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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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今までのまとめ [まとめ]

 今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 イザナギ・イザナミは葦原中津国(鳥取県北栄町)を造るため蒜山より倉吉市の新宮神社に降臨していた。イザナミは病気で打吹山周辺に収容された。三貴神(天照大御神・スサノオ・月読命)は葦原中津国に到着した。イザナギは三貴神を葦原中津国で出迎え「~は~を治めよ」といった。スサノオ以外は蒜山に上がった。高天原は蒜山(岡山県真庭市)である。三貴神以前の神々も蒜山にいた。

2 天照大御神は男性である。天照大御神は道教の方士徐福である。徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡り、徐福本隊は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着した(紀元前210年)。徐福は蒜山(三神山)に上がり始皇帝にいわれたように王(天照大御神)となった。月読命は保食神であり女性である。

3 スサノオは葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから蒜山に上がり、降りてヤマタノオロチを退治した。ヤマタノオロチ伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。その後、稲田姫と鳥取県八頭郡に住んで大国主(八島士奴美神)を生んだ。根堅洲国(黄泉国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。スサノオは倉吉市(根国)の清熊稲荷神社にスセリヒメ(宇迦之御魂神)と住み、東山神社に移った。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原にあった。

4 イザナギがイザナミから逃げて葦原中津国にたどり着くまでのヨモツ(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市中心市街地)から葦原中津国(鳥取県北栄町)までの鳥取県道23号線である。大国主はスセリ姫を背負って黄泉比良坂から宇迦能山(北栄町茶臼山=いなさ山=大神山)に逃げた。大国主はスサノオと稲田姫の子である。

5 大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)はスセリヒメ(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(いなさ山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山を本拠地として少彦名とともに、全国の国造りをしていた。少彦名がいなくなってから、天忍穂耳(大物主)が大国主と協力して全国の国造りをした。この時の天忍穂耳(大物主)の本拠地は北栄町下神の三輪山(神山)であった。

6 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきて交渉したイナサノオバマは鳥取県北栄町の茶臼山(イナサ山=宇迦能山=大神山)にあった。大国主が建ててもらった高い宮殿のあったタギシノオバマは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。

7 天照大神・月読命(保食神)・饒速日命一行は蒜山(岡山県真庭市)より倉吉市関金町に降臨し、天照大神・月読命(保食神)一行は伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。健御名方は琴浦町方見村に居た。饒速日命は鳥取県北栄町の土下山(天香久山)に降臨し定住した。猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。

8 饒速日命が亡くなったので、2番目に弟の瓊々杵命が鳥取県北栄町下種・茶ヤ条の大宮神社に降臨し、葦原中津国を平定した。瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。天孫の子の火遠理命(山幸彦)は辰韓に行き豊玉姫と結ばれ、葦原中津国で鵜草葺不合命が生まれた。火遠理命(山幸彦)と鵜草葺不合命は日向(葦原中津国と四王寺山)のクシフルタケ(亀谷丘陵)におられた。
 北条砂丘全体が「笠沙之御前」であると確認できたこと、地形・周辺の神社の祭神の配置などより100%間違いありません。この葦原中津国より、すべてが導き出されてきた。

9 神武天皇の四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(畝傍山・日向)におられた。神武天皇の四兄弟は二男と三男が大陸に渡るため、一旦北九州に行かれた。神武東征の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。長男と神武天皇は北九州から奈良に行かれ長男は亡くなったが、神武天皇は奈良から倭国(鳥取県中部)に帰られ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位された。二男の稲飯命は辰韓に行かれ紀元前57年に新羅を建国された。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。

10 第2代天皇は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社におられた。第6代孝安天皇は北栄町大島に、第7代孝霊天皇は湯梨浜町宮内に、第8代孝元天皇(卑弥呼・吉備津彦・吉備武彦の兄)は倉吉市小田におられた。第9代開化天皇(吉備武彦・倭健命)は鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた。第3代(師木の湯梨浜町南谷)、第4代(軽の倉吉市小田山)、第5代(葛城の倉吉市穴沢)の天皇も鳥取県中部におられた。欠史8代の皇居は奈良とは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。倭国天皇家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国を統一するまで、準王一族と対立していた。

11 邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇の妹であった。景行天皇の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であった。

12 第10代崇神天皇(吉備津彦、卑弥呼の弟)と第11代垂仁天皇は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動しておられた。第12代は景行天皇、第13代は武内宿禰天皇、第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰)、第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦)、第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃)、第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍)、第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済)、第19代は安康天皇(興)、第20代は雄略天皇(武)、第21代は清寧天皇、第22代は仁賢天皇、第23代は武烈天皇、第24代は継体天皇、第25代は安閑天皇、第26代は蘇我稲目天皇、第27代は蘇我馬子天皇、第28代は蘇我入鹿天皇、第29代は蘇我倉山田石川麻呂天皇、第30代は天武天皇、第31代は高市天皇(キトラ古墳)、第32代は忍壁天皇(高松塚古墳)、第33代は穂積天皇であった。第34代天皇は安全のため鳥取県中部にいた。





