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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

宇迦之御魂命(スセリヒメ)を祀る鳥取県の神社38社(合併前の神社も含む) [素戔嗚命]

 宇迦之御魂命(スセリヒメ)を祀る鳥取県の神社38社(合併前の神社も含む)

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1 因幡国(鳥取県東部)22社(合併前の神社も含む)

小羽尾神社 岩美郡東村小羽尾
多居乃上神社(須勢理姫) 岩美郡宇部村
大平神社 岩美郡津ノ井村

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虫井神社(以下の2社を合併) 八頭郡山形村大呂
芦津神社 八頭郡山形村芦津河原
八河神社 八頭郡山形村八河谷字宮ノ下

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岩神神社 八頭郡富沢村岩神

三輪神社 八頭郡智頭町南方

向田神社 八頭郡土師村穂見

祓谷神社(以下の2社を合併) 八頭郡土師村三田祓谷
井上神社 八頭郡土師村三田湯谷
小谷神社 八頭郡土師村山根荒神谷口井手ノ上

土師神社(以下の3社を合併) 八頭郡土師村埴師宮山
北谷神社 八頭郡土師村埴師香伝地
木原神社 八頭郡土師村木原宮郡家
勝手神社 八頭郡土師村横田本谷

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河野神社(以下の4社を合併) 八頭郡土師村三吉檜谷口
広嶺神社 八頭郡土師村三吉山田
宮国神社 八頭郡土師村三吉十日市意図

檜神社 八頭郡土師村三吉大坪
聖神社 八頭郡土師村慶所宮ノ尾

大屋神社 八頭郡那岐村大屋一ノ谷

2 伯耆国(鳥取県中部)12社

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谷田神社(八幡神社) 倉吉市余戸谷町四十二丸

勝宿禰神社 倉吉市下田中
神庭神社 倉吉市円谷
東山神社 倉吉市米田町
村上神社 倉吉市巌城村ノ上
田内神社 倉吉市巌城宮ノ前
小田神社 倉吉市小田宮ノ谷
船内神社 倉吉市下古川
 

古布庄神社 琴浦町古布庄
下見神社 琴浦町三本杉
諏訪神社 琴浦町八橋
大父神社 琴浦町以西大父

3 伯耆国(鳥取県西部)4社
唐王神社(須勢理姫) 西伯郡所子村唐王
貴布禰神社 西伯郡車尾村車尾
上代神社(須勢理姫) 日野郡石見村上代
板井原神社(須勢理姫)日野郡根雨板井原

※私見

 唐王神社は須勢理姫 が亡くなったところであるとする。これをもって鳥取県西伯郡所子村も出雲国に含まれていたのではないかとする説があるが鳥取県西部は出雲国ではない。大国主は鳥取県中部で亡くなっている。鳥取県西部4社のうち3社の祭神を須勢理姫としているところに藤原氏の何らかの意図が見て取れる。大国主の活動本拠地は鳥取県西部より西であり鳥取県中部は何もないよ、としたかったのである。そうなら、なぜ藤原朝廷は鳥取県中部に伯耆国府を造ったの、ということである。

4 私見

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(1)鳥取県神社誌昭和9年刊に記載されているスセリヒメ(宇迦御魂命)を祭神とする神社は、合併前も含めると38社である。そのうち智頭町が18社であり、ほぼ半数となる。大山祇と神大市姫は岡山県真庭市社にいたのではないかと思われる。その後大山祇と神大市姫は伊邪那岐と一緒に鳥取県智頭町に来ていた。智頭町には大屋がある。大屋毘古は智頭町大屋にいた。木国は紀国でも紀伊国(和歌山県)でもない鳥取県智頭町であった。スサノオは櫛名田比賣との間に大国主が出来てから鳥取県智頭町(木国)の大山祇と神大市姫のもとに行っていた。スサノオと神大市姫との間に大歳神とスセリヒメが生まれた。伊邪那岐が亡くなってスサノオとスセリヒメは最初の約束通り蒜山経由で根国(鳥取県倉吉市)の清熊稲荷神社に降りてきた。大国主は中山神がくるまで中山神社(御真木)にいたが、その後スサノオを追って根国(鳥取県倉吉市)の清熊稲荷神社に降りた。

