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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天武天皇の后・妃・嬪・宮人について [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇の后・妃・嬪・宮人について

 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分もありますが同感な部分を引用します。

1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗証できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
この「六韜」には例えば、
 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。

2 私見

(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。

(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。

(3)倭国から奈良へのルート

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 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。
 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた。

(4) 尼子娘と額田王

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 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
 伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出られた。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
  額田王は伯耆町大殿の出身である。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女と鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
 665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。

(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
 669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
 670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。

(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが 、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
 壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは思わなかった。

(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建された。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。


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「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について [百済王12代から45代までの倭国王]

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について


 藤原氏は嘘を積み重ねれば本当になるとした。偶然も積み重ねると真実が見えてくる。藤原氏は記紀だけでなくほかの文献や遺跡や神社も嘘を積み重ねていった。それは百や千どころではない。万の嘘だと思われる。記紀を世に発表するまで数百年にわたって嘘を作ってきた。
 「聖徳太子は蘇我入鹿である」(関裕二)を読んでみた。結論は賛成である。しかし、理論構成においておかしいと思われるところがある。例えば、私は架空の天皇としている「推古天皇が大々王である」としておられる。また、二朝並立論も賛成であるが、「九州王朝」と「出雲王朝」が並立していたと論じておられる。二朝とは、倭王朝(鳥取県中部)と亡命百済王朝(日本)のことである。
 出雲は準王一族の本拠地であり藤原氏が倭国を乗っ取ってからテーマパーク化したところである。出雲王朝(島根県東部)は倭王朝(鳥取県中部)ではない。九州にも吉野ヶ里を始めとして準王一族は多くいた。現政権が吉野ヶ里や八幡神社を大事にするのはそのためである。
 関裕二氏の他の本では天孫降臨の地は宮崎県であるとしておられる。ここにも高天原があるが、いたのは天孫族(徐福一族)ではなくて準王一族(鬼八)であった。阿蘇にも準王一族(鬼八)がいた。
 また、倭健命は実在したが、関裕二氏は実在しなかったとする。


1 「元興寺伽藍縁起帳」において大々王の文字が使われている。大々王とは蘇我馬子である。
 「大々王の牟久原の後宮」を二回、「大々王の後宮」を二回つかっている。
 「後宮」とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する(ウィキペディア)。「後宮」とは男王に侍る女がいるところであるから、大々王は男性である。
 「池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。・・・・。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた」とある。
 「寺をつくる場所を見定める」ように天皇に命じられたのだから、実際に「寺をつくる場所を見定めた」のも命じられた二人である。天皇の命に反して見定める者が変わったときは書かれるはずである。馬屋門皇子も聡耳皇子も聖徳太子の別名であるから同一人物である。あと一人の大々王と馬古大臣も同一人物となる。
※ 『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』を偽書ではないと擁護する説もある。それによると「馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである」とする。


2  聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である。
 縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だと言っている。
 「大々王天皇命が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。『この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子よ、すぐにことにあたってください(我子急速可仕俸)。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください』」とある。


3 「日本書紀」によると、「596年の冬十一月に、法興寺造り竟りぬ。則ち大臣(蘇我馬子)の男・善徳臣を以て寺司に 拜す」とある。
 「元興寺伽藍縁起帳」には「巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた」とある。(蘇我善徳16歳)
 先代旧事本紀には「蘇我善徳は物部鎌姫大刀自の長子である」とある。また「580年、物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰 ふ」とある。


4 蘇我善徳=蘇我入鹿
(1)蘇我馬子の長子は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)
(2)物部鎌姫大刀自の長子は蘇我善徳(先代旧事本紀)
(3)580年、物部鎌姫大刀自、蘇我馬子の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公(先代旧事本紀)
(4)蘇我入鹿は蘇我馬子の長子である(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)
  腹違いの子が何人いようと、一人の父親の長子(最初に生まれた子)・太郎(長男)は一人しかいない。蘇我馬子の長子・太郎は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)であり、蘇我入鹿(『藤氏家伝』『法王帝説』『聖徳太子伝暦』は・・太郎と記載)である。このことより、蘇我善徳=蘇我入鹿となる。


5 聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳
(1)聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子(元興寺伽藍縁起帳)
 蘇我馬子の子に聖徳太子はいないから実在した子の別名であったことは容易に察しが付く。
 蘇我馬子の子にについては蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿は孫。以外はみつからない。先代旧事本紀によると、蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、前述の(4)より、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物である。蘇我馬子の子は蘇我善徳と蘇我倉麻呂の二人となる。
(2)聖徳太子は蘇我善徳か蘇我倉麻呂か。
 元興寺縁起によると、聖徳太子は蘇我馬子の子であるが、どちらであろうか。私見では聖徳太子は蘇我善徳であると解する。
 どちらも徳の一字がある。聖武天皇の時代、聖武の「聖」と善徳の「徳」を取って聖徳太子の諱をつけたものと思われる。
(3)元興寺伽藍縁起帳において蘇我馬子と聡耳皇子の二人が主人公のように言動が書かれている。天皇と皇太子の関係であってもおかしくない。他にもいろんなところで協力しあっている。例えば、蘇我馬子と厩戸皇子は国記・天皇記の編纂、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの国家的事業を行っている。
 元興寺伽藍縁起帳には日本書紀の空想上の天皇が現れては消えるが、池辺天皇も蘇我馬子と思われるので蘇我馬子と蘇我善徳(聡耳皇子)の二人が中心になって飛鳥寺(元興寺)を造ったものと思われる。
 聡耳皇子をさしおいて巷哥有明子(蘇我馬子)の長子・善徳(16歳)を元興寺の責任者としたのはなぜ、と思われるが、聡耳皇子=蘇我善徳ならばなるほどと頷ける。
(4)胸形尼子姫(皇子の天武天皇の正后)の父は胸形徳善という。また同時代に生きた新羅の女王の諱は善徳女王という。
  このことより、聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳となる。


6 私見
 結論として、聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿となる。
 穴穂部間人皇女は架空の用明天皇の皇后であるので架空である。架空なので実在は証明できないが、物部出身であるところは同じにしている。物部鎌姫大刀自連公がモデルであると思われる。架空の用明天皇と架空の穴穂部間人皇女との間にできた厩戸皇子の名はニックネームである。本名は蘇我善徳といった。
 キリストは厩の中で生まれたが、蘇我善徳は厩の外で生まれた。急に産気付き厩の前で生まれたとしているが、倉吉市馬場町(応神天皇の時代にできた軽の坂上の厩)に産屋を建てていたものと思われる。
 日向の御子と同じように厩戸皇子は鳥取県中部のものが付けたニックネームである。本名は蘇我善徳である。聖徳太子とは蘇我善徳をモデルにした聖武天皇の時代に付けられた諱であった。


7 「隋書 東夷 倭国」について
 当時の隋にとって改ざんする理由がない。これに反する日本書紀は改ざんされている。
 倭王の名「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
 妻子「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600~700人の女がおり、太子の名は利(和)歌彌多弗利という。
 隋の倭国使らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべて倭であるという。
 「至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(華夏の人と同じ秦王国についた。夷州とさげすむことはできない)とは殷王朝末裔の準王一族(青銅器文化の一族)がいた国に至ったからである。
 608年の隋の倭国使たちは九州から陸路で倭国(鳥取県中部)まで来た。経路は周防→岩国→広島→三次→日南町→米子→湯梨浜町と思われる。倭国は日本海沿岸にあったから、ついた海岸が日本海沿岸の倭国(鳥取県中部)であった。鳥取県北栄町島にあった皇居で隋の倭国使たちは倭王に謁見した。北栄町島集落に皇居があり曲集落に後宮があった。「姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌」の倭王は島大臣と呼ばれていた蘇我馬子大王であった。王の妻「雞彌」は物部鎌姫大刀自連公であり、太子の「利(和)歌彌多弗利」は聖徳太子こと蘇我善徳(28歳)であった。
 この後蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の飛鳥寺(元興寺)まで行った。この時すでに大国維新之化として奈良に藤原京・平城京を造る計画の打ち合わせを隋の倭国使たちとしていたと思われる。


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難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった [閑話休題]

 難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった。
1 古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とある。

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 もしこの難波が大阪にあったのならば大阪で断られてまた船で但馬まで行ったということである。大阪から関門海峡まで帰って日本海に回って但馬まで行ったということである。なぜ陸路を通らなかったのであろうか。新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。卑弥呼でも失敗して引き返したことがあったようである。卑弥呼たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っているが、173年の卑弥呼の伝承である。遣新羅使ではなく、卑弥呼自ら行っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
  難波は東郷池のことであった。東郷池の長瀬高浜(タギシ)には手研耳命の頃から沖を通る船を監視していた。天之日矛は長瀬高浜にいた海峡の神に遮り止められて入れなかった。妻から連絡が入っていたものと思われる。天之日矛はそのまま海流に乗って但馬まで行った。これが無理のない解釈である。時代は記紀の記載より数代前の3代天皇の頃ではないかと思われる。

2 古事記には「仁徳天皇(大雀の命)は難波高津宮で天下を治めた」とある。
 難波高津宮は鳥取県湯梨浜町の松崎神社である。13代の武内宿禰天皇は北栄町原にいたが縄文海退により葦原中津には大陸からの船が入ってこれないようになったので、14代仁徳天皇と15代応神天皇は東郷池に移った。

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祭神の天津彦根が仁徳天皇のことかもしれない。

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この神社に来るまでの道は、道教のようにクランクになっている。

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高津である。

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 難波の枕詞は「押し照るや」である。古事記の仁徳天皇記の「押し照るや 難波の崎よ」が初出である。意味は「一面に照り輝く」である。入江の水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子、それが「押し照るや」の枕詞を生んだ。
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 松崎神社の上がり口で「水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子」を写したもの。高いところの宮からはもっと東郷池全体が見えたはずである。現在は木が邪魔をして木の間から少し見えるだけである。大伴家持も任地の鳥取から東郷池の難波宮に来て歌を作った。