 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。

 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。

 631年、百済が全羅南道にあった任那を侵すので、中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿天皇の皇居(由良の宮)に人質として来させられた。中大兄王子(豊璋)は飛鳥寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会うまで大海人皇子と同じように蘇我入鹿天皇のもとで育てられた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から六韜に基づいて蘇我入鹿天皇を徹底的におだてた。高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は、645年に聖徳太子である蘇我入鹿天皇を斬首した。647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂天皇が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。天武天皇は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。

 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。「日本」とは669年に百済人の天智が近江で考えた国号である。天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と叔父殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社にあった。天武天皇も長屋親王も泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で道教を会得した。

 不比等は天皇や側近を徹底的におだてた。不比等と鸕野讃良は天皇や多くの要人を次々に毒殺した。高市天皇(在位686~696)忍壁天皇(在位696~705)穂積天皇(在位705~715)は在位期間が短いので毒殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた天皇(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。660年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大御神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。

 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・磐余邑・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮は鳥取県中部(倭国)にあった。紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、倭国の都は鳥取県中部であった。唐は日本は倭ではないことを知っていたので席次は新羅より下であった(753年)。日本は780年には新羅との国交を断絶する。倭国を乗っ取った政権(藤原一族)は八紘一宇を掲げて太平洋戦争が終結するまで大陸進出を試みた。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。

 太安万侶の献上した歴史書は天武天皇が編纂を命じた倭国の歴史書であった。これを原古事記とする。日本書紀は倭国を乗っ取った亡命百済人たちが、列島に百済国を再興するために編纂した歴史書である。百済王を天皇として倭国王を下僕(大臣など)として仕えさせるという構成をとる。原古事記には「大王」と書いてあったのを「大臣」に書き換えている。原古事記から日本書紀に転記された倭国天皇は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇と、「大臣」である。そのほかの天皇は、百済王をモデルとして記載している。日本書紀の百済王41代までの期間、原古事記の倭国王は31代であった。日本書紀の漢字は原古事記の漢字と同じ発音の別の漢字を持ってきた当て字であり漢字の意味はない。

 藤原氏は、崇りに悩まされた。崇りを鎮めるために各国に国分寺を建立し、東大寺を造り、行基・空海・安倍晴明に頼った。正倉院の宝物を東大寺に供えたのは、蘇我氏から略奪した宝物が崇りの原因かもしれないと思ったからである。京都へ遷都後も正倉院の宝物は奈良に置いたままである。卑弥呼に替えてつくった神功皇后を、稚日女命(卑弥呼)を祀る神社の由緒に登場させ、稚日女命(卑弥呼)を持ち上げている。これも崇りの原因かもしれないと思ったからである。

 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために藤原氏の神社として始まった。倭国の崇神天皇と姉の倭姫命(卑弥呼)によって始まった全国の神社(4万社ほど)も取り込んで列島を支配した。それまで倭王朝に虐げられていた馬韓出身の準王一族にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇に多い。

 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛文麿は藤原氏である。日本において斬首(藤原鎌足)・暗殺(藤原不比等)は藤原氏が始めた。

 藤原氏の支配は政財界や各種組織のリーダーとして現在でも続いている。明治維新は王政復古であり藤原王朝が元気を取り戻した時代であった。半面、明治維新は鳥取県中部(倭国)にとってはさらに受難の時代であった。歴史上重要な神社が並み以下にされた。天照皇大神宮を方見神社とし、賀茂皇大神宮を賀茂神社とされた。倉吉の雄略天皇と武烈天皇の皇居の間に大きな鎮霊神社を建立した。明治政府の冷遇に鳥取県はうるさかったようだ。明治政府はうるさいことを理由として鳥取県を無くし、明治9年に島根県に合併して松江を県都にした。この藤原体制は太平洋戦争が終了するまで続いた。戦後70年経って、藤原氏はまた戦前までの藤原体制(軍国主義)を再興しようとしている。「藤原にあらざれば人にあらず」(国民の命を虫けらのように扱う)の精神が復活しようとしている。


 

※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。     平成28年5月11日更新

 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA

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元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか [閑話休題]

