So-net無料ブログ作成
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

前の10件 | -

今までのまとめ [まとめ]

 今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 伊邪那岐・伊邪那美は葦原中津国(鳥取県北栄町)を造るため蒜山高原(瀛州)より倉吉市の新宮神社に降臨していた。伊邪那美は病気で打吹山周辺に収容された。三貴神(天照大御神・素戔嗚・月読命)は葦原中津国に到着した。伊邪那岐は三貴神を葦原中津国で出迎え「~は~を治めよ」といった。素戔嗚以外は蒜山高原(瀛州)に上がった。高天原は蒜山高原(岡山県真庭市)である。三貴神以前の神々も蒜山高原(瀛州)にいた。


2 天照大御神は男性である。天照大御神は道教の方士徐福である。徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡り、徐福本隊は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着した(紀元前210年)。徐福は三神山〈蓬莱山(大山)・方丈山(烏ヶ山)・瀛州山(蒜山)〉に上がり始皇帝にいわれたように王(天照大御神)となった。月読命は保食神であり女性である。


3 素戔嗚は葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから瀛州(蒜山高原)に上がり、降りて八岐大蛇を退治した。八岐大蛇伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。その後、稲田姫と鳥取県八頭郡に住んで大国主(八島士奴美神)を生んだ。根堅洲国(黄泉国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。素戔嗚は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社に須勢理姫(宇迦之御魂神)と住み、東山神社に移った。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原にあった。


4 伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市中心市街地)から葦原中津国(鳥取県北栄町)までの鳥取県道23号線である。大国主はスセリ姫を背負って黄泉比良坂から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に逃げた。大国主は素戔嗚と稲田姫の子である。


5 大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山を本拠地として少彦名とともに、全国の国造りをしていた。少彦名がいなくなってから、天忍穂耳(大物主)が大国主と協力して全国の国造りをした。この時の天忍穂耳(大物主)の本拠地は北栄町下神の三輪山(神山)であった。


6 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきて交渉した伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。


7 天照大神・月読命(保食神)・饒速日命一行は蒜山高原(岡山県真庭市)より倉吉市関金町に降臨し、天照大神・月読命(保食神)一行は伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。健御名方は琴浦町方見村に居た。饒速日命は鳥取県北栄町の土下山(天香久山)に降臨し定住した。猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。


8 饒速日命が亡くなったので、2番目に弟の瓊々杵命が鳥取県北栄町下種・茶ヤ条の大宮神社に降臨し、葦原中津国を平定した。瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。瓊々杵命の子の火火出見命(鵜草葺不合)は辰韓に行き豊玉姫と結ばれ、五瀬命が生まれた。また、玉依姫と結ばれ神武天皇が生まれた。火火出見命(鵜草葺不合)は日向の四王寺山に宮を造られた。
 北条砂丘全体が「笠沙之御前」であると確認できたこと、地形・周辺の神社の祭神の配置などより葦原中津国は100%間違いありません。この葦原中津国より、すべてが導き出されてきた。


9 神武天皇の四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(畝傍山・日向)におられた。神武天皇の四兄弟は二男と三男が大陸に渡るため、一旦九州に行かれた。神武東征の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。長男と神武天皇は九州から奈良に行かれ長男は亡くなったが、神武天皇は奈良から倭国(鳥取県中部)に帰られ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位された。二男の稲飯命は辰韓に行かれ紀元前57年に新羅を建国された。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。


10 第2代天皇は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社におられた。第6代孝安天皇は北栄町大島に、第7代孝霊天皇は湯梨浜町宮内に、第8代孝元天皇(卑弥呼・吉備津彦・吉備武彦の兄)は倉吉市小田におられた。第9代開化天皇(吉備武彦・倭健命)は鳥取県湯梨浜町宮内で生まれた。第3代(師木の湯梨浜町南谷)、第4代(軽の倉吉市小田山)、第5代(葛城の倉吉市穴沢)の天皇も鳥取県中部におられた。欠史8代の皇居は奈良とは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。倭国天皇家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国を統一するまで、準王一族(出雲神族)と対立していた。


11 邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇の妹であった。景行天皇の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であった。


12 第10代崇神天皇(吉備津彦、卑弥呼の弟)と第11代垂仁天皇は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動しておられた。第12代は景行天皇、第13代は武内宿禰天皇、第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰)、第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦)、第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃)、第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍)、第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済)、第19代は安康天皇(興)、第20代は雄略天皇(武)、第21代は清寧天皇、第22代は仁賢天皇、第23代は武烈天皇、第24代は継体天皇、第25代は安閑天皇、第26代は蘇我稲目天皇、第27代は蘇我馬子天皇、第28代は蘇我入鹿天皇、第29代は蘇我倉山田石川麻呂天皇、第30代は天武天皇、第31代は高市天皇(キトラ古墳)、第32代は忍壁天皇(高松塚古墳)、第33代は穂積天皇であった。第34代天皇は安全のため鳥取県中部にいた。


13 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・磐余邑・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮は鳥取県中部(倭国)にあった。天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社にあった。天武天皇も長屋親王も泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で道教を会得した。660年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大御神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、倭国の都は鳥取県中部であった。





 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。


 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。


 任那(全羅南道)を侵す百済に対して、蘇我馬子天皇は日羅の進言に基づき、王か王子を倭国に来させるように要求していた。


 631年、百済が全羅南道にあった任那を侵すので、中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿天皇の皇居(由良の宮)に人質としてこさせられた。中大兄王子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会うまで大海人皇子と同じように蘇我入鹿天皇のもとで育てられた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から六韜に基づいて蘇我入鹿天皇を徹底的におだてた。高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は、645年に聖徳太子である蘇我入鹿天皇を斬首した。647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂天皇が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。天武天皇は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。


 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。


 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。


 不比等は天皇や側近を徹底的におだてた。不比等と鸕野讃良は天皇や多くの要人を次々に毒殺した。高市天皇(在位686~696)、忍壁天皇(在位696~705)、穂積天皇(在位705~715)は在位期間が短いので毒殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた天皇(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。


