と戦った兄磯城と同じ青銅器文化の一族である。早い時代に全国に展開していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。家津美御子神のいた神倉神社から銅鐸が見つかっている。兄磯城のいた米里からも銅鐸が見つかっている。どちらも神武天皇に敵対する一族である。また、家津美御子神は青銅器文化の一族の拠点であった淡路島にもいたこともあるので、ヤマト王権に敵対する青銅器文化の一族であった。
 時代は唐ではなく漢の時代である。紀元前194年に列島に渡ってきた殷王朝の末裔準王の一族である。卑弥呼たちヤマト王権は熊野も巡行したが、家津美御子一族は石淵谷や熊野川の奥の本宮大湯原に逃げていたので平定できなかった。
 
3 私見
 神倉神社から銅鐸が見つかっている。家津美御子は淡路島にもいたが、淡路島は銅鐸が多くみつかり、青銅器文化の一族の拠点である。神倉神社にいた神は熊野権現と呼ばれ、徐福の7人の残り4人が仕えたという。仕えなければ殺されたから仕方なく仕えた。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は船を造って国に帰ったとするが、国に帰ったのではなく、海路吉備国に到着し陸路伯耆国に至って徐福に再会した。この7人は紀元前219年に熊野に漂着した7人である。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は伯耆国に行ったが残った4人は20数年後に熊野権現(家津美御子)が現れ熊野権現に仕えた。熊野本宮大社の熊野12所権現のなかで主斎神とされる家津美御子だけが異質である。

4 (参考)鳥取県神社誌に見る、一時熊野にいて徐福に再会するために伯耆国に来た3人(船を造って伯耆国に来た)を祀る神社(3人とも伯耆国に多い)
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社
※熊野櫲樟日命(速玉男命の妻 別名 熊野夫須美神:熊野牟須美神) 因幡3社 伯耆8社 計11社 都波奈彌神社、諏訪神社(智頭町)、天穂日命神社、大原神社、松崎神社、日御碕神社(陰田)、逢坂八幡神宮、天萬神社、野上荘神社、厳島神社(日野村)、安井神社
※事解男命 因幡7社 伯耆15社 計22社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社


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天照大御神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた [徐福、天照大御神]

天照大御神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた

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天の真名井の近くには、妻木晩田遺跡、上淀廃寺、稲吉角田遺跡、宗形神社がある。

稲吉角田遺跡は弥生時代中期(紀元前100年~紀元前50年)であり、天孫族は大陸に行くルートの中継地として淀江町を重視していた。私見では神武天皇四兄弟の時代である。神武天皇四兄弟は淀江町を通って北九州に行かれた。妻木晩田遺跡が出来たのは紀元元年頃であり、住民は下に降りて淀江町を作った、と地元の歴史家はいう。上淀廃寺は奈良時代ではなく天武期である。

三女神は米子市の胸形(古事記)にいた。詳しくは「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし。

1 鳥取県淀江町の天の真名井

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湧水量は1日2500トンに及ぶ。

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きれいな清水である。

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柵を作る前は左下の石段を下りて水を使っていた。天照大御神と素戔嗚命もここでうけいをした。

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「この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、『天の真名井』と呼んでいます。『天の真名井』とは、『古事記』『日本書紀』において、高天原の『神聖な井戸』を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。高井谷の氏神である下津守神社の古棟札にも、『天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布(あめのまないのきよくいさぎよき もとつみずをくだしたまふ)』と古くから記されております。・・・この『天の真名井』泉川の下流の宇田川平野には、弥生時代の角田遺跡があり、すでに二千年もの昔から、人々の生活と耕作の水源として大切にされてきたことを物語っております。・・・」とある。

2 「天の真名井」の横にある「毘沙門堂」

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「毘沙門天は七福神の一つで、財宝や福徳の神様として信仰されています。一月三日の早朝にお参りすると福徳が授かるといわれています。元々は高井谷村内の山腹、毘沙門平にありましたが大正十五年に現在地に移されました。毘沙門天のほか、薬師如来、弘法大師も祀られています」とある。