 元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか。


1 由良の地名で有名なのは、和歌山県日高郡、京都府宮津市、兵庫県洲本市である。
(1) 和歌山県日高郡の由良
 その幻想的な風景は万葉集に読まれており、歌碑も設置されている。
妹がため玉を拾ふと紀伊の国の 湯羅(ゆら)の岬にこの日暮しつ
朝開き漕ぎ出て我は湯羅(ゆら)の崎 釣する海人を見て帰り来む
湯羅(ゆら)の崎潮干にけらし白神の 磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は由良ケ嶽の頂に虚空蔵の廟があるという。また、熊野三所権現社あり、とする。由良神社には神楽踊が奉納される。丹後国加佐郡旧語集に「由良ノ荘千軒ト云大村也」とある。
 古事記伝云う、「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門(戸)をわたる舟人梶をたえ 行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とある。
《加佐郡誌》「由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものである」とする。
 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」 より
 由良という地名には、「波に押された砂が狭い 平地を平らにする」という意味があるという。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には『枯野を 鹽に焼き 其(し)が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある。
  伊豆の国から献上された「枯野」という船が壊れ てしまい、船材を薪として塩を焼くことにした。 焼け残った余りの材から琴を造らせて弾いてみる と、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ水に 濡れた木のように、冴えた音色を出したので、天皇が上の歌を詠んだということである。
  「由良の門」とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある。


2 私見
(1) 和歌山県日高郡の由良
 「等由良」と表記する元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。万葉集に「湯羅」とあるからとするが、それが書かれた時代は奈良・平安時代(藤原時代)と思われる。
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は、虚空蔵の廟、熊野三所権現社、由良神社の神楽踊、加佐郡誌に「由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たもの」とあることより藤原氏の荘園として造られたものと思われる。虚空(そら)の当て字は藤原氏の専売特許であること、熊野三所権現は藤原氏が崇拝している準王一族(出雲神族)を主祭神としていること、神楽は藤原氏の踊りであること、荘園制度は藤原氏の制度であることなどからである。

 また、小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この説が正しいとすれば、由良川は葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。
由良川.jpg
 由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大御神の天孫族は南の関金から来たから、方見邑を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。青字は平定後の天孫族の位置関係である。
 丹波国風土記残欠に「由良港」とあるが、改ざんと思われる。713年に全国から風土記を提出させ多くは焚書にしたが、意図的に由良港を加え残欠として残したものと思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)にすでにあった地名とは思われない。
 古事記伝に云う「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とあるのも藤原氏による改ざんである。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地の比定地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」に、「日本書紀・応神天皇・三十一年の条には『枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある」とする。文献と由良とを付合させただけであり、応神天皇と関連づけるほかのものがない。のちに藤原氏が付けた地名と思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。
 また、「由良の門とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある」とする。紀淡海峡は門(戸)にしては大きすぎると指摘した者がいたので、すぐに別の場所(丹後の由良川)を挙げるのは藤原氏である。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(4) 鳥取県北栄町の由良
由良の門.jpg
 鳥取県北栄町由良には「由良の地名は木花之佐久夜毘売が付けた」という伝承がある。「ゆら」の発音は女性の命名と思われる。
 鳥取県神社誌高江神社の由緒に「当社は天正19年(1591年)9月大山より勧請せりと云う。この以前は現今境内神社子安神社(祭神 木花之佐久夜毘売)、由良郷の總産土神なる由なる」とある。1591年以前は木花之佐久夜毘売(私見では弥生時代)だけが由良郷の總産土神であった。子安神社の祭りの飾り付けは代々竹歳家(全国では170軒しかないが、由良では一番多い姓)が行う仕来たりになっている。高江神社横の駐車場から弥生時代の住居跡が発掘された。創建が弥生時代に遡るような神社と思われる。
DP2M0425.jpg
 右の境内社が木花之佐久夜毘売を祀る子安神社である。今、立っている場所も神社の敷地内であり、ゲートボール場にするため造成中に弥生時代の住居跡数遺構が発掘された。あるのは駐車場の看板だけであり、案内板もなく、宣伝もしない。発掘調査報告書もどこにあるのか埋もれたままである。

 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。北栄町由良宿に近い青谷上寺地遺跡より弥生時代中期後葉の状態の良い琴が発掘されている。由良の門(戸)とは橘の小門と同じで入り江の入り口のことと思われる。応神天皇の時代(354年~394年)、由良に入り江があった。紀元前2世紀頃は海面が海抜4mくらいにあったので紀元4世紀頃は海抜2mくらいに海面があったと思われる。海抜2mくらいに海面があった鳥取県北栄町由良宿の地形を見ると現在の由良宿内に入江が確認できる。由良の門(戸)とは紀淡海峡でも丹後の由良川の河口付近でもない。北栄町由良宿にあった入り江の入口が由良の門(戸)であったと思われる。応神天皇の時代、鳥取県中部には軽の坂上の厩と軽島明之宮の比定地が確認できる。

