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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

今までのまとめ [まとめ]

 今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 イザナギ・イザナミは葦原中津国(鳥取県北栄町)を造るため蒜山より倉吉市の新宮神社に降臨していた。イザナミは病気で打吹山周辺に収容された。三貴神(天照大御神・スサノオ・月読命)は葦原中津国に到着した。イザナギは三貴神を葦原中津国で出迎え「~は~を治めよ」といった。スサノオ以外は蒜山に上がった。高天原は蒜山(岡山県真庭市)である。三貴神以前の神々も蒜山にいた。

2 天照大御神は男性である。天照大御神は道教の方士徐福である。徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡り、徐福本隊は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着した(紀元前210年)。徐福は蒜山(三神山)に上がり始皇帝にいわれたように王(天照大御神)となった。月読命は保食神であり女性である。

3 スサノオは葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから蒜山に上がり、降りてヤマタノオロチを退治した。ヤマタノオロチ伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。その後、稲田姫と鳥取県八頭郡に住んで大国主(八島士奴美神)を生んだ。根堅洲国(黄泉国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。スサノオは倉吉市(根国)の清熊稲荷神社にスセリヒメ(宇迦之御魂神)と住み、東山神社に移った。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原にあった。

4 イザナギがイザナミから逃げて葦原中津国にたどり着くまでのヨモツ(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市中心市街地)から葦原中津国(鳥取県北栄町)までの鳥取県道23号線である。大国主はスセリ姫を背負って黄泉比良坂から宇迦能山(北栄町茶臼山=いなさ山=大神山)に逃げた。大国主はスサノオと稲田姫の子である。

5 大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)はスセリヒメ(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(いなさ山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山を本拠地として少彦名とともに、全国の国造りをしていた。少彦名がいなくなってから、天忍穂耳(大物主)が大国主と協力して全国の国造りをした。この時の天忍穂耳(大物主)の本拠地は北栄町下神の三輪山(神山)であった。

6 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきて交渉したイナサノオバマは鳥取県北栄町の茶臼山(イナサ山=宇迦能山=大神山)にあった。大国主が建ててもらった高い宮殿のあったタギシノオバマは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。

7 天照大神・月読命(保食神)・饒速日命一行は蒜山(岡山県真庭市)より倉吉市関金町に降臨し、天照大神・月読命(保食神)一行は伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。健御名方は琴浦町方見村に居た。饒速日命は鳥取県北栄町の土下山(天香久山)に降臨し定住した。猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。

8 饒速日命が亡くなったので、2番目に弟の瓊々杵命が鳥取県北栄町下種・茶ヤ条の大宮神社に降臨し、葦原中津国を平定した。瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。天孫の子の火遠理命(山幸彦)は辰韓に行き豊玉姫と結ばれ、葦原中津国で鵜草葺不合命が生まれた。火遠理命(山幸彦)と鵜草葺不合命は日向(葦原中津国と四王寺山)のクシフルタケ(亀谷丘陵)におられた。
 北条砂丘全体が「笠沙之御前」であると確認できたこと、地形・周辺の神社の祭神の配置などより100%間違いありません。この葦原中津国より、すべてが導き出されてきた。

9 神武天皇の四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(畝傍山・日向)におられた。神武天皇の四兄弟は二男と三男が大陸に渡るため、一旦北九州に行かれた。神武東征の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。長男と神武天皇は北九州から奈良に行かれ長男は亡くなったが、神武天皇は奈良から倭国(鳥取県中部)に帰られ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位された。二男の稲飯命は辰韓に行かれ紀元前57年に新羅を建国された。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。

10 第2代天皇は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社におられた。第6代孝安天皇は北栄町大島に、第7代孝霊天皇は湯梨浜町宮内に、第8代孝元天皇(卑弥呼・吉備津彦・吉備武彦の兄)は倉吉市小田におられた。第9代開化天皇(吉備武彦・倭健命)は鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた。第3代(師木の湯梨浜町南谷)、第4代(軽の倉吉市小田山)、第5代(葛城の倉吉市穴沢)の天皇も鳥取県中部におられた。欠史8代の皇居は奈良とは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。倭国天皇家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国を統一するまで、準王一族と対立していた。

11 邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇の妹であった。景行天皇の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であった。

