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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である [徐福、天照大御神]

 熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。

1 熊野三山の縁起(ウィキペディア)
 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(扶桑略記)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記)とするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは806年の史料中にある記述で、766年付で「速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入した」とあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑に一緒に祀られていたと見られる。
 9世紀中ごろになると、単に熊野坐神とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起・長寛勘文」所収)。
(私見)
 正史において神名が確認できるのは、速玉神と熊野牟須美神が766年、家津美御子(熊野坐神)が9世紀である。それ以前に熊野三山なるものはなく、熊野三山は伊勢神宮や出雲大社と同じく奈良時代後半になって藤原氏の列島における百済再興のあかしとして造られたテーマパークである。いくら、平安時代に歴代天皇が熊野詣でをしようが、所詮はUSJやディズニーランドと同じくテーマパークである。魂のない仏である。速玉男神と熊野牟須美神が熊野にいたのは短期間であり、船を造って伯耆国へ行った。

2 家津美御子神(別名 熊野坐神・素盞鳴神)
 家津美御子神は神倉神社に降臨した熊野権現である。
「昔、唐の天台山の王子信が日本の英彦山に天降った。その姿は高さ3尺6寸の『八角なる水晶の石』という。次に伊予国の石鎚峯、次に淡路国の遊鶴羽山、次に紀伊国の切部山付近にある松の木のもとに移った。それから熊野新宮の南の神蔵峯(神倉神社)に降臨した。その後、今度は新宮の東の阿須賀社の北、石淵谷に移る。ここではじめて『結玉家津美御子』という名を表わした。それから、神は『本宮大湯原』(明治22年まで本宮大社が鎮座していた大斎原)の、3本のイチイの木に3枚の月形となって天降った」とある(1163年の長寛勘文に引用の熊野権現御垂迹縁起より)。
(私見)
 熊野三山のなかで一番の主祭神とされている家津美御子は素戔嗚命ではない。熊野本宮大社の主祭神である家津美御子神は神武天皇と戦った兄磯城と同じ青銅器文化の一族である。早い時代に全国に展開していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。家津美御子神のいた神倉神社から銅鐸が見つかっている。兄磯城のいた米里からも銅鐸が見つかっている。どちらも神武天皇に敵対する一族である。また、家津美御子神は青銅器文化の一族の拠点であった淡路島にもいたこともあるので、ヤマト王権に敵対する青銅器文化の一族であった。
 時代は唐ではなく漢の時代である。紀元前194年に列島に渡ってきた殷王朝の末裔準王の一族である。卑弥呼たちヤマト王権は熊野も巡行したが、家津美御子一族は石淵谷や熊野川の奥の本宮大湯原に逃げていたので平定できなかった。
 
3 私見
 神倉神社から銅鐸が見つかっている。家津美御子は淡路島にもいたが、淡路島は銅鐸が多くみつかり、青銅器文化の一族の拠点である。神倉神社にいた神は熊野権現と呼ばれ、徐福の7人の残り4人が仕えたという。仕えなければ殺されたから仕方なく仕えた。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は船を造って国に帰ったとするが、国に帰ったのではなく、海路吉備国に到着し陸路伯耆国に至って徐福に再会した。この7人は紀元前219年に熊野に漂着した7人である。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は伯耆国に行ったが残った4人は20数年後に熊野権現(家津美御子)が現れ熊野権現に仕えた。熊野本宮大社の熊野12所権現のなかで主斎神とされる家津美御子だけが異質である。

4 (参考)鳥取県神社誌に見る、一時熊野にいて徐福に再会するために伯耆国に来た3人(船を造って伯耆国に来た)を祀る神社(3人とも伯耆国に多い)
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社
※熊野櫲樟日命(速玉男命の妻 別名 熊野夫須美神:熊野牟須美神) 因幡3社 伯耆8社 計11社 都波奈彌神社、諏訪神社(智頭町)、天穂日命神社、大原神社、松崎神社、日御碕神社(陰田)、逢坂八幡神宮、天萬神社、野上荘神社、厳島神社(日野村)、安井神社
※事解男命 因幡7社 伯耆15社 計22社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社


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藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった [百済王12代から45代までの倭国王]

 藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった。

1 藤原四兄弟と舎人・新田部は奈良にいた長屋親王を死に追いやってから、倭の都(鳥取県中部)にいた穂積天皇の次の天皇(大君)を死に追いやっている(734年)。倭の都(鳥取県中部)と新羅とは、山幸彦が辰韓に行き(紀元前150年頃)、神武天皇が倭の都(鳥取県中部)で即位し(紀元前60年)、兄の稲飯命が新羅国を建国された(紀元前57年)頃から800年ほど兄弟国として交流してきた。倭の天皇(大君)が殺されて、新羅が黙っているわけがない。
 