由良の門.jpg2.jpg
 仁徳天皇(第14代)も応神天皇(第15代)も武内宿禰天皇(第13代)の皇子であったから鳥取県北栄町原で育った。船で対岸の由良の門(戸)にも渡っていたはずである。武内宿禰天皇(第13代)の時代よりもまだ海面が下がったので、2人とも東の東郷池(難波津)の近くに皇居を建てた。
 「等由良」を「豊浦」とし、「由良」がキーワードだと悟られても、由良の比定地を全国に複数作り、その中でたらい回しにして迷宮入りにさせ、本物が見つからないようにする手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。
 昭和38年の合併で由良町は無くされた。由良育英高校も無くされた。北栄町の由良は行政に時間をかけて消されていく方向にあるように思われる。父(蘇我馬子天皇)や子(天武天皇)の皇居の比定地も鳥取県中部に確認できるので「等由良」の本当の「由良」は鳥取県北栄町の由良と思われる。

 

 

 


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聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった [閑話休題]

 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった。

皇居と産屋.jpg
1 鳥取県北栄町下種集落 大宮神社(ニニギ命)
2 鳥取県北栄町由良宿 高江神社(木花之佐久夜毘売)
  1~2の間は4.1km
3 鳥取県倉吉市大宮集落(神武天皇)
4 鳥取県倉吉市耳集落(媛蹈鞴五十鈴媛命)
  3~4の間は3.7km
5 鳥取県北栄町島集落(蘇我馬子天皇)
6 鳥取県倉吉市馬場町(物部鎌姫大刀自)
  5~6の間は3.7km
7 鳥取県倉吉市大原集落(物部氏の本拠地)
  6~7の間は4.2km

 ニニギ命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからだと思われる。
 また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。
 これら7つの比定地は正しいものと思われる。 

 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。


 由良の宮.jpg
 元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であった。
先代旧事本記天孫本紀 に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。蘇我入鹿のことを豊浦大臣と呼んでいたのであるから、蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。豊浦の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は等由良に住んでいた。
 蘇我馬子は天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。蘇我蝦夷は蘇我一族を悪者にするために、のちに藤原氏が創った虚構の人物である。虚構の人物だから甘樫丘から遺跡が見つからない。蘇我馬子天皇の皇子は蘇我入鹿天皇であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。
 蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。この丘陵地の造成工事中に大量の土器や石器が出土していたことを筆者は確認している。ここで、蘇我善徳天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。
 山背大兄王の話や蘇我・物部戦争の話は藤原氏が創作した作り話である。


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鳥取県北栄町の葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである) [大国主命]

 兎の予言したとおり大国主神は八上姫と結ばれ、やっとのことで国作りを完成させることができ、葦原中津国(狭義)を治める神様となりました。

 古事記には「大国主の命は葦原中津国(狭義)を中心に治めていた」とある。

1 葦原中津国を構成する集落
葦原中津国の13集落.jpg
1 瀬戸  2 西穂波  3 亀谷  4 津原  5 谷  6 鋤  7 穴田  8 別所  9 尾原  10 穴沢  11 穂波  12 原  13 大島

2 大国主と須勢理比売と八上比売は鳥取県北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)に住んでいた。
(1) 素戔嗚の娘の須勢理比売(鳥取県中部ー倉吉市出身)と大国主は異母兄妹である。子供もない。根国から大国主に背負われて黄泉平坂の麓まで行き宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)の松樹庵に住んだ。素戔嗚は「・・・出雲の国を治めるがよい。お前の連れている、我が娘の須勢理比売を正妻として・・・」と言っているがこれも藤原氏による改ざんである。
(2) 八上比売(鳥取県東部ー鳥取市出身)は大国主の妹の須勢理比売とおりあいが悪かった、ということは宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)に須勢理比売と一緒に住んでいたものと思われる。子供を置いて八上郡に帰った。

3 古事記・大国主神御末神等の段
 古事記には「この大国主の神は、后に歌われたように、多くの妻を持ち、したがってまた多くの御子を持った」とある。
(1) 胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命(鳥取県西部ー米子市出身)を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。(鋤)
(2) 神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神。(亀谷)
(3) 八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。
(4) 日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は國忍富神。
(5) 葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神。
(6) 天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神。
(7) 淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神。
(8) 比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は美呂浪神。
(9) 敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神。
(10) 若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神。
(11) 天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神。
以上に述べた八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神まで、これを十七世の神という」とある。
※私見
 大国主神御末神等の段とあるが「多くの妻を持ち、多くの御子を持った」のであるから、「この神」とは大国主と解すべきである。八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神までも大国主の妻と御子である、と解される。「十七世の神」は「合わせて十七神」を改ざんしたものと解される。

