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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である [百済王12代から45代までの倭国王]

 日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である。
 日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけて道小野といった」とある。

1 奈良県桜井市の初瀬山について
 雄略天皇の歌った泊瀬山は奈良では桜井市長谷寺の裏にある初瀬山であるとする。
奈良県桜井市の初瀬山(はせやまと言ったりはつせやまと言ったりいい加減である)。


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 ある方は「真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う」とされる。

また「 泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
 桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山であった。

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 「泊瀬の山は体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい」とする山は倉吉市の打吹山である。遠くに見えるのは蒜山(高天原)でありその向こうは吉備国である。藤原氏は湯梨浜町羽衣石にあった羽衣伝説をこちらに持ってきて「打吹山」と名付けた。天皇がいたことを隠すためである。倉吉も石上神宮(倉)にあった武器が良(吉)かったので倉吉と名付けた。

2 長谷寺について(ウィキペディアによる)

(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。

3 私見
 奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と言う。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺である。創建時は「はせでら」といっていたはずである。藤原氏は桜井市のこの一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。

 泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
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桜井市岩坂である。

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白山神社である。

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 白山神社にある案内板「が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない」とある。 

 私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせをしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
 初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
 また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」口神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
 これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。









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神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]

 神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった。

1 日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

2 私見
 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
 この島は磐余邑にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子天皇は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子は島大臣と呼ばれていた。池上に同棺複数埋葬の島古墳群がある。
 神武天皇は二人に天香久山の土を下させた。それが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていたようである。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇の見えるところに鵜飼いはいた。奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。

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 饒速日の子孫は蒜山(高天原)から小鴨川→天神川→伊那佐山に降りてきて神武天皇を助けた。のちに倉吉市大原集落に居住し石上神宮(大原神社)を守り物部氏と名乗った。

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 島から伊那佐山を望む。紀元前60年頃は伊那佐山の西辺まで汽水域になっていた。島の住民は汽水域で鵜飼いをしていた。

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 「魚を食いすぎるので鵜の駆除をします。〇時から〇時までこの土手は通行止めにします」倉吉市職員。それ以来、天神川の鵜が少なくなった。
 写真は、島の近くの天神川河口で2016年4月25日に写した鵜。
 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?


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 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった [神武天皇と欠史八代]

 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった。
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1 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の谷田神社である、としていたが、谷田神社の痕跡が見つからない。鳥取県神社誌(昭和9年発行)には載っているので、合併(明治時代)までは存在していたはずである。山の周りを廻っても見つからないので、八幡神社の宮司に聞いたところ「 清熊稲荷神社の登り口の5~6軒家があるあたりではないか」という。しかし、祠も何もない。ひょっとしたら、宇迦之御魂命は稲荷神だから現在の清熊稲荷神社ではないのだろうか、と思い上がってみることにした。

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この丘陵地の一等地にあった。八幡神社よりもずっと古いのだから一等地にあっておかしくない。

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鳥居はこの冬に倒れた。神社庁の管理する神社ではないので修理する予算もないのだろう。

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だいぶ上がったがまだまだである。右が泊瀬の山(打吹山)である。

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右から上がってきてまだ左に上がっていかなくてはならない。石段も掃除されてなく、落ち葉で見えないくらいである。


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宇迦之御魂命(須勢理姫)は稲荷神だから狐である。

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かなりの荒廃ぶりである。

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家が何軒でも建てられるような広さがあった。蛇もムカデも出そうなところである。

2 第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮(古事記では葛城高岡宮)は奈良ではなく、鳥取県北栄町曲の岡神社であった。

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奈良県御所市葛城古道にある第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮の石碑である。

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ここのテーマパークの名前は藤原氏が占領してから「葛城」と名付けられた。じつは「高岡」が本当であったが「高丘」に直している。 千の嘘のうちのほんの一つである。

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葛城古道に石碑があるだけである。

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左の農道は近年になって作られたものである。それまでは家々の人に見られながら、この坂道を上がらなければ、岡神社に行くことはできなかった。

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この細い坂を上がっていく。


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左右の家が葛城高岡宮の守りをしていた。

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両サイドの家々に見られながら、まだ左にうねうねと上がっていく。

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こんなところに神社があるとは気づかないようなところである。

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神社の右下に先ほど通ってきた集落がみえる。

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岡神社とある。

3 私見

第2代綏靖天皇の時代はまだ準王一族と抗争していたときであり、神武天皇四兄弟のいた大谷集落や神武天皇の皇居があった大宮集落と同じく、外敵からの守りを厳重にする必要があった。