 唐は日本は倭ではないことを知っていたので席次は新羅より下であった(753年)。日本は780年には新羅との国交を断絶する。倭国を乗っ取った政権(藤原一族)は八紘一宇を掲げて太平洋戦争が終結するまで大陸進出を試みた。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。


 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を隠すために亡命百済王朝(日本)の神社として始まった。倭国の倭姫命(卑弥呼)と弟の崇神天皇によって始まった全国の神社(4万社ほど)も取り込んで列島を支配した。それまで倭王朝に虐げられていた馬韓出身の準王一族にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇に多い。


 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛文麿は藤原氏である。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)は百済人が始めた。


 藤原氏の支配は政財界や各種組織のリーダーとして現在でも続いている。明治維新は王政復古であり藤原王朝が元気を取り戻した時代であった。半面、明治維新は鳥取県中部(倭国)にとってはさらに受難の時代であった。歴史上重要な神社が並み以下にされた。天照皇大神宮を方見神社とし、賀茂皇大神宮を賀茂神社とされた。倉吉の雄略天皇と武烈天皇の皇居の間に大きな鎮霊神社を建立した。明治政府の冷遇に鳥取県はうるさかったようだ。明治政府はうるさいことを理由として鳥取県を無くし、明治9年に島根県に合併して松江を県都にした。この藤原体制は太平洋戦争が終了するまで続いた。戦後70年経って、藤原氏はまた戦前までの藤原体制を再興しようとしている。「藤原にあらざれば人にあらず」(国民の命を虫けらのように扱う)の精神が復活しようとしている。



 

※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。     平成28年5月11日更新

 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA

続きを読む


nice!(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち26天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している [百済王12代から45代までの倭国王]

1  倭国第25代安閑天皇の勾金橋宮は鳥取県三朝町大瀬にあった。道も川も曲がっているし、前の川には橋が架かっていた。大瀬の大は王である。橋を渡って国道179号で美作国・吉備国に行くことができる。第10代天皇・第11代天皇が美作国に宮を置いてから、それ以降の天皇は国道179号を利用しておられた。倭国第25代安閑天皇は国道179号近くの津山よりに皇居を造られた。また、大陸からの使いを迎えるために東郷池にも宮を置いておられたようである。


2  「大」は「王」を直したものと思われる。

0bcfe59a.jpg

 昔は土手ではなくて、山沿いの旧道を通っていた。


3  初代から30代までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外する)

caa1c7f2.jpg
 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町南谷。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。    第十三代武内宿禰天皇 鳥取県北栄町原。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 遠飛鳥宮。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬。   第二十六代蘇我稲目天皇 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十七代蘇我馬子天皇 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿天皇 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂天皇 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町。


4  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第九代開化天皇(倭健命) 春日之伊邪河宮。
 尾張国におられたはずである。
 第十二代景行天皇 纒向日代宮 晩年に近江国に行幸、志賀高穴穂宮。
 景行天皇の実在性には疑問が出されている。    
 第十三代成務天皇 近つ淡海の志賀高穴穂宮。
 成務天皇の実在性には疑問が出されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。淡海に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。第十三代は武内宿禰天皇であった。   
 第十四代仲哀天皇 穴門豊浦宮 筑紫橿日宮。
 仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。第十四代は仁徳天皇であった。
 第十八代反正天皇 丹比柴籬宮。
 淡路島の生まれ。淡路島はヤマト王権に敵対する一族がいた。
 第十九代允恭天皇 遠飛鳥宮。
 允恭天皇の実在性について疑問とする説あり。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に遠いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十三代顕宗天皇 近飛鳥八釣宮。
 億計・弘計2王の発見物語は劇的な要素が強く、史実として信じ難いことが指摘されている。稗田阿礼は場所を表すのにできるだけ詳しく表現した。飛鳥に近いというあいまいな表現は藤原氏の改ざんである。
 第二十八代宣化天皇(蘇我稲目天皇) 檜隈廬入野宮。
 天皇が並立していたとの説あり。宣化の在位期間中、倭国(鳥取県中部)の天皇は蘇我稲目天皇であった。蘇我稲目天皇は泊瀬(倉吉市)と磯城(湯梨浜町)に宮を持っていた。


5  私見
 鳥取県中部に皇居が特定できない天皇は、実在性に疑問のある天皇が多いため、初代から第三十代までの天皇はほぼ、鳥取県中部におられた。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って、初代天皇として即位され、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠まれてから、倭国の外を活動本拠地にされても、皇居は倭国(鳥取県中部)においておられた。たとえ出張先が吉備や纏向であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においておられた。皇居が他所にある天皇は何らかの改ざんが加えられている。
 第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の皇居のヒントが全く見つからないのは、両天皇は高句麗・百済に壊滅的な打撃を受けたからと思われる。天皇も戦で亡くなったかも知れない。亡命百済王朝は両天皇の在位時期に両天皇の存在を消して、ヒントを残さなかった。第十七代反正天皇、第十八代允恭天皇の名前は改ざんされているし、皇居は赤丸のいずれかにあったと思われる。
 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代30人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を作られたが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営された。


nice!(1) 
共通テーマ:学問

鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。
  先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。
2 ウィキペディアより
 ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。
3 私見
(1) 日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。系譜に関しては、記紀より先代旧事本紀のほうが信用できる。先代旧事本紀は瓊々杵尊と磐余彦尊との間には一人しかいないとする。したがって、彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。
(2) 「産屋を建てるのが間に合わなかった」はあだ名にはなるが、正式な名前とは思われない。これも、あだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けたものと思われる。
(3) 古事記・日本書紀には鵜草葺不合の事蹟はほとんどない。神社の由緒にもない。これは、旧辞のない欠史八代と同列に論じることはできない。名前自体があだ名にふさわしいので、鵜草葺不合の実態はなかったと思われる。
(4) 京都で暇を持て余していた藤原氏は空想科学小説が好きだったようで、あだ名に過ぎないウガヤフキアエズを独り歩きさせて、数十代にわたるウガヤフキアエズ王朝なるものを作り上げた。
(5) 豊玉姫と玉依姫の姉妹は2人とも彦火火出見の妻であった。豊玉姫は一人しか生まなかったから、産んだ子は五瀬命と思われる。玉依姫は次男の稲飯命、三男の御毛沼命、四男の磐余彦命を生んだ。こういう系譜なら今でもありそうである。
(6) そう解することで、高倉下命と宇摩志麻治命は磐余彦の叔父くらいの年齢になり同時代に生きていたことになる。