2 通説は、藤原四兄弟が亡くなったのは続日本紀から推測して死亡原因は疫病である、とする。737年の疫病について書かれている古文書は続日本紀以外には見つからない。続日本紀は藤原氏が作成した歴史書である。日本書紀と同じように虚偽が多くある。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったとなれば芋づる式に別に倭の天皇がいたことが判って万世一系ではなくなってしまう。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったことは隠さなければならなかった。新羅は事の真相を確認するために735年に使者を奈良に派遣した。新羅は、亡命百済朝廷が702年の遣唐使で唐にたいして国号を「日本」に変えたと宣言したことを知っていたので、亡命百済朝廷の反応を見るため、国号を「王城国」に改称したと告知した。新羅の刺客は同じ年に舎人・新田部を殺害した。737年にも刺客を送って藤原四兄弟を殺害した。亡命百済朝廷は京都に遷都後も新羅の海賊から守るために、日本海側5か所に四王寺を造った(9世紀)。

3 聖武が逃げ回ったのも、疫病からではなく、新羅の刺客からである。時の天皇が疫病のために4回も遷都するなどは考えられない。倭は全国を統一支配しており、倭の拠点は全国に多くあった。倭の天皇ならば全国の拠点からもたらされる情報に即座に対応しなくてはならないのだから、そうそう遷都はできない。このことからも、聖武は亡命してきた百済王族の王であったことがわかる。百済のように簡単に遷都する。しかし、聖武の在位中に列島の王は1人になったので、天皇をつけてもよいかもしれないが、姓は天(アマ)ではない。阿毎(アマ)の姓を名乗る天皇は、鳥取県中部(倭の都)にいた天皇であり、穂積天皇の次の天皇で途絶えた(734年)。

4 藤原氏は741年ころより、伯耆国に新たに国庁をつくり、法華寺畑の処刑場も造って伯耆国(主に鳥取県中部)の粛清を始めた。大友皇子は飛鳥を倭京(日本書記・天武天皇・近江朝廷の対応)と呼んで百済王族の近江朝廷とは区別していた。亡命百済人の藤原氏は奈良で倭に助けてもらった恩を忘れて、奈良を倭京(倭が造った京)と言い、いつまた新羅の標的にされるかも判らないので、84年で奈良を捨てて京都に遷都した。京都に遷都して(794年)からも藤原道長が「望月の欠けることなし」と言った頃(1018年頃)まで、鳥取県中部(倭の都)の粛清は続いた。京都では新羅の都・慶州に負けじと千年以上我慢して遷都しなかった。その間も中国・朝鮮に怯えていたので、鎖国政策をとり続けた。藤原氏は「鳥取県中部はど田舎であり、何もない」と言い、京都人にも言うように仕向けた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると「鳥取県中部はど田舎であり、何もない」と、他府県から来た者なら言わない言葉を必要以上に言う。


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穂積天皇の次の天皇(在位715年~)は鳥取県中部(倭国の都)にいた [百済王12代から45代までの倭国王]

 穂積天皇の次の天皇(在位715年~)は鳥取県中部(倭国の都)にいた

1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられる(716年~721年)。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となる。筑前守に任ぜられ任国に下向した(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。
※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。
(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在した
かどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国の実在した天皇ではない。

2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭健命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭健命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国天皇家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が大陸に行くために一時留まるところでもあった。
 長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。

3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。

4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済王族の鎌足や天智は蘇我入鹿を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等の毒殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の天皇家は長寿の家系だから、四人の天皇の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積天皇の次の天皇は鳥取県中部(倭の都)に居させた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭の都)にいた倭国の天皇のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭の都)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭の都)から奈良(倭が造った京)に帰って、東宮・首皇子の教育係もやっており聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や疫病(?)から逃げ回っていた聖武ではなく鳥取県中部(倭の都)にいた倭国の天皇のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭健命を擁する倭の皇軍によって、北は岩手県から南は天草の牛深まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって統一支配されていた。山上憶良は亡命百済人であるが、鳥取県中部(倭の都)に5年いたので親倭派になっていた。聖武の即位も知っていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。


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天照大御神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた [徐福、天照大御神]

天照大御神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた

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天の真名井の近くには、妻木晩田遺跡、上淀廃寺、稲吉角田遺跡、宗形神社がある。

稲吉角田遺跡は弥生時代中期(紀元前100年~紀元前50年)であり、天孫族は大陸に行くルートの中継地として淀江町を重視していた。私見では神武天皇四兄弟の時代である。神武天皇四兄弟は淀江町を通って北九州に行かれた。妻木晩田遺跡が出来たのは紀元元年頃であり、住民は下に降りて淀江町を作った、と地元の歴史家はいう。上淀廃寺は奈良時代ではなく天武期である。

三女神は米子市の胸形(古事記)にいた。詳しくは「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし。

1 鳥取県淀江町の天の真名井

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湧水量は1日2500トンに及ぶ。

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きれいな清水である。

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柵を作る前は左下の石段を下りて水を使っていた。天照大御神と素戔嗚命もここでうけいをした。