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蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である [百済王12代から45代までの倭国王]

蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である。 

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1 蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあった。島の皇居の後ろには後宮があってもおかしくない曲集落の地域がある。
 元興寺伽藍縁起では等由良宮(豊浦宮)の字が3回使われている。豊浦宮の元の字は等由良宮である。旧事本紀によると「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦(等由良)大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とある。
 蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、蘇我馬子は島大臣と呼ばれ、蘇我入鹿は等由良大臣と呼ばれていた。どちらも皇居のある地名である。蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり、蘇我入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。現在は北条島と由良宿になっているが、以前は島であり由良であった。奈良にあった等由良宮は四ノ宮か五ノ宮であろう。泊瀬は倉吉市中心市街地であり、蘇我稲目の皇居・泊瀬柴籬宮は打吹山の大江神社であった。
 随書には、600年高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた様子が描かれている。「倭王の名前は阿毎、字は多利思比孤。」比孤だから彦。男性です。「後宮に女、600~700人あり」とある。
  阿毎多利思比孤(アマノタリシヒコ)は蘇我馬子である。蘇我善徳(聖徳太子)はこのとき20歳であり、元興寺(飛鳥寺)の寺司になって4年しか経っていなかったが、翌601年に斑鳩宮の建造に着手した。608年、隋の倭国使たちを迎えるために蘇我馬子天皇とともに鳥取県北栄町島の皇居に帰っていた。北栄町島の皇居で隋の倭国使たちを迎えてから、蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の元興寺(飛鳥寺)まで行った。


2 先代旧事本紀は日本書紀の焼き直し、あるいはそれ以上の偽書(欠史8代を爬虫類のように表現している)に思えるが、日本書紀と異なる記述や日本書紀にない記述があるので参考になるときがある。
 例えば蘇我入鹿についての記述「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とあるが、日本書紀では入鹿の父は蝦夷であるとする。蝦夷は馬子や入鹿や稲目などに比べて、影が薄い。日本書紀の蝦夷の記述は矛盾が多いので、蝦夷は架空の人物である。蘇我氏3代とは稲目、馬子、入鹿であった。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であり入鹿の次の天皇は大臣とされている蘇我倉山田石川麻呂であった。

3 日本書紀・推古記「四年冬十一月(596年)法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聰二人の僧が法興寺に住した」とある。
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蘇我馬子の造った飛鳥寺(元興寺)

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 聖徳太子16歳の像と言われている。なぜ飛鳥寺に聖徳太子の像があるのか、聖徳太子は法隆寺ではないのか、と不思議に思ったが 「寺司に任じられた善徳が聖徳太子である」という前提にたてばなるほどと納得できる。
 また、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物である(どちらも蘇我馬子の長男となるため)。

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入鹿の首塚

4 日本書紀によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は601年、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手、605年に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。日本書紀には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものである(ウィキペディアより)。
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法隆寺五重塔

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法隆寺夢殿
 おそらく法隆寺西院を再建したのは天武天皇であり、そのときに現在の伽藍配置になった。鳥取県琴浦町の斉尾廃寺も伽藍配置が現在の法隆寺西院と同じであり7世紀後半(白鳳時代)の創建であるので、天武天皇が創建したものと思われる。
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藤ノ木古墳
法隆寺再建前の斑鳩寺は藤ノ木古墳と同時に造られたという説がある。



おまけ

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法隆寺再建前の斑鳩寺は等由良大臣の蘇我入鹿(聖徳太子)が建造した。



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天穂日は素戔嗚と稲田姫の御殿を守るため鳥取県の旧八頭郡にいた。 [素戔嗚命]

天穂日は素戔嗚と稲田姫の御殿を守るため鳥取県の旧八頭郡にいた。

1 天穂日を祀る旧八頭郡の神社(合併前の神社も含む)

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※日下部上神社 八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー倉稲魂命、保食神)

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※隼神社 八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本(祭神25神)

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 ※土師神社  八頭郡賀茂村大字稲荷字川向(祭神 天穂日)

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※大江神社 八頭郡大伊村大字橋本字馬場(祭神62神)

 河下の北側だけを見張っていればよい。地理的には周囲が八重垣の要害の地である。 北側には船岡町がある。因幡国二の宮である。素戔嗚と稲田姫が始めに住んだ御殿である。北側で天穂日が見張りをしていた。大国主はここで生まれた。

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※湯谷神社 八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー瀬織津姫神、保食神)

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※都波奈彌神社  八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内(同村字宮の上 岡神社、祭神8神)

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※都波只知上神社  八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷(同村字宮の前 石坪神社、祭神19神)