(7) 彦火火出見(鵜草葺不合)は父瓊々杵命のいた北栄町のクシフルタケではなく、倉吉市の四王寺山に宮を造ったと思われる。そこで、神武天皇の4兄弟は育てられた。
(8) 四王寺山(倉吉市)の防御の構造は彦火火出見(紀元前150年~)の時代に、近くに敵がいたことを想像させる。それは「トミ」と名乗った準王一族(出雲神族)と思われる。饒速日が降臨して長髄彦の妹の三炊屋媛を妻とした鳥見(トミ)の白庭山(北栄町の土下山)にもトミの一族はいたと思われる。

(9)このことによって、天忍穂耳から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれた時の父親の平均年齢は36歳になる。
 饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年26歳くらい。瓊瓊杵命が降臨したのが4歳ならばに瓊瓊杵命は紀元前184年(天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年)ころの生まれと思われる。天忍穂耳が伯耆国に到着してから26年後となる。紀元前184年引く紀元前112年(神武天皇の誕生年は紀元前112年)は72年であり、それを2で割ると36歳となる。火火出見命は3男、神武天皇は4男だからこの結果になる。

(10)鵜草葺不合を生んだのは豊玉姫ではなく木花之佐久夜毘売であった。鵜草葺不合の父は瓊瓊杵命であり、母は木花之佐久夜毘売であった。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった 2 [閑話休題]

名称未設定-1.jpg

 弥生時代から住んでいた住民は海面が下がるにつれて下に降り、現在の由良宿を造ったと思われる。


1 旧大栄町(現北栄町)の遺跡

謎の出雲帝国00000277 (2).jpg謎の出雲帝国00000276 (3).jpg


2 高江神社遺跡発掘調査報告書より

謎の出雲帝国00000275 (2).jpg謎の出雲帝国00000276 (2).jpg

謎の出雲帝国00000278 (3).jpg

 まとめ

謎の出雲帝国00000281 (2).jpg

 「弥生時代後期から古墳時代前期後半の竪穴住居跡17棟、掘立柱建物4棟を検出した」とある。

 「奈良時代に入ると、東伯町の斉尾廃寺跡が知られている。この時期の集落としては、由良遺跡、向野遺跡、大高野遺跡があげられる」とある。

◎ 南原千軒遺跡報告書(平成16年ー2004年)より歴史的環境(古代) 
 「斎尾(斎王)廃寺では塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される」とある。
※ 畿内と結びつきの深い有力豪族(蘇我一族)は斎尾廃寺周辺(4km.東方の北栄町由良)で勢力を持っていた。由良遺跡は古墳時代から奈良時代までの複合遺跡であり、半径500mに及ぶ広い遺跡である。この丘陵台地に蘇我一族(蘇我入鹿またの名は善徳またの名は聖徳太子)の本拠地があったと思われる。


3 私見
 神社横の駐車場からも複数の弥生住居跡が検出されていたが、その調査報告書は見当たらない。高江神社遺跡は神社の前を通る道路の建設中に発掘された。たかだか300mほどの距離の直線道路の予定地から弥生時代後期・古墳時代前期の17棟もの竪穴住居跡が検出されるのだから、古代は相当な住宅密集地であったと思われる。竹歳家の先祖もこのあたりに住んでいたと思われる。海面が下がるにつれて下の現地に移られた。竹歳家はこの丘陵の延長上に多い。
 木花之佐久夜毘売(弥生時代前期)の産屋は高江神社にあったと比定したのであるが、2kmほど西の大谷第1遺跡(おそらく徐福たちの遺跡)からは弥生時代前期の遺跡が発掘されている。また、高江神社の隣の西高江遺跡からは弥生時代中期の水晶の玉造工房跡が検出されているので、広い高江神社の敷地に弥生時代前期(紀元前150年頃)の木花之佐久夜毘売の産屋の遺跡があってもおかしくない。


4 ※参考 弥生時代(土器編年)                           
 古墳時代が始まる紀元三世紀(西暦300年)ころまで続いた、水稲農耕と金属器の使用に特徴づけられる時代を言う
 前期 BC200~BC100
 中期 BC100~AD100
 後期 AD100~AD300
の三時期に区分される。縄文時代に近い初期の稲作遺構を伴う時期を特別に早期とする場合もある。
 縄文時代と弥生時代の区分は絶対年代として確定されているわけではない。
 弥生時代の土器は、時系列に約600年分が整理されている。


5 由良遺跡発掘調査報告書より

謎の出雲帝国00000283 (2).jpg謎の出雲帝国00000284 (2).jpg

 まとめ

謎の出雲帝国00000292 (2).jpg謎の出雲帝国00000293 (2).jpg謎の出雲帝国00000293 (3).jpg

 「由良遺跡の試掘トレンチ調査では、弥生時代中期の土器、弥生時代後期の土器、古墳時代以降の土器が出土している。調査の結果、古墳時代中期~奈良時代、平安時代に至る遺構が存在することが明らかとなった。竪穴住居跡は9基、掘立柱建物は13棟分が確認された」とある。
 序文に「この台地は、古くより遺物の散布地として知られており・・・」とある。
 まとめに「しかし、地続きの大栄中学校の校庭のある丘陵地にも以前、多数の土器片が発見されたともいわれ、マクロ的に見れば別所古社地遺跡にまで遺跡が継続していると考えられる。従って、遺跡の範囲は半径500mに及ぶと推定され、これは、この一帯の地続きの畑地帯のある丘陵にほぼ一致する」とある。


