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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された [閑話休題]

 飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された。
1 飛鳥寺(法興寺)「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
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 伽藍配置 一塔三金堂
 南北293m、東西は北辺216m、南辺260mの台形
 飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺(高句麗) や王興寺(百済)や皇龍寺(新羅) に求められる。
 ※ 飛鳥寺の伽藍配置は独特なもので、ほかに例がない。通説は、「一塔三金堂の伽藍配置形式をとる寺院は、わが国はもちろん、飛鳥寺の造営にしたがった工人たちの故国百済の旧都でも発見されていなかった」とする。しかし、NHKはBS歴史館で百済の王興寺を取り上げた。私は仏教は新羅から公伝された、という立場であるから、新羅にモデルを求めることになる。
2 清岩里廃寺(金剛寺) 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
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 場所・地域 高句麗 平壌郊外、大同江の河岸と接する台地
 創建 478年
 規模 東西100m、南北150m
 伽藍形式 一塔(堂)三金堂
 中央に八角形の基壇があり、大型八角堂建築と推定される。八角の遺址が塔か否かが問題となるが、村田治郎は「八角基壇の一辺が10m余もある巨大さから推定すると、驚くべき高さの塔になるわけであって、当時の高句麗の木造技術ではたしてこれを造ることができたか否か疑わしく塔よりも八角堂と考え・・・八角堂を中心にして東西南北の四方にそれぞれ堂や門があつたと考えられる」と述べている。
3 皇龍寺址 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
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 場所・地域  新羅 慶州の月城の東北
 創建 553年
 規模 創建当時は東西288m、南北284m
 伽藍形式 創建当時(553年)は一塔一金堂式。再建(584年)時は一塔三金堂式 
 皇龍寺はもともと一塔一金堂式伽藍配置であったが、丈六尊像が造成されて(574年)からは金堂の左右に小さな金堂を配置する一塔三金堂式伽藍配置に変わった(584年)。
 ※ 創建時(553年)の伽藍配置は一塔一金堂式であった。再建(584年)の伽藍配置は、金堂並列配置の一塔三金堂式である。問題は東・西建物であるが、僧房は別にあるので東西建築物は僧房ではない。三国遺事に584年に東西金堂を造った、とあるので東西建物は金堂であった。西金堂・東金堂を塔に近づけて塔の横に持ってくれば飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置になる。
4 私見
  他人に建物の設計図を見せて、こんな建物を造ったらどうですか、と勧めるときに、これは100年前の建物だがこれを造って見られませんか、とは言わない。最新のモダンな建物を提示するのが普通である。
  法興寺(596年)の伽藍配置は独特で、1塔3金堂方式であった。このモデルとして百済の王興寺と高句麗の清岩里廃寺と新羅の皇龍寺廃寺が候補としてあげられている。百済の王興寺(577年)はNHKや朝日新聞でも取り上げられたが、東西金堂とされる建物は回廊部分であり1塔3金堂式であるとするには無理がある。清岩里廃寺の八角部分は大きすぎるため塔ではなく八角堂ではないか、とする見解がある。清岩里廃寺の中心は塔ではなく堂であり、1塔3金堂方式ではない。また、100年前の建築方式を示すこと自体が相手に失礼でもある。
 その点、皇龍寺(左右金堂再建は584年)は飛鳥寺(法興寺)(造営発願は587年)の3年前であり、皇龍寺の再建に関わった寺工が直接、左右金堂を塔と並列させた模型を作り、蘇我馬子天皇に提示することが可能である。法興寺の伽藍配置は皇龍寺をモデルに進化させた最新様式である。
 「元興寺縁起」には、「戊申(588)年に六人の僧、名は令照律師、弟子の惠忩、令威法師、弟子の惠勳、道厳法師、弟子の令契、それに恩卒首眞等四人の工人を送ってよこし、あわせて金堂の基本様式(模型)を奉った。今この寺にあるのがこれである」とある。金堂の基本様式(模型)はすでに金堂が塔を中心にして東西に配されていたものと思われる。1塔3金堂方式の伽藍配置は新羅から来た寺工が皇龍寺をモデルとして造られたものである。六人の僧と四人の工人のうち寺工だけが新羅から来たのではなく全員同じ新羅から来ている。新羅は倭国に仏教を公伝した国だから、新羅から倭国の仏教興隆のために仏教集団として来させられた、と考えるのが自然である。
 また、聡耳皇子が大々王に申し上げた。「昔、百済国に法師と工人を遣わすよう乞いました。これにはどう答えたらよいでしょうか」と。六人の僧と四人の工人は新羅から来ているので聡耳皇子が大々王に申し上げたのである。藤原氏の厳しい検閲の中で、六人の僧と四人の工人は新羅から来ていたことを後世に伝えようとしてそれとなく書き残したのである。
