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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
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 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3 鳥取県中部の空撮
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 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。

軽島明宮.jpg 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

軽島明宮1.jpg軽島明宮2.jpg 


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