6 私見
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は大栄中学校の敷地内にあったと思われる。この丘陵台地の中心部である。多くの須恵器と大きな建物遺構があったものと思われる。しかし、ブルドーザーによる造成で壊された。ブルドーザーの通った後に土器・石器が散乱していた。須恵器は値打ちはないと思ったので石器だけを持ち帰った。大栄中学校の造成工事を本来なら中止して、遺跡の発掘調査をすべきだが、発掘調査をしていない。
 校舎が完成し、2年生になった時に大栄中学校に通うことになった。私が刀で斬られる夢をみたのは3年生の時であった。「蘇我入鹿天皇は、刀で斬られてさぞつらかったであろう」という残された者たちの無念の思いが残っていたからと思われる。
 聖徳太子は奈良に行ったり来たりで、由良の皇居に長くはいなかったから、いるときには住民がいっぺんにおしかけたと思われる。10人の話を一度にきいたのも由良の皇居であったと思われる。
 尾道の浄土寺(開祖は聖徳太子と伝わる)と姫路の斑鳩寺との中間は岡山である。岡山ではなく北の鳥取県北栄町由良に聖徳太子の皇居はあった。聖徳太子はヤマト王権の御用水軍であった村上水軍で尾道からしまなみ海道を渡り、卑弥呼・倭健命たちが平定した松山にも行かれた。

nice!(0) 
共通テーマ:学問

「倭人」が新羅を攻撃したとする「三国史記」と伝承は改ざんされている [閑話休題]

 「倭人」が新羅を攻撃したとする「三国史記」と伝承は改ざんされている。

1 原古事記(712年)には新羅は倭国と兄弟国であり、百済は倭国にとって敵国であったと書かれていた。藤原氏は百済は良い国であり新羅は悪い国であったことにするため、原古事記に書かれていた新羅と百済を入れ替えて記紀を改ざんしたから倭国と新羅との関係も悪かったことにしなければならなかった。倭国と新羅は神武天皇が即位した時から兄弟国であったことになれば、新羅と百済を入れ替えたことが徒労に終わるからである。すべてを整合させるためには倭国と新羅の関係は悪かったことにする必要があった。そのために、三国史記を改ざんし、新羅に伝承を創っていったのは統一新羅が滅んで(935年)からと思われる。

2 文献に残る「新羅に対する攻撃」
(1)3世紀までの倭国と新羅との関係(ウィキペディアより)
 「三国史記」によると、新羅建国時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。
 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王(稲飯命)の説得に応じて倭軍は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 72年 倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきた。角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した「三国史記」。
 107年 倭国王帥升(孝安天皇)らが後漢の安帝へ生口160人を献じた「後漢書」。
 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した「三国史記」。
 123年3月に倭人と講和した「三国史記」。
 208年夏4月、倭人が国境を犯す「三国史記」。奈解王は将軍利音に反撃させた。
第11代助賁尼師今
 奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。
 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った「三国史記」。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
 233年5月、倭人が東部国境に侵入「三国史記」。
 233年7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
 239年 倭王卑弥呼は魏の明帝へ男生口4人、女生口6人を献上した「魏志倭人伝」。
 243年 魏の少帝へ生口を献じた「魏志倭人伝」。
 245年10月、高句麗東川王の侵入を受け、昔于老が出て防戦したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却したという。
 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 ~261年)
 247年7月に、父の骨正を世神葛文王に追封した。
 248年2月には高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採った。
 248年 倭王台与は生口30人を魏へ献じた「魏志倭人伝」。
 255年9月には百済の侵攻に対し、一伐飡の翊宗が百済軍を槐谷(忠清北道槐山郡)で迎撃したが、百済軍によって殺されてしまった。続けて10月には百済は烽山(慶尚北道栄州市) 城に攻め込んできたが、よく守って降伏せずに済んだ。
 261年3月には百済古尓王は新羅に和親の使者を発したが、沾解尼師今はこれを黙殺した。「三国史記」。
(2)4世紀の倭国と新羅との関係(日本書紀・三国史記より)
 368年(応神天皇14年)、弓月君が百済(新羅)から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅(百済)人が拒んでいるので、みな加羅国(百済国?)に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国(百済国?)の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった「日本書紀」。
 370年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅(百済)が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅(百済)を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅(百済)の国境に臨んだ。新羅(百済)王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた「日本書紀」。
 372年4月、倭(百済)人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った「三国史記」。
 377年、倭(百済)兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭(百済)軍が攻略した「三国史記」。
 379年、倭(百済)兵が長峯城を攻略した「三国史記」。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭(百済)に備えたという。
 391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
 393年 倭人が攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