 新羅は倭国と兄弟国であり、法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んで付けられた名であり、法興寺の伽藍配置は皇龍寺の伽藍配置をモデルに作成されたものである。皇龍寺は規模の面でも法興寺と似ている。寺工は新羅から来ているが一人だけ新羅から来たとは思われない。新羅から一団として来たものと思われるから、僧やほかの工人も同じく新羅から来ている。書物には百済から来た、と記されているが新羅から来ていた。ここでも日本書紀は新羅を百済に入れ替えている。
 600年に新羅の僧円光が隋に行っているから、倭国の遣隋使と同伴していた可能性が高い。円光は毎年隋に行っていた。倭国の遣隋使は「国のすべてを教えてもらう」ために蘇我馬子によって隋に派遣された。その際信用のある円光と一緒ならば心強い。8年後に裴世清たちが倭国に来る。倭国の遣隋使と新羅の僧円光は任那(全羅南道)を通ったはずである。百済は600年(推古8年)に任那(全羅南道)を侵している。百済はまるで追い剥ぎのようである。倭国の大軍が来るとすぐに白旗をあげるのであるが、倭軍が去るとまた任那を侵す。その繰り返しであった。
 仏教の導入について反対者が多く出たのは倭国だけではない。新羅でも貴族や群臣の反対が強かった。しかし、法興王は仏教を公認した(527年)。それまで、新羅も倭国も徐福が持ち込んだ道教を信仰していた。彼らがこぞって反対した。
※ 新羅の善徳女王(在位632年~647年)の諱は蘇我善徳天皇(在位626年~645年)の名に因んで付けられた可能性がある。
5 参考ー日本書紀(※以下は私見)
◎敏達12年(583年)、詔して「自分は任那を回復しようと思う。いま、百済(新羅)にいる達率日羅は賢くて勇気がある。自分は彼と計画を立てたい」といわれた。・・・。日羅は答えて「・・・そして有能な人物を百済に遣わして、その王をお召しになるとよいでしょう。来ないようでしたら、その太佐平か王子らを来させましょう。その後で任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう」と。また奏上して「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」といった。※日羅の話の中の「百済」は改ざんされていない。達率日羅は新羅出身者を推測させる。日本書紀は「日羅は百済出身」とするが、史実は、新羅出身と思われる。
◎崇峻元年(588年)、善信尼らは大臣(馬子)に語って「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済(新羅)に行って、受戒の法を学んできたいと思います」といった。この月、百済(新羅)の調使が来朝したので、大臣は使人に語って「この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように」といった。使人は答えて「私共が国に帰って、まず国王(真平王)に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」といった。
 法興寺の創建。この年百済(新羅)が使いに合わせて、僧3人らを遣わして、仏舎利を献上した。同時に仏舎利と僧6人と工人8人をたてまつった。蘇我馬子宿禰は百済(新羅)の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済(新羅)の使いらにつけて、学問をさせるため発たせた。※1日余りですぐに安全に帰ってこれるのは新羅である。この時代に仏教活動が盛んであったのは新羅である。すでに皇龍寺もできており善信尼らが受戒の法を学びに行く条件がそろっていたのは新羅であった。この行ったり来たりしている使人は新羅の使人である。
◎推古4年(596年)、法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聡二人の僧が法興寺に住した。※善徳は聖徳太子であり入鹿である。慧慈、慧聡の出身国は疑問である。
◎推古8年(600年)、新羅(百済)と任那(全羅南道)が戦った。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。1万あまりの兵を率いて、任那のために新羅(百済)を討つことになった。新羅(百済)を目指して船出した。新羅(百済)に着いて5つの城を攻略した。新羅(百済)は白旗をあげて、将軍の印の下に来たり、6つの城を割譲して、降伏を願い出た。※この条で「新羅」とあるのはすべて「百済」である。600年に倭国の遣隋使と新羅の僧円光が隋に行くために任那(全羅南道)を通ったので百済は任那(全羅南道)を侵した。
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。その後皇極元年(641年)、百済の従者たちは「弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。※本当に島流しで倭国に流れ着いたのか、最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。

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