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※ 田岡神社  八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市

 素戔嗚が神大市比売と結婚してから稲田姫とその両親と幼い大国主はこちらに移った。警護をしていた天穂日も湯谷神社、都波奈彌神社、都波只知上神社に移っていたと思われるからである。

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※向山神社  八頭郡智頭町大字市瀬字上御手屋敷(千賊山の板井原集落内)

 千賊山の板井原を八上売沼神社に向かって降りていくと途中に「和多里世箭子の水」という説明板がある。そこには「千賊(洗足)山に住んでいた鬼が、日中人目を忍びワサビ谷を下り、この水を飲んで馬乗橋下の オウ穴で水浴し、八上姫に会いに行ったと言い伝えられている」とある。

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 ※八上売沼 神社 八上姫神 八頭郡八上村大字曳田字上土居

 「この曳田郷をひらいたのは漂着した外地の船人たちである」とする。

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※私見
(1) 千代川を挟んで東側と西側に分けることができるが、これは素戔嗚がいた時(大江神社)と素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去っていなくなった時(田岡神社)とに分けられると思われる。
 大江神社には大国主、天穂日、素戔嗚、稲田姫がいたと思われる。大国主の生誕地は大江神社と思われる。それを隠すために全国一祭神を多くしたものと思われる。
 大江神社を守るために日下部上神社と隼神社に天穂日がいたものと思われる。

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 田岡神社には素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去ってから大国主と稲田姫は移っていたものと思われる。
 田岡神社を守るために湯谷神社と都波奈彌神社と都波只知上神社に天穂日はいたものと思われる。

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 都波奈彌神社と都波只知上神社と隼神社と大江神社は祭神が多すぎるが、天穂日を目立たなくするために祭神を多くしたものと思われる。
(2) 土師神社と向山神社にも天穂日が祀られているが、土師神社は川のすぐそばにあり簡単に浸水しそうなところである。大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が警護をしていたとは思われない。土師神社には準王一族(出雲神族)がいたものと思われる。

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 向山神社は千賊山のまだ奥の高いところにある。千賊山には八上姫と会った鬼の伝承があり、鬼といわれていた準王一族(出雲神族)がいたものと思われる。千賊山の奥の板井原にも準王一族(出雲神族)はいたものと思われる。この神社も大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が警護をしていたとは思われない。

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 土師神社は賀茂神社に、向山神社は諏訪神社に合併された。賀茂神社も諏訪神社も準王一族(出雲神族)を崇拝していた藤原氏の神社ネットワークとして造られたものである。準王(千家系図2代の建比良鳥に比定)一族(出雲神族)は初代天穂日を祀っていたから、土師神社と向山神社に天穂日を祀っていたのは準王一族(出雲神族)であったと思われる。土師神社(天穂日)と向山神社(天穂日)にいたのは天穂日ではなく準王一族(出雲神族)と思われる。

2 那岐神社 八頭郡那岐村大字大春字宮の本(祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命ほか17神)

 伊邪那岐命は黄泉国が嫌になっていたから、高天原、泊瀬の海原、夜の食国は三貴神に任せて八頭郡の那岐山に移った。

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3 素戔嗚は泊瀬の海原を治めるつもりでいたが三朝町山田で八岐大蛇を殺してから殺害現場の近くにいることができず、伊邪那岐命が移った近く(旧八頭郡)に稲田姫と御殿を建てた。素戔嗚と稲田姫は大江神社と田岡神社に来ていたから、天穂日は素戔嗚を守るために旧八頭郡に来ていた。

 大国主命は大江神社で生まれた。紀元前208年頃と思われる。鬼が千賊山に来たとき(早くとも紀元前194年)には大国主は14歳になっていた。八上姫をめぐる大国主のライバルは準王一族(のちに鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる)であった。素戔嗚は大国主がまだ幼い頃に大国主と別れている。根国での冒険は父親が息子に対して強くなるための躾けであった。

 

4 大山祇も伊邪那岐と一緒に那岐山周辺に来ていた。

大屋神社  那岐村大字大屋字一ノ谷奥(祭神 素戔嗚、宇迦之御魂命、大山祇命)

宇迦之御魂命(須勢理姫)と父と祖父は最初はここにいたものと思われる。

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大屋という地名は岡山県、兵庫県にもあるが大屋比古のいた木国は智頭町かもしれない。

 

5 おまけ

那岐駅

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 那岐神社の真向かいにある高貴山極楽寺

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高貴山極楽寺(開創646年)は乙巳の変(645年)の藤原氏と関係がありそうである。 

 

 

 

 

 

 

 


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