4 古事記・大年神羽山戸神御子等の段
(1) 大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。
(2) 香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。
(3) 天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が斉拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。
 大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。
 この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
※私見
 大年神羽山戸神御子等の段は大国主神御末神等の段との間に少名毘古那神の段と幸魂奇魂の段が入っているが大年神羽山戸神御子等も葦原中津国で生まれたものと解される。大年神は大国主の異母弟であるから、大国主は葦原中津国の国造りに大年神を誘ったものと思われる。大年神が3人の妻を娶った場所は大国主と同じ葦原中津国と思われる。
 「次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である」とあるが、平安時代に京都の藤原氏が加筆したものと思われる。羽山戸神の子も国譲りの時までに葦原中津国で生まれていたものと思われる。

5 私見
大国主.jpg
 先代旧事本記によると「大国主は素戔嗚と稲田姫との御子であり、大年神と須勢理姫は素戔嗚と神大市比売との御子である」とする。大年神は大国主の異母弟にあたる。大国主は異母妹の須勢理姫と一緒に葦原中津国の国造りを始めたのだから同じ異母弟の大年神も誘ったものと思われる。古事記・神代10の巻(大年神羽山戸神御子等の段)に記載されている大年神の子は、大国主と同じく葦原中津国において生まれたと思われる。
 「百八十神」という表現や葦原中津国の広さからすると大国主、大年神、それに葦原中津国から逃げずに大国主に従った準王一族(出雲神族)の妻子も一緒であったと思われる。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族が列島に渡ってきたのが紀元前194年頃であるから、その頃、大国主は14歳くらいであった。八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼であった(千賊山の案内板より)から、因幡の白うさぎ伝説に出てくる兄の八十神は、のちに鬼と言われた準王一族(出雲神族)であったと思われる。準王一族(出雲神族)は大国主がまだ妻を娶る前から伯耆国より東の因幡国に来ていたのだから、その途中にある伯耆国の葦原中津国にも来ていたはずである。天忍穗耳命が「豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい」と言っったのは準王一族(出雲神族)が豊葦原の水穂の国(葦原中津国・磐余邑を含む)を占領していたからと思われる。その後、大国主は父の素戔嗚から譲られた武器で八十神(準王一族)を蹴散らして葦原中津国の国造りを始めた。
 原古事記にはニニギ命の降臨の前に饒速日の降臨が記されていたが、記紀においては削除されている(先代旧事本記による)。北栄町の土下山(天香久山)に降臨した饒速日は準王一族(出雲神族)の妹を娶っている(先代旧事本記)。北栄町の土下山(天香久山)には長髄彦の妹の登美夜須毘売が饒速日の妻になって来ていたから、土下山(天香久山)周辺には準王一族(出雲神族)もいたものと思われる。同じ北栄町の葦原中津国にも準王一族(出雲神族)が残っていたと解するのが無理がないと思われる。大国主の妻子や大年神の妻子を合わせても五十五神ほどである。百八十神は大まかな数字だとは思われるが百八十神になるにはあと百二十五神必要である。
 饒速日の降臨は紀元前185年頃と思われる。饒速日が亡くなってニニギ命が降臨したのは紀元前180年頃と思われる。国譲りが終わったのは紀元前160年頃と思われる。国譲り(紀元前160年頃)の後、大平山に退いた事代主と一緒の百八十神の中には準王一族(出雲神族)も多くいたものと思われる。葦原中津国を退いた百八十神の多くは大平山を下り東郷池の波延の地に住んだものと思われる。
 神武天皇が帰ってこられたとき(紀元前60年頃)に、大平山を降りた東郷池周辺(磯城)には兄磯城・弟磯城がいた。日本書紀・兄磯城・弟磯城に「天神の御子が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。・・・。」とあるので兄磯城・弟磯城一族は天神の存在を以前から知っていたものと思われる。兄磯城・弟磯城は事代主と一緒に退いた百八十神の中にいた準王一族(出雲神族)の子孫と思われる。兄磯城は神武天皇に従わず戦ったので殺されたが、弟磯城は神武天皇に従い師木県主となりその住んでいる地名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)と名乗った。
波延2.jpg
 百八十神は大平山の千坂を下り門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落に住んだものと思われる。百八十神の中にはのちに磯城県主(弟磯城)になる準王一族(出雲神族)も含まれていたものと思われる。古事記・雄略・白い犬にある「鰹木をあげて屋根を作った志幾の大県主の家」は門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落などの波延地域のどこかにあったものと思われる。
 「千坂」は通行人が賊に襲われることがあったので、以前は「血坂」と書いていたと郷土史家はいう。