3 私見
(1) 紀元前50年、新羅に侵攻するのは倭国にいた準王一族(出雲神族)しか思い当たらない。紀元前50年は神武天皇が新羅の稲飯命と協力して倭国の準王一族を平定し初代倭国天皇として即位した紀元前60年の10年後であり、稲飯命が斯蘆国を建国した紀元前57年の7年後である。倭国の準王一族が反乱を起こし、鉄製の武器を造っていた新羅(斯蘆国)を攻撃したとしても不思議ではない。その後の「倭人」も準王一族と思われる。
 原三国史記には「倭人」とは書いてなかったはずである。「倭人」とは倭国にいた準王一族だから藤原氏は「倭人」という表現を使ったと思われる。
(2)208年以降の「倭人」は陸上から新羅を攻めているので、朝鮮半島に残っていた準王一族(百済)と思われる。
 倭姫命(卑弥呼)と倭健命は三韓征伐(173年)をし、朝鮮半島の西から中国に行くために任那の領域(現在の全羅南道)を造った。国境とは百済と任那の国境と思われる。その後、百済と任那の国境は百済によって度々侵された。そこで捕らえられたのが生口と思われる。
 生口とは朝鮮半島で使われていた用語と思われる。「広開土王碑」に396年、百済が高句麗に生口(新羅か倭国の捕虜)を献上した記録がある。したがって、107年(160人)、239年(10人)、243年(?人)、248年(30人)に、中国に献上された生口(百済か高句麗の捕虜)は朝鮮半島で倭に捕らえられた捕虜と思われる。朝鮮半島に倭国に敵対する勢力がいた、ということである。その勢力が倭国と兄弟国の新羅を攻撃していた。原三国史記にはそのことが記載されていたはずである。それを「倭」に書き換えさせたのは、藤原氏である。その一族は藤原氏に関係の深い一族であったと思われる。それは、準王一族であり、百済と思われる。特に、248年に倭王台与が魏へ献じた生口30人は248年2月に新羅と百済との交戦で新羅に捕らえられた百済の捕虜と思われる。
 藤原氏は原古事記に書いてあった新羅と百済を入れ替えて百済と倭国は仲が良く新羅と倭国は敵対していたと改ざんした日本書紀を中国に献上した。弓月君の条も百済と新羅・加羅を入れ替えたと思われる。
 372年以降の「倭」は「高句麗か百済」を書き換えたと思われる。但し、391年は改ざんされていないと思われる。
 朝鮮半島には原三国史記があり、日本書紀とは違う内容であった。藤原氏は百済出身であったから、新羅を悪者にするために、また、倭国と百済は仲が良かったとする日本書紀との整合性を図るため、倭国が新羅を何度も攻撃していたように三国史記を改ざんさせたと思われる。
(3) 日羅は百済の任那(全羅南道)に対する度重なる侵犯をやめさせるために、蘇我馬子天皇に百済国王か百済王子を倭国に来させることを進言した(583年)。百済はこの時すでに倭国を乗っ取る計画を立てていたようである。蘇我馬子天皇は百済に対し、百済国王自らか百済王子を倭国に来させるように伝えたと思われる。百済王は蘇我馬子天皇が騙されないことを知っていた(609年百済からの船)。蘇我馬子天皇が亡くなり蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の時代(626年~)になり、蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人が良いことを百済に知らせる者がいたので、百済王は次男の豊璋(中大兄王子)と三男の塞上を倭国(鳥取県中部)に人質として行かせた(631年)。豊璋(中大兄王子)は6歳で鳥取県北栄町由良宿の由良宮に来させられた。豊璋(中大兄王子)は18歳まで大海人皇子(天武天皇)と同じように、鳥取県北栄町由良宿の由良宮(葛城)で育てられた。亡命百済人たちは中大兄王子のことを葛城(北栄町由良)王子といった。642年に百済から自称島流しになったという船が筑紫(宗像大社)に到着した。その中に鎌足(翹岐)などの百済の要人が乗っていた。鎌足(翹岐)は中大兄王子(豊璋)と奈良法興寺の蹴鞠の会で合流(643年)し、談山で倭国を乗っ取る(テロ)計画を立てた。倭国王である蘇我入鹿天皇は可愛がってきた中大兄王子や藤原鎌足たちのテロによって殺害された(645年)。中大兄王子が豊璋であることを悟られないようにするために、現在、豊璋の詳しい情報(生没年不詳など)は消されている。亡命百済人たちは、原古事記(712年)を読んで、百済の悪行が多く書いてあるので、新羅と入れ替えることにした。そして、出来上がったのが日本書紀(720年)である。734年に亡命百済王朝(日本)は完全に倭国を乗っ取った。
(4) 旧唐書(945年)は日本と倭国は別種であると記載している。「旧唐書東夷伝」の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本(亡命百済王朝)が倭国(鳥取県中部)を併合した、と記述されている。新唐書(1060年)は日本書紀に基づいて書かれている。統一新羅が滅んで(935年)から京都の藤原氏は朝鮮半島に渡ることができるようになり、1060年までに中国に日本書紀を認めさせたと思われる。三国史記を日本書紀に合うように改ざんさせた時期は統一新羅が崩壊(935年)してからと思われる(1145年完成)。
(5) 亡命百済人の藤原氏は日本書紀を中国や朝鮮半島にも及ぼした。朝鮮半島では1145年に現三国史記が編纂されるまで、原三国史記は存在していたと思われる。1145年まで高句麗、百済、新羅の歴史書がなかったと考えるほうが不自然である。原三国史記を日本書紀に合わせて改ざんした歴史書が1145年に完成した現三国史記と思われる。朝鮮半島の歴史書は日本書紀に合うように改ざんされたが、新羅には多くの伝承も残っていた。太閤秀吉の朝鮮征伐(1592年~1598年)でも分かるように、藤原氏は新羅地域を軍事力をもって制圧している。倭国における八幡神社(四万四千社存在する)による伝承の改ざんと同じく新羅地域における伝承も改ざんしていったと思われる。
(6) 斯蘆国は紀元前57年、神武天皇の兄稲飯命により建国された。倭国は鳥取県中部であり、倭国と交流するのに一番良い場所である朝鮮半島南東部に新羅は建国された。新羅と倭国は建国時から兄弟国であった。
 新羅の善徳女王は倭国の蘇我善徳天皇と交流があり親密な関係であったと思われる。蘇我善徳天皇の皇子の天武天皇も新羅と友好関係を結んでいた。紀元前57年より紀元734年まで倭国と新羅は兄弟国であった。倭国天皇家が新羅を攻める理由はない。紀元前57年から734年までの新羅に対する倭国の侵攻は藤原氏による改ざんであり、伝承も改ざんされたと思われる。


nice!(1) 
共通テーマ:学問

元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか [閑話休題]