3  日本書紀・神武天皇紀に「舳艫相次ぎ、まさに難波碕を目前にしたとき、急に流れが速くなり、予定より早く着いた。そこでこの地を浪速国と名付けた。波花とも言う。今、難波というのは、この呼び名がなまったものである」とある。
 古事記・神武天皇紀には「そして、その国より上り進んだ時、浪速之渡を経て、青雲之白肩津に停泊した」とある。
※私見
 日本書紀に「今」とあるが藤原氏が京都にいるときに挿入したものである。難波碕も京都にいるときに書き換えたものである。原文は浪速碕である。古事記のほうは難波を使っていない。浪速=難波ではない。

4  日本書紀・推古天皇・遣隋使において「客たちは難波津に泊った。この日飾船三十艘で客人を江口に迎えて、新しき館に入らせた」とある。
 客というのは、隋から答礼使としてやってきた裴世清である。遣隋使である小野妹子の帰国と一緒に来日した。
 蘇我馬子天皇は東郷池の江口(南谷か)に新しい迎賓館を建てていた。その後、北栄町島の蘇我馬子天皇の皇居に招かれた。曲に後宮があった。

5  日本書紀・景行天皇・日本武尊出動において「さて海路倭に向かわれ、吉備に行き穴海を渡った。そこに悪ぶる神がいたのでこれも殺した。また難波に至るころに、柏渡りの船着場付近にいた悪ぶる神も殺した。ヤマトタケルは倭に戻り天皇に『帰路には吉備の穴海と難波の柏の渡りにいた悪ぶる神たちも殺して、水陸の道を開きました』と奏上した」とある。
 難波は大阪であると思わせるために 吉備の穴海を挿入した。原古事記では吉備の穴海は別のところに記載されていた。隣町の北栄町大島の宮崎神社の由緒にはヤマトタケルが御艦に乗って征西から帰ってきて神助を謝せられたという記述がある。このときの天皇は8代孝元天皇であり、小田におられた。当時、東郷池
は柏葉の形をしており入口付近にも悪ぶる神がいたようである。8代孝元天皇は若くして悪ぶる神の犠牲になっている。

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 2010年頃からいなくなったのでコブハクチョウの写真は借用しました。向うは望湖楼と千年亭。

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 子育て中の東郷池のコブハクチョウ。2010年まではいたのだが、トライアスロンか地熱発電が原因でいなくなった。最近この広い東郷池で水鳥をほとんど見なくなった。今までこんなことはなかった。地熱発電で水面下より音がするのだろうか。


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「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである [閑話休題]

 「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである。

 「一切経」「大正新脩大蔵経」「義楚六帖」「唐大和上東征傳」の中に「倭国在、東海中」とある。この意味するところは何であろうか。
 現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとんどである。

1 「東海」とは日本海のことである。
 韓国、中国を好き嫌いは別にして、韓国は日本海のことを「東海」と呼んでいるし、「『東海』の呼称は『三国史記』東明王本紀(紀元前50年頃)に初めて登場し、広開土大王陵碑、八道総図、我国総図をはじめ、韓国の数多くの文献、古地図などに記録されている。また、東海は『日本海』呼称の根源といえる日本という国号の登場よりも700年も先に使われていた」とする。

※ 私見
 日本という国号は669年に天智が考案し、702年に中国に示した。したがって、奈良時代以前は 日本海とは言わなかった。奈良時代以前は韓国が主張するように、日本海は「東海」といっていた。したがって、 「倭国在、東海中」とは「倭国在、日本海中」と読める。

2 海中とは海の対岸のことである。
 日本書紀に「事代主は国を譲って波の上に幾重もの青柴垣をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた」とある。また、準王も「海中」にありと書かれている。事代主は対岸の倉吉市福庭の地に引越しして生きていた(波波伎神社由緒より)。また殷王朝末裔の準王一族は馬韓から対岸の列島に渡り、のちの藤原氏の基礎を築いた。
 したがって、海中という表現は「海の対岸」という意味である。「倭国在、東海中」とは倭国は日本海の沿岸にある、ということである。

3 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。
 「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海中にある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある。
 「大正新脩大蔵経」には倭国は「烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声」とある。
 「隋書倭国伝」に、「百濟をわたり、・・・又竹斯(筑紫)國に至る。又東に秦王(周防か)國に至る。其の人華夏(中華)に同じ、以て夷洲と為すも、疑ふらくも明らかにすること能はず。又十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東、皆(倭)に附庸す。」とある。

※ 私見 「義楚六帖」は954 年 に僧の義楚によって書かれたもので、倭国も日本も同じ国として書かれているが、倭国は日本海沿岸にある小さな国であった「一切経」。徐福一行は倭国(鳥取県中部)に止まった。
 隋書倭国伝の「又十餘國を經て、海岸に達す」とは海岸が倭国であるということである。秦王国は周防だとすると周防から十餘國を経た海岸は日本海沿岸である。当時の国の幅が20~30kmとすると周防から三百数十kmであると思われる。倭国は鳥取県中部になる。

4 南岳慧思は東海中の倭国の王家に倭州天皇(聖徳太子)として生まれ変わった。
 「大唐七代記」は、南岳慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったことになる。
 また 「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」とある。南岳禅師は倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であるとしている。倭州天皇とは聖徳太子のことである。