 薬師如来は徐福(天照大御神)と関係が深いと言われる。

3 サイノカミも祀られている。

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サイノカミ(猿田彦と天鈿女)

「高井谷には、元治元年(1864年)作の神像と、小型の持ち回り用の神像があります。小型のものは良縁を願って、婚期の近づいた跡取りのいる家に持っていき、めでたく婚礼が終わると次の家に持ち運んでいくという風習があります」とある。

淀江町にはサイノカミ(猿田彦と天鈿女)が多く祀られている。

4 うけいで生まれた八神を祀る伯耆国の神社
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大原神社 倉吉市大原
松崎神社 東伯郡湯梨浜町松崎
日御碕神社 米子市陰田町(祭神 うけいの八神)
松河原神社 西伯郡大山町松河原(祭神 うけいの八神)
日御碕神社 西伯郡南部町三崎(祭神 うけいの八神)
野上荘神社 西伯郡伯耆町福吉(祭神 うけいの八神)
宮﨏神社 日野郡根雨町下榎(祭神 うけいの八神)
安原神社 日野郡根雨町安原(祭神 うけいの八神)

5 私見
 宮﨏神社と安原神社は速玉男命と一緒に熊野から吉備に上陸して伯耆国の奥に到着していた速玉男命を祀る福岡神社が近くにあるため熊野久須毘命が見つかったところであると解する。
 野上荘神社は近くに長男の饒速日命を祀った江尾神社があるので天忍穂耳命が見つかったところであると解する。
 南部町の日御碕神社は周りに天穂日命を祀る神社が多いため天穂日命が見つかったところであると解する。
 陰田町の日御碕神社は三女神がいた胸形神社に近いため胸形三女神が見つかったところであると解する。
 松崎神社は津(東郷池)の畔にあるので天津日子根命、活津日子根命が見つかったところであると解する。
 後は藤原氏の都合で祀られた神社と思われる。



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速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった [徐福、天照大御神]

 速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった。

 徐福一行の第二次(紀元前210年)は辰韓に渡り次々に伯州(伯耆国)に向けて出港し伯州(伯耆国)に結集したのであるが、第一次(紀元前219年)のときは、対馬海流を考慮していなかったため、船出した船は列島に散りじりに漂着した。熊野もその一地域であった。

1 新宮の徐福公園の碑より
 日本の書物の長寛勘文には「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とある。
 徐福公園の七塚の碑
 徐福の墓の横には、徐福の重臣7人を祀った石碑が立っている。7人の墓はもとは円墳で、蓬莱山を中心として北斗七星の形を表して造られていたらしい。明治時代にはこれらの墓が存在してたが現在は不明である。

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2 新宮市観光協会のホームページ  熊野速玉大社より
 「速玉」の社名の由来は、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説がある。
 社殿には七体の古神像(重要文化財)が安置されている。このうち四体は平安時代初期の作と伝えられる。
 熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の天台山から飛行し、日本国鎮西の日子山(英彦山)に八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南の神倉山に天降った」とされる。
 神倉山のゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しているが、速玉大社からは山に遮られて見えない。すなわち、神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である。速玉大社はやはり、立地から見て熊野川に坐す神への信仰である。本宮と同一の歴史を持つものである。

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神倉神社

 上がる途中の急な石段で久しぶりに蛇を見た。

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神倉神社より新宮市街を望む

 息が切れるほど高い。降りてから新宮市の観光に携わっているという女性と出会った。「日本の歴史はすべてここから始まった」と言っていたが、伊勢神宮や出雲大社と同じく藤原氏に造られたテーマパークの一つである。熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社は本殿が3~4に分かれている藤原様式である。

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熊野那智大社

 速玉男命は少し居ただけで、本国ではなく伯耆国に行かれ、そこで生涯を終えられた。藤原氏は熊野に熊野速玉大社を造り、熊野本宮大社の祭神にもした。歴代藤原天皇も来たようである。速玉男命が実際に生涯を終えた福岡神社はほったらかしである。藤原氏は原古事記を見ているからもちろん史実を知っている。伯耆国の歴史を消し去るためである。