 元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか。


1 由良の地名で有名なのは、和歌山県日高郡、京都府宮津市、兵庫県洲本市である。
(1) 和歌山県日高郡の由良
 その幻想的な風景は万葉集に読まれており、歌碑も設置されている。
妹がため玉を拾ふと紀伊の国の 湯羅(ゆら)の岬にこの日暮しつ
朝開き漕ぎ出て我は湯羅(ゆら)の崎 釣する海人を見て帰り来む
湯羅(ゆら)の崎潮干にけらし白神の 磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は由良ケ嶽の頂に虚空蔵の廟があるという。また、熊野三所権現社あり、とする。由良神社には神楽踊が奉納される。丹後国加佐郡旧語集に「由良ノ荘千軒ト云大村也」とある。
 古事記伝云う、「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門(戸)をわたる舟人梶をたえ 行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とある。
《加佐郡誌》「由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものである」とする。
 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」 より
 由良という地名には、「波に押された砂が狭い 平地を平らにする」という意味があるという。
 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には『枯野を 鹽に焼き 其(し)が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある。
  伊豆の国から献上された「枯野」という船が壊れ てしまい、船材を薪として塩を焼くことにした。 焼け残った余りの材から琴を造らせて弾いてみる と、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ水に 濡れた木のように、冴えた音色を出したので、天皇が上の歌を詠んだということである。
  「由良の門」とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある。


2 私見
(1) 和歌山県日高郡の由良
 「等由良」と表記する元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。万葉集に「湯羅」とあるからとするが、それが書かれた時代は奈良・平安時代(藤原時代)と思われる。
(2) 京都府宮津市の由良
 京都府宮津市の由良は、虚空蔵の廟、熊野三所権現社、由良神社の神楽踊、加佐郡誌に「由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たもの」とあることより藤原氏の荘園として造られたものと思われる。虚空(そら)の当て字は藤原氏の専売特許であること、熊野三所権現は藤原氏が崇拝している準王一族(出雲神族)を主祭神としていること、神楽は藤原氏の踊りであること、荘園制度は藤原氏の制度であることなどからである。

 また、小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この説が正しいとすれば、由良川は葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。
由良川.jpg
 由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大御神の天孫族は南の関金から来たから、方見邑を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。青字は平定後の天孫族の位置関係である。
 丹波国風土記残欠に「由良港」とあるが、改ざんと思われる。713年に全国から風土記を提出させ多くは焚書にしたが、意図的に由良港を加え残欠として残したものと思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)にすでにあった地名とは思われない。
 古事記伝に云う「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とあるのも藤原氏による改ざんである。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地の比定地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(3) 兵庫県洲本市の由良
 「由良港と成ヶ島」に、「日本書紀・応神天皇・三十一年の条には『枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある」とする。文献と由良とを付合させただけであり、応神天皇と関連づけるほかのものがない。のちに藤原氏が付けた地名と思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。
 また、「由良の門とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある」とする。紀淡海峡は門(戸)にしては大きすぎると指摘した者がいたので、すぐに別の場所(丹後の由良川)を挙げるのは藤原氏である。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(4) 鳥取県北栄町の由良
由良の門.jpg
 鳥取県北栄町由良には「由良の地名は木花之佐久夜毘売が付けた」という伝承がある。「ゆら」の発音は女性の命名と思われる。
 鳥取県神社誌高江神社の由緒に「当社は天正19年(1591年)9月大山より勧請せりと云う。この以前は現今境内神社子安神社(祭神 木花之佐久夜毘売)、由良郷の總産土神なる由なる」とある。1591年以前は木花之佐久夜毘売(私見では弥生時代)だけが由良郷の總産土神であった。子安神社の祭りの飾り付けは代々竹歳家(全国では170軒しかないが、由良では一番多い姓)が行う仕来たりになっている。高江神社横の駐車場から弥生時代の住居跡が発掘された。創建が弥生時代に遡るような神社と思われる。
DP2M0425.jpg
 右の境内社が木花之佐久夜毘売を祀る子安神社である。今、立っている場所も神社の敷地内であり、ゲートボール場にするため造成中に弥生時代の住居跡数遺構が発掘された。あるのは駐車場の看板だけであり、案内板もなく、宣伝もしない。発掘調査報告書もどこにあるのか埋もれたままである。

 日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。北栄町由良宿に近い青谷上寺地遺跡より弥生時代中期後葉の状態の良い琴が発掘されている。由良の門(戸)とは橘の小門と同じで入り江の入り口のことと思われる。応神天皇の時代(354年~394年)、由良に入り江があった。紀元前2世紀頃は海面が海抜4mくらいにあったので紀元4世紀頃は海抜2mくらいに海面があったと思われる。海抜2mくらいに海面があった鳥取県北栄町由良宿の地形を見ると現在の由良宿内に入江が確認できる。由良の門(戸)とは紀淡海峡でも丹後の由良川の河口付近でもない。北栄町由良宿にあった入り江の入口が由良の門(戸)であったと思われる。応神天皇の時代、鳥取県中部には軽の坂上の厩と軽島明之宮の比定地が確認できる。

由良の門.jpg2.jpg
 仁徳天皇(第14代)も応神天皇(第15代)も武内宿禰天皇(第13代)の皇子であったから鳥取県北栄町原で育った。船で対岸の由良の門(戸)にも渡っていたはずである。武内宿禰天皇(第13代)の時代よりもまだ海面が下がったので、2人とも東の東郷池(難波津)の近くに皇居を建てた。
 「等由良」を「豊浦」とし、「由良」がキーワードだと悟られても、由良の比定地を全国に複数作り、その中でたらい回しにして迷宮入りにさせ、本物が見つからないようにする手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。
 昭和38年の合併で由良町は無くされた。由良育英高校も無くされた。北栄町の由良は行政に時間をかけて消されていく方向にあるように思われる。父(蘇我馬子天皇)や子(天武天皇)の皇居の比定地も鳥取県中部に確認できるので「等由良」の本当の「由良」は鳥取県北栄町の由良と思われる。

 

