So-net無料ブログ作成
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨 [伊勢野の天照皇大神宮]

   第八節 天孫降臨は二回に分けて行われた 第一次の天照大御神と月読命の降臨
IMG_0029-1

1 天孫降臨は2回に分けて行われた。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。記紀にこのことの記述はないが、神社の祭神などからこのような結論になる。
 また、三重県を敵にまわすことになるが、生きている人間の天照大御神が最初に高天原から降り立ったのは三重県ではなく、伯耆国であった。日本書紀は八割、古事記は五割が真実ではないと言われているが、原古事記に載っていた天照大御神の降臨を藤原氏は削除している。現古事記には高天原からその後、天照大御神がどうなったか何も書いてない。これは書いてあったが、削除されたと解すべきである。第三十四代舒明天皇より第四十代天武天皇までも書いてあったが、日本書紀に移して削除している。このほかにも削除して改ざんしているものが多くある。
 矢送神社・神田神社・大宮神社・神郷神社・倉坂神社・中尾神社・方見神社・亀谷神社・穂波神社の祭神や方見神社の由緒、天武天皇が生きて降り立った天照大御神の子孫だと言い伊勢野に法隆寺と同じ伽藍配置の斎尾廃寺あとがあること、ニニギ命が四歳では「この地は・・・・」の言葉が出てこないことなどにより、天孫降臨は2回に分けて行われたことが分かる。1回目は天照大御神と月読命の降臨であった。

2  古事記・葦原中津国平定の段(ウィキペディアより)
 建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。

3  「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」
(1) 古事記・葦原中津国平定の段の建御名方神と建御雷神の説話は藤原氏によるのちの創作である。原古事記には伊勢国風土記の説話が書かれていた。天照大御神が降臨しようとした邑には神がいて名を建御名方神といった。その邑は方見邑であった。今の加勢陀川の西の鳥取県琴浦町上伊勢・下伊勢周辺である。
 原古事記には「天日別命は建御名方神に『汝の国を天孫に献上したらどうか』と問うた。すると答えて『私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる』といった。天日別命は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、『私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい』と。天日別命は問うて、『お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか』といった。すると申しあげていうには、『私は今夜をもって八風(大風)をおこし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これが私が退去したという証拠です』と。天日別命は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜更けになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。〔建御名方神は、信濃の国に住ませた。〕」とあった(「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」より)。
 加勢陀川の東には斎尾・槻下という地名があり漢字変更の前は斎王・月下であった(方見神社由緒より)。天照大御神(徐福)は斎王に降臨し、月讀命は月下に降臨した。これはすぐ東にある葦原中津国の国譲りの前である。天照大御神を神武天皇に、建御名方命を伊勢津彦に変えて伊勢国風土記を作った。そして建御名方命の国譲りの部分を記紀から削除した。
(2) 1回目は天照大御神・月読命・饒速日命一行であった。最初の天孫降臨は饒速日命が蒜山高天原から関金町まで天降った。天照大神や月読命も一緒であった。天照大御神・月読命・石凝姥命・手力男命・天石門別神は、そのまま関金町から葦原中津国を迂回し、県道50号線を通って、琴浦町伊勢野・槻下・加勢陀川西岸に到着した。玉祖命・天宇受売は長瀬高浜に、思金神は長和田に降臨した。これは、天若日子が国譲りの交渉で葦原中津国に行っている間に行われた。このことは八橋の地名由来よりわかる。下照姫は天若日子と一緒に行動していたからである。伊勢野・斎尾(斎王)は天照大御神が最初に降り立った地である。
(3) 2回目はニニギ命・天児屋根・太玉命・和久産巣日神・娘の豊受姫たちであった。ニニギ命・天児屋根・太玉命は関金町の矢送神社(矢送神社の祭神)から、北栄町の大宮神社に降臨された。その時案内した猿田彦は「ニニギ命を日向(葦原中津国)に案内してから伊勢(天照皇大神宮・外宮の月下の宮)に行きます」と言った。ニニギ命は大宮神社(日向)に、天児屋根は穂波(日向)に、太玉命は中尾(伊勢)に、和久産巣日神も中尾(伊勢)に、娘の豊受姫は槻下(月下)の外宮の度会に降臨された。