※ 私見 

  聖徳太子は天皇ではないし577年までに生まれているから、この書は間違いである、とする方がいる。聖徳太子は580年生まれの倭州天皇であることを「大唐七代記」の筆者は知っていて「大唐七代記」を著わした。矛盾していることが判っていたら最初から著わさない。
 日本の文献はすべて正しく中国の文献は間違っているという立場に立つと間違いということになるが、中国の文献には嘘を記す動機がない。日本の文献に虚偽が書いてあると考えたほうが正解である。倭国を乗っ取った藤原氏によって倭国の歴史書は書き換えられている。

 

 


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神功皇后の民間伝承は卑弥呼の伝承であった [百済王12代から45代までの倭国王]

 神功皇后の民間伝承は卑弥呼の伝承であった。

 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県に3千ヵ所もあった」とする。

1 神功皇后実在説の根拠
(1)民衆 名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。
(2)大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。
(3)地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。
(4)広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州の広い範囲で相互に連絡を取り合って神功皇后伝承を創作することは不可能である。

2 壱岐と対馬の伝承
壱岐に13ヶ所  
「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など
対馬に15ヶ所
「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 

※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。 

3 神功皇后非実在説の根拠
 「日本書紀」によると、神功皇后は3世紀の古墳時代にいた人物、となっている。しかし、3世紀というのは日本では弥生時代である。まだ百済国はできていない。また、神功皇后の、行動について、あまりにも、超人的な行動や、神がかり的な行動がたくさんある。たとえば、三韓征伐のときに、懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国してから出産(産み月を延ばした)し、15ヶ月も妊娠していたという話しや、遠征のときに、魚の助けによって船を進めたか、勢い余って波とともに、新羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏したとか、という話しなどである。まるで、おとぎ話の世界にいるような話しがたくさん残っている。また、伝承でもあとで作られたことを示す史料もある。

4 私見
 倭王朝と亡命百済王朝とは660年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が列島を乗っ取るのであるが、それ以前から倭国を乗っ取る準備を始めていた。
 崇神天皇や卑弥呼や倭健によって造られた全国の神社ネットワークを乗っ取り、自分たちの神社ネットワークも新たに造っていった。それが八幡神宮である。
 宇佐八幡宮の元宮八幡といわれている香春岳や英彦山は銅が採れ「鬼」ノ城や「鬼」杉の名があることから準王一族がいたものと思われる。藤原氏は準王一族のいたところを聖地にしているから、宇佐八幡宮にいた比売命も準王一族であったものと思われる。                
 原古事記の卑弥呼の段には、藤原氏にとって好ましくないことが書いてあった。それは全国の準王一族を平定していった旧辞であった。準王一族は藤原氏の先祖になるため卑弥呼の段を書き換えなければならなかった。新たな創作も混じえて神功皇后の段を創作した。卑弥呼の民間伝承も隠さなければならなかった。消せる伝承は消していったが、卑弥呼(稚日女・倭姫)の伝承は広範囲に渡り、消すことは困難であった。そのために八幡神社を造っていった。神社に住民を集めて、伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。そして八幡神社の祭神を神功皇后とした。他の祭神も万世一系にするため倭国の天皇を使わなければならなかった。八幡神社は全国に4万社余りあるという。
 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積天皇に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は特別に原古事記に記載されていた卑弥呼(稚日女・倭姫)の段を神功皇后の段に書き換えた。藤原氏は倭国を乗っ取ったことを隠すために天皇家は万世一系であるとしなければならなかった。卑弥呼に同行していた倭健には応神天皇の本当の父親の13代の武内宿禰天皇を持ってきた。13代には成務天皇を挿入した。14代には15代応神天皇の父親として仲哀天皇を持ってきた。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。応神天皇の在位は354年~394年である。百済は高句麗の手先であり(363年卓淳国で倭国への道を聞いている)その後裏切るが、このときは猫をかぶっていた。七支刀は369年に百済が初めて倭国に朝貢した際に献上された。13年後の382年には高句麗は新羅を乗っ取っている(三国遺事)。
 したがって、13代の武内宿禰天皇とその6男の15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。
 


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第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった。

1 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王
)であった(生年月日が同じであるとするため)。14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡っている(382年)ので、応神天皇は6男の葛城長江襲津彦である。誉田別は伯耆国の神社では八幡神社ではなく単独で祀られている神社が多い。390社中75社で祀られている。
 (昭和9年鳥取県神社誌による) 落合神社 西伯郡法勝寺村大字落合 祭神 大鷦鷯命。藤森神社 日野郡黒坂村大字黒坂 祭神 大鷦命。吉原神社 日野郡日光村大字吉原 祭神 美佐々伎命。山口神社 日野郡日光村大字杼原 祭神 美佐々伎命。大瀧神社 日野郡日光村大字大瀧 祭神 美佐々伎命。
 鷦鷯=佐々木という説があり美佐々伎命は大鷦鷯尊であり武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)である。仁徳天皇は伯耆国では5社に祀られている。皇居は難波(東郷池)高津宮である。候補地は3か所ある。