 

 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった [閑話休題]

 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった。

皇居と産屋.jpg
1 鳥取県北栄町下種集落 大宮神社(ニニギ命)
2 鳥取県北栄町由良宿 高江神社(木花之佐久夜毘売)
  1~2の間は4.1km
3 鳥取県倉吉市大宮集落(神武天皇)
4 鳥取県倉吉市耳集落(媛蹈鞴五十鈴媛命)
  3~4の間は3.7km
5 鳥取県北栄町島集落(蘇我馬子天皇)
6 鳥取県倉吉市馬場町(物部鎌姫大刀自)
  5~6の間は3.7km
7 鳥取県倉吉市大原集落(物部氏の本拠地)
  6~7の間は4.2km

 ニニギ命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからだと思われる。
 また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。
 これら7つの比定地は正しいものと思われる。 

 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。


 由良の宮.jpg
 元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であった。
先代旧事本記天孫本紀 に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。蘇我入鹿のことを豊浦大臣と呼んでいたのであるから、蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。豊浦の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は等由良に住んでいた。
 蘇我馬子は天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。蘇我蝦夷は蘇我一族を悪者にするために、のちに藤原氏が創った虚構の人物である。虚構の人物だから甘樫丘から遺跡が見つからない。蘇我馬子天皇の皇子は蘇我入鹿天皇であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。
 蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。この丘陵地の造成工事中に大量の土器や石器が出土していたことを筆者は確認している。ここで、蘇我善徳天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。
 山背大兄王の話や蘇我・物部戦争の話は藤原氏が創作した作り話である。


nice!(1) 
共通テーマ:学問

鳥取県北栄町の葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである) [大国主命]

 兎の予言したとおり大国主神は八上姫と結ばれ、やっとのことで国作りを完成させることができ、葦原中津国(狭義)を治める神様となりました。

 古事記には「大国主の命は葦原中津国(狭義)を中心に治めていた」とある。

1 葦原中津国を構成する集落
葦原中津国の13集落.jpg
1 瀬戸  2 西穂波  3 亀谷  4 津原  5 谷  6 鋤  7 穴田  8 別所  9 尾原  10 穴沢  11 穂波  12 原  13 大島

2 大国主と須勢理比売と八上比売は鳥取県北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)に住んでいた。
(1) 素戔嗚の娘の須勢理比売(鳥取県中部ー倉吉市出身)と大国主は異母兄妹である。子供もない。根国から大国主に背負われて黄泉平坂の麓まで行き宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)の松樹庵に住んだ。素戔嗚は「・・・出雲の国を治めるがよい。お前の連れている、我が娘の須勢理比売を正妻として・・・」と言っているがこれも藤原氏による改ざんである。
(2) 八上比売(鳥取県東部ー鳥取市出身)は大国主の妹の須勢理比売とおりあいが悪かった、ということは宇迦能山(伊那佐山=茶臼山)に須勢理比売と一緒に住んでいたものと思われる。子供を置いて八上郡に帰った。

3 古事記・大国主神御末神等の段
 古事記には「この大国主の神は、后に歌われたように、多くの妻を持ち、したがってまた多くの御子を持った」とある。
(1) 胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命(鳥取県西部ー米子市出身)を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。(鋤)
(2) 神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神。(亀谷)
(3) 八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。
(4) 日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は國忍富神。
(5) 葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神。
(6) 天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神。
(7) 淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神。
(8) 比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は美呂浪神。
(9) 敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神。
(10) 若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神。
(11) 天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神。
以上に述べた八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神まで、これを十七世の神という」とある。
※私見
 大国主神御末神等の段とあるが「多くの妻を持ち、多くの御子を持った」のであるから、「この神」とは大国主と解すべきである。八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神までも大国主の妻と御子である、と解される。「十七世の神」は「合わせて十七神」を改ざんしたものと解される。

4 古事記・大年神羽山戸神御子等の段
(1) 大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。
(2) 香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。
(3) 天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が斉拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。
 大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。
 この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
※私見
 大年神羽山戸神御子等の段は大国主神御末神等の段との間に少名毘古那神の段と幸魂奇魂の段が入っているが大年神羽山戸神御子等も葦原中津国で生まれたものと解される。大年神は大国主の異母弟であるから、大国主は葦原中津国の国造りに大年神を誘ったものと思われる。大年神が3人の妻を娶った場所は大国主と同じ葦原中津国と思われる。
 「次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である」とあるが、平安時代に京都の藤原氏が加筆したものと思われる。羽山戸神の子も国譲りの時までに葦原中津国で生まれていたものと思われる。

