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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第二節 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。

1 古事記を読んだ百済出身者の史官や藤原不比等にとってみれば、非常に面白くない。藤原不比等や百済史官は卑弥呼が日女命であり、またの名を倭迹迹日百襲媛命であることは知っていた。日本書紀を作るにあたって、彼らは卑弥呼は死んだことにして、新羅国をやっつける英雄を作り上げる必要があった。それが神功皇后である。卑弥呼を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。稚日女命は陰部をついて死んだし、倭迹迹日百襲媛命も陰部をついて死んだ。死に方が全く同じである。呼び名の違う同一人物を両者とも陰部をついて死んだことにした。後者の神話をなぜ挿入する必要があったのか。後者がなければ完全に騙されるところであった。まるっきり、その場で思いついた作り話である。大物主は天忍穂耳であり時代がまったく違う。
 全国に祀られている稚日女命も卑弥呼である。全国の神社は藤原氏が掌握していたのであるから、日女命に稚を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社や賀茂神社や天満宮や春日大社は藤原氏が作ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込まれていた。

2 私見

(1)孝霊天皇と倭迹迹日百襲姫命は出雲に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と倭国大乱を戦っていた。
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
鬼.jpg
 特に鬼(鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれていた青銅器文化の一族=出雲神族であり倭国大乱の相手方)が住んでいたといわれる鬼住山の背後の大山山麓の日光村には、孝霊天皇(山田神社)と稚日女命(吉原神社)が祀られている。周辺の地名に大(王)の付く地名が8ヶ所集中しているので栃原集落に実際に孝霊天皇がいたものと思われる。その背後の吉原集落には稚日女命がいた。これは倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(ヤマト王権)の陣地の痕跡だと思われる。鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。お告げをした天津神は、栃原集落に陣取っていた孝霊天皇の背後の吉原集落にいた稚日女命と思われる。
 孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)は出雲神族(準王一族=青銅器文化の一族)と戦うために、鳥取県西部の出雲と接する2郡(西伯郡と日野郡)にいたと思われる。稚日女命は卑弥呼か台与か問われれば、稚日女命は倭国大乱を一緒に戦った孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命であるということになる。

(2) 海部氏勘注系図を見ると11世孫の妹の日女命のまたの名には小豊姫命があり、小豊姫命が魏志倭人伝にいう台与と言う説がある。小豊姫命のまたの名に稚日女命や倭姫命もある。私は稚日女命や倭姫命を卑弥呼としている。本当に小豊姫命が台与であろうか。(コ)トヨなのでトヨは別に書かれているのではないだろうか。10世孫の妹に豊鋤入姫命がいる。彼女こそ本当の「トヨ」と思われる。
 魏志倭人伝にある「男王」とは、卑弥呼が248年、崇神天皇が258年に亡くなっているので、生前譲位した崇神天皇(在位186年~220年)や垂仁天皇(在位220年~248年)ではなく景行天皇(在位248年~280年)と思われる。日本書紀では景行天皇の妹は倭姫命となっている。本来孝元天皇の妹である倭姫命を「倭姫命世紀」を造った関係で、景行天皇の妹に持ってきた。一緒に全国を巡行した倭建命(開化天皇)も同時代になるように景行天皇の皇子に持ってきた。
 本来豊鋤入姫命は垂仁天皇の妹ではなく景行天皇の妹であった。景行天皇の妹に倭姫命を持ってきたので、景行天皇の妹であった豊鋤入姫命を垂仁天皇の妹に持っていった。
 日本書紀や倭姫命世紀の順序は豊鋤入姫命(台与)→倭姫命(卑弥呼)である。しかし、魏志倭人伝では卑弥呼(倭姫命)→台与(豊鋤入姫命)の順である。日本書紀や倭姫命世紀と魏志倭人伝とでは順序が逆である。勘注系図も日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序にしてあるのは、籠神社の宮司が藤原氏に見せる時に、日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序である、と説明するためと思われる。
 藤原氏は先に豊鋤入姫命がきて、後に稚日女命や倭姫命が書いてあるので日本書紀や倭姫命世紀と順序が同じであるとして検閲を通す印を押した。しかし、11世孫の日女命は9世孫の日女命と同一神と思われる。勘注系図はここを悟られないようにして稚日女命や倭姫命を11世孫に持ってきた。11世孫にある稚日女命や倭姫命も本来は9世孫の日女命であり、亦名は倭迹迹日百襲媛命であった。
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えたものと解される。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を胡麻化すためと思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命である。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼であるとする説が有力である。稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼となる。勘注系図の稚日女命=倭姫命より、稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼=倭姫命となる。鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた倭迹迹日百襲姫命は7歳のときに、天日槍の造った丹波国に1年ほど疎開していた。ちなみに、勘注系図の6世孫と10世孫の大倭姫は同一神(台与)と思われる。

3 参考
 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 



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第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
123.jpg

 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3 鳥取県中部の空撮
軽島明宮3.jpg

 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。

軽島明宮.jpg 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

軽島明宮1.jpg軽島明宮2.jpg 


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