6 参考 古事記訳文
(1) 神代9の巻
 ◎ 須勢理比売の歌
大国主神の正妻である須勢理比売命は、すなわち多くの后の中の大后であって、すでに八上比売が御子を置いて稲羽へ帰ったことでも分かるように、ほかの后たちに対して嫉妬する心がとくに激しかった。・・・。
 ◎ 大国主神御末神等の段
この大国主神が、胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命である。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。
大国主神が、また神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神である。また八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は国忍富神。この神が葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神である。この神が天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神である。この神が淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神である。この神が比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比比売を娶って生んだ子は美呂浪神である。この神が敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神である。この神が若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神である。この神が天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神である。このくだり、八嶋士奴美神から遠津山岬帶神まで、十七世の神という。
(2) 神代10の巻
 ◎ 少名毘古那神の段
この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。・・・。
 ◎ 幸魂奇魂の段
大国主神は愁い歎いて、「私一人で、どうやってこの国を作り終えることができよう。どの神と協力すればいいのだろうか。」と言った。このとき、・・・。
 ◎ 大年神羽山戸神御子等の段
その大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。また香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。また天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が齋拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。このくだり、大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
(3)神代11の巻
 ◎ 国平御議の段
天照大御神は、「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が治めるべき国である」と言って、高天原から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、ひどく騒がしく乱れているようだ」と言って、再び高天原へと戻り、その由を天照大御神に説明した。・・・。
(4)神代12の巻
 ◎ 大国主神国避の段
・・・。すると大国主神は「私の子たちの言う通り、私も従おう。この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は黄泉の国に隠れよう。私の子の百八十神たちは、事代主神が指導者として天神に仕えたなら、反逆することはない。」こう言って、・・・。






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師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった [閑話休題]

 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。


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1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
 この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
 大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にあった。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上にあったものと思われる。
 川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。


2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。 まことに陰険であり、残酷であった。 王のナガスネ彦(長髄彦)は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。 ナガスネヒコ(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。 我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
 「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。 『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。 『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
 忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
 「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった]とある。
※ 私見
 道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。三徳川を下った山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。
 兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
 神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。


3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
 第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。「矢の姿になって云々」は作り話である。神武天皇が即位した紀元前60年の頃には大物主(天忍穂耳)は亡くなっていたはずである。日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主もニニギ命と同年代となる。ウガヤフキアエズはホホデミ命のあだ名である(先代旧事本記より)から省略しても、事代主の娘ならばホホデミ命と同年代となる。父親と同年代のおばさんになり、少女であったという記述と矛盾する。古事記も日本書紀も本当の出自を隠すために大物主と事代主に書き換えたものと思われる。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主が娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長という役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けられたと思われる。
 日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ) と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
 当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
 ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
 第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶られたと思われる。


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シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる [閑話休題]

 シキ(師木・磯城・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。


1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇(欠史8代であり、藤原氏もそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
 神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
 師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇 
 御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。
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2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いておられるので葛城地方は葛城山と日向(四王寺山と葦原中津国)であった。師木地方もこの近くにあるはずである。

3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を思わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたものと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対比して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。

4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形ををしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。この当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池ではないかと思われる。

5 古事記・雄略・白い犬
 天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。

入母屋式家形埴輪.jpg
 入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
四注式家形埴輪.jpg
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃

 これらは志幾の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
 鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。

6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
※ 私見
 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外に他府県にもある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったものと思われる。古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことであった。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。


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第二節 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。

1 古事記を読んだ百済出身者の史官や藤原不比等にとってみれば、非常に面白くない。藤原不比等や百済史官は卑弥呼が日女命であり、またの名を倭迹迹日百襲媛命であることは知っていた。日本書紀を作るにあたって、彼らは卑弥呼は死んだことにして、新羅国をやっつける英雄を作り上げる必要があった。それが神功皇后である。卑弥呼を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。稚日女命は陰部をついて死んだし、倭迹迹日百襲媛命も陰部をついて死んだ。死に方が全く同じである。呼び名の違う同一人物を両者とも陰部をついて死んだことにした。後者の神話をなぜ挿入する必要があったのか。後者がなければ完全に騙されるところであった。まるっきり、その場で思いついた作り話である。大物主は天忍穂耳であり時代がまったく違う。
 全国に祀られている稚日女命も卑弥呼である。全国の神社は藤原氏が掌握していたのであるから、日女命に稚を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社や賀茂神社や天満宮や春日大社は藤原氏が作ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込まれていた。

