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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

伯耆国久米郡大神郷と大日本史について [大国主命]

 伯耆国久米郡大神郷と大日本史について


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 明治22年町村制の施行
下北条村 ← 弓原村、下神村、松神村、曲村、土下村、米里村、島村、北尾村、田井村(現・東伯郡北栄町)
中北条村 ← 江北村、国坂村(現・東伯郡北栄町)
上北条村 ← 中江村、小田村、古川沢村、下古川村、井手畑村、新田村、大塚村、穴窪村(現・倉吉市)

1 大神(みわ)山とは鳥取県北栄町の茶臼山であり、神(みわ)山とは同じく鳥取県北栄町の三輪山であった。
 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。

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 和名類聚抄(938年)に記される伯耆国久米郡内の郷に大神(みわ)郷はない。しかし神(みわ)の付く郷は10郷中3郷ある。その3郷とも大神郷の名残であったと思われる。

1八代郷 2立縫(たてぬい)郷 3山守郷 4大鴨郷 5小鴨(おがも)郷 6勝部郷 7久米郷 

8上神(かみつみわ)郷は倉吉市。
9下神(しもつみわ)郷は下北条村に重なる。
10神代(みわしろ)郷は上北条村に重なる。

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 上神集落を中心に郷があったのだから四王寺山の南まで上神郷であったはずである。上北条地区は古代神代郷であったという伝承が残っている。神(みわ)が郷名に残っている郷は久米郡10郷中3郷であるが大神郷の名残であると思われる。下神郷、上神郷、神代郷の比定地は間違っていない。古代大神郷は最低でもこれだけの地域であったと思われる。
北栄町茶臼山(大神山)のある中北条村(国坂、江北)は下神郷と神代郷に挟まれておりどちらかに属していたはずである。北条郷(上北条村、中北条村、下北条村)は古代神(みわ)のつく郷であり大神(みわ)郷であった。

2 北栄町三輪山について
 奈良県桜井市三輪にある大神神社(大和国一宮)は旧来「大神大物主神社」と呼ばれていた。 大神郷の大物主のいた神社であったから「大神大物主神社」と呼んでいた。大神郷は鳥取県北栄町にあった。大物主は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社にいた。奈良県桜井市三輪にある大神大物主神社名は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社から移されたものである。

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 三輪山(神山)の近くの中浜遺跡からは古墳時代前期後半(4世紀前半)の山陰型甑形土器が出土している。奈良の三輪山の遺跡は一番古いもので4世紀後半である。このことからも北栄町の三輪山のほうが古いことが分かる。
 北条町誌によると「三輪山は2万年前の火山灰が降り積もった地層で、標高は34mであった。土地の起伏は甚だしく険しい急な坂道のため人々が往来するのに大変な場所だった。昭和3年から開墾が始まり今はなだらかになっている。昭和45年頃から砂とりが始まった。三輪神社は宝暦3年(1753年)火災により焼失した」とある。

 大物主は天忍穂耳であり鳥取県北栄町の三輪(神)山にいた。大物主(天忍穂耳)は日向御子(ニニギ命)や大国主の子が成長してニニギ命が葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山(神山)にいて、隣の茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。カテゴリ〔天忍穂耳(大物主)〕を参照されたし。
 鳥取県北栄町茶臼山(大神山)は岩でできており標高は93mである。茶臼山(大神山)の松樹庵は大国主と少彦名と須勢理姫が本拠地としていた。松樹庵の案内板には「この庵の由来は明らかではないが境内には天明2年(1782年)に光明寺六世寂眼和尚が立てた石碑がある。また、石段上の地蔵は、寛政元年(1789年)『世出開了行者◯◯信女』の墓である」とある。カテゴリ〔大国主〕を参照されたし。

