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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか [天忍穂耳(大物主)]

 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか。


1 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 島根県東部には古代出雲王朝があり、その王朝の王はクナトの神であった。久那戸(クナト)大神は伊弉諾・伊弉冉の長男で出雲王朝の始祖である。クナトの大神は富家の遠神祖、真の大国主である。クナトの大神は五十七代にわたって存在した。出雲大社の東宇伽山の麓、出雲井神社は久那斗大神(クナト大神)を祭る。出雲大社は、霊亀2年(716)に熊野(クナト大神)(出雲熊野神社の亀太夫の神事)から杵築へ移った。クナトの大神は、日本書紀では「岐神」、古事記では「衝立船渡神」と書く。
 出雲王朝の最盛期には、北九州から新潟に至る広範な地域を領有していた。富家の伝承には「大和(奈良)や紀伊(和歌山)は出雲の分国」とある。天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。


2 出雲王朝は、海の向こうからやってきた部族による、度重なる侵略を受けた。その第一派が、素戔嗚によるものであった。第二派が、『記紀』に国譲り神話として記された天孫族との戦い。第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。
 出雲神族は、天孫族と長い闘争の末、帝位を奪われ滅亡した。(時系列で整理してみました)
(1)第一派が、素戔嗚によるものであった。
 出雲国は、まず素戔嗚による侵略を受けた。素戔嗚(出雲神族ではない渡来人)は、出雲へ侵攻した。素戔嗚は牛頭天皇(牛頭は朝鮮の地名)である。
(2)第二派が、記紀に「国譲り神話」として記された天孫族との戦い。
 「国譲り物語」とは2千年前、天孫族の使者・武甕槌命が稲佐の浜で矛を突き立て「否(イナ)、然(サ)」と迫った事件である。大国主は降伏し抗議の自殺をした。事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。富氏は唇を震わせながら言った。「青柴垣の神事は天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ。屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」と。呪いを残して死んだ事代主は天孫族に非常に恐れられていた。大国主命から出雲国を奪った天孫族は大国主命の血族を完全に根絶する為、どれほど苛酷な迫害を繰り返したことか。国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された。
(3)第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 今度は神武一族が九州から攻めて来た。勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。神武一族は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。我々は「カラの子(韓の子?)」と呼んでいた。朝鮮からの八咫烏が神武の味方にについた。彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノ長髄彦は傷つき、大和(倭)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。長髄彦(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武は橿原(倉吉市大宮)で即位し大和(倭)の王となった。神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。縄文時代も終り(史実は弥生時代中期)のことである。
(4)最後が、「物部」を将とした天之日矛族(孝霊天皇一族)である。
 天之日矛は、天孫族(孝霊天皇一族)と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。天之日矛は但馬を支配していた。孝霊天皇一族は10年ほど親戚の天之日矛の支配する但馬に疎開していた。出雲族の受難はさらに続いた。後を追うように、「尾張」・「物部」の連合軍に侵攻される。
(5)ホヒ(天穂日)について
 神魂神社の秋上氏によると、「事代主は天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。その時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である」とする。ホヒ(天穂日)は出雲の祭祀権を握り子孫は国造に取り立てられる。出雲大社が杵築へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
 出雲国造家(北島・千家)は天穂日命(天孫)の後裔である。神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。