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「この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、『天の真名井』と呼んでいます。『天の真名井』とは、『古事記』『日本書紀』において、高天原の『神聖な井戸』を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。高井谷の氏神である下津守神社の古棟札にも、『天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布(あめのまないのきよくいさぎよき もとつみずをくだしたまふ)』と古くから記されております。・・・この『天の真名井』泉川の下流の宇田川平野には、弥生時代の角田遺跡があり、すでに二千年もの昔から、人々の生活と耕作の水源として大切にされてきたことを物語っております。・・・」とある。

2 「天の真名井」の横にある「毘沙門堂」

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「毘沙門天は七福神の一つで、財宝や福徳の神様として信仰されています。一月三日の早朝にお参りすると福徳が授かるといわれています。元々は高井谷村内の山腹、毘沙門平にありましたが大正十五年に現在地に移されました。毘沙門天のほか、薬師如来、弘法大師も祀られています」とある。

 薬師如来は徐福(天照大御神)と関係が深いと言われる。

3 サイノカミも祀られている。

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サイノカミ(猿田彦と天鈿女)

「高井谷には、元治元年(1864年)作の神像と、小型の持ち回り用の神像があります。小型のものは良縁を願って、婚期の近づいた跡取りのいる家に持っていき、めでたく婚礼が終わると次の家に持ち運んでいくという風習があります」とある。

淀江町にはサイノカミ(猿田彦と天鈿女)が多く祀られている。

4 うけいで生まれた八神を祀る伯耆国の神社
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大原神社 倉吉市大原
松崎神社 東伯郡湯梨浜町松崎
日御碕神社 米子市陰田町(祭神 うけいの八神)
松河原神社 西伯郡大山町松河原(祭神 うけいの八神)
日御碕神社 西伯郡南部町三崎(祭神 うけいの八神)
野上荘神社 西伯郡伯耆町福吉(祭神 うけいの八神)
宮﨏神社 日野郡根雨町下榎(祭神 うけいの八神)
安原神社 日野郡根雨町安原(祭神 うけいの八神)

5 私見
 宮﨏神社と安原神社は速玉男命と一緒に熊野から吉備に上陸して伯耆国の奥に到着していた速玉男命を祀る福岡神社が近くにあるため熊野久須毘命が見つかったところであると解する。
 野上荘神社は近くに長男の饒速日命を祀った江尾神社があるので天忍穂耳命が見つかったところであると解する。
 南部町の日御碕神社は周りに天穂日命を祀る神社が多いため天穂日命が見つかったところであると解する。
 陰田町の日御碕神社は三女神がいた胸形神社に近いため胸形三女神が見つかったところであると解する。
 松崎神社は津(東郷池)の畔にあるので天津日子根命、活津日子根命が見つかったところであると解する。
 後は藤原氏の都合で祀られた神社と思われる。



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神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた [日向三代と神武天皇四兄弟]

神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた。

1 宮崎県高千穂町の四皇子峰

「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。 

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周囲には何もない。遺跡もない。

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四皇子峰は周辺に守るものが何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。

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四皇子峰

「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(ニニギ尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという」とある。

2 鳥取県倉吉市の四王寺山(畝傍山)

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 鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。

 四王寺山の下の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと上がれないようになっている。この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。

 四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入る者は集落の数件の家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四皇子を守り育てるならこの構造がベストである。

3 鳥取県倉吉市の四王寺山の南には、伯耆国府跡 国庁跡・法華寺畑遺跡・不入岡遺跡・伯耆国分寺跡など8世紀に主要な建築物が建てられていた。鳥取県西部の米子市周辺には、孝霊天皇の足跡が多く残っているにもかかわらず、鳥取県中部は伯耆国の中心として位置ずけられていた。それだけ大事なものがあったのである。この鳥取県倉吉市の四王寺山は新羅の海賊から守るために四王寺を建てた(9世紀)だけの山ではない。

 筑前国の四王寺山は神武天皇たちがしばらくおられ、天児屋根・武みか槌命・事代主を祭っておられたという伝承が残っている。鳥取県倉吉市の四王寺山から葦原中津国を見ると事代主は亀谷におられたし天児屋根命は穂波におられた。神武天皇たちにとっては事代主も天児屋根も身近な神様であった。

4 鳥取県倉吉市の四王寺山のすぐ北には葦原中津国がある。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであった。神武天皇たちは日向から出発されたという。この地は日当たりの良い地であるとニニギ命がいい、ニニギ命は日向の御子というあだ名まで付けられている。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであり、神武天皇の四兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山から北九州に向けて出発された。

 藤原不比等は鳥取県倉吉市の四王寺山に神武天皇の四兄弟がいたことを山上憶良から聞いて知っていた。地名・伝承を宮崎県高千穂町に移し鳥取県倉吉市の四王寺山の伝承は二百年かけてきれいに消した。人的にも物的にもである。


おまけ

宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝

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 高千穂町にはほかにも天真名井がある。

 伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。


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