2 私見

(1)孝霊天皇と倭迹迹日百襲姫命は出雲に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と倭国大乱を戦っていた。
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
鬼.jpg
 特に鬼(鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれていた青銅器文化の一族=出雲神族であり倭国大乱の相手方)が住んでいたといわれる鬼住山の背後の大山山麓の日光村には、孝霊天皇(山田神社)と稚日女命(吉原神社)が祀られている。周辺の地名に大(王)の付く地名が8ヶ所集中しているので栃原集落に実際に孝霊天皇がいたものと思われる。その背後の吉原集落には稚日女命がいた。これは倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(ヤマト王権)の陣地の痕跡だと思われる。鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。お告げをした天津神は、栃原集落に陣取っていた孝霊天皇の背後の吉原集落にいた稚日女命と思われる。
 孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)は出雲神族(準王一族=青銅器文化の一族)と戦うために、鳥取県西部の出雲と接する2郡(西伯郡と日野郡)にいたと思われる。稚日女命は卑弥呼か台与か問われれば、稚日女命は倭国大乱を一緒に戦った孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命であるということになる。

(2) 海部氏勘注系図を見ると11世孫の妹の日女命のまたの名には小豊姫命があり、小豊姫命が魏志倭人伝にいう台与と言う説がある。小豊姫命のまたの名に稚日女命や倭姫命もある。私は稚日女命や倭姫命を卑弥呼としている。本当に小豊姫命が台与であろうか。(コ)トヨなのでトヨは別に書かれているのではないだろうか。10世孫の妹に豊鋤入姫命がいる。彼女こそ本当の「トヨ」と思われる。
 魏志倭人伝にある「男王」とは、卑弥呼が248年、崇神天皇が258年に亡くなっているので、生前譲位した崇神天皇(在位186年~220年)や垂仁天皇(在位220年~248年)ではなく景行天皇(在位248年~280年)と思われる。日本書紀では景行天皇の妹は倭姫命となっている。本来孝元天皇の妹である倭姫命を「倭姫命世紀」を造った関係で、景行天皇の妹に持ってきた。一緒に全国を巡行した倭建命(開化天皇)も同時代になるように景行天皇の皇子に持ってきた。
 本来豊鋤入姫命は垂仁天皇の妹ではなく景行天皇の妹であった。景行天皇の妹に倭姫命を持ってきたので、景行天皇の妹であった豊鋤入姫命を垂仁天皇の妹に持っていった。
 日本書紀や倭姫命世紀の順序は豊鋤入姫命(台与)→倭姫命(卑弥呼)である。しかし、魏志倭人伝では卑弥呼(倭姫命)→台与(豊鋤入姫命)の順である。日本書紀や倭姫命世紀と魏志倭人伝とでは順序が逆である。勘注系図も日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序にしてあるのは、籠神社の宮司が藤原氏に見せる時に、日本書紀や倭姫命世紀と同じ順序である、と説明するためと思われる。
 藤原氏は先に豊鋤入姫命がきて、後に稚日女命や倭姫命が書いてあるので日本書紀や倭姫命世紀と順序が同じであるとして検閲を通す印を押した。しかし、11世孫の日女命は9世孫の日女命と同一神と思われる。勘注系図はここを悟られないようにして稚日女命や倭姫命を11世孫に持ってきた。11世孫にある稚日女命や倭姫命も本来は9世孫の日女命であり、亦名は倭迹迹日百襲媛命であった。
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えたものと解される。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を胡麻化すためと思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命である。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼であるとする説が有力である。稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼となる。勘注系図の稚日女命=倭姫命より、稚日女命=倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼=倭姫命となる。鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた倭迹迹日百襲姫命は7歳のときに、天日槍の造った丹波国に1年ほど疎開していた。ちなみに、勘注系図の6世孫と10世孫の大倭姫は同一神(台与)と思われる。

3 参考
 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 



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第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
123.jpg

 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3 鳥取県中部の空撮
軽島明宮3.jpg

 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。

軽島明宮.jpg 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

軽島明宮1.jpg軽島明宮2.jpg 


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台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった。

1 魏志倭人伝によると「卑弥呼の後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した」とある。
 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。〈原古事記にあった詳細は倭姫命世紀に書き出されている〉
 豊鋤入姫命は天照大神を奉斎していたので魏志倭人伝の台与(トヨ)である。
 原古事記には「孝霊天皇の皇女、日女命またの名、倭迹迹日百襲媛命」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあったはずである。藤原氏は日女命を稚日女命とし倭迹迹日百襲媛命を倭姫命とし、垂仁天皇の皇女の豊鋤入姫命を倭姫命と入れ替えた。その動機は「倭姫命世紀」という書物を作ったからである。はじかれた豊鋤入姫命をそのまま垂仁天皇の皇女にすると入れ替えたことが分かるので崇神天皇の皇女とした。
 以前景行天皇の在位期間を260年~290年としていたが、景行天皇の在位を248年~280年頃に訂正します。妹の倭姫命(豊鋤入姫命=トヨ)は13歳で卑弥呼の宗女となった。魏志倭人伝の「男王」とは景行天皇であった。皇居は鳥取県中部にあったが多くは奈良の纒向日代宮におられ、全国の代表者を集めて妹の豊鋤入姫命(台与)が祭祀をしていた。中国にとって男王は影が薄かったようだが、中国のいう女王と倭国の男王(天皇)は並立していた。