12 第10代崇神天皇(吉備津彦、卑弥呼の弟)と第11代垂仁天皇は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動しておられた。第12代は景行天皇、第13代は武内宿禰天皇、第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰)、第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦)、第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃)、第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍)、第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済)、第19代は安康天皇(興)、第20代は雄略天皇(武)、第21代は清寧天皇、第22代は仁賢天皇、第23代は武烈天皇、第24代は継体天皇、第25代は安閑天皇、第26代は蘇我稲目天皇、第27代は蘇我馬子天皇、第28代は蘇我入鹿天皇、第29代は蘇我倉山田石川麻呂天皇、第30代は天武天皇、第31代は高市天皇(キトラ古墳)、第32代は忍壁天皇(高松塚古墳)、第33代は穂積天皇であった。第34代天皇は安全のため鳥取県中部にいた。





 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。

 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。

 631年、百済が全羅南道にあった任那を侵すので、中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿天皇の皇居(由良の宮)に人質として来させられた。中大兄王子(豊璋)は飛鳥寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会うまで大海人皇子と同じように蘇我入鹿天皇のもとで育てられた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から六韜に基づいて蘇我入鹿天皇を徹底的におだてた。高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は、645年に聖徳太子である蘇我入鹿天皇を斬首した。647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂天皇が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。天武天皇は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。

 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。「日本」とは669年に百済人の天智が近江で考えた国号である。天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と叔父殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社にあった。天武天皇も長屋親王も泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で道教を会得した。

 不比等は天皇や側近を徹底的におだてた。不比等と鸕野讃良は天皇や多くの要人を次々に毒殺した。高市天皇(在位686~696)忍壁天皇(在位696~705)穂積天皇(在位705~715)は在位期間が短いので毒殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた天皇(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。660年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大御神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。

 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・磐余邑・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮は鳥取県中部(倭国)にあった。紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、倭国の都は鳥取県中部であった。唐は日本は倭ではないことを知っていたので席次は新羅より下であった(753年)。日本は780年には新羅との国交を断絶する。倭国を乗っ取った政権(藤原一族)は八紘一宇を掲げて太平洋戦争が終結するまで大陸進出を試みた。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。

 太安万侶の献上した歴史書は天武天皇が編纂を命じた倭国の歴史書であった。これを原古事記とする。日本書紀は倭国を乗っ取った亡命百済人たちが、列島に百済国を再興するために編纂した歴史書である。百済王を天皇として倭国王を下僕(大臣など)として仕えさせるという構成をとる。原古事記には「大王」と書いてあったのを「大臣」に書き換えている。原古事記から日本書紀に転記された倭国天皇は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇と、「大臣」である。そのほかの天皇は、百済王をモデルとして記載している。日本書紀の百済王41代までの期間、原古事記の倭国王は31代であった。日本書紀の漢字は原古事記の漢字と同じ発音の別の漢字を持ってきた当て字であり漢字の意味はない。

 藤原氏は、崇りに悩まされた。崇りを鎮めるために各国に国分寺を建立し、東大寺を造り、行基・空海・安倍晴明に頼った。正倉院の宝物を東大寺に供えたのは、蘇我氏から略奪した宝物が崇りの原因かもしれないと思ったからである。京都へ遷都後も正倉院の宝物は奈良に置いたままである。卑弥呼に替えてつくった神功皇后を、稚日女命(卑弥呼)を祀る神社の由緒に登場させ、稚日女命(卑弥呼)を持ち上げている。これも崇りの原因かもしれないと思ったからである。

 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために藤原氏の神社として始まった。倭国の崇神天皇と姉の倭姫命(卑弥呼)によって始まった全国の神社(4万社ほど)も取り込んで列島を支配した。それまで倭王朝に虐げられていた馬韓出身の準王一族にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇に多い。

 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛文麿は藤原氏である。日本において斬首(藤原鎌足)・暗殺(藤原不比等)は藤原氏が始めた。

 藤原氏の支配は政財界や各種組織のリーダーとして現在でも続いている。明治維新は王政復古であり藤原王朝が元気を取り戻した時代であった。半面、明治維新は鳥取県中部(倭国)にとってはさらに受難の時代であった。歴史上重要な神社が並み以下にされた。天照皇大神宮を方見神社とし、賀茂皇大神宮を賀茂神社とされた。倉吉の雄略天皇と武烈天皇の皇居の間に大きな鎮霊神社を建立した。明治政府の冷遇に鳥取県はうるさかったようだ。明治政府はうるさいことを理由として鳥取県を無くし、明治9年に島根県に合併して松江を県都にした。この藤原体制は太平洋戦争が終了するまで続いた。戦後70年経って、藤原氏はまた戦前までの藤原体制(軍国主義)を再興しようとしている。「藤原にあらざれば人にあらず」(国民の命を虫けらのように扱う)の精神が復活しようとしている。


 

※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。     平成28年5月11日更新

 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA

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