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熊野速玉大社

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熊野本宮大社

主祭神の家津美御子は素戔嗚神ではなく、鬼・土蜘蛛・猿・蝦夷などと呼ばれている青銅器文化の一族であり、この地域を支配していた。天照大御神・素戔嗚命・速玉男命とは敵対した一族である。

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3 速玉男命を祀る鳥取県の神社

※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社

 

4 鳥取県伯耆町福岡神社の蛸舞式神事
 福岡神社由緒(昭和九年の鳥取県神社誌より)
「旧若一王子権現と称す。若一王子は熊野三社の内、速玉男神なり。上古、紀伊国熊野浦より海上大蛸に乗り、吉備国へ上陸。この地に至り給うと。故に俗称蛸大明神と云う。社後の岡に崩御所と伝うる墳墓あり」とある。

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福岡神社。地元が維持管理している。

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礎石の下にあった蛸の石像。

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社後の岡の崩御所

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速玉男命はここに眠る。

 福岡神社では、伯耆町が全国に誇る伝統行事「蛸舞式神事」が毎年10月に行われる。 その昔、速玉男命が熊野灘(和歌山県)で遭難した際、大蛸に助けられ、無事吉備国へと上陸。その後、この地を訪れたという故事にちなみ、このお祭りが行われてきた。

5 私見

 神倉山から銅鐸が見つかっているので、ここに降臨した熊野権現は青銅器文化の一族(準王の一族)であり、徐福の一行(ヤマト王権)とは敵対するものである。神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である、と解するのは正しい。
 鳥取県の神社に多く祀られているのは、鳥取県でしばらく活動していたからである。速玉男命は蒜山(高天原)にいた徐福(天照大御神)を探して鳥取県に来ていた。福岡神社の日本の3大奇祭に数えられる蛸舞式神事は速玉男命が徐福(天照大御神)にあったときの喜びを表現した舞である。

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第十六節 天照大神(徐福)の生涯 [徐福、天照大御神]

  第十六節 天照大神(徐福)の生涯 

1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。
  徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は早くても紀元前205年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳とすれば、紀元前180年頃である。ニニギ命は紀元前184年頃には生まれていたはずである。ニニギ命が茶屋条の大宮神社に降臨したときは25歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。
 ニニギ命の降臨のとき(紀元前180年頃)の天照大御神の年齢は、65歳くらいであった。大国主は饒速日命と年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に出生している。饒速日命が降臨した時には大国主も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。4歳のニニギ命が成長するのと同じく大国主の子たちが成長するのを待たなければならなかった。ニニギ命が4歳で関金の矢送神社に降りてこられて20数年後に下種の大宮神社の御所に移られた。
 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ高天原にいたように書いているがこの時はすでに伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。ニニギ命が降臨する頃は天照大御神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢野の天照皇大神宮を隠すために古事記を改ざんしている。
 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穗耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇藝命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比賣を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇藝命の二柱である」とある。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良以前はヒコホホデミ尊であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2)『消された大王ニギハヤヒの謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神のホアカリ命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、ヒコホホデミ尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、ホホデミ尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・ホアカリ命として祀っております。」とある。これは、ホアカリは、本来「ホホデミ」であったということである。
(3)私見
 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前はヒコホホデミ尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

 3 私見
「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。
 饒速日尊が亡くなったので、天忍穗耳はこういう返事(ニニギが生まれたこと)をしたのである。天照大神がいつ高天原から伊勢野の皇大神宮に降りてこられたのかは古事記からは分からないようにしてある。
 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行ならば、年老いた長を導くのは当然である。また徐福がいつまでたっても状況を復奏しないので、始皇帝の部下が徐福を追っていたのではないだろうか。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。

 余談 
 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(紀元前3600年以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは,和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。


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第十五節 天照大御神は徐福であった [徐福、天照大御神]

 第十五節 天照大御神は徐福であった。

1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大御神は徐福であった。悔しいが、これが真実であると思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つである。

