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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

藤原鎌足は「翹岐」であり、中大兄皇子は「豊璋」である [百済王12代から45代までの倭国王]

 中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である


1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について


(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるからとする。「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり、恐れ多いこと、などが理由であると思われる。


(2) 中大兄皇子=翹岐説では
 舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、このときの百済王は武王であり義慈王が百済王になるのは641年であるから、631年は間違いである、とする。また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。


2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」


◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。
◎推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。
◎皇極元年(642年)、百済の従者たちは「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
◎皇極2年(643年)2月21日に、「筑紫の大宰府から早馬で伝えて、『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。
◎舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。
◎舒明13年(641年)冬10月9日、「天皇は崩御された。東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は16歳で誄をよまれた」とある。  
◎皇極3年(644年)、「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。
◎斉明七年(661)九月(天智紀)、「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。


3 私見


(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。中臣鎌足は百済人であった。鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。中大兄皇子が百済の王族であることがわかっていたから鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。
 中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、義慈は武王の長男である。義慈は塞上を弟王子と言っている。豊璋は塞上の兄である。豊璋と義慈は兄弟である。631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。豊璋も武王の子である。豊璋は631年に倭国に来ている。
 日本書紀・斉明6年(660年)に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある 。豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。豊璋は武王の次男になるから、義慈の次の百済王になるのである。豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。
 645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。一方翹岐は3年にすぎない。乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。翹岐が倭国に来たのは642年である。643年の記述を最後に消えてしまう。年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。


(2)中大兄皇子=翹岐説は「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。しかし私見では、512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。


(3) 中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。その時は18歳であった。「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。中臣鎌足は奈良にいた。豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。中大兄皇子=翹岐説は「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから。蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。


(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。


(5) 豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族から受け継いだものと思われる。石川麻呂の娘の遠智姫と結婚したのは中大兄王子である。石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。遠智姫と豊璋は一緒に住んでいたものと思われる。中大兄王子と遠智姫は一緒に住んでいたから、遠智姫に見せる機会があった。中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、遠智姫に見せる機会がない。豊璋またの名は中大兄王子が妻の遠智姫に義父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。


(6) 豊後国の西寒田神社縁起には「663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそうした。大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。
 一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け、軍兵5千余を率いて、豊璋を百済国に護り送らせた。中大兄皇子自身も百済に行ったものと思われる。豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。中大兄皇子と豊璋を決別させるため(豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだからもう百済王子の豊璋ではなく倭国の王子になったことにするため)の日本書紀の粋な計らいである。百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。


(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月~6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足が登場する。
 皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。島流しは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。何で倭国に着いたのか。609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。
 一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。 翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。翹岐は王族ではないと思われる。周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。上手口を言って歓待されたのである。
 583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。


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