3 私見
 北条郷(上北条、中北条、下北条)は大神郷の中にあった。上北条(下古川、小田、古川沢、中江、大塚、新田、井手畑、穴窪)を神代(みわしろ)郷といい、下北条(松神、下神、曲、北尾、北条島、米里、弓原、田井、土下)を下神(しもつみわ)郷といい、「神」を「みわ」と読む名残があるため下北条も上北条も大神郷であったと思われる。中北条(国坂、江北)は神代郷か下神郷に属しており、大神(みわ)郷に含まれていた。
 北栄町茶臼山は大神郷にある山だから大神(みわ)山と言っていた。北栄町三輪山は神(みわ)山と言っていた。大神山は大山ではない。波波伎神社名が移されたように大神山神社名も北栄町の国坂神社から移されたものである。
大山(蓬莱山)は徐福(天照大神)一行が 大山の秀麗な山容を目標に辰韓から次々に東海を渡ってきたのであるから大山(蓬莱山)で国見をするのは徐福(天照大神)が一番ふさわしい。今の大神山神社には徐福(天照大神)が祀られていたはずである。南部町の赤猪岩神社の祭神は大国主と刺国若比売と素戔嗚と稲田姫であるが、大国主の母は稲田姫であり、刺国若比売は空想上の母である。大国主に対するいじめは旧八頭郡で完結しており赤猪岩の話は藤原氏によって創られたものである。赤猪岩神社にはより大事なものがあり、それを隠すためであると思われる。
 

4 大日本史と神祇志について(ウィキペディアなどによる)
(1) 大日本史は1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いた。
 まず「旧紀伝」と称されるものが完成する(1680)。天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰福 という人に、水戸からこういう書物を編修して差し上げるのは如何なものでしょうか、是非陛下にうかがって頂きたいと、光圀の意向を伝えた。霊元天皇は大変喜ばれ、是非献上せよ、とのお言葉があった。ところが、これを全面的に書き直すようにという命令が出る。そこで今まで編纂した「紀伝」は廃棄されることになり、新たに「新紀伝」の編纂が始まる(1683)。
(2) 徳川光圀の隠居(1690年)後 
元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。
元禄7年(1694年)11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。
元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。
徳川光圀の正室である近衛信尋の娘・尋子(泰姫)は結婚5年後に21才で病死している(1658年)。
(3) 光圀が史員に命じた歴史叙述の方法は、「正確に事実を究明して記述すれば、そのことの意味はおのずから明白となり、その事実を明らかにするために必要な事項は繁雑をいとわずこれを記載せよ。そのように厳正に記録された事実は「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめることになるであろう」という。
 水戸藩主八代(1797年-1829年)の時代に、大日本史の「志」・「表」という文化史的な、また各種の制度史的なことに関する歴史の編纂が進められて行くが、明治維新の時に出来上がったのは「紀伝」だけである。神祇志も含めた大日本史編纂事業が終結するのは1906年(明治39年)である。
 神祇志は神祇官や出雲大社や伊勢神宮について書いている。 神祇官は7世紀以来の律令体制下で、太政官と並ぶ中央最高官庁。朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄した。明治4年(1871)神祇省と改称。現在の神社本庁はその流れにある。

5 私見
 元禄時代に主に西日本の各地で歴史の辻褄合わせをしているが、徳川光圀が最初に編纂した「旧紀伝」を見た藤原朝廷は記紀との矛盾をなくすために各地で歴史の辻褄合わせをしている。徳川光圀は奈良時代に藤原氏が倭国を乗っ取ったことを知っていた。隠居後の八幡潰しや藤井紋太夫の刺殺がそれを示している。藤原氏は時間をかけて大日本史の改ざんをしていった。古事記・日本書紀の改ざんと同じである。序文に徳川光圀の信念を残しているのも、内容の信憑性を増すためである。古事記序文に天武天皇の編纂理由を残しているのと同じ効果を狙っている。
 元禄時代に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、スサノオが十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。茶臼山の松樹庵にいた世出開了行者◯◯信女が亡くなったのと、北栄町下神の三輪神社が火災により焼失したのがどちらも1700年代というのが気になる。


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