(2) 倉吉市の八幡神社について

八幡神社 祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 素戔嗚尊 宇迦御魂命 武内宿禰命

鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸 現在地 倉吉市八幡町3626-3

由緒 大正2年 谷田神社 祭神 素戔嗚命 宇迦御魂命 倉吉町余戸谷町四十二丸を合併する。

 谷田神社は清熊稲荷神社と神社名を変えている。 


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古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている [素戔嗚命]

 古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている。

1 古事記・「八雲立つの条」
 「素戔嗚命は・・・宮殿を建てるべき土地を、出雲の国の中に探し求めた。訪ね歩いて、須賀という土地に至った時に、私の心はすがすがしいと感慨を洩らした・・・須賀と言う」とある。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作 その八重垣を」と歌を詠んだ。足名椎命を宮殿の首長となした。
 次に素戔嗚命の系譜が書かれ「その後、素戔嗚命は、かねての望み通り母の国を訪ねて根堅洲国へと赴いた」とある。

2 素戔嗚命の系譜
 素戔嗚と神大市姫(大山祇の娘)との間に出来た子が、大年神と宇迦之御魂神である、とする。素戔嗚と櫛名田比賣との間に出来た子である八島士奴美神について「八島士奴美神が刺国大神の娘、名は刺国若比売を妻として、生ませた御子は、大国主神」とする。
 古事記・「根国での冒険の条」において「スセリヒメは大国主を助け大国主はスセリヒメを背負って黄泉比良坂まで逃げた」とある。「八雲立つの条」の素戔嗚命の系譜には娘のスセリヒメが書かれていないし、スセリヒメの母親が誰かわからない。スセリヒメは「根国での冒険の条」に詳しく書かれているので実在した姫である。スセリヒメは宇迦能山(北栄町の茶臼山=イナサ山)で大国主と一緒に暮らした。鳥取県神社誌にも多く出てくる宇迦之御魂神(東山神社の祭神)とは宇迦能山(北栄町の茶臼山=イナサ山)に大国主と一緒に住んでいたスセリヒメのことではないのだろうか。宇迦之御魂神=スセリヒメであると思われる。倉吉市米田町の東山神社にスサノオと一緒に住んでいた。藤原氏は手の込んだ改ざんをするものである。
 「八雲立つの条」の系譜が正しいとすると、大国主はスサノオの孫となるが、先代旧事本紀では、スサノオと稲田姫との間に生まれた八島士奴美神は大国主神、大己貴命であるとする。それが事実ならば、大国主とスセリヒメは異母兄妹ということになる。八橋の地名由来では「スサノオの孫の高姫」とある。血のつながった孫という意味にとれる。先代旧事本記は正しいかもしれない。
 「八雲立つの条」に書かれているスサノオの系譜は改ざんされている。「八雲立つの条」と「根国での冒険の条」のどちらを信じるかであるが、「根国での冒険の条」を信じるべきである。「八雲立つの条」は藤原氏が準王一族のいた島根県東部を聖地にすべく出雲に素戔嗚の伝承を創設していったので、それに合わせるために改ざんした条である。原古事記に記載のあった「根堅洲国へと赴くまでの宮殿」を出雲の須賀にあったことにした。宮殿を造った土地は出雲の須賀だとする記述はのちの藤原氏による改ざんである。では原古事記に書いてあったはずのスサノオが宮殿を造った土地は何処だろうか。私は三朝町山田集落や坂本集落の東南の田岡神社か大江神社あたりではないかと推察する。

3 祭神が足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣である神社は鳥取県神社誌831社中、田岡神社と境港市の余子神社と八頭町の大江神社の3社である。紀元前200年頃は今より4m海面が高く境港市余子のあたりは海であったので余子に素戔嗚の宮殿は造ることはできない。大江の大は王であり素戔嗚と思われる。祭神が61神あるのは素戔嗚の御殿があったことを隠すためである。地形的には田岡神社と同じ緯度の東にある。