2 勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命

3 私見
(1)海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とするのが通説である。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命はニニギ命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年まではホホデミ命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であったものと思われる。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中であった。日本書紀に合うように書かれている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀に合っているから藤原氏の検閲をパスした。日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え、11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。代はずれているが「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当の順序は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であった。史実は、「倭姫命」が9世孫の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫の妹であった。
(2)孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。卑弥呼も鬼道を使い倭国大乱の時期を生きた。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生ており、卑弥呼は孝霊天皇の一族と考えるべきである。
 鳥取県神社誌(昭和9年当時2市7郡)のうち孝霊天皇(9神社)と稚日女(8神社)の祀られている神社は、出雲国に接する西伯郡と日野郡である。稚日女命も孝霊天皇も出雲神族(準王一族)の鬼と戦うために西伯郡と日野郡にいたものと思われる。稚日女命は孝霊天皇と一緒に戦っていたのであり、倭国大乱の同時代に生きていたと解される。稚日女命は倭国大乱が終わってから宗女になる台与ではない。孝霊天皇の一族と解するほうが自然である。東は岩手県から西は長崎県まで全国の多くの神社に祀られている稚日女命は台与ではなく卑弥呼である。
(3)全国を巡行して社を建てさせ、準王一族(出雲神族)の祭祀を道教の神道に強制的に変えさせる巡行は倭姫命がしている。「倭姫命世紀」は倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行した一部である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。あとは纒向に全国の代表を集めて道教(神道)の祭祀をするだけであった。全国の巡行は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は全国の代表者を纒向に集めて道教(神道)の祭祀を行えばよく、わずかな巡行をすればよかった。倭姫命も倭建命と同じ倭国大乱の時期(146年~189年)を生きているから台与ではない。
 稚日女命も倭姫命も台与ではなく卑弥呼であった。
(4)豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇の妹ではない。崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言われているので、魏志倭人伝に言う「男王」ではない。しかし、台与は豊鋤入姫命とするのが通説である。崇神天皇は享年103歳くらいで258年に亡くなっているから、豊鋤入姫命は崇神天皇の13歳の妹ではない。垂仁天皇の在位も崇神天皇から生前譲位を受けて在位220年~248年くらいであろう。「男王」は景行天皇と思われる。台与(豊鋤入姫命)は景行天皇の妹と思われる。しかし、日本書紀では景行天皇の妹に倭姫命がいる。
 豊鋤入姫命と倭姫命とは別人である。伊勢神宮でも2人を別人として扱っている。2人は会ったこともないので天照大神を直接託すこともなかった。日本書紀では時代を、あとさき入れ替えて書いている。
 日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。「倭姫命世紀」を独立した書物にした関係で日本書紀では景行天皇の妹を豊鋤入姫命と入れ替え、倭姫命とした。倭建命も景行天皇の皇子に持ってきた。本来、倭建命も倭姫命も孝霊天皇の皇子と皇女である。

4 参考
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
 しかし、史実は「2世紀、倭姫命(卑弥呼)が全国を巡行し、3世紀、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)が少しの巡行をした」であった。
(1)倭姫命(卑弥呼)倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)
 1、大和国 字多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、伊勢国 桑名野代宮 11、伊勢国 奈具波志忍山宮 12、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 13、伊勢国 飯野高宮 14、伊勢国 佐々牟江宮 15、伊勢国 伊蘇宮 16、伊勢国 大河之瀧原宮 17、伊勢国 矢田宮 18、伊勢国 家田田上宮 19、伊勢国 五十鈴宮(現今の大神宮)
(2)豊鍬入姫命(台与)垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹
 20、倭国 笠縫邑 21、但波乃 吉佐宮 22、倭国 伊豆加志本宮 23、木乃国 奈久佐濱宮 24、吉備国 名方濱宮 25、倭国 彌和乃御室嶺上官

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持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた [百済王12代から45代までの倭国王]

 持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた。

1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読まれた。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。

2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰られた。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。

3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行かれた時も倉吉に残っていた。

4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653生まれで高市皇子は654生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。そのほかの妻がいつごろ天武天皇のもとに来たのかは判らないが、父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の皇女や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。

5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。


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