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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち26天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している [百済王12代から45代までの倭国王]

1  倭国第25代安閑天皇の勾金橋宮は鳥取県三朝町大瀬にあった。道も川も曲がっているし、前の川には橋が架かっていた。大瀬の大は王である。橋を渡って国道179号で美作国・吉備国に行くことができる。第10代天皇・第11代天皇が美作国に宮を置いてから、それ以降の天皇は国道179号を利用しておられた。倭国第25代安閑天皇は国道179号近くの津山よりに皇居を造られた。また、大陸からの使いを迎えるために東郷池にも宮を置いておられたようである。


2  「大」は「王」を直したものと思われる。

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 昔は土手ではなくて、山沿いの旧道を通っていた。


3  初代から30代までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外する)

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 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町南谷。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。    第十三代武内宿禰天皇 鳥取県北栄町原。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 遠飛鳥宮。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬。   第二十六代蘇我稲目天皇 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十七代蘇我馬子天皇 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿天皇 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂天皇 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町。


4  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。
 尾張国におられたはずである。
 第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。
 景行天皇の実在性には疑問が出されている。    
 第十三代成務天皇 近つ淡海の志賀高穴穂宮。
 成務天皇の実在性には疑問が出されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。淡海に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。第十三代は武内宿禰天皇であった。   
 第十四代仲哀天皇 穴門豊浦宮 筑紫橿日宮。
 仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。第十四代は仁徳天皇であった。
 第十八代反正天皇 丹比柴籬宮。
 淡路島の生まれ。淡路島はヤマト王権に敵対する一族がいた。
 第十九代允恭天皇 遠飛鳥宮。
 允恭天皇の実在性について疑問とする説あり。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に遠いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十三代顕宗天皇 近飛鳥八釣宮。
 億計・弘計2王の発見物語は劇的な要素が強く、史実として信じ難いことが指摘されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十八代宣化天皇(蘇我稲目天皇) 檜隈廬入野宮。
 天皇が並立していたとの説あり。宣化の在位期間中、倭国(鳥取県中部)の天皇は蘇我稲目天皇であった。蘇我稲目天皇は泊瀬(倉吉市)と磯城(湯梨浜町)に宮を持っていた。


5  私見
 鳥取県中部に皇居が特定できない天皇は、実在性に疑問のある天皇が多いため、初代から第三十代までの天皇はほぼ、鳥取県中部におられた。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って、初代天皇として即位され、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠まれてから、倭国の外を活動本拠地にされても、皇居は倭国(鳥取県中部)においておられた。たとえ出張先が吉備や纏向であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においておられた。皇居が他所にある天皇は何らかの改ざんが加えられている。
 第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の皇居のヒントが全く見つからないのは、両天皇は高句麗・百済に壊滅的な打撃を受けたからと思われる。天皇も戦で亡くなったかも知れない。亡命百済王朝は両天皇の在位時期に両天皇の存在を消して、ヒントを残さなかった。第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の名前は改ざんされているし、皇居は赤丸のいずれかにあったと思われる。
 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代30人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を作られたが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営された。


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