2 徐福一行(紀元前210年の第2次)は辰(秦)韓より次々と伯州(鳥取県中西部)に結集した。伯耆国に到着した徐福一行は出雲にはいっていない。中国地方で一番高い山のある大山・蒜山にのぼり仙人や仙薬を探し、神仙を求めた。仙人の居るところには一匹の白い犬が番をしており、誰かが来れば仙人に知らせたという。伯耆国から蒜山に上がる途中の峠は「犬挟峠」という。「犬走り」が「犬挟り」に訛ったものと思われる。蒜山は仙人の居るところであり、徐福一行の目的地であった。

3 徐福が高天原で記録したとされる宮下文書の原型は蒜山に居て書かれたものである。徐福一行は東海の三神仙(蒜山三座)を目標に航海してきたのであり、出雲に行ったのではない。出雲国に到着したのは、殷王朝末裔の準王の集団であった(紀元前194年)。
 その頃、大国主からの国譲りの交渉に失敗した天穂日は天忍穂耳やニニギ命のために、日野川流域を退いて、能義平野(安来市)にいた。松江に拠点を造った準王たち(出雲神族)と天穂日たちは接触があったはずである。天穂日は準王たち(出雲神族)をここでくい止めている。出雲神族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであったという。天穂日は出雲神族の女を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が長髄彦の妹を娶ったのも天穂日の仲介によるものと思われる。準王たち(出雲神族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは、青銅器文化(銅剣・銅矛・銅鐸)で生贄の風習のあった殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少であった準王(タケヒラドリ)に可愛がっていた大国主の別名の大己貴の名を与えた。以来、出雲神族の王(長髄彦)は自らを大己貴と呼ぶようになった。準王たち(出雲神族)は後に全国展開し、人をさらう鬼と呼ばれた。

4 徐福と天照大御神は高天原(蒜山)で同一人物の名前だけが入れ替わったようである。徐福は平原・広沢を得て王となった。天照大御神も天孫を通じてではあるが、伊勢野(平原)・葦原中津国(広沢=豊葦原瑞穂国)を得て天照大御神(王)となった。高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は一族のリーダーであり、徐福も徐福一行のリーダーである。徐福は始皇帝に「三神山(蒜山三座)に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山(蒜山三座)で王(天照大御神)となった。国譲りで三神山(蒜山高天原)から鳥取県中部に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野)・広沢(北栄町の葦原中津国)を得た。天照大御神は因幡の霊石山などに伝承が残るので、因幡国(鳥取県東部)には出向いている。しかし、「義楚六帖」の記述より亡くなったのは倭国(鳥取県中部)内と思われる。丹後の新井崎神社や冠島に徐福の伝承が残るのは、全国に30ヶ所ほどある徐福の伝承地と同じく、徐福本人ではなく、徐福の下臣と思われる。徐福(天照大御神)が亡くなったのは、丹波ではなく、倭国(鳥取県中部)であった。

5 『古事記』には「スサノオの様子を見た天照大御神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶみます。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みみづら)に巻いて、左右の御角髪にも、また御鬘にも、また左右の御手にも、それぞれ八尺の勾玉を500個つなげた珠を巻き持って、背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、威勢よく高い音のする鞆(とも=弓の反動を受けるために左肘に装着する武具)を取り佩びて、弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、淡雪を蹴散らして、威勢よく雄叫びをあげて待ち構え、「何のために上ってきた」と問いかけられた。」とある。
 『史記』には、徐福が2度目に出発したときに「海中の大鮫(鯨?)の妨害を避けるために始皇帝に要求して連弩(連発武器)を積み込んだ」と記されている。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるところから、天照大神のもっていた弓は始皇帝に要求して積み込んだ連弩(連発武器)であると解する。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。


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第十四節 天照大神は男性である。 [徐福、天照大御神]

   第十四節 天照大神は男性である。
以下、ウィキペディア等を引用しています。
1 天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では
ただ一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)と言うところがあることから、女性神と見る見方が現代では優勢である。