3 私見
 富氏の口伝は、シュメールとかいうからとんでも本の烙印を押されるのであるが、あながちでたらめとも言えないのではないだろうか。しかし、その内容は、出雲族の怨念の歴史ともいえる内容であるため、多分に誇張や誤伝承も含まれている。特に一部「記紀」に準じている内容になっている点も見過ごせない。
 青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔の準王一族しか思い当たらない。一番古い銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔の準王一族が作ったものと思われる。出雲王家(クナトの神)は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔であり、「クナトの神」は殷王朝末裔の準王一族であった。出雲王国を支配していたのは「クナトの神」というなら、「クナトの神」は鬼・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲神族の大祖先は、「クナトの神」であり、殷王朝末裔の準王一族である。出雲神族は自らを「竜蛇族」と名乗っていた。
 八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日が能義平野(安来市)に行ったときはすでに松江市南部を本拠地としていたはずである。天穂日が能義平野(安来市)に行ってからの動向は判らなかったが、準王一族(クナトの神)とのやり取りが判ったように思われる。
 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野に天穂日であり、松江市南部には殷王朝末裔の準王一族(クナトの神)であった。島根県松江市乃白町の田和山遺跡は殷王朝末裔の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に素戔嗚や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。素戔嗚(倉吉市余戸谷町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山)、事代主(倉吉市福庭の波波伎神社の奥)、天忍穂耳(北栄町下神の三輪山)、瓊々杵命(葦原中津国=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(倉吉市灘手地区の鋤)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には素戔嗚や大国主命や事代主の本拠地はなかった。
 富氏の口伝では、「出雲国は、天孫族による侵略を受けた。これが国譲りのモデルとなった」というが、「国譲り」という表現は、「記紀」の影響によるものであり、後世に付加されたものである。国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県北栄町にあった。「国譲り後、出雲人は大和・出雲・北陸・関東・東北に分散された」とするが、蜘蛛の子が散るように自分たちで全国に散ったのでかなかったか。それで神武天皇一族が西日本を平定してまわらなければならなかったのである。全国に散った出雲人(準王一族)を倭国の天皇家が平定していく過程をもって「記紀の国譲り」に例えたものと思われる。
 クナトの神は鬼・土蜘蛛などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神天皇・倭健命・卑弥呼は全国のクナトの神を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。
 神魂神社の秋上氏は「天孫族は九州にいる」というが、出雲では「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀が全国で初めて発掘された。倭建命は皇子であり、長瀬高浜の被葬者は皇女であった。
(1)素戔嗚について
 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある素戔嗚を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。
 八岐大蛇伝説の舞台は鳥取県三朝町山田であった。その後、素戔嗚は伊邪那岐の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐村に来ていた神大市比売との間に須勢理姫が生まれた。伊邪那岐が亡くなってから約束通り、須勢理姫と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷神社)に住んだ。一人になった素戔嗚は東山神社に移り対岸の石上神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。
 素戔嗚は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、素戔嗚・稲田姫・足名椎命・手名椎命・天穂日命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。
 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄合わせ(整合)が行われている。大日本史の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。それに輪をかけたように富氏の口伝は「記紀の国譲り」は自分たちがモデルで被害者であるがごときを述べる。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、素戔嗚が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。
(2)大国主(大穴持)について
 大国主に真の大国主と真でない大国主がいるとは初めて聞いた。「出雲国風土記のオオナムチ(大穴持)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたりオオナムチ(大穴持)を名乗った」とする。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持)はただ一人である。
 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣神の子として杵築周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、素戔嗚の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。素戔嗚と稲田姫の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。
 大国主の本拠地は島根県の三刀屋の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(茶臼山)の松樹庵である。
 大己貴命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名命と共に行動した経路は3系統ある。①伯耆国→北陸地方 ②伯耆国→出雲→山口県→福岡県→大分県 ③伯耆国→因幡国→播磨国24ヶ所→讃岐国2ヶ所→伊予国7ヶ所の3系統である。
 島根県下における大国主伝承地として、多根神社、佐比売山神社、加多神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(クナトの神)の妨害を受けずに出雲で農業を教えたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。
 神祇志料(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名と須勢理姫は伯耆国の大神山に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根で農業を教えた」とある。大神山は大山ではない。鳥取県北栄町の茶臼山は伯耆国久米郡大神郷に属していた(北条八幡宮由緒より)。大神郷にあった山だから大神山と言っていた。大神山とは茶臼山のことであった。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山であった。これを前提にすればその後の歴史がきれいに繋がっていく。偶然が重なっても歴史がきれいに繋がっていくのは比定地が正しいからである。
 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁天皇の時代であるからだ」とする。
 長瀬高浜遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁天皇の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。
 しかし、稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(タギシ)の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。
 天照大神(徐福)と素戔嗚は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(徐福)は高天原(蒜山高原)に上がったが、素戔嗚は八岐大蛇を退治して夫婦になった稲田姫と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、オオナムチ(大穴持)を名乗らせたと思われる。
(3)事代主について
 ある方の見解
 出雲国風土記が編纂された当時、事代主を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。
 ※ 私見
 鳥取県倉吉市福庭の波波伎神社(祭神は事代主)の由緒には「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ(岳)と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主は亀谷丘陵の先端から福庭の青柴巻籬に移って住んでいた。


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