4 大江神社

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 大江神社の祭神は多いが、王と呼べるのは素戔嗚がふさわしいかもしれない。
 大江神社や田岡神社の南には岡山県奈義町があり那岐山があり鳥取県那岐村があった。イザナギの本拠地があったと思われる。素戔嗚命が根堅洲国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社や東山神社(祭神は須佐之男命と宇迦之御魂神)に行く前に宮殿を造った土地は周辺が山に囲まれた大江神社あるいは田岡神社ではないかと思われる。天照大御神も右上の霊石山に白兎に導かれて登っ
たという伝承がある。

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5 田岡神社(昭和9年刊鳥取県神社誌)
鎮座地 鳥取県八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市
祭神 足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣
 由緒には「山城国より勧請せり」とあるが、藤原氏は全国神社ネットワーク(現在の公民館機能)を使い、鳥取県の神社の多くに「~より勧請せり」と書かせている。

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昭和9年では立派な社殿があった。

 



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神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった。

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1  鳥取県神社誌(昭和9年)より
上里神社 村社 東伯郡

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東に向いている。

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高いところにある。
鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下
現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番
祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命

由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。

2 私見
 「神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際」・・・「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ」とある。「東夷」とは東にいる蝦夷のことである。蝦夷とは鬼・猿・土蜘蛛などと呼ばれていた青銅器文化の一族であり、殷王朝末裔の準王一族のことである。紀元前194年に馬韓より列島に渡り早い段階で全国に展開していた。
 古事記には「神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。」とあり日本書紀には「塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」とあるが、これらは藤原氏によって改ざんされている。神武天皇は鳥取県倉吉市四王寺山(日向)より殷王朝末裔の準王一族(東夷)の平定に旅立たれ、山陽から帰ってこられてからこの地でも準王一族(東夷)を平定された。兄磯城や長髄彦とは鳥取県中部に帰ってから戦った。鹿児島県大崎町の永吉天神段遺跡から出土した弥生時代中期中葉の鉄鏃5点は神武天皇の皇軍が放ったものである。弥生時代中期中葉の同型の鉄鏃は福岡県太宰府市の吉ケ浦遺跡と佐賀県鳥栖市の安永田遺跡でも見つかっている。
 「稲飯命」は神武天皇の兄である。ニニギ命が稲飯命に神かかったのは紀元前60年~紀元前57年頃である。稲飯命は東夷の平定が終わった連絡を受けて辰韓より鳥取県中部に帰って来ていた。人力の船でも1日あまりで帰ってこれる。神武天皇が初代天皇として倉吉市大宮で即位する前である。稲飯命は神武天皇の即位を見届けてから、辰韓に帰って新羅を建国された。半島には準王一族の残党もいたから、辰韓の6村の信頼を得るのには時間がかかった。鳥取県中部の神武天皇を助けるためにも、神武天皇即位の3年後(紀元前57年)に信頼も得て新羅を建国した。
 四王寺山の大谷集落の外敵から守る構造や、倉吉市大宮の外敵から守る構造は、準王一族(東夷)に対する防御のためであった。私見では神武天皇の生年は紀元前112年頃であったから東夷の危険はすでに存在していた。神武天皇の東征の目的は全国に展開していた東夷(殷王朝末裔の準王一族)を平定することであった。吉備国や安芸国に長く居たのは鳥取県中部を準王一族に占領されており帰ることができなかったし、吉備国や安芸国の住民に高地性集落を造らせたのではないかと思われる。初代神武天皇から10代の崇神天皇が全国を統一するまで天皇家は東夷と対立していた。「福は内、鬼は外」の起源である。


 


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徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった [徐福、天照大御神]

 徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった。

1 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。
 昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
 王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。

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 辰韓より出航すると、東に流れる対馬海流と南に流れるリマン海流によって、出雲から伯耆に流れるように到着する。