ある方の疑問
 近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし、その寺には天皇の墓や国宝もあるので嘘を書いているとも思えないのですが・・・。
 天照大神の原型は「男神」であったと考えられる。江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃が天照大神男神説を唱え、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸義昭氏などに男神説が見られる。
2 「嫌なことがあったら引きこもるから天照大神は女」という意見は推論にすらなっていない。もし引きこもりが女の特徴なら現代社会のヒキニートはどうして男のイメージが強いのか。古代の文献に「女は嫌なことがあるとすぐに引きこもる」とでも書いていたのだろうか。
3 地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓を手にした。そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇したのである。
「戦う時は女も男の格好をするのが古代の風習」であったとは聞いたことがない。
4 天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメの踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。天照大神が天岩戸から顔を出したのはアメノウズメの裸踊りであるが、女が女の裸体に興味示すだろうか。男だから覗いたんじゃないだろうか。まわりの者は天照大神が男性だと判っていたからアメノウズメに裸踊りをさせた。
5 日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならないはずである。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。
6 神宮へ奉納する御衣は男性用
 平安時代、すでに大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。
7 伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1mほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火を焚いて秘密神儀を行うといわれる。これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、男神・天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられるのである。
8 わが国の天孫族の上古祖系については、『斎部宿祢本系帳』などに見られるが、その重要な系図の天照大神にあたる位置の者には「天底立命」と記されており、すべて男系でつながる系譜となっている。日本の古代氏族について、『姓氏録』など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無である。
9 京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。
10 江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
11 男性と記した古書多数
 明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば『源平盛衰記』では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の『日本書紀』注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。
12 天照大神の別名の大日孁貴神、大日女尊、大日女は藤原氏による創作である
 もともと卑弥呼は日女命であるが、神社では日女命に稚を付けて稚日女尊とし、さらに稚日女尊を若日孁尊とも書き換えている。
 神戸の生田神社では「稚日女尊は『若々しい日の女神』の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名」とする。また鳥羽の伊射波神社では「稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われる」とする。
 若日孁尊は天照大神のご幼名あるいは分身であるから、天照大神の別名を大日孁貴神、大日女尊、大日女とし女性のごとく書き表す神社もある。
 「稚日女尊は天照大神のご幼名あるいは分身である」とするのは一部の神社だけであり他にそのことを記する文献はない。これも藤原氏の神社ネットワークによる創作である。

13 私見
 以前、「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」を倭姫命(卑弥呼)が平定するのに天照大神が男神でなければ効果がない、ことを根拠に男神であるとした。そのほかにも、卑弥呼はその後も生き続けていたのに箸をついて死んだことにした、稲氷命は新羅の始祖であることがほぼ確実であるにも関わらず神武天皇と一緒に熊野に行きそこで死んだことにしている、大国主命は大己貴神の名前で国譲りの時に入水自殺したことにしている、などから、日本書紀は史実を積極的に改ざんしている歴史書であると思われる。日本書紀は信じるに値しない。従って、スサノオが「お姉さん」と言ったのも改ざんである。
 九世紀に藤原氏は始皇帝の子孫だという主張をしている。藤原氏は始皇帝を騙した徐福を蔑んでみていた。八世紀の日本書紀編纂にその考えが表れた。歴代の天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由もこれでわかる。藤原氏は、天照大御神が日本で生まれた純粋な日本人ではない、ことも知っていた。
 徐福=スサノオ説や徐福=神武天皇説は聞いたことがあるが、いずれも時代が合わないとして、少数説に留まっている。しかし、神武天皇即位年600年水増し説に立つと徐福=スサノオ説は時代がほぼ合致することになる。しかし、人望の点でスサノオが徐福に比定できるであろうか。もし、天照大神が男性であったならば、これほど人望(皆の中心であり、皆が着いてくる)のある者は他にいない。天照大御神が徐福(3000人を連れてきた長である)にぴったりであり、時代も神武天皇即位年600年水増し説に立つと符合する。不比等は「600年水増しせよ」と言ったのであり、「660年水増しせよ」と言ったのではない。不比等は細かい操作は百済史官に任せたので、どこをどういう風にいじったかは、調べるだけ無駄である。
 徐福は道教の方士であり、同じく道教(鬼道)を信奉していた卑弥呼のルーツである。徐福は不老長生を追い求めてきたが、卑弥呼は長生を実践し、アワビなどの海産物を食し、百歳余りは生きていたと思われる。仙薬も試したかもしれないが、直井裕氏のごとく百二十歳まで生きたかどうかはわからない。卑弥呼が大事にしていた白石とは、焼津で使用した石英の火打石のことである。伊勢神宮や伊射波神社で今でも大事にされている。