2 蘇我稲目大臣(王)の磯城島金刺宮は湯梨浜町龍島にあり、崇神天皇の水垣宮は湯梨浜町長和田集落にあり、応神天皇のもう一つの難波大隅宮は湯梨浜町長江にあった。

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 東郷池に島はないため磯城島金刺宮の比定地は見つからないと思っていたが、水面が1m高いと龍島が島になるのでここに蘇我稲目大臣(王)の磯城島金刺宮があったと思われる。以前は龍頭と表示されていた。
 崇神天皇の皇居は原古事記の表記は「水垣宮」であったと思われる。瑞籬宮は同じ読みの別の漢字を持ってきた改ざん表記である。崇神天皇の水垣宮は水辺に近い長和田集落である。

 奈良の宮跡

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「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出しました。そして彼に託して三輪山に大物主神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。また、東海や、北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたところから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています」とある。
 古事記には「師木の水垣宮」とあるので水に近いところにあったはずである。皇居は鳥取県湯梨浜町長和田にあり、二ノ宮は岡山県津山市中山神社にあった。奈良の宮は三ノ宮か四ノ宮である。

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 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、長江に宮を置いていた。この当時、東郷池のことを難波と言っており、長江は東郷池の水辺にあった。長江は宮を置いていたところであり、葛城は生まれたところである。以前は長江で生まれたとしていたが、生まれたのは葛城であった。したがって、13代武内宿禰大臣(王)の皇居は葛城にあったことになる。私見では葛城山(蜘ヶ家山)の西の原集落であると思われる。
 難波大隅宮は東郷池周辺の長江だから、湯梨浜町長江である。

3 13代武内宿禰大臣(王)の皇居は北栄町原の元野神社である。

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 蘇我馬子大臣(王)が「葛城県は元、私の本貫(その県にちなんで蘇我葛城氏の名もある)である」といったのは武内宿禰大臣(王)の皇居が葛城にあったからである。武内宿禰大臣(王)は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。比定地としては他に海竜王神社や荒神神社があるが、元野神社が一番崇められているので元野神社に武内宿禰大臣(王)の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。
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元野神社。
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで生まれた。

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 すぐ下には原集落がある。 IMG_0172-3.jpg
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
祭神 素戔嗚尊
由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社を部落の氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。

4 私見
 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。
 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。

 

 


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鳥取県湯梨浜町「引地」は本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地である [百済王12代から45代までの倭国王]

 鳥取県湯梨浜町「引地」は本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地である。

1 難波の堀江とはどこか

 日本書紀・欽明天皇・仏教公伝において「天皇はいわれた。『それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう』と。・・・。小懇田の家に安置し、寧ごろに仏堂を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。物部大連尾興・中臣連鎌子は共に奏して、・・・仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです、といった。・・・。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた」とある。

善光寺縁起によると「信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、『善光、善光』と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現したので、善光はそれを持ち帰った。それが現在善光寺で祀られている秘仏本尊の一光三尊阿弥陀如来像である」とする。

 通説は「難波の堀江」を、向原寺(豊浦寺)の一角にある「難波池」と称される小さな池であるとしたり、大阪の和光寺あたりであるとしている。

2 私見

 鳥取県湯梨浜町の「引地」とは 本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地だから付けられた地名である。この地名について藤原氏は「中将姫の遺跡を奈良の当麻寺から分移して引き移したので引地という」とする。こじ付けのようで苦しい説明である。ここに中将姫伝説を広め仏像が引き上げられたことを消そうとした。これは孝霊天皇がいた湯梨浜町宮内に下照姫の伝承を広め、天皇のいた打吹山に天女伝説を広め、崇神天皇のいた津山の中山神社に猿伝説を広めた藤原氏の手法である。引地の地名を中将姫の伝説に絡めて分からなくする手法である。

 日本書紀の「難波」は東郷池に比定できる。14代仁徳天皇の「難波」高津宮と15代応神天皇の「難波」大隅宮も東郷池周辺であると思われる。東郷池は入り組んだ地形のため難しい波が入ってきていた。波延(ハエ)も東郷池の波の状態を表わすものである。もともと東郷池を「難波」と呼んでいた。藤原氏は難波の地名を大阪に移して東郷池では使わせないようにした。

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 紀元前200年頃は今より海抜が4m高かった。紀元600年頃は今よりまだ少なくとも1mは高かったはずである。海抜が1m高い東郷池の地形である。引地の九品山大伝寺の前まで水面が来ている。現在の中国庭園の燕趙園は建物の高さで水面下にはなっていないが、塗りつぶして水面下にした。龍島あたりは島であり、中国からの渡来人がいたものと思われる。

 藤原氏は「引地」の地名を巧みに隠そうとしているが、仏像を「引き上げた地」と解するほうがよほど自然である。 

3 奈良の当麻寺

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 山門

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 国宝の本堂

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 中将姫の像 電線が多すぎる。

4 湯梨浜町引地の九品山大伝寺

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 中将姫の像

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 本堂の中 阿弥陀二十五菩薩立像がある。
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 奈良の中将姫よりふくよかである。


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奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった [百済王12代から45代までの倭国王]

 奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった。

1 桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のヤマト王権は西は九州から東は岩手県まで平定したが準王一族の生贄を伴う祭祀を徐福がもたらした道教に改宗させた。卑弥呼は巡行の先々で神社を創っていった。しかしそのときだけで改宗できるはずがない。ヤマト王権は時に触れて全国の代表者を集めて道教の祭祀をしなければならなかった。その場所が奈良であった。卑弥呼(倭姫)のいた志摩国でもいいのだが、殺される危険性があった。
 桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)は奈良県田原本町の法楽寺に前線基地を設けて唐古・鍵集落を攻撃し平定した。崇神天皇が大田田根子を探してきて全国の代表者を集めて神浅茅原で祭祀を行ったのは、鳥取県北栄町下神の三輪山周辺である。しかし、東国の代表者が鳥取県中部に来るのは大変であることがわかり、全国の代表者を集めての祭祀は、奈良の纒向で行うことにした。奈良全体の環濠を埋めさせたのは190年ごろだから、桃太郎(倭健・吉備武彦)がなくなって後、崇神天皇になってからである。崇神天皇から数代は奈良の纒向にも宮があったはずである。しかし、皇居は鳥取県中部であり、奈良の宮は四ノ宮か五ノ宮であった。二ノ宮は大陸からの使節や新羅からの使いを迎えるため、シキ(東郷池周辺)に置いていた。三ノ宮は瀬戸内の奥の美作である。四ノ宮は大阪か奈良である。

2 孝霊神社

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 奈良県田原本町の庵戸神社(もと法楽寺)は孝霊天皇の皇居跡ではなく、孝霊天皇の一族(卑弥呼と桃太郎)のヤマト王権が唐古・鍵集落を平定するときの前線基地であった。このとき孝霊天皇自身は広島県府中市の南宮神社におられた。孝霊天皇の皇居は府中市より北の鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
 奈良県法楽寺の伝承には「聖徳太子が飛鳥より法隆寺へ通う途中の屏風の地にて休息された時、南方に紫雲の棚引くのを訝られ、調べさせたところ、七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀を見つけられ、ここを捨て於いては申し訳が立たないと、この祭祀を守るべく、立派な寺を建てられた」とある。「小さな祭祀」とは小さな祠のことである。「七代孝霊天皇の一族」とは桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のことである。「ここを捨て於いては申し訳が立たない」と思われたのは孝霊天皇一族が聖徳太子(二十九代天皇)の直系の先祖であったからである。その後、法楽寺は衰退の一途をたどった。これは三重県志摩市磯部町の千田寺と同じである。
 (千田寺案内板より)「聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである」とある。倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は同郷(鳥取県中部)である。

3 私見
 法楽寺から唐古・鍵遺跡まで東に2.23kmである。前線基地を置いて攻撃するには良い距離である。七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀(祠)は桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)の倭王権が唐古・鍵遺跡を攻撃するための前線基地としていた場所である。聖徳太子(第二十九代蘇我入鹿天皇)は桃太郎(倭健・吉備武彦)や卑弥呼(倭姫)と同郷(鳥取県中部)なので二人の功績を称えてそこに法楽寺を建てた。
 上宮聖徳法王帝説は聖徳太子ゆかりの7寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺(尼寺)を上げる。
 このうち実際に太子が創建に関わったと考えられるのは法隆寺で、その他畿内で太子が創建に関わったのは法楽寺と千田寺と飛鳥寺くらいである。藤原氏は千田寺に勅使門を造り衰退に追い込んだ。聖徳太子ゆかりの7寺には藤原氏に都合のよい寺も含ませている。

4 蘇我氏が仏教を我が国の宗教とするまでは、徐福が持ち込んだ道教が倭国の宗教であった。現在の神道にも道教と共通する部分が残っている。蘇我稲目天皇の時代の仏教は中国で道教と儒教が濃く混ざった挌義仏教であった。それまでは道教だけであったので、道教以外の宗教が混ざった格義仏教に天皇家は魅力を感じていた。物部氏は石上神宮の武器を守り、国の存続のためには武力を軽視してはいけない、と忠告した。蘇我氏はそれを押し切って仏教を導入した。私見では蘇我氏と物部氏の争いは、外部で見ていた藤原氏がのちに大げさに書き立てただけであって、戦争というようなものではなかった。蘇我稲目天皇の皇居のある打吹山の向かいの山を向山という。その麓の三明寺集落を向原といっていた。蘇我稲目はここに仏像を置いた。現在は山名寺がある。難波の池とは東郷池のことであった。東郷池の畔の九品山大伝寺では中将姫を祀っている。中将姫を祀っている寺は他に奈良の当麻寺と信州善光寺だけである。東郷池と信州善光寺は関係がありそうである。

 ちなみに、物部氏の集落に比定している倉吉市大原の倉〇さんは倉吉市弓削に親戚があり、法事で弓削集落に行かれた。

5 15代応神天皇(葛城長江襲都彦)の時に高句麗と百済は新羅を侵略した。20代の雄略天皇に至るまで倭国は朝鮮半島を平定することに注力した。その頃の朝鮮半島からの難民や渡来人は河内や奈良に住まわせた。15代から20代までの天皇の宮が奈良にあったかどうかは疑問である。全国の代表者を奈良に集めて祭祀をしているような暇はなかったはずである。倭国は5世紀始めには高句麗を今の北朝鮮と中国の国境まで追い込んでいった。そして、20代雄略天皇まで安東(朝鮮半島を安んじる)将軍の肩書を中国に求めた。朝鮮半島を平定してからは高句麗も百済も倭国に人質を送り、朝貢してくるようになった。新羅王も殺されていたので最初のうちは新羅からも人質を取った。百済国のあった場所で前方後円墳がみつかるのは、このときの戦で亡くなった倭国の将軍たちを百済(馬韓)の地に葬ったからである。

