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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった 2 [閑話休題]

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 弥生時代から住んでいた住民は海面が下がるにつれて下に降り、現在の由良宿を造ったと思われる。


1 旧大栄町(現北栄町)の遺跡

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2 高江神社遺跡発掘調査報告書より

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 まとめ

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 「弥生時代後期から古墳時代前期後半の竪穴住居跡17棟、掘立柱建物4棟を検出した」とある。

 「奈良時代に入ると、東伯町の斉尾廃寺跡が知られている。この時期の集落としては、由良遺跡、向野遺跡、大高野遺跡があげられる」とある。

◎ 南原千軒遺跡報告書(平成16年ー2004年)より歴史的環境(古代) 
 「斎尾(斎王)廃寺では塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される」とある。
※ 畿内と結びつきの深い有力豪族(蘇我一族)は斎尾廃寺周辺(4km.東方の北栄町由良)で勢力を持っていた。由良遺跡は古墳時代から奈良時代までの複合遺跡であり、半径500mに及ぶ広い遺跡である。この丘陵台地に蘇我一族(蘇我入鹿またの名は善徳またの名は聖徳太子)の本拠地があったと思われる。


3 私見
 神社横の駐車場からも複数の弥生住居跡が検出されていたが、その調査報告書は見当たらない。高江神社遺跡は神社の前を通る道路の建設中に発掘された。たかだか300mほどの距離の直線道路の予定地から弥生時代後期・古墳時代前期の17棟もの竪穴住居跡が検出されるのだから、古代は相当な住宅密集地であったと思われる。竹歳家の先祖もこのあたりに住んでいたと思われる。海面が下がるにつれて下の現地に移られた。竹歳家はこの丘陵の延長上に多い。
 木花之佐久夜毘売(弥生時代前期)の産屋は高江神社にあったと比定したのであるが、2kmほど西の大谷第1遺跡(おそらく徐福たちの遺跡)からは弥生時代前期の遺跡が発掘されている。また、高江神社の隣の西高江遺跡からは弥生時代中期の水晶の玉造工房跡が検出されているので、広い高江神社の敷地に弥生時代前期(紀元前150年頃)の木花之佐久夜毘売の産屋の遺跡があってもおかしくない。


4 ※参考 弥生時代(土器編年)                           
 古墳時代が始まる紀元三世紀(西暦300年)ころまで続いた、水稲農耕と金属器の使用に特徴づけられる時代を言う
 前期 BC200~BC100
 中期 BC100~AD100
 後期 AD100~AD300
の三時期に区分される。縄文時代に近い初期の稲作遺構を伴う時期を特別に早期とする場合もある。
 縄文時代と弥生時代の区分は絶対年代として確定されているわけではない。
 弥生時代の土器は、時系列に約600年分が整理されている。


5 由良遺跡発掘調査報告書より

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 まとめ

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 「由良遺跡の試掘トレンチ調査では、弥生時代中期の土器、弥生時代後期の土器、古墳時代以降の土器が出土している。調査の結果、古墳時代中期~奈良時代、平安時代に至る遺構が存在することが明らかとなった。竪穴住居跡は9基、掘立柱建物は13棟分が確認された」とある。
 序文に「この台地は、古くより遺物の散布地として知られており・・・」とある。
 まとめに「しかし、地続きの大栄中学校の校庭のある丘陵地にも以前、多数の土器片が発見されたともいわれ、マクロ的に見れば別所古社地遺跡にまで遺跡が継続していると考えられる。従って、遺跡の範囲は半径500mに及ぶと推定され、これは、この一帯の地続きの畑地帯のある丘陵にほぼ一致する」とある。


6 私見
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は大栄中学校の敷地内にあったと思われる。この丘陵台地の中心部である。多くの須恵器と大きな建物遺構があったものと思われる。しかし、ブルドーザーによる造成で壊された。ブルドーザーの通った後に土器・石器が散乱していた。須恵器は値打ちはないと思ったので石器だけを持ち帰った。大栄中学校の造成工事を本来なら中止して、遺跡の発掘調査をすべきだが、発掘調査をしていない。
 校舎が完成し、2年生になった時に大栄中学校に通うことになった。私が刀で斬られる夢をみたのは3年生の時であった。「蘇我入鹿天皇は、刀で斬られてさぞつらかったであろう」という残された者たちの無念の思いが残っていたからと思われる。
 聖徳太子は奈良に行ったり来たりで、由良の皇居に長くはいなかったから、いるときには住民がいっぺんにおしかけたと思われる。10人の話を一度にきいたのも由良の皇居であったと思われる。
 尾道の浄土寺(開祖は聖徳太子と伝わる)と姫路の斑鳩寺との中間は岡山である。岡山ではなく北の鳥取県北栄町由良に聖徳太子の皇居はあった。聖徳太子はヤマト王権の御用水軍であった村上水軍で尾道からしまなみ海道を渡り、卑弥呼・倭健命たちが平定した松山にも行かれた。

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