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 徐福一行はまだ地続きでなかった島根半島と本土との間を通ってきた。大山は中海から見ると秀麗な山容となる。少女一行の多くは米子に到着した。徐福の本隊は鳥取県北栄町の小さな湾(葦原中津国)に到着した。徐福一行が2回目(紀元前210年)に来たときは仙人(イザナギ命)は小さな湾(葦原中津国)に降りてきていたようである。仙人(イザナギ命)は徐福に私に替わって蒜山(高天原)を治めよといい徐福のNO2(素戔嗚)には私に代わって泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を治めよ、と言った。その時に徐福のNO2(素戔嗚)は「母の国」と言って泣いた。徐福は蒜山(三神山)に上がって王(天照大御神)となった。
 伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいことが実証される。

2 郭沫若、王輯五のいう「徐福一行は出雲に移住し殷人の一種の銅器である銅鐸民族になった」とするのは正しいか。
 伯耆国は出雲の東にあり辰韓を出航すれば出雲を通り過ぎて伯耆国に到着する。出雲国に移住するのなら伯耆国まで来なくてもよい。伯耆国に来れば引き返さなければならない。
 徐福は不老不死の仙薬を得る為に東海の三神仙に行くことが目的であった。始皇帝も徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。三神仙とは蒜山三座のことである。徐福は伯耆国の小さな湾(北栄町の葦原中津国)に到着しそこで待っていた仙人(イザナギ命)に会って蒜山三座(高天原)を治めるように言われた。徐福は蒜山に上がり、周辺の山々(山をセンと名付けた)で仙薬を探した。そして始皇帝の言ったように「三神山(蒜山)に止まって始皇帝に替わって王(天照大御神)となった」。徐福は蒜山(高天原)で王(天照大御神)となり降臨をして平原(伊勢野・斎王野・鈴鹿野・方見村)と広沢(葦原中津国)を得た。
 出雲族は徐福集団ではなく殷王朝末裔の準王一族である。徐福集団(紀元前210年)の16年後(紀元前194年)に出雲の地に到着していた。

3 スサノオが泣いていたのは葦原中津国であった。

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 宮下文書に「宇記島原(浮島と原)に上陸し」とある。倭健命も北栄町大島のことを「こは浮島にや」(宮崎神社由緒)といった。葦原中津国には原集落(北栄町原)もある。倭健命と孝元天皇は大島で二尊(イザナギ・イザナミ)を祀っている。
 イザナギ命は大島で徐福を待っていた。
 徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいたイザナギ命に再会した。

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 天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国のほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。
 あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
 天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
 東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
 福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。

4 古事記において
 イザナギ命が三貴神に「~は私に代わって~を治めよ」と指示した場所は三貴神が到着した葦原中津国である。
 スサノオは泣いたが、イザナギ命は「この国に住んではならぬ」と命令した。この国とは葦原中津国である。
 スサノオは先に高天原(蒜山)に上がっていた天照大御神に暇乞いをしに上がって行った。泊瀬の海原に降りて周辺を調べているうちに三朝町山田で八俣の大蛇を見つけ退治した。
「このイザナギ命はのちの近江である淡海の多賀に鎮座している」の文はのちの挿入であり、史実ではない。私見では伊弉諾命は黄泉国を嫌い鳥取県八頭郡那岐村に移っていた。南には那岐山、岡山県奈義町がある。スサノオはヤマタノオロチを退治してから、鳥取県八頭郡にいた伊弉諾を頼って同じく鳥取県八頭郡に御殿を建て稲田姫と住んだ。イザナギが亡くなってから伊弉諾に治めよと言われていた根国(泊瀬の海原)に帰った。2番目の妻との間に生まれたスセリ姫と智頭町に降りていたが中山神社(御真木)→真庭市社(木国)→蒜山(高天原)→倉吉市余戸谷町(根国の谷田神社)のルートで根国に降りてきていた。谷田神社が「
根国での冒険」の舞台であり、1人になった素戔嗚は東山神社に移り、十握の剣を大原神社(石上神宮)に奉納した。スセリヒメは東山神社と宇迦能山(北栄町茶臼山)との間を行ったり来たりしていたようである。宇迦之御魂命を祀っている神社の並び方を見るとこういう結論になる。


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