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 朝鮮半島情勢が落ち着き、挌義仏教が入ってくるようになると倭国(鳥取県中部)は再び奈良で祭祀することを始めた。蘇我氏は奈良の飛鳥に仏教寺院を建立した。蘇我馬子を嶋大臣といい蘇我入鹿を等由良大臣といった。馬子は飛鳥の嶋に宮を置き、入鹿は飛鳥の等由良に宮をおいた。馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。
 二人とも馬に深く関係するが倉吉市馬場町(日本書紀・応神記・軽の坂上の厩に付合)に厩があった。倉吉市馬場町は馬子の皇居(北栄町島)の南、物部氏の集落(大原)の北西になる。入鹿の産屋が馬場町にあってもおかしくない。厩戸皇子は倉吉市馬場町で生まれ父の皇居はすぐ北の北栄町島集落にあり母の実家は南東の倉吉市大原にあった。厩戸皇子とは聖徳太子のことであり、蘇我入鹿のことであった。のちに29代天皇となり、皇居は鳥取県北栄町由良宿に置いた。
 由良宿の丘陵地では大量の土器や石器が出てきていたことを確認している。ただし、大栄町やそれ以前の由良町は北条町とは異なり遺跡に関してはあまり関心が無かったようで、工事を止めて遺跡を発掘することをしていない。「由良」とは由良川の上流の亀谷にいた木花咲耶姫が付けたという伝承があるから、蘇我入鹿の時代でも「由良」といっていたはずである。ここに蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の皇居である由良宮があった。

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 由良の丘陵地

6 天武天皇は蘇我入鹿の子である。
 「大海人皇子は飛鳥に着くと嶋宮に入っている。また壬申の乱の戦いに勝利し、飛鳥に凱旋したときも嶋宮に入っている。嶋宮は飛鳥における大海人皇子の居宅であったことがわかるが、この嶋宮は元は蘇我馬子の旧宅であったといわれている。大海人皇子は馬子の嫡流であったからこそ嶋宮を自らの居宅としていたと考えられる」とする説がある。私も天武天皇は蘇我入鹿の子であると解する。大海人皇子は649年(18歳)にはすでに倭国天皇に即位していた。皇居は倉吉市賀茂神社にあった。亡命百済王朝を平定するために奈良に行幸された。壬申の乱は初めから計画されていた。父の蘇我入鹿と蘇我倉山田石川麻呂を殺害したのは鎌足であることが判り、669年に鎌足を殺害し、670年に斑鳩寺を放火全焼させた天智を671年に近江で殺害したが、天武天皇は亡命百済王朝の危険性に気付いたからである。



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葛城は奈良県御所市ではなく鳥取県中部にあった [神武天皇と欠史八代]

 葛城は奈良県御所市ではなく鳥取県中部にあった。

1 初代天皇から8代天皇までの皇居は鳥取県中部にあった。
日本書紀・神武天皇・宮殿造営には「神武天皇は令を下していわれた。・・・見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである」とある。


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 初代神武天皇の皇居は奈良の橿原神宮あるいは柏原である、とするが、国を大和国(奈良盆地)であるとするとどちらも国の奥深く安住に適した地にはならない。また橿原神宮は畝傍山の南南東にはなるが畝傍山の中であり、創建が明治時代である。柏原は畝傍山の南南西になる。
 鳥取県倉吉市大宮は倭国(鳥取県中部)の奥深く安住に適した地になり畝傍山(四王寺山)の南南東になる。神武天皇はここで即位されたのであり、辰韓で鉄の武器を造っていた稲飯命も東郷池に到着し即位式には出席していた(清谷の上里神社の由緒より)。辰韓から倭国(鳥取県中部)までの海は相当荒れていた。
 欠史8代の宮の比定地については欠史8代のカテゴリーをご覧ください。
 私も奈良の初代天皇から10代の崇神天皇の宮の比定地を見てきたが、多くは石碑があるだけであり、葛城、軽、磯城に付合していないものもあった。鳥取県中部の葛城、軽、磯城の地域区分は間違っていないものと思われる。「軽の坂上の厩」の位置に現在は馬場町があった。軽の境岡(小田山)には4代天皇の宮があり、軽の境原(小田)には8代天皇の宮があった。磯城は東郷池周辺に比定したが7代天皇の庵戸宮は湯梨浜町宮内であった。2代は曲の岡神社に宮があった。5代は葛城の掖上であるので葛城山の西の脇上の穴沢に比定している。掖上の岡から見れば灘手の尾根が重なって見えるので秋津がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。奈良に島はふさわしくないから州という字をあてた。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。奈良の片塩の地名は藤原氏がつけたものである。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。決してそこに昔から地名があったわけではない。
 神武天皇から8代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族は準王一族であった。鴨族は水稲農耕をしていた呉から来た一族である。奈良の葛城という地名も藤原氏が付けたものである。
 初代天皇は初めて西日本を平定していったのであり、10代天皇は初めて東日本も平定していった。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、三輪王朝なるものも作り話である。