4  追記(2016.12.09) 先代旧事本紀の天孫降臨 

饒速日.jpg
―天神本紀―
  天照大神は、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が治める国であるとして、天降りさせようとした。ところが準備している間に子が生まれたため、押穂耳尊はこの子を天降りさせるべきであると天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。天神御祖は天璽瑞宝十種を授けた。三十二人の護衛がつかえ、五部の人が従い、天物部を率い、天物部等二十五部のひとがつかえ、船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に遷った。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、子が生まれないうちに亡くなった。
  天照大神はこのあとまた、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治める国であるとして、押穂耳尊を天降りさせることにする。そんな折、押穂耳尊は高皇産霊尊の女栲幡千々姫萬幡姫命を妻とし子が生まれた。その子は天津彦々火瓊々杵尊と名づけられた。押穂耳尊はこの子を天降りさせたいと天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。
  正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女萬幡豊秋津師姫命亦の名栲幡千々姫命を妻とし、二男をもうけた。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、弟は天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊である。
―天孫本紀―
  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦の名は天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という。天照大日孁貴尊の太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の女豊秋津師姫栲幡千々姫命を妻とし生まれた子である。天祖より天璽瑞宝十種を授かり、天磐船に乗り河内国(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移り定住した。
  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれたが、宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊は亡くなった。
  饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、天香語山命が生まれた。天降って三炊屋媛を妻とし宇摩志麻治命が生まれた。天香語山は亦の名を高倉下命といい、磐余彦尊が熊野で毒気にあたったとき剣をもって助けた。
  天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫磐余彦尊が、天下を馭(おさめ)ようとして東征した。中洲の豪雄長髄彦は饒速日尊の子宇摩志麻治命を君とし、天孫に二種あるはずはないとして抵抗した。宇摩志麻治命は長髄彦の謀には従わず、長髄彦を殺して軍を率いて帰順し、饒速日尊より授かった天璽瑞宝十種を天孫に献上した。
  大歳辛酉正月一日、天孫磐余彦尊は橿原宮に都をつくり即位した。姫蹈韛五十鈴媛命を皇后とした。これは大三輪の神(天忍穂耳命)の女である。

5 私見
(1) 「記紀の天孫降臨」は史実にそぐわないように思われたが、「先代旧事本紀の天孫降臨」の記述のほうが史実に則しているように思われる。天孫降臨は史実では2回行われている。先代旧事本紀では、まず最初に饒速日が天降ったのであり、この時に天照大御神・月読命・五伴緒なども降り立った。
 ただ「船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って・・・」は京都で暇を持て余していた藤原氏が思い描いた空想科学小説である。まるで宇宙船に乗っていたかのように描いている。よほど虚空(そら)が好きだったようだ。史実は船で河を下ったものと思われる。
 饒速日ははじめ河内(鴨河内)の河上の哮峰(矢送神社)に到着し、やがて大倭(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移っった。この鳥見の白庭山は通説では、奈良県桜井市の外山のあたりと言われている。しかし、天照大御神が鳥取県琴浦町伊勢野に降臨したことは間違いない。五伴緒の降り立った場所も鳥取県中部に特定できるため、饒速日命は鳥取県中部に降臨している。鳥見の白庭山とは鳥取県北栄町の土下山(天香久山)ではなかろうか。そして2回目の瓊々杵命は北栄町の葦原中津国に降臨した。饒速日命は1回目の天照大御神たちと一緒に降臨した。河内国とあるが、これは関金の鴨河内のことである。河内国の河上の哮峰とは、後に瓊々杵尊もいた関金の矢送神社と思われる。その後、磐余彦と兄磯城(長髄彦の一族)とが戦った鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に定住したが、長髄彦の妹三炊屋媛と結婚し宇摩志麻治が生まれる前に饒速日命は亡くなった。
(2)「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」にある「天孫」とは饒速日命のことであった。記紀にある天孫降臨の瓊々杵命は2番手であった。
(3) 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。先代旧事本紀に「 饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれた」とあるのは信じられる。
(4) 宇摩志麻治命は母方ではなく父方の磐余彦に付いた。宇摩志麻治命が寝返ったから磐余彦は勝てたようなものである。
(5) 高倉下命と宇摩志麻治命は父が饒速日命の異母兄弟となる。一般に物部氏の祖は宇摩志麻治命とされる。
(6) 瓊々杵命と磐余彦命との間にはホホデミとウガヤフキアエズが入るため、磐余彦の時に登場する長髄彦も宇摩志麻治命も姫蹈韛五十鈴媛命も数代下った子孫でなければならない。数代の間に宇摩志麻治命は父が生まれた江府町江尾に移り住んでいた。
(7) 長髄彦とは出雲神族(準王一族)の王名である。大己貴神(オオナムチ)も出雲神族の王名である。出雲神族の王は代々、長髄彦であり大己貴神(オオナムチ)を名のっていた。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

トラックバック 0