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第十三節 記紀の高天原は蒜山高原であった。 [徐福、天照大御神]

   第十三節 記紀の高天原は蒜山高原であった。
1 蒜山高原の朝
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右下は高速米子道
 東の高天原は富士山麓にあったという説があるが、富士山麓に残る徐福の痕跡は失敗した一次の徐福一行の船が富士山付近にたどり着いたのであって、宮下文書に書いてある富士山高天原説は藤原氏によって作り上げられたものであり、真実ではない。宮下文書の原文は徐福が蒜山において記録文書化したものである。原文を模写し改ざんして富士吉田の宮下家に保管させた。
 西の高天原は北九州にあったとする説があるが、北九州にある天孫族の痕跡は、天孫族が大陸半島に行くには海流の関係で北九州に一旦留まってから、良い天候の時に出航したからであって、北九州に本拠地があったからではない。
 蒜山高原周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大御神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。
2 蒜山高原にも水田はあちらこちらにある。
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 現在の蒜山高原は水田稲作も多くみられ、蒜山高原は水田稲作ができないから三貴神は蒜山高原を去った、という理由には疑問が残る。鳥取県中部に降臨したのは、他に理由があったからだと思われる。

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第十二節 大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった。 [徐福、天照大御神]

   第十二節 大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった。
1 なぜ、全国で蒜山高原の周辺の山だけをセンと読むのか、昔から疑問に思っていたのだが、道教の方士たちが蒜山高原にいたという前提にたてば、山は鉱物や薬草が取れる不老長寿には欠かせない重要なところだから仙人の住む仙という字を付けてもおかしくないと思われる。徐福は大山を蓬莱山だと思い小さな湾より蒜山高原に到着した。蒜山高原にしばらくいて周辺の山々を探索して薬草や鉱物を探したのだろう。大山では頂上から薬草を採って帰る神事が今でも行われている。
 奈良時代までは蒜山高原周辺の山を「仙」と書いてセンと読んでいた。例えば大仙であり蒜仙であり烏ヶ仙であったのではないだろうか。
2 道教の方士は不老不死の仙人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、仙人たちを信仰し仙人にいたるための実践を求めようとした。その究極の目的は不老長生である。
 古代中国ではなんとかして東海中の三神山に住むという仙人に会い、長寿の薬をもらおうとした。道教の方術は気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことから山と結びついていた。
 彼らは山に「仙」の字をあて「セン」と読んだ。大山(ダイセン)蒜山(ヒルゼン)烏ヶ山(カラスガセン)甲ヶ山(カブトガセン)矢筈ヶ山(ヤハズガセン)などの中心である蒜山高原には道教の方士のいる一族集団が住んでいた。それは、方士徐福の本隊であったと思われる。鳥取県・島根県・岡山県・兵庫県の四県あわせて50くらいの山をセンと読む。
3 蒜山高原一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
 古事記における三貴神より以前の神は96神いたと思われるが、蒜山高原の神社の祭神は24神であり約4分の1が祀られている。珍しい神が多い。蒜山高原は日本最初の首都であり、天都と言ってもおかしくない。以下のとおりである。
福田神社-川上村
 上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 大山祇命 火之迦具土神  久久能智神 志那津彦神 志那津姫神 彌都波能賣神 
長田神社---八束村
 伊邪那岐命 伊邪那美命 闇淤加美神 
加茂神社--八束村
 金山比古命 速秋津比古命 速秋津比売
茅部神社
 大綿津美命
 軻遇突命  大山祇命  神直日神  句々廼馳命   

徳山神社
 伊邪那岐命 伊邪那美命 水分神(天之水分神 國之水分神) 三柱底男(上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神) 
4.徐福は方士と呼ばれる学者であり、彼らの学ぶ方術の中には「未来を予測する学」も含まれていた。
 道教では鏡を使って明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。
 卑弥呼が習得していたのも道教の方術であったとおもわれる。

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