2 卑弥呼(倭姫 149年~248年)と吉備武彦(倭健 155年~185年)は全国を平定したのだが奈良も平定した。のちに吉備武彦(倭健)は開化天皇になるが若くして亡くなった。吉備津彦(倭健の兄)が次の崇神天皇に即位した。崇神天皇は準王一族たちが造った奈良盆地の多くの環濠集落の環濠を埋めさせた。190年ごろである。姉の倭姫と弟の倭健の活躍によって全国の準王一族を平定したのだが、崇神天皇がハツクニシラススメラミコトといわれてもおかしくない。

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 橿原考古学研究所付属博物館展示の鶏型木製品はコブハクチョウである。纒向石塚古墳は埋葬施設はないが倭健の3つの古墳の一つである。

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 東郷池の養生館横にいたコブハクチョウ。倭健は東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれた。東郷池周辺に倭健の古墳がある。

 あと一つは実際になくなったところにある。第9代開化天皇は倭健であり邪馬台国(志摩国)の北の尾張国にいた。開化天皇は一大率であったので宮跡も陵のある地名も率川とした。奈良市率川の地名も宮跡も陵も藤原氏の造りものである。

3 土蜘蛛は準王一族の鉱石の採掘を担当していたものである。銅の鉱石を採掘し銅剣や銅鐸などを作った。少人数でいち早く全国に展開していた。藤原氏が奈良に葛城と名付けた所にもいた。神武天皇もここで争ったものと思われるが、平定することができなかった。葛城族(準王一族)は鴨族(呉からの渡来人)と鴨都波遺跡あたりで環濠を作り水稲農耕をしていたが、卑弥呼(倭姫)と吉備武彦(倭健)の倭王権に平定され環濠を埋めさせられた。

4 高天彦神社で祀っている葛城族とはヤマト王権と敵対していた準王一族であり、高鴨神社周辺にいたのは呉からの渡来人である。のちに鴨都波神社周辺に降りて水稲農耕をしていた。

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高天集落。その向こう一帯を高天原である、とする。準王一族の高天原である。

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蒜山。天孫族(徐福一行)の高天原。

5 葛城長江襲津彦は15代応神天皇であり湯梨浜町長江に皇居(難波大隅宮)があった。長江がなぜ長柄や名柄になるのか。これも苦しい説明である。葛城長江襲津彦は高句麗や百済に悩まされていた。奈良の葛城と後に名付けられた所などにいるわけがない。下照姫を祀る長柄神社もあるが、下照姫は鳥取県中部の湯梨浜町宮内で生涯出産の手助けをしていたのであり、奈良の長柄にいたことはない。

6 一言主は事代主の替え玉である。事代主は神社明細帳の波波伎神社の由緒で神のクシフルネより180人とともに倉吉市福庭に引越しをしたと記載されており、引越し以前はその間にある蜘ヶ家山を歩き回っておられたはずである。原古事記には雄略天皇が葛城山で出会った神は事代主であると書いてあった。事代主ならば雄略天皇がひれ伏してもおかしくない。一言主のモデルも準王一族である。準王一族は土佐も拠点としていたので、土佐に行かされたという話もなるほどである。波波伎神社の神社明細帳は百済語の「クシフルタケ」ではなく新羅語の「クシフルネ」としているため亡命百済人の藤原氏が倭国を乗っ取る以前からあった文書であると思われる。極秘文書として藤原氏に提出しなかったため、あきらめて記紀を書換え、奈良に一言主神社なるものを作った。
 阿遅鋤高日子根命、下照比売命、天稚彦命、御歳神、高照姫、事代主を鴨族としているが、彼らも事代主に従った180人のうちのメンバーであり奈良の葛城に来たという文献はない。

7 藤原氏は奈良時代に30万人くらいいたことになるが、663年(白村江の戦い)に一度に渡ってくることは不可能である。734年以降藤原氏が倭国を乗っ取ってから同じ馬韓(百済)から渡ってきていた準王一族に藤(百済)の一字を付けさせたのではないだろうか。藤原鎌足は馬韓(百済)の地に残っていた準王一族の子孫かもしれない。初代天皇から10代天皇までは準王一族を平定していった旧辞が多く書いてあったものと思われる。藤原氏となった準王一族は自分たちの祖先が平定されていく旧辞を消していったものと思われる。準王一族は東北や出雲に多くいた。
 奈良の葛城の地にいたのは準王一族であり葛城の地名は734年以降に藤原氏がつけた。奈良県御所市にあるのは「葛城」というテーマパークである。本当の「葛城」は鳥取県中部にあった。

8 おまけ

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 吉野山を開いた役小角の生誕地は奈良の葛城ではなく、三徳山(開山は役小角)のある鳥取県中部の葛城(蜘ヶ家山より西)である。


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