5 私見
大国主.jpg
 先代旧事本記によると「大国主は素戔嗚と稲田姫との御子であり、大年神と須勢理姫は素戔嗚と神大市比売との御子である」とする。大年神は大国主の異母弟にあたる。大国主は異母妹の須勢理姫と一緒に葦原中津国の国造りを始めたのだから同じ異母弟の大年神も誘ったものと思われる。古事記・神代10の巻(大年神羽山戸神御子等の段)に記載されている大年神の子は、大国主と同じく葦原中津国において生まれたと思われる。
 「百八十神」という表現や葦原中津国の広さからすると大国主、大年神、それに葦原中津国から逃げずに大国主に従った準王一族(出雲神族)の妻子も一緒であったと思われる。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族が列島に渡ってきたのが紀元前194年頃であるから、その頃、大国主は14歳くらいであった。八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼であった(千賊山の案内板より)から、因幡の白うさぎ伝説に出てくる兄の八十神は、のちに鬼と言われた準王一族(出雲神族)であったと思われる。準王一族(出雲神族)は大国主がまだ妻を娶る前から伯耆国より東の因幡国に来ていたのだから、その途中にある伯耆国の葦原中津国にも来ていたはずである。天忍穗耳命が「豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい」と言っったのは準王一族(出雲神族)が豊葦原の水穂の国(葦原中津国・磐余邑を含む)を占領していたからと思われる。その後、大国主は父の素戔嗚から譲られた武器で八十神(準王一族)を蹴散らして葦原中津国の国造りを始めた。
 原古事記にはニニギ命の降臨の前に饒速日の降臨が記されていたが、記紀においては削除されている(先代旧事本記による)。北栄町の土下山(天香久山)に降臨した饒速日は準王一族(出雲神族)の妹を娶っている(先代旧事本記)。北栄町の土下山(天香久山)には長髄彦の妹の登美夜須毘売が饒速日の妻になって来ていたから、土下山(天香久山)周辺には準王一族(出雲神族)もいたものと思われる。同じ北栄町の葦原中津国にも準王一族(出雲神族)が残っていたと解するのが無理がないと思われる。大国主の妻子や大年神の妻子を合わせても五十五神ほどである。百八十神は大まかな数字だとは思われるが百八十神になるにはあと百二十五神必要である。
 饒速日の降臨は紀元前185年頃と思われる。饒速日が亡くなってニニギ命が降臨したのは紀元前180年頃と思われる。国譲りが終わったのは紀元前160年頃と思われる。国譲り(紀元前160年頃)の後、大平山に退いた事代主と一緒の百八十神の中には準王一族(出雲神族)も多くいたものと思われる。葦原中津国を退いた百八十神の多くは大平山を下り東郷池の波延の地に住んだものと思われる。
 神武天皇が帰ってこられたとき(紀元前60年頃)に、大平山を降りた東郷池周辺(磯城)には兄磯城・弟磯城がいた。日本書紀・兄磯城・弟磯城に「天神の御子が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。・・・。」とあるので兄磯城・弟磯城一族は天神の存在を以前から知っていたものと思われる。兄磯城・弟磯城は事代主と一緒に退いた百八十神の中にいた準王一族(出雲神族)の子孫と思われる。兄磯城は神武天皇に従わず戦ったので殺されたが、弟磯城は神武天皇に従い師木県主となりその住んでいる地名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)と名乗った。
波延2.jpg
 百八十神は大平山の千坂を下り門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落に住んだものと思われる。百八十神の中にはのちに磯城県主(弟磯城)になる準王一族(出雲神族)も含まれていたものと思われる。古事記・雄略・白い犬にある「鰹木をあげて屋根を作った志幾の大県主の家」は門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落などの波延地域のどこかにあったものと思われる。
 「千坂」は通行人が賊に襲われることがあったので、以前は「血坂」と書いていたと郷土史家はいう。

6 参考 古事記訳文
(1) 神代9の巻
 ◎ 須勢理比売の歌
大国主神の正妻である須勢理比売命は、すなわち多くの后の中の大后であって、すでに八上比売が御子を置いて稲羽へ帰ったことでも分かるように、ほかの后たちに対して嫉妬する心がとくに激しかった。・・・。
 ◎ 大国主神御末神等の段
この大国主神が、胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命である。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。
大国主神が、また神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神である。また八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は国忍富神。この神が葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神である。この神が天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神である。この神が淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神である。この神が比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比比売を娶って生んだ子は美呂浪神である。この神が敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神である。この神が若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神である。この神が天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神である。このくだり、八嶋士奴美神から遠津山岬帶神まで、十七世の神という。
(2) 神代10の巻
 ◎ 少名毘古那神の段
この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。・・・。
 ◎ 幸魂奇魂の段
大国主神は愁い歎いて、「私一人で、どうやってこの国を作り終えることができよう。どの神と協力すればいいのだろうか。」と言った。このとき、・・・。
 ◎ 大年神羽山戸神御子等の段
その大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。また香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。また天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が齋拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。このくだり、大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
(3)神代11の巻
 ◎ 国平御議の段
天照大御神は、「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が治めるべき国である」と言って、高天原から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、ひどく騒がしく乱れているようだ」と言って、再び高天原へと戻り、その由を天照大御神に説明した。・・・。
(4)神代12の巻
 ◎ 大国主神国避の段
・・・。すると大国主神は「私の子たちの言う通り、私も従おう。この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は黄泉の国に隠れよう。私の子の百八十神たちは、事代主神が指導者として天神に仕えたなら、反逆することはない。」こう言って、・・・。






nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった [閑話休題]

 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。


波延.jpg

1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
 この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
 大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にあった。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上にあったものと思われる。
 川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。


2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。 まことに陰険であり、残酷であった。 王のナガスネ彦(長髄彦)は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。 ナガスネヒコ(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。 我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
 「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。 『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。 『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
 忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
 「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった]とある。
※ 私見
 道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。三徳川を下った山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。
 兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
 神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。


3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
 第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。「矢の姿になって云々」は作り話である。神武天皇が即位した紀元前60年の頃には大物主(天忍穂耳)は亡くなっていたはずである。日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主もニニギ命と同年代となる。ウガヤフキアエズはホホデミ命のあだ名である(先代旧事本記より)から省略しても、事代主の娘ならばホホデミ命と同年代となる。父親と同年代のおばさんになり、少女であったという記述と矛盾する。古事記も日本書紀も本当の出自を隠すために大物主と事代主に書き換えたものと思われる。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主が娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長という役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けられたと思われる。
 日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ) と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
 当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
 ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
 第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶られたと思われる。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる [閑話休題]

 シキ(師木・磯城・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。


1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇(欠史8代であり、藤原氏もそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
 神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
 師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇 
 御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。
師木津.jpg

2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いておられるので葛城地方は葛城山と日向(四王寺山と葦原中津国)であった。師木地方もこの近くにあるはずである。

3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を思わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたものと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対比して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。

4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形ををしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。この当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池ではないかと思われる。

5 古事記・雄略・白い犬
 天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。

入母屋式家形埴輪.jpg
 入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
四注式家形埴輪.jpg
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃

 これらは志幾の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
 鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。

6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
※ 私見
 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外に他府県にもある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったものと思われる。